夏目漱石『虞美人草』論(3)
2008年 06月 20日
問題は無数にある。粟か米か、これは喜劇である。工か商か、これも喜劇である。あの女かこの女か、これも喜劇である。綴織(つづれおり)か繻紾(しゅちん)か、これも喜劇である。英語かドイツ語か、これも喜劇である。すべてが喜劇である。最後に一つの問題が残る。生か死か。これが悲劇である。
十年は三千六百日である。普通の人が朝から晩に至って身心を労する問題はみな喜劇である。三千六百日を通して喜劇を演ずるものは遂に悲劇を忘れる。いかにして生を解釈せんかの問題に煩悶して、死の一字を念頭に置かなくなる。この生とあの生との取捨に忙がしきがゆえに生と死との最大問題を閑却する。
死を忘るるものは贅沢になる。一浮も生中である。一沈も生中である。一挙手も一投足もことごとく生中にあるがゆえに、いかに踊る、いかに狂うも、いかにふざけるも、大丈夫生中を出づる気遣いなしと思う。贅沢は高じて大胆となる。大胆は道義を蹂躙して大自在に跳梁する。
万人はことごとく生死の大問題より出立する。この問題を解决して死を捨てると言う。生を好むと言う。これにおいて万人は生に向かって進んだ。ただ死を捨てると言うにおいて、万人は一致するがゆえに、死を捨てるべき必要の条件たる道義を、相互に守るべく黙契した。
去れども、万人は日に日に生に向かって進むがゆえに、日に日に死に背いて遠ざかるがゆえに、大自在に跳梁して毫も生中を脱するの虞(おそれ)なしと自信するが故に、道義は不必要となる。
道義に重を置かざる万人は、道義を犧牲にしてあらゆる喜劇を演じて得意である。ふざける。騷ぐ。欺く。嘲弄する。馬鹿にする。踏む。蹴る。ことごとく万人が喜劇より受くる快楽である。この快楽は生に向かって進むに従って分化発展するがゆえに、この快楽は道義を犧牲にしてはじめて享受し得るがゆえに、喜劇の進歩は停止するところを知らずして、道義の観念は日を追うて下る。
この部分、難しいので私が勝手にいまの人たちに分かりやすいように言い換えてみます。
生きていく上で問題は無数にあります。ご飯がいいかパンがいいか、これは喜劇です。自営がいいかサラリーマンがいいか、これも喜劇です。あの女の子がかわいいかこの女の子のほうがかわいいか、これも喜劇です。ワンピースがいいか、キャミソールとジーンズがいいか、これも喜劇です。語学の授業で英語を選択するかドイツ語を選択するか、これも喜劇です。これらすべてが喜劇です。しかし最後に一つの問題が残ります。生か死か。これが悲劇です。
10年は3600日です。普通の人は朝から晩までずっと喜劇で頭がいっぱいです。3600日を通して喜劇ばかりを演じている人はついに悲劇のことを忘れてしまいます。いかにして生きるかという自分探しに熱中するあまりに、死の一字を念頭に置かなくなります。こう生きるのがすてきとか、ああ生きるのがすてきとか言っているうちに、生と死という最大の問題を忘れてしまいます。
死を忘れる人はぜいたくになります。そんな人もテンションが上がる日もあれば、下がる日もあります。しかしそれはすべて生という舞台の上でのことであり、死という問題は閑却されています。一挙手一投足すべてが生という舞台上にあるので、いかに踊ろうが狂おうがバカ騒ぎしようが、いやいや大丈夫だよ、俺らは生という舞台を楽しんでいるんだ、何も心配なんかないと思います。このようなぜいたくはどんどん大胆になっていきます。大胆は大切なことを踏みにじり、どんどんエスカレートして歯止めがきなかくなります。
すべての人はみな本来は生死という大問題を抱えています。しかし死は恐ろしい、そのために、人はこの問題を忘却し、解决することで、死の問題を捨て、生を好む側に向かいます。このようにして、すべての人は生に向かって進みました。死を捨てるという点においては、すべて人の考えは一致しており、死を捨てるために必要な条件を相互に守るよう、私たちは知らず知らずのうちに人々と相互に契約を結んでいます。
