村上春樹氏 エルサレム賞授賞式講演と小説家の倫理性について

2009年2月18日に書いたブログ記事を、5月3日に行われた研究会用に書き改めたものです。
村上春樹氏のエルサレム賞受賞講演に関する私の記事は、他のニュースサイト等に取り上げられたこともあり、たくさんの方にアクセスしていただきました。

研究会は私と大学院時代の友人が共同でゆるく運営しているもので、今回も大学院時代からの勉強仲間や本校の講師数名や赤ちゃんをつれて参戦した友人や西南大の井口先生たちといろいろな議論をしました。




村上春樹氏 エルサレム賞授賞式講演と小説家の倫理性について


村上春樹氏のエルサレム賞受賞講演は、氏が小説家の使命について率直に語ったものとして非常に興味深いものでした。


村上氏はこの講演の中で、"卵"と"壁"という言葉を用いて次のように言います。


 ここで、非常に個人的なメッセージをお話しすることをお許しください。それは小説を書いているときにいつも心に留めていることなのです。紙に書いて壁に貼ろうとまで思ったことはないのですが、私の心の壁に刻まれているものなのです。それはこういうことです。

 「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」ということです。

 そうなんです。その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、私は卵の側に立ちます。他の誰かが、何が正しく、正しくないかを決めることになるでしょう。おそらく時や歴史というものが。しかし、もしどのような理由であれ、壁側に立って作品を書く小説家がいたら、その作品にいかなる価値を見い出せるのでしょうか?

 この暗喩が何を意味するのでしょうか?いくつかの場合、それはあまりに単純で明白です。爆弾、戦車、ロケット弾、白リン弾は高い壁です。これらによって押しつぶされ、焼かれ、銃撃を受ける非武装の市民たちが卵です。これがこの暗喩の一つの解釈です。
 
 しかし、それだけではありません。もっと深い意味があります。こう考えてください。私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なのです。私たちはそれぞれ、壊れやすい殻の中に入った個性的でかけがえのない心を持っているのです。わたしもそうですし、皆さんもそうなのです。そして、私たちは皆、程度の差こそあれ、高く、堅固な壁に直面しています。その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。

 私が小説を書く目的はただ一つです。個々の精神が持つ威厳さを表出し、それに光を当てることです。小説を書く目的は、「システム」の網の目に私たちの魂がからめ捕られ、傷つけられることを防ぐために、「システム」に対する警戒警報を鳴らし、注意を向けさせることです。

<中略>

今日、皆さんにお話ししたいことは一つだけです。私たちは、国籍、人種を超越した人間であり、個々の存在なのです。「システム」と言われる堅固な壁に直面している壊れやすい卵なのです。



ここで注目に値するのは、村上氏が、"卵"や"壁"という、隠喩(メタファー:metaphor)の種あかしをしているところです。

①"壁"という言葉は明白に「爆弾」「戦車」「ロケット弾」を表すメタファーであり、”卵”という言葉は単純に「非武装の市民たち」のメタファーである。これはメタファーの1つの解釈である。
②しかし、もっとこのメタファーには深い意味がある。私たちは「壊れやすい殻の中に入った個性的でかけがえのない心を持った」”卵”であり、「システム」と言われる堅固な”壁”に直面している、壊れやすい”卵”なのだ。


マスコミの多くが、今回の村上氏の講演を報道しました。その多くの記事が、彼の言う"卵"を「多くのガザの犠牲者」、"壁"を「イスラエルが進めるパレスチナとの分離壁」として解釈したものでした。「村上氏、イスラエルのパレスチナ攻撃を批判」という見出しをつけた新聞もありました。村上氏からすれば、①で当人も言っている通り、これは「メタファーの1つの解釈」ということになるでしょう。

しかし、私たちがこの報道のみを見て、「そうか、村上春樹は、イスラエルのガザ攻撃を痛烈に批判したのだな」とか「イスラエルが建設している壁のことを言っているのだな」と受け取ったとき、彼がせっかくリスクを背負って種明かしをした"卵"と"壁"という語のメタファーとしての機能はすでに失われています。


文学というものに意味があるとすれば、それはメタファーがメタファーとして機能している間だけ有効なものです。

メタファーとしての"卵"や"壁"という言葉は、「ガザの犠牲者」や「イスラエルが建設する壁」といった具体的な事実そのものを指すとは限りません。少なくとも、それだけを指すことはありません。

"卵"という言葉は「ガザの犠牲者」に置き換えられるし、または「私の身近にいる1つの魂を持った人間」にも「私という脆弱な存在」にも置き換え可能です。"壁"という言葉もそれと同様に、いろいろな事象に置き換えることができます。

このような置き換えの可能性があるところにメタファーとしての文学の機能があります。
一人ひとりの"卵"としての私たちの心に隠喩の奥にあるものが残ったとき、その文学は初めて意味のあるものになります。


メタファーとしての文学の機能を知っている村上氏は、1つの事実だけを取り上げてそれについての批判をすることはありません。それは、ニュース解説者の仕事です。

村上氏にとって、メタファーを用いること自体が、政治的な戦略なのです。
村上氏のような小説家にとって、ここが生命線なのです。
メタファーという置き換え可能なものによって、彼の言う"本当のこと"が"壊れやすい卵"である私たちに伝わることが大切なのです。

ですから、村上氏が「ガザ攻撃を批判した」と報道することは、メタファーのもつ含みを事実問題に一元化してしまうことであり、それは彼の小説家としての機能の要を損なわせることになります。

村上氏が「ガザ攻撃を批判」したとして、彼の「政治的」発言を歓迎するムードが一部で広がっていますが、それは誤解と言わざるをえません。

村上氏は講演の最後のほうで、「私たちは、国籍、人種を超越した人間であり、個々の存在なのです」と言いますが、彼の発言を歓迎する人たちは「イスラエル」VS「パレスチナ」の構図をすでに自明のものとして立ち上げたままでしか話すことができません。

