一昨日、昨日と深夜にEテレで放送された「平成ネット史」、ご覧になった方はいらっしゃいますか?
落合陽一さん、堀江貴文さん、ヒャダインさんらとともに、宇野常寛さんがご出演されていました。

いよいよ10日後の1月14日(月祝)に、宇野常寛さんをお招きして宇野さんのゼミ「遅いインターネット計画」を開催します。
話を聞くのが、本当に楽しみです。

うちのイベントは基本的に利益を度外視して開催していますから、基本的にそこには愛しかありません。
宇野さんのどの部分が好きで今回お呼びすることになったのか、今日は昨年10月に発売された宇野さん編集の『PLANETS vol.10』(以下、PLANETS10) のご紹介も兼ねて、お話ししてみたいと思います。


宇野さんはPLANETS10の巻頭座談会(乙武洋匡×ハリス鈴木絵美×前田裕二×村本大輔+宇野常寛)において、村本大輔さんが、SNSにおいて自身が発信した意見に対する「いいね」に対して、小泉進次郎の悪口を喋ったらお客さんがワーッと盛り上がるという例(「小泉さん」は単なる一例ですから誤解しないでください、誰でもいいんです)に触れながら「(安易に)賛同されることが怖い」という発言をしたときに、宇野さんは次のように答えます。

僕はそれこそ質的な問題だと思う。そこで簡単に「いいね」が押せたりリツイートができたりすると流されてしまうんだけど、そういうことができなければ、その時は「村本、いいこと言った。小泉進次郎はダメだ!」と思ったとしても、3日後に横須賀に遊びに行って三浦半島でマグロ食べてたら小泉親子のポスターが貼ってあって、「ああ、意外と地元で愛されているんだなあ」とちょっと冷静になる瞬間があるかもしれないじゃないですか。僕が速度に注目しているのは、そういうことなんです。そういう幅をメディアのほうが持つことによって、改善できると思っている。

もちろんそれで100%解消できるなんてことはない。だって僕自身が結構独善的な人間で、基本的には自分の考えが一番正しいと思ってるわけですよ。でも人間って、自分の意見が常には通用しないことを、世界の真実として理解しているじゃないですか。そういった他者性というか、わかりあえなさ、つながらなさが勉強になって、もっとパワーアップできる。(自分が正しいと)信じている人はいていいし、僕もそういうタイプの人間です。それを追求するためには、逆にちゃんと人の話聞いた方がいいよ、ってことなんですよ。


宇野さんは「日本のインターネットは予めその人にとって気持ちのいい都合のいい、今の自分を肯定してくれるものや安心してくれる内容など分かっているものを脊髄反射的にリツイートし、拡散することで、スッキリするという使い方が定着して」いて、「自分を客観視する能力には限界がある」ことを忘れ、「情報に接することによって全能感に酔っている」人が多いことを同インタビュー内で指摘しています。それはインターネットが「速すぎる」からなんだという問題意識のもと、それを遅くすることで、「他者性というか、わかりあえなさ、つながらなさ」というものが独善的な判断の中に否応なく紛れ込んでくる、そういう「遅さ」を取り戻したいという切実な願いが込められているのを感じます。


この巻頭座談会のめちゃくちゃ面白いところは、宇野さんがそれまでの話題を「フィクション」の話と接続しているところ。
ここで思い出したんです。そうだ、宇野さんは、「フィクション」を愛するオタクだった。

PLANETS10という雑誌で、私が猛烈に面白かったところは、片渕須直と押井守という2人のアニメーション監督のインタビュー記事。
インタビューと言っているけれど、PLANETS10のインタビューの面白さは、聞き手であるはずの宇野さんが、当人と同じくらいの分量でグイグイ深いところまでしゃべっちゃうんです。だから、インタビューをされる側も、そこまでしゃべっちゃうんだというくらい、いろんなことを引き出され、後半になるにつれて、話が深まる、深まる。どこまでも。

片渕さんと宇野さんが、高畑勲、宮崎駿という2人の巨匠の臨界点について話している内容は、フィクションに興味がある人なら、絶対に読み逃すことはできない内容です。もうね、決定的な指摘がなされている。そして、片渕須直監督の『「この世界」と「片隅」は重ならない』という問題意識を、宇野さんも共有しながら、引き受けながら、彼が「遅いインターネット計画」なんてことを言っているとしたら、これは、もう、とんでもないことだなと思ったのです。