(*この条件とは、象徴世界[このあと述べるマトリックス世界]を共有することと言っても良いでしょう。)
しかしながら、すべての人が毎日毎日、生の方だけを向いて進んで、毎日毎日、死に背を向けて遠ざかっていってしまうために、好き勝手、欲にまかせて何をやっても大丈夫、死にやしないと傲慢な自信を持つために、大切なことが忘れられ、不必要なものとなってしまいます。
大切なことを踏みにじるすべての人は、大切なことを犧牲にし、あらゆる喜劇を演ることでむしろ得意になっています。ふざける、騷ぐ、人を欺く、嘲弄する、バカにする、踏む、蹴る。これらはことごとくすべての人が喜劇から受ける快楽です。この快楽は生に向かって進むにしたがい、細かく分かれ発展していきます。また、この快楽は、大切なことを犧牲にしてはじめて享受し得ることなので、喜劇の進歩は停止するところを知らずに、大切なことは日を追うごとにさらに忘れられていきます。
この部分は、「虞美人草」のなかで最も痛烈に、世の中に対する批判(というより怒りに近い)が表明される場面です。
漱石はよく近代批判、文明批判の文脈で語られます。この場面で言われる「道義」といういかにも堅苦しい言葉は、現代の多くの人々に、古めかしい印象を与えるにすぎないかもしれません。
しかし、漱石の言う、世を蔽う象徴の問題、そして喜劇と悲劇の問題は、決して近代批判のような小さい枠でくくることができない、大昔も現代も変わらない普遍的な問題です。
前回述べたように、私たちの認識は言語等の象徴に支えられており、象徴を通して事物を観ることで、私たちは本来の空の不可思議を忘却してしまう。
2003年に完結した映画「マトリックス」シリーズのテーマはまさにそこでした。マトリックスという仮想現実空間はまさに私たちの住む象徴世界のことを示しています。そしてあのとめどなく増殖していくエージェント・スミスは、まさに「喜劇の進歩は停止するところを知らずして」と漱石に言わせた状況のメタファーです。
映画「マトリックス」は、象徴世界に住む私たちを「啓蒙」する映画でした。漱石の「虞美人草」は、象徴に覆われた世界の「喜劇」に対する大きな危惧を表明した作品であり、漱石の作品の中で最も啓蒙的な作品だと言えます。(4につづく)
*メタファー・・・隠喩、暗喩
*啓蒙・・・この場合、暗い(蒙い)ところに光を照らし、明らか(啓らか)にすること
現在お笑いブームが数年続いています。鳥羽先生が指摘するように、人をバカにし、もしくは自分を自虐的におとしめる笑いの本質は、決して人間の感性や感情を育んでいく上でいいものではありません。
多くの子ども達がギャグを連発している姿は、時として微笑ましいものもありますが、大切な何かを見て見ぬふりをすし、問題に立ち向かわず、笑いで茶化してしまう風潮が学校や塾でも増えているのが現実です。
私もとうとう夏目漱石が他界した年齢になります。彼の観察眼、そして言葉の感性を考えると、それこそ漱石の文庫本を煎じて飲みたい気分です。私自身本当に勉強不足を感じ、恥じ入る思いです。
漱石の上の文は、声に出して読んでみるとよくわかるのですが、漢文調のリズムによって、彼の言葉が胸に迫ってくるのをはっきりと覚えます。すごい文体ですよね。
このエネルギーは何なのでしょうかねえ。
私なんか、何かを突き詰めようと思うだけで疲れてしまいそうな感じです。
私も生の方に向かって、死に背を向けて、ただただ思うがままに歩こうと思います。
「虞美人草」、またしばらくぶりに読んでみたくなりました。
エネルギーと言えば、とよ爺さんこそ、誠実なお人柄が見える生真面目で実直な記事をあれほどたくさん書けるできるとよ爺さんはすごいと思います。