寺子屋ブログ by 唐人町寺子屋

terakoyant.exblog.jp
ブログトップ | ログイン

カテゴリ:寺子屋エッセイ(読み物)( 160 )


2018年 05月 22日

『酵母パン宗像堂』を読む

この2週間、睡眠障害が続いていて、長い夜を過ごしています。
(授業に影響は出ていませんのでご心配ありませんように。)

その長い夜を利用して、沖縄の宗像堂さんの本、『酵母パン宗像堂』さんについて文章を書きました。
ぜひご一読いただければうれしいです。

・・・
d0116009_10142005.jpg
『酵母パン宗像堂 丹精込めたパン作り 日々の歩み方』 文・村岡俊也 写真・伊藤徹也

沖縄の宗像堂さんの本、『酵母パン宗像堂』。当店(とらきつね)では先月のベストセラー2位にランクインしています。

3月の宗像誉支夫さん、宗像みかさんとのトークイベントでも話しましたが、この本は、ただのパン屋の本ではありません。私たちの生き方、考え方についてのヒントが詰まっているんです。
そして、宗像さんたちと親交の深い大嶺さん(陶芸家)、当真さん(農家)、甲本ヒロトさん、皆川明さんのインタビューが、各々どこまでも自然体なのに、面白すぎます。一人ひとりキャラがすごくて、登場人物のキャラ立ちにこれほど興奮したのはスラムダンク以来かと思われ、君たちは湘北高校かと、読みながら熱くなったものです。

d0116009_10213770.jpg
3月に行われた宗像堂さんのイベントにて

左から、くらすことの藤田ゆみさん、唐人町寺子屋(とらきつね)の鳥羽、宗像堂の宗像誉支夫さん、宗像みかさん
(写真は柴田浩次さんからお借りいたしました。ありがとうございます。)



宗像堂さんの本の中に出てくる「発酵」についての文章をここでご紹介します。
本の中でもこの部分は特に、宗像堂さん、誉支夫さんの思考の根っこ部分が露わになる箇所です。

【発酵】ありのままを受け入れる
「微生物を研究しようと対象を一つの菌に決めてしまうと、それは既に集団で機能している微生物の生態とは違うものになってしまう。微生物、つまり酵母は複雑な集団として存在している。その集団ありのままの生態を受け入れることが、酵母と付き合うということなんです。だから、彼らをコントロールできているっていう感覚もないんですよ。好ましいときだけ一緒に仕事をしてくれるパートナーのような存在。だから、人間側は謙虚にならざるを得ないというか、できるのは、酵母の環境をなるべく整えることだけですから。そして、目に見えない酵母を知覚するためには、自分の感覚を鋭くしていくしかないわけです。 < 中略 >  そうやって酵母と付き合っているうちに、不思議と自分自身と酵母が、相似の関係になっていくんです」


この文章は、人間(=人と人の間の存在)である私たちが、関係性について考える上で大きな示唆を与えてくれるものです。
例えば仕事仲間の一人の人格を見るとき、自分の子どもの人格を見るときに、その人となりを、ひとつの身体に閉じ込められた一つの人格として見ようとすると、その人の本質を見誤りがちです。

宗像さんは、別の【成形】について語る場面で、パンを「どのタイミングで窯に入れるかは、指先の記憶を積み重ねるしかない。身体性こそが、パンに宿るんです」と話していますが、人との関わりだって、「指先の記憶」のような脆弱な手触りの記憶をたよりに、少しずつ紡いでいくことだけが信頼の輪郭を作っていくものなのに、私たちはつい、この人はこういう傾向のある人だと、自分の既知の範疇でラベリングし、その人についての判断を安易に確定しがちです。しかし、それでは何も見たことにはならないでしょう。なぜなら、私たちは人間であり、つまり、人と人との間の関係自体が私たちだからです。

