人間の自由意志
2008年 08月 14日
人は例えば突然の暴風雨を「神の啓示」や「神風」、または「天罰が下った」と受け止めることがある。偶然で避けようのない天災に、人たちは神からのメッセージを受け取ってきた。
しかしスピノザはこのような認識のしかたを「帰無知法」と呼んで退ける。彼は「すべての目的原因は人間の想像物以外の何ものでもない」と宣言し、目的は「衝動」であり、善悪や美醜などは人間の「偏見」だと言う。
人が好んで「必然」という言葉を用いるとき、その言葉のなかにはすでに因果性の罠が潜んでいる。しかし彼が「必然」と言うときには、それはもっと強力で本質的なものである。「一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制される」と彼は言っている。
スピノザの「エチカ」は唯物論的世界観の先駆的著書として知られているが、彼の唯物論は非常に透明だ。彼の描く「神」は絶対的存在者だが、しかしその「神」には現実的には何の力もない。「神」は人間を愛することも憎むこともない。人間の感情も事物の表象も「神」から敷衍されるものではなく、「神」はとうてい人間など統御できない。
スピノザの「神」は仏教の他力本願に近い。「神などいない」「絶対など信じない」と言っている人ほど実際には人間の自由意志を信じている。自己に対する確信と信仰がある。
スピノザの「神」は、ただ純粋な論理で事物を規定する。「物」というよりはそこにはただ音楽の調べのように純粋な論理のみがコロコロと音をたてて流れているかのようだ。
人間の自由意志はない、というと、とても苦しい気持ちになるけれど、いや、そんなことはない、むしろ自由意志への信仰が人を苦しめているんだと声を大にして言いたいところだ。
※この記事はセルフ塾のブログの「自由意志と決定論」を読んで書こうと思いました。
ジャンプしすぎて画面からはみ出したのはTK君
弱者を救う神も、強者を讃える神も本質的には同質のものなのかなと思います。神というカテゴリーを、人生に置くのも置かないのも自由意志、それもまた人間の必然なのでしょうか。
しばらくぶりの休日で頭がぼーとしていたところに、今日の鳥羽先生の文章には、衝撃を受けてしまいました。正直申し上げますと、文章的理解度60パーセント。感性的理解度68パーセントと言うところでしょうか。なのにコメントをずうずうしくも書いてしまいました。
お許しあれ・・・・・。
すべては必然であり、偶然とは人間が自分の知らないことに対してそれを偶然と呼んでいるにすぎない
人間の自由意志はない、というと、とても苦しい気持ちになるけれど、いや、そんなことはない、むしろ自由意志への信仰が人を苦しめているんだと
というところに共感を覚えます。
必然という言葉は難しいと思います。
人によって受け取り方が全く異なるからです。
スピノザの考える「神」というのはとても面白いです。汎神論という一言では片付けられないものがあります。
私もまたかねごんさんの言葉に学びながら、いろいろ考えていきたいと思います。
Yojiさんの記事がとても面白かったので、自分の頭がぐるぐると回り始めて記事を書いてしまいました。
わたしはYojiさんの記事を呼んでエチカを思い出したんです。とても似たことを仰っているなと思ったのです。
Yojiさんの仰る「モノ」と、スピノザの言う「神」は非常に近いんです。スピノザを現代の宗教的な「神」のイメージや汎神論のイメージを取っ払って、読むととても面白いと思います。
子どもや保護者様、学校や地域の方々に、何か読んで喜んでもらえる記事があればうれしいなと思って書いています。
今後も機会があればご意見等お待ちしております。ありがとうございました。