2009年 11月 21日 ( 1 )

本日の高校コース授業で行う寺田寅彦『科学者と芸術家』の授業原稿です。
メモ的なものですので、これだけ読んでもわかりにくいですが。

今回は文系・理系を完全にクロスオーバーした内容になっていますから、高校生にとってとても刺激のある内容になると思います。科学と芸術の話を具体的な作品(エッシャー、バッハ、ピカソ)を用いて説明します。




芸術家たち
 ⇒科学に対して無頓着か、あるいは場合によっては一種の反感をいだくものさえある
科学者たち
 ⇒芸術に対して冷淡であるか、あるいはむしろ嫌忌の念をいだいているように見える人もある



テーマ p.97 科学者の天地と芸術家の世界とはそれほど相いれぬものであろうか



考察1 科学者と芸術家の共通点 p.97~98

「科学者と芸術家とは、その職業と嗜好を完全に一致させうるという点において共通なものである」
「科学者と芸術家の生命とするところは創作である。」
「科学者の研究の目的は自然現象の中に未知の事実を発見し、未発の新見解を見出すこと。芸術家の使命は天然の事象に対する見方とその表現の方法において、何か新しいものを求めようとすること。これはとても似通っている。」
「何か新しい事実や発見に出会った場合には、科学者も芸術家も、その実用的の価値などは顧慮することなしに、徹底的に事実を突き止めようとしたり、あらゆる描写表現を試みたりする。」

 ⇒このために古来多くの科学者や芸術家たちが迫害、愚弄、反感の対象となってきた。


考察2 科学者には美的享楽(芸術的感性)があるか? p.99
「数学者が建設した幾多の数理的系統、物理化学の諸般の法則、生物現象中に発見される調和的普遍的の事実、これらは単に理性の満足以外に、人の美感を刺激する要素が含まれている。」
「ラウレやブラグの研究によって初めて明らかになった結晶体分子構造のごときのものに対しても、多くの人は一種の「美」に酔わされるわけには行かぬ事と思う。この種の美感は、たとえば壮麗な建築や崇重な音楽から生ずるものと根本的にかなり似通ったところがある」



音楽の捧げもの J.S.BACH
各旋律が蟹のように左右に行き交う逆行カノン。この世のものとは思えない摩訶不思議なトリックのような美。

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このような分子構造を明らかにした科学者の頭の中にあるものが美でなければ何であろう。


考察3 芸術家には観察力や分析的頭脳は必要か? p.99
「いかなる空想的夢幻的の製作でも、その基底は鋭利な観察によって複雑な事象をその要素に分析する心の作用が必要。そしてその観察と分析とその結果の表現のしかたによってその作品の芸術としての価値が定まる。」

考察4 科学=現実に即したもの 芸術=想像や理想に関したもの この区別は正確か?
                                     p.100
科学=仮説(という空想)なしには成立しえない 
芸術=厳密な意味で現実を離れた想像は不可能

科学=人間の頭脳の中に築き上げられた建築物製作品であり現実そのものではない
芸術=いかに空想的のものでも、ある意味においてはすべてが現実の表現であって天然の法則の記述をしていなければならない

※科学にも絵そら事は無数にある。科学の理論に用いられる方便や仮説が現実と精密に一致していなくても差し支えがない場合にはそれは虚偽にならない。

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エッシャーのだまし絵「滝」
数学や科学の世界というのは、実はこの絵のような整然とした虚偽の世界なのではないか?


考察5 科学=客観的 芸術=主観的 この区別は正確か?
「万人に普遍であるという意味での客観性という事は必ずしも科学の全部には通用しない」「科学の進歩に伴い、各概念は人の五感と遠ざかり、科学は人間の客観とは次第に縁の遠いものになり、いわば科学者という特殊な人間による主観になってくる傾向がある。」
「プランク…近代理論物理学の傾向は、人間本位の要素の除去にある。」⇒「それならば、その結果は一面において大いに客観的であると同時に、また一面においては大いに主観的なものとも言えない事はない」


~ここはどういう意味か?解説~
人間の主観的な要素を取り除き、真の客観的見地から物象を見ることを目指したのが近代理論物理学の傾向 
⇒しかし、「人間の要素を除去」してしまったあとでは、それこそ客観性が失われ、その行為こそ主観的だと言えはしないか? 主観性も客観性も、結局は我々が舵を取っているのだから。

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遠近法を用いた絵画(右) 1つの視点(主観)から描かれている

         
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視点を複数化(主観を放棄)して描かれるキュビズム
寺田寅彦はキュビズムと近代理論物理学の方向性の共通点を見出している



考察6 科学と芸術における価値 p.101
科学…研究対象の事物自体の「価値」は問題にならないが、その結果や方法の学術的価値というものがある。
芸術…取り扱う物自体の価値よりも、その作物の芸術的価値が問題になる。
⇒学術的価値・芸術的価値は、どちらも厳密には定めがたいものである。


考察7 科学と芸術の表現 p.101
科学…表現のしかたは特に重要でない。・・・というよりは、表現というものがないようにさえ思える。表すための言語、公式があらかじめ決まっている。
芸術…事物そのものより、表現する方法自体が芸術そのもの。その表現に言語や手段の制約はない。

しかしこれをよく考えてみると

科学…法則は自然現象を表現するためのものであって、事実そのものではない。そう考えると、科学の法則も芸術と同じ「表現」の一種である。ただ、表現すべき内容が比較的簡単だから芸術ほど多様性がないだけだ。
芸術…芸術は事物自身ではなくてそれによって表されるべき「ある物」を表現しようとしている。cf.たとえばミケランジェロの「ダビデ像」は全裸の青年自体を表現しようとしている、というよりは、その青年を通して、美的享楽を観る人に与えている。 芸術作品は、「ある物」の本質の一側面を垣間見せる。したがって、1つの芸術品は1つの「事実」の表現である、とも言えなくはない。


最終考察 科学と芸術が目指すもの p.102

植物学者が描いた草木の写生図は芸術か? 
⇒いいえ。事実の表現は必ずしも芸術ではない。
植物学者の描写は草木のある事実の一部であり、草木はこれを表す言葉だが、芸術家が描こうとするのは、もっと複雑な「ある物」の一部である。
  
「ある物」は作家だけの主観に存するものではなく、他人にもある程度普遍的に存するものでなければならない。その意味での「ある物」が、科学者が「事実」とか「法則」とか称するものと遠くないものである、ということを私(寺田)は信じている。



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by terakoyanet | 2009-11-21 05:51 | おすすめの本・音楽 | Trackback | Comments(5)