宗像さんは「その集団ありのままの生態を受け入れることが、酵母と付き合うということなんです。だから、彼らをコントロールできているっていう感覚もないんですよ。」と言います。
酵母だって、人だって、その関係性そのものを受け入れることが、関係性そのものが存在の輪郭をなすものだと知りうることが、相手と付き合うということであり、それが「私があなたを支配しない」唯一の方法だと思うのです。
こうやって宗像さんが酵母について語っている言葉を、自分なりに人との関わりの文脈に置き換えていくと「人間側は謙虚にならざるを得ないというか、できるのは、酵母の環境をなるべく整えることだけですから。」というちょっと感動的な宗像さんの言葉が改めて腑に落ちます。子育てだって、私たちが子どもにできることは「子どもの環境をなるべく整えることだけ」ですよね。
私たちが物事や人と向き合うとき、関係性を紡ごうとするときに「謙虚にならざるをえない」ことを心の片隅に置いておくだけで、きっと世界は変わります。

この本には驚くべき表現が散りばめられているのですが、引用した文章の最後の一文「不思議と自分自身と酵母が、相似の関係になっていく」という言葉にはひときわ凄味があります。
この場合の「相似」というのは、親が子どものことをつい自分の似姿のように眼差してしまうのとは別の強度があります。相手をありのままに受け入れる、自分の身体感覚を研ぎ澄ます努力を続けながら物事と向き合っていく、そういうこと続けていくと、相手がふと、そのままで十全なもの、完全に充溢したものとして立ち現れる瞬間があるのでしょう。自分自身にも酵母にも、それぞれ弱点があるかもしれない、でも、それはそれとしてそのままでいまここに在り、それだけで十分なのだ、そのことに気づい たときに、酵母と自分自身が「相似の関係」になる不思議。相手のありのままに向き合うという関係の中では、私と酵母は対等であり、というより対等という言葉さえも不要な関係の先に、「相似」という言葉がある気がします。

『酵母パン 宗像堂』を読むと、こんなことを考えてパンを作っている人がいるという事実に驚愕するし、そのパンを実際に味わうことができるというのは何とも喜ばしいことではないかと深く強く感じます。

村岡俊也さんの文章も愛があって素晴らしいですし、伊藤徹也さんの写真は美しく発光していて見惚れます。パンの紹介やレシピも最高に魅力的です。

こちらの本、とらきつねに常設&販売しています。
そして、宗像堂さんのパンは今週末、26日(土)の販売です。

ぜひお手にとってみてください。

d0116009_10254316.jpg
石窯から取り出されたばかりの酵母パン


とらきつね on Facebook 随時更新中です。



by terakoyanet | 2018-05-22 10:26 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 05月 13日

『親子の手帖』未収録原稿「子どもの生き方はもう決まっている」

『親子の手帖』を書いたときに、他の章の文章と若干の重複があったために、まるごとカットした「子どもの生き方はもう決まっている」という文章があります。それをご紹介いたします。

・・・

子どもの生き方はもう決まっている

 「三つ子の魂百まで」というありふれたことわざもありますが、人間の生き方というのは、だいたい3歳から6歳くらいまでの間に決まってしまう、このことは多くの人たちが異口同音に語ってきたことであり、私も同じように思っています。

 「三つ子の魂百まで」というのは、そのころまでに子どもに傾けられた愛情や言葉、そしてそれによって涵養された子どもの感受性というのは、子どものその後の人生を左右するほど決定的に大きなものであるという意味です。その時期の子どもというのは、ただ自分が置かれた環境に身を置き、与えられた条件に追従するしかない存在なのですから、まさに親が子どものその後の人生の命運を握っている時期というわけです。

 そう考えると、子どもというのは不憫なものです。自分の人生を決定づける最も大切な時期が、そうとは気づかないうちに過ぎ去ってしまい、過ぎ去ってしまったあとには、それをどれだけ悔いても取り返しがつかないのですから。

 しかし、あなたも私もかつての子どもです。そしてあなたの両親もやはり、かつて子どもでした。私たちは、意のままにならない生を、原罪のように背負ったままで生き延びなければならない、そういう宿命を持っています。

一方で、この「三つ子の魂百まで」という言葉が、科学的にも正しいことが世間でまことしやかに語られるようになって以来、その認識が乱用、誤用されることが多くなってしまいました。「三つ子の魂百までって言いますから、うちの子にも1歳のときから英語を習わせていたんですけど…。」そんなことを平気で言ってしまう親御さんもいるわけですが、これはそもそも「三つ子の魂百まで」ということわざの意味自体を取り違えてしまっています。「三つ子の魂百まで」というのは、3歳くらいまでに大切なことを教育しておかないと、それが身につかなくなる、という意味では決してありません。むしろ、このことわざを「教育」にすぐ結び付けてしまうことこそ、とても危険で不幸なことなんです。


