夏目漱石『虞美人草論』(6)

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漱石は『文藝の哲學的基礎』において、人間の意識について次のように説明しています。漱石の哲学的考えが最も明確に出ているもののひとつですので、ぜひお読みになってみてください。

(一)吾々は生きたいという念々に支配せられております。意識の方からいうと、意識には連続的傾向がある
(二)この傾向が選択を生ずる。
(三)選択が理想を孕む。
(四)次にこの理想を実現して意識が特殊なる連続的方向を取る
(五)その結果として意識が分化する、明瞭になる、統一せられる。
(六)一定の関係を統一して時間に客観的存在を与える。
(七)一定の関係を統一して空間に客観的存在を与える。
(八)時間、空間を有意義ならしむるために数を抽象してこれを使用する。
(九)時間内に起こる一定の連続を統一して因果の名を附して、因果の法則を抽象する。



漱石は『虞美人草』や『野分』において、のっぴきならない生死の問いを「第一義」の問題と呼ぶびますが、彼が「第一義」の問題として認めるのは上の(一)だけです。

(二)の「選択」において、人は死を永遠に捨て去るとともに〈私〉自身を選びます。
それはもっとも根源的な次元でなされる自己措定という行為です。この選択という行為は、ただちに意識の深淵に沈み込み、二度と日の目を見ることはありません。
そしてそのあとの(三)はすべて〈物〉語りとも言えるような人間的語らいです。

私たちがここで考えなければならないことは、漱石はわざわざ単なる「連続的傾向」と「特殊なる連続的方向」を厳密に区別をしたところです。わたしたちは皆ことごとく「罠」に陥る。だから漱石はこの区別を厳密化せざるをえませんでした。

巷では「本能」という言葉がよく使われます。人間には動物的な本能があって・・・という文脈でいろいろなことが語られます。
この「本能」という言葉、人間の根源的性質を指して使われる言葉なのですが、しかし、漱石から見ると、それは甚だ疑わしいところがある言葉です。

漱石は思っていました。人は人間の「本能」について語るけれども、それは第一義の問題ではない。人はすでに自己の生の上に胡坐をかいた上で「本能」について語っているけれども、それは「本能」でも何でもない。それはただ、死を忘れた人間たちが、自分自身の生について、または嗜好について語っているにすぎない。

時間も空間も数も因果性も、漱石にとっては「特殊」な意識によって生まれたものです。

こうした「特殊なる連続的方向」のみに翻弄されて生きていく人たちに警句を与える。
漱石の生涯の仕事は、そこに尽きると私は思っています。(7に続く)
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Commented by とよ爺 at 2008-07-15 02:27 x
お久しぶりです。
面白いですね。掘り下げ方が半端ではないのでいつも感心しています。
「本能」のくだり、ここまで生きてくると何となくわかる気がします。
>死を忘れた人間たちが、自分自身の生について、または嗜好に ついて語っているにすぎない。
漱石はこういうところが鋭いですよね。
確か40歳くらいのときの作品だったと思います。
50歳をゆうに超えた私から見ると、凄い悟りだと思います。
Commented by terakoyanet at 2008-07-16 01:23
とよ爺さんおひさしぶりです!

漱石は鋭いですね。感受性のかたまりのような繊細な人間だと思います。

虞美人草後も漱石はどんどんすごい作品を発表していきますが、彼が世の人たちに伝えたかったことというのは一貫していると、いろんな作品を読むごとに思います。
by terakoyanet | 2008-07-13 21:16 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(2)