『虞美人草論』⑧

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一方で、『虞美人草』においてその倫理を担うのは甲野さんです。

甲野さんは糸子に言います。

「動くと変わります。動いてはいけない」

これは極めて倫理的な要請だと言えます。漱石がたびたび用いる動静という言葉は、老子の哲学からその意を汲み出したとみてよいでしょう。彼は文科大学時代執筆の哲学論文『老子の哲学』において、「動」を「萬物之母故(ゆえに)有名…故常有欲觀其檄(ゆえにつねにゆうよくにてそのきょうをみる)」と言い、「静」を「平等故無名…故常無欲觀(ゆえにつねにむよくにてその)其(みょうを)妙(みる)」と言います。そしてこのことは次のように説明されます。

この玄を視るに二様あり 一はその静なる所を見 一はその動くところを見る
 
もとより絶対なればその中には善悪もなく長短もなく前後もなし 
難易相成すこともなければ高下相傾くることもなく感情上より言うも智性上より言うも一切の性質を有せず 
去るが故に天地の始め万物の母にして混々洋々名づくる所以を知らざれば無名と言う 

然し眼睛を一轉して他面より之を窺うときは天地の始めゆえ天地を生じ万物の母なるゆえ万物を孕む 
そのひとたび分れて相対となるや行に善悪を生じ美醜を具え大小高下幾多の性質属性雜然として出現し来る 
この点より見るときは万物の母にして有名と言わざるべからず。

故にその無名の側面を窺わんとならば常に無欲にして相対の境を解脱し(能うべくんば)己を以て玄中に没却し終らざるべからず 

またその有名の側面を知らんと思はば、常に有欲を以てその大玄より流出して集散離合する事物の終りを見るべし



漱石が動静と云うときに問題となるのは、あくまで倫理(態度)の問題です。

「天地の始め萬物の母」を「相對」して「視る」ときにそれは善悪、美醜、大小といった「性貭屬性」としてあらわれる。「相對」して「視る」とき、天地は突如、猥褻な〈物〉として浮かび上がる。このことを「動」と言います。一方で「故にその無名の側面を窺はんとならば常に無欲にして相對の境を解脱し(能ふべくんば)己を以て玄中に沒却し了らざるべからず」という態度のみが真に倫理的な「靜」の態度だと言います。

それは、「常に無欲にして相對の境を解脱し」、しかも己を玄(=自然)中に「没却」してしまわないという態度でです。よって漱石が云う「靜」とは宗教上の「悟り」や「天に身を任せる」といった神懸かった境地とは無縁であると言えましょう。

甲野さんが「自然が人間を飜譯する前に、人間が自然を飜譯するから、御手本は矢つ張り人間にあるのさ。」 と云うように、また『草枕』の画工が「わが感じは外から來たのではない、たとひ來たとしても、わが視界に横たはる、一定の景物でないから、是が源因だと指を擧げて明らかに人に示す譯に行かぬ。あるものはただ心持ちである」と云うように、それはやはり〈私〉の「心持ち」から出立すると言えます。


漱石は「相對」して「視る」ときに不可避に現れる、例外としての〈物〉を停止しようとしています。
善悪、美醜、大小といったものはすべて「空の不可思議」から忽然とあらわれた〈物〉という例外です。

漱石は「情を働かす人は物の關係を味はふ」 と言います。
甲野さんが「動くと変わります。動いてはいけない」というのは、「物に役せられる」 者に対する最高度の倫理命令ではないでしょうか。

この意味で、漱石の「哲学」は、「物に役せられる」西洋形而上学とは全くもって無縁のものです。形而上学は、真理(形=物)に傅(かしず)くあまり、真理の中心にある隠蔽された怪物的な問いを忘却します。
それは内に、真理という一種の戯れを以て自らをその根本から欺こうとする企みを持っています。

漱石は決して真理に阿(おもね)ることはありませんでした。その意味で、私は彼こそ最も絶対的な意味における「哲学者」であると感じます。そして『虞美人草』とはそういった「哲学者」漱石の「セオリー」が、徹底して貫かれた怪物的な書物であると思うのです。
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by terakoyanet | 2009-07-03 17:41 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)