幼少のころから「教育」された子どもは弱くなりがちです。大人が知識を与え、それを吸収すれば褒められる。このことを繰り返すと、子どもは知識を与えられることを当たり前と思い、自分で考えようとしなくなります。また、褒められること自体が目的となるのは、その知識の質自体を低くするとともに、大人の機嫌をとるために勉強をするということを、ことさらに子どもに教え込んでしまうことになります。自分で考えようとしない子は、その後、応用的な思考を身につけることができません。大人の機嫌をとるために勉強するようになった子の勉強はいつまでもポーズにすぎず、思い通りにいかなければカンニングをしてでも大人の期待に応えようとするようになります。「なんでそんなに頑張れないの!?」と幼いころから言われ続けた子は、自己否定感情が強くなるだけでなく、周囲に対して暴力的になりがちです。(親は子どもに頑張ることではなく、暴力的な言動で人を脅かすことの方を、図らずも子どもに教えてしまったのです。)こうやって、幼少のころの「教育」の過ちが、中学生、高校生に成長した青年たちに大きな影を落としているということは多々あります。

私は職業柄、中学生や高校生のお母さん、お父さんたちが、子どもと格闘している姿を見ることが度々あります。子どもがなかなか勉強しないときに、部活やめさせるわよ、とか、そんなんだったら大学受けさせないわよ、就職しなさい、とか親はいつでも子どもに脅し文句を吐いて、なんとか子どもの誤った道筋を矯正しようとします。脅しではとどまらずに、実力行使に出て実際に子どもの感情を損なわせることで、自分がいま置かれている状況を子どもに身をもって知ってもらおうとする場合もあります。

そういったときに、私はいつも、そんなことをしても、子どもは決して思い通りにはならないだろう、と思います。自我がもうしっかり育ってしまったあとの中学生や高校生に対して一方的な権力をふるったところで、自我と自我のぶつかり合いになることは火を見るよりも明らかで、どだいうまくいくわけがないのです。だから、この世代の子どもとの関わりは「話し合い」が基本です。膝を突き合わせて自分の心と相手の心を向き合わせることからしか始まりません。

さらに言えば、子どもの下書きのようなものはすでに幼い時に済んでしまっています。中高生の子どもたちはその下書きをもとに、日々の生活を送っているのです。だから、中学生や高校生の親がいくら必死に呼びかけてもその子どもの欠点が埋まらない場合、それは子どもの中にすでに作り上げられた人生との付き合い方そのものが反映されていて、それを矯正するというのは簡単なことではありません。無理なことを要求され続けたら子どもは卑屈になるに決まっています。だから、中高生の親が、この子の生き方はある程度決まってしまっている、そのことを理解して子どもに接するのは大切なことです。

でも、子どもの欠点が目立つからといって、この子が幼いころの私の子育てが間違っていたんだわ、とそんなふうには考えないでください。親が子どもに対して感じている欠点と、その子ども取り巻く人たちが感じている性質は符合しないことが多いですし、子どもは半ば無意識的に自分の欠点を補うような行動をちゃんと選び取っているはずですから。また、「良い子育て」をしたからといって「良い子」が育つわけではありません。いくら子どもに的確な良い指導を繰り返したとしても、子どもが受け取るのはその的確さや良さではなく、その指導の質そのものであることは注目すべき点です。そうやって常に適切さを保った指導を受け続けると、子どもはむしろ自分では何も判断できなくなり、その結果、何もしようとしなくなります。しっかり者のお母さんのもとでは、自分では何もできない男の子が育ちやすいというからくりは、そこにあると私は思っています。(女の子の場合、お母さんをそのまま真似しようとするから、そうはならないことが多いです。) そのように考えると「良い子育て」というのは難しいです。私のような第三者から見ても、しっかり者のお母さんというのは素敵な女性たちです。でも、彼女たちの誠実さの発露そのものが、子どもにとっては毒になることがあるというのはとても難しい問題です。そう考えていくと、子育てというのは、親が方法論や良し悪しという価値判断からできるだけ離れ、子どもの存在をそれ自体として受け止めることからしか始まらないのかもしれません。

