夏目漱石『虞美人草』論(4)

繰り返しになりますが、漱石が先に問うたのは、形や声といった「象徴」が、物における「空の不可思議」を覆ってしまうという問題でした。

しかしここでわたしたちには注意すべきことがあります。それは、漱石は「空の不可思議」と問うときに、事実はどうであれ、「不可思議」のなかに新たな根拠を建立しかねないようなすべての言表を意識的に排除するという態度をいつでも注意深く取り続けていることです。

『虞美人草』執筆と同年の講演で漱石は「意識の連続的傾向」について次のように説明しています。

ショペンハウワーという人は生欲の盲動的意志という語でこの傾向をあらはしております。まことに重宝な文句であります。私もちょっと拝借しようと思うのですが、前に述べた意識の連続以外にこんな変てこなものを建立すると、意識の連続以外に何にもないと申した言質に対して申し訳が立ちませんから、残念ながらやめにいたして、この傾向は意識の内容を構成している一部分即ち属性と見なしてしまいます。そうして「この傾向」というような概念は抽象の結果、よほど発達した後に「この傾向」として放出したものと認めるのであります。
それは、ともかくも「ただ人は意識の連続を求める」ということだけを事実として受けとらねばならぬのであります。もっと明瞭にいうと「意識は連続的傾向がある」と言い切ってこれを事実として受けとるのであります。


漱石の哲学の本髄は「意識の連続以外に何にもない」という態度を一貫して取るというところにあります。いつでも彼は「『意識は連續的傾向がある』といい切ってこれを事実として受けとる」態度を守りぬきます。

私たちが「空の不可思議」というとき、私たちは不可思議の中にそれを認識すべく新たな根拠を立てがちです。

デカルトは「我思うゆえに我あり」と言いました。これは漱石の言う「意識の連続性」とよく似た話なのですが、しかしこの言い方をふつうに読むと、「我思う」ことが「我あり」の根拠になってしまいます。要するに、先に「我あり」という疑問を持ちようのないような場所から問いがスタートしてしまっていて、何かを問うているようで実際には「我あるゆえに我あり」というトートロジーになっている。

漱石はここでショペンハウワーの「生欲の盲動的意志」という説明をしりぞけています。人間はもともと「生欲の盲動的意志」というような本能的なものを持っている、と言えば、人間が抱えるさまざまな病理や傾向が楽に説明できるかもしれません。しかし、漱石はそれらは人間にとって第一義の問題ではなく、「意識の内容を構成している一部分即ち属性」として、そこに人間の根拠を置く考えを退けます。

これは漱石にとってとても大切なことなのです。彼は「空の不可思議」や「わたし」という人間の根拠になるものを退け、「意識の連続以外に何にもない」という態度を、生涯一貫して取り続けます。(5につづく)

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急斜面を登る子どもたち
August 2008 宮崎夏合宿

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by terakoyanet | 2008-06-26 11:14 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)