「ガザ攻撃を批判」する人は、それが「正義」と思うから批判するのでしょう。
彼らは、既存の国家・人種といった「システム」を前提とした批判を繰り返しています。「パレスチナが」「イスラエルが」という主語を用いる人は、すでに「システム」の錯覚の下にあると言えないでしょうか。


私たちが村上氏の”卵”と”壁”を用いた話のなかで発見すべきことは、村上氏がこのスピーチにおいて小説家というメタファー(または"小説家の嘘")の有効性を述べている点にあります。

彼にとって、メタファーとしての小説を書くことと、"卵の側に立つ"こととは同義です。

メタファーの置き換え可能な性質は"卵の側に立つ"ことと密接に関わっています。
文学が、メタファーを通して私たちに教えるのは、"私たちは皆それぞれが“人間”であり、“個人”であり、そして“壊れやすい卵”なのだ"ということです。"壁"は私たちが自らの手で作りあげてしまったものであり、私たちはそれに怖気づくことなく"卵"としての生命を全うしよう、という勇気です。

これらのことを伝える文学の作用は、メタファーが個々人やその人のそのときの心の状況に応じて置き換え可能だからこそ有効であると言えましょう。


村上氏のエルサレム賞受賞が決まったあと、NGO団体などが村上氏に受賞辞退を求める行動を起こしました。これに関し、村上氏本人は「受賞の知らせを受けた後、私は何度も自問自答しました。このような時期にイスラエルへ来て、文学賞を受けることが果たして正しい行為なのか」と、彼の中の心の迷いについて語っています。 

でも結局彼は「私は言われることと反対のことをするのが好きな人間」だからという理由で、イスラエルにやってきました。これは彼にとって大きな政治的決断だと私は思うのです。

易々とエルサレム賞を受けることはイスラエルに対する政治的支援と取られかねない。
しかし、言われるがまま受賞を辞退した場合、「村上氏はイスラエルのガザ攻撃への抗議から受賞を辞退した」となる、彼はそれは望まなかったはずです。なぜならそれは彼にとって、メタファーの死を意味するからです。

私は以前から村上氏を政治的な作家だと思っています。
しかし、村上氏の政治へのアプローチは、少なくとも受賞ボイコットをしたNGO団体のアプローチの方法とは根本的に異なっているのです。

果たして「イスラエルのガザ攻撃への抗議」をすることが正義でしょうか。もしかしたら、それが世間的な「正義」なのかもしれません。しかし、それならば、「正義」こそ放棄すべきものかもしれません。正義と悪は表裏一体です。いつでも表裏がひっくり返るものです。

村上氏は「その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、私は卵の側に立ちます。」と言っています。これは彼の「正義」からの決別宣言と言ってもいいでしょう。

彼は今後もメタファーを駆使して小説家の使命を果たしていくことでしょう。
彼にとってメタファーは「システム」の間隙を抜け、”本当のこと”を読者に伝えるための武器です。そしてそのことを伝えることが、彼が自身に課している”卵の側に立つ”ということそのものであり、それが彼の政治的な立場なのです。

今回、さまざまな批判や憶測が飛び交う中、村上氏はイスラエルの授賞式に参加することを決断しました。この彼の決断を、私は次のようなものだったのではないかと推測します。

彼は小説家としての武器を手放さない方法を選んだ。
それはメタファーによって政治にアプローチすること。
それが彼にとって"卵の側に立つ"ことを意味した。

そう考えると、彼の今回の行動はすべて筋が通っているように思えます。



村上氏は講演の中で、昨年亡くなった実父のエピソードを話しています。(これは聞き手としてはやや唐突な印象を受けます。)

父は、敵であろうが味方であろうが区別なく、「すべて」の戦死者のために祈っているとのことでした。父が仏壇の前で正座している後ろ姿を見たとき、父の周りに死の影を感じたような気がしました。

 父は亡くなりました。父は私が決して知り得ない記憶も一緒に持っていってしまいました。しかし、父の周辺に潜んでいた死という存在が記憶に残っています。以上のことは父のことでわずかにお話しできることですが、最も重要なことの一つです。



「すべて」の人が「死」を迎えます。ここで敵・味方の区別なく「すべて」の戦死者のために祈っていた父の姿は、「死」そのものへの畏敬を表すものではないでしょうか。「すべて」の人にとっての「死」という場所から鑑みたときに、”卵”としての私たちの存在が浮かび上がってくる。村上氏は、そう考えているのではないか、と私はこの講演を読んで思いました。


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Commented by とよ爺 at 2009-06-03 15:21 x
こんにちは、お久しぶりです。
この間、この記事を読んだときに、いろいろ考えることがあったのですが、「ノルウェーの森」「海辺のカフカ」くらいしか読んだことのない私がコメントできる言葉などあるはずもなく、それから三月あまり、触発されて、今も「1Q84」を読んでいるのですが、村上氏の言う「卵」が少しわかるような気がしてきました。
私より年上の60歳という歳で、今も失われていないあのみずみずしい感性はきっとその「卵」の一部なのでしょうね。
改めてまた記事を読まさせていただき、またいろいろなことを感じ、考えさせられました。有り難うございました。
Commented by terakoyanet at 2009-06-05 04:13
とよ爺さんの1Q84の記事、読ませてもらっていました。
予備校の先生が出てくるんですね。

私もそのうち読みたいと思っているところです。
読了されたらぜひ感想を聞かせてください。
コメントありがとうございました!
by terakoyanet | 2009-06-02 14:32 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(2)