私たちが荒れ地に種を撒き、そして芽を出した植物が、やがて一見妙な花をつけ、いま実を結ぼうとしている。目の前の子どもというのは、その花や実の心根のようなものなのだ。子どものことをそうやってちゃんと真剣に眺めていさえすれば、さまざまな不安は消え去り、きっとその顔が見えてきます。その顔を手掛かりに、親と子の関係が紡がれていくことを願っています。



・・・


『親子の手帖』(重版出来)はいつのまにか、全国各地の書店に販路が広がり、たくさんの方の目にとまることになりました。手にとってくださった皆さまのおかげです。
6月には、大阪や京都の書店さまでも本のご紹介をするイベントの機会をいただくことになりました。ありがとうございます。

d0116009_07480164.jpg


とらきつね on Facebook 随時更新中です。



by terakoyanet | 2018-05-13 07:48 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 04月 25日

鷲田清一の『わかりやすいはわかりにくい?』を読む

前回の国語塾で高校入試問題の過去問より、鷲田清一氏の『わかりやすいはわかりにくい?』を扱いました。今日はその内容をご紹介します。



私たちが「わからない」と思ったときに、「自分がこれまでに手に入れた理解の方式で無理やり解釈し、歪めてしまう」というやり方を、鷲田清一は「最悪の対処の仕方」と言います。(この指摘はとても大切だと思います。)そしていちばん大事なことは、「すでにわかっていることで勝負するのではなく、むしろわからないことのうちに重要なことが潜んでいて、そしてそのわからないもの、正解がないものに、わからないまま、正解がないまま、いかに正確に対処するかということ」だと言います。


考えてみれば、わたしたちのリアルの社会ではいつだってそうです。医療の現場において、2人の同じような症状に見える重症患者に対して、全く同じ処置を行ったのにかかわらず、一方は症状が治癒したのに、一方は治らずに亡くなってしまう、そういうことは残念ながら起こり得ることです。教育の現場において、同じくらい伸び悩んでいる2人の生徒に対してある指導法を試してみたときに、一方の生徒は伸びたのに一方の生徒は伸びない、そういうことは多々あります。子育てだって、同じように育てたはずの兄弟が、不思議なほど別様に育つということは当たり前のように起こりますよね。このように、リアルな世界の中に正解なんてものはない、そんなことはわかっているのに、多くの人が、わかりやすい言葉、わかりやすい説明と、納得できる結論(つまるところ正解)を求めるのです。


しかし、このような人たちに対して作者は次のように言います。

「だが大事なことは、困難な問題に直面したときに、すぐに結論を出さないで、問題が自分のなかで立体的に見えてくるまでいわば潜水しつづけるということなのだ。それが、知性に肺活量をつけるということだ。」


わからないこと、曖昧なことをそのまま受け入れ、その問題を考え尽くして解析度を上げることで、できるだけその都度に正確なものに達しようとする作業の積み重ねのことを、作者は「知性に肺活量をつける」と呼びます。


私は2011年に初めてこの文章を読んだときより、いまのほうがずっとこの文章の言葉が身にしみて感じます。震災より前の2010年に出たこの本に書かれている鷲田清一の提言は、私にとっても、もしかしたら日本の社会にとっても少し早すぎたのかもしれません。でも、いまこそこれらの言葉が、最重要課題として私たちの前に生き生きと浮かびあがってくるのを感じるのです。


ここまで読んで、やっぱり「わかりにくい」と思っている人は、わかりにくいと思うあなたがいったい何を期待しているのかということについて再考してほしいのです。わからないことをわかろうとするという土台無理なことをやっているかぎり、あなたはいつまでも苦しくていつまでも浮かばれません。わからないことが怖いから、わからなければならないと思っているし、結論がなければ真実ではないと初めから決め込んでいるのです。でもそれらは、あなたがでっちあげたものにすぎません。だから、曖昧なものを曖昧なままに正確に表現するということについて、いま一度考えてほしいのです。ここでいう「正確」とは、その都度その瞬間に立ち現れる脆弱な何かのことで、「正解」とは位相が異なるものです。


d0116009_02191906.jpg

とらきつね on Facebook 随時更新中です。



by terakoyanet | 2018-04-25 02:19 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 02月 06日