片渕須直さんと押井守さんの2人のインタビューを読んだ後に、もう一度、巻頭座談会の後半部を読み返すと、新たな地平というか、宇野さんの深い覚悟みたいなものが読み取れるんです。


僕は今こんな座談会をやっているけど、本来はフィクションの評論家です。フィクションって基本的に他人の考えたものであって、究極的にいえば他人の妄想なんですよ。同じことを言っていても、「俺すごい」という自慢話や「これがすごい」という社会的主張として展開されると受け入れられないけれど、フィクションには共感して侵入されてしまう。本質的には、他人に汚染される体験なんですよ。最初から「これは現実からある程度切断されたものです」という語り口があることによって、他人の考えに侵入されることが快感に変わるんだと思う。だから僕はフィクションが一番好きなんです。

<中略>

政治の話になると人の意見を受け入れなくなるのは、現実だからだと思うんです。だから僕は、「虚構」をもっと大事にしたほうが良いと思ってる。この場合の「虚構」は、映画や小説だけでなくてお笑いやゲームも含めた「遊びの領域」のことです。遊び、プレイそのものが目的であることって、一見無駄なことのように思われるけれど、「~の為にプレイするじゃなくて」「プレイするためにプレイする」体験って、人間にとってちょっと特別じゃないですか。その領域があることによって得られる快感はすごく大きいと思う。だからそれをうまく使っていきたい。


ここまで読み進めていくと、フィクションのことが好きな宇野さんが「遅いインターネット計画」というのを始めたのが、とてつもなく狂気じみた(誉めています)面白いことという気がするのです。この面白そうという感覚は私がひとつ前の記事に書いた「フィクションという覚悟について」とも連動しています。

というわけで、私は、宇野さんの話、とても楽しみなのです。


1月14日(月・祝)の宇野さんのゼミの詳細はこちらをどうぞ。



チケットはこちら。残席わずかです。






とらきつね on Facebook 随時更新中です。


by terakoyanet | 2019-01-04 11:37 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

私は、真の表現者というのは「フィクション」に対する覚悟を持っていると思っていて、その「フィクション」に対する覚悟が現われている、最もわかりやすい例だと私が思っているのが、星野源が病床で書いた曲『地獄でなぜ悪い』の歌詞です。



無駄だ ここは元から楽しい地獄だ
生まれ落ちたときから 出口はないんだ

いつも窓の外の 憧れを眺めて
希望に似た花が 女のように笑うさまに 手を伸ばした

嘘でなにが悪いか 目の前を染めて広がる
ただ地獄を進む者が 悲しい記憶に勝つ

<中略>

作り物で悪いか 目の前を染めて広がる
動けない場所からいつか 明日を掴んで立つ 明日を掴んで立つ

幾千もの 幾千もの 星のような 雲のような
「どこまでも」が いつの間にか 音を立てて 崩れるさま

嘘で出来た世界が 目の前を染めて広がる
ただ地獄を進む者が 悲しい記憶に勝つ

作り物だ世界は 目の前を染めて広がる
動けない場所から君を 同じ地獄で待つ 同じ地獄で待つ

星野源『地獄でなぜ悪い』




私はこの歌詞を聞いたときに、星野源という人は、この時点で「星野源」をフィクションそのもののとして見立てて活動していくという覚悟を決めてしまったのだなと思ったのです。彼が植木等を敬愛しているというのはそういうことだったのか。これは怖ろしいことだな、すごいことだなと。

この考えの根底には、「作り物だ世界は」という根本的な洞察があるんです。

私たちはとかく「世界の真実」について考えがちだし、「私たちが生きている現実」について考えがちなのですが、そうではなくて彼は「私たちはすでに作り物である世界に投げ出されてしまって」いて、それははじめから「真実」や「現実」などの拠り所などはない「楽しい地獄」なのだというところから始めている。

私はこういう出立地を持つ表現者を信頼します。



とらきつね on Facebook 随時更新中です。


by terakoyanet | 2019-01-04 11:11 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)