いじりといじめは別物ではない。


いじめはダメだけど、いじりはよい。
そもそも、その認識が間違っています。

いじられている子どもがヘラヘラとした笑顔を見せていて、それで周りの大人が安心しているとしたら、大間違いです。
その笑顔は、その子にとって、自尊心の最後の砦かもしれないんです。

いじりだからと見過ごしてはいけません。
いじりの多くは、いじめと同じく一定のヒエラルキー・上下関係に依存した、すごく一方的な暴力です。

だから、バラエティ番組でたびたび登場するいじりが私は好きではありません。
弱者いじりをする人たちを私は見ていられません。

こういうことを言うと、そういうことを言っている人のほうが差別意識があるのだ、という人がいます。

でも、違うんです。そうではなくて、あなたが差別に対して鈍感なんです。
自分自身が差別される立場に転落する、その恐ろしさを知らないんです。


いつも天真爛漫な子どもたち。
目の前にいる友達が大好きだから、思わずお互いに悪口を言い合うじゃれ合いをいつも目にします。
それはとてもほほえましくて、見ているだけでこちらまでうれしくなるほど。

相思相愛のじゃれ合いと、いじりは、明らかに違います。(でも、じゃれ合いというのは、一時的な関係性に依存した脆弱なものということは覚えておかなくてはいけません。いつだっていじり、いじめに転落しうるから。)
テレビで芸人たちが展開するいじりは、いくら本人たちが「そこに愛があるから」と言ったところで、そんなものは言い訳にならない構造があります。他より劣る人、いびつな人、空気が読めない人をあざ笑っているでしょう。

繰り返しますが、いじめかいじりかというのは表面的には違っていても、その構造は同じです。
いじりもいじめの一種なんです。
このことに大人が敏感になっていかないと、けっして子どもたちのいじめの問題は是正されません。


とらきつね on Facebook 随時更新中です。



by terakoyanet | 2018-02-06 10:24 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 02月 04日

『親子の手帖』という本が出ます

3月に、鳥影社さんから『親子の手帖』という本を出します。
表紙画・挿画は元永彩子さん、写真[あとがき]は酒井咲帆さん(ALBUS)、ブックデザインは渋井史生さん(pankey)
本の帯文は、石川直樹さんと植本一子さんです。

本の出版にあたり、最初に(昨年の夏に)本文を読んでくださって、相談にのってくれたのは寺尾紗穂さんでした。
そのあと、いろいろなご縁がつながり、すばらしい方々のお力添えで出版できることになったことをとてもありがたく思っています。

元永さんはこの本の内容と深いところで共鳴する絵を描き下ろしてくださいました。
石川さんのおかげで、pankeyの渋井さんにデザインをお願いできることになり、本のデザインの魅力がぐっと増しました。
植本さんは、夫のECDさんのご逝去をまたいでの依頼になったのにかかわらず、心をこめて対応してくださったことに、感謝しかありません。

『親子の手帖』には、いろいろな親子が登場します。
しかし、親子に特定のモデルが存在するわけではなく、それらはすべてフィクションです。

いじめ、不登校、カンニング、発達障害、学歴社会、小中学受験など、現代的なさまざまな問題にアプローチしています。
いまの時代の子育てにおける親のつまずきについて書きましたが、それは、親に苦しめられたことのある、かつての子どもたちに向けて書いた文章でもあります。そして、子育てをしているお母さんをはじめとする、子どもに関わる方々へのせいいっぱいの応援の気持ちをのせました。

発売日などはまたお知らせします。大きな書店さまやAmazonなどで購入できますが、とらきつねでもお取り扱いします。
また、私が大好きな小規模な書店さまにもお声掛けさせていただきますので、皆さまには一冊一冊を大切にしてくださる町の小さな本屋さんで買っていただきたいという気持ちもあります。



本が1冊出たところで、唐人町寺子屋は今後も変わりません。
何かあればご相談ください。至らぬところはご指摘ください。
子どものため、そしてご家族のために、できるだけのことを精いっぱいにやっていきますので、よろしくお願いします。
また、本のお取り扱いできますよ、という方がいたら、ご一報いただければうれしいです。




『親子の手帖』 鳥羽和久

○目次
イントロダクション
第1章 私の不安を知ることで、子育ては変わる
1親の不安は子に伝播する/2子どもは本当に親の言うことを聞かないのか/3子どもの叱り方
4子どもを管理すること/5全部、僕のせいなの?/6放っておけない親
第2章 親はこうして、子をコントロールする
1成功体験は危ない!?/2ある母と娘の電話/3親はこうして子をコントロールする/
4カンニングをする子どもたち/5幻想の共同体、母と娘/6記念受験の虚実/
7なぜ偏差値の高い学校を目指すのか/8小中学受験と親/9葛藤との付き合い方/
10受験直前の子どもとの付き合い方
第3章 苦しむ子どもたちと、そのとき大人ができること
1学力と差別の問題/2身近になった障害/3「勉強ができない」と下を向かなくてもいい/
4LD(学習障害)の子どもの将来/5発達障害の子どもと夫婦の問題/6良い父親/
7良い母親/8家庭でもない、第三の居場所の必要性/9子どものいじめと大人の接し方
第4章 子どもの未来のために
1大人になるということ/2子育てに熱中すること、子育てから逃避すること/
3理解のある親と子どもの精神/4少子時代の子育て、子どもの自立
あとがき


d0116009_14365647.jpg
(こちらはカバー表紙ではありませんので、お探しのときはご注意ください)



とらきつね on Facebook 随時更新中です。



by terakoyanet | 2018-02-04 11:39 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 02月 01日

カタログ的学習の弊害

先週のDCS(ディスカッション)では、熊大文学部の小論文(2017年)で出題された、内田樹さんの『昭和のエートス』を扱いました。
そこには次のような文章があります。


子どもたちはこれから学ぶことになる教科について、それを学ぶことの有用性や価値について語る言葉をまだ持っていない。しばしば「学ぶことの有用性や価値について語る言葉をまだ持っていない」という当の事実こそが彼らがそれを学ばなければならない理由だからである。
<中略>
学ぶものは自分が学ぶことの意味を適切に言うことができない。だからこそ学ばなければならないのである。
教育はそのように順逆が転倒したかたちで構造化されている。
教育をこれから受けようと思う人間は、カタログを拡げて、自分が受ける教育について時空を超えて俯瞰するような視点(ユビキタス的視点)に立つべきではない。子どもにそれを許せば、教育はその裁量の教育的意義を失ってしまうであろう。

内田樹『昭和のエートス』


これを読んだ鋭敏な高校生たちは、
「よく、何のために勉強するのか、とかいう学生が言いがちな質問に対する完全な回答がここにある」
「子どもがこれを理解するというより、教育をする大人がこれをどれだけ理解しているのか」

そういう話をしていました。

この内田氏の指摘はあまりに重要で、現代の教育に「失敗」している人たちの多くが陥りやすい罠について書かれていると感じます。

内田氏が同じ文章で指摘するとおり、小学一年生は、自分が「国語」を学ぶ理由を適切な日本語で説明することができません。「算数」の合理性について、数学的論理に基づいて述べることができません。しかし、むしろそのこと自体が、小学生が「国語」と「算数」を学ぶ理由なのです。

現在、大人がそのことを理解していないために、子どもの教育にさまざまな弊害が生じています。

まず、いまの大人たちは、「子どもの意見を尊重して」という言い方をしますが、そのときに、子どもが本当に自分なりの理解をしてその選択をしているかという点について考えることを等閑(なおざり)にしがちです。むしろ、自分自身もよくわからないから、子どもの意見を尊重するこという口実によって自分自身の責任を回避するという傾向が見られます。子どもの意思の赴くままに自然に育てるというのは、子どもに親の意識が集中しがちな現代においてとても大切な考え方ですが、一方で、現代の日本は、かつての日本の農村社会のような、子どもの生命力を喚起するような自然環境を失っていますし、子どもに薫陶を与える生き字引のような長老のような存在もおらず、放っておくだけで子どもは生きるための力を身につけることができると考えるのは、やや楽観的すぎるかもしれません。子どもは勝手に育つといいますが、適切な手入れがなければ十分に育たないのです。だから、大人がその手入れをさぼってはいけないと思うのです。

別の話になります。小・中学校教育において、重要視されている「調べ学習」ですが、なぜ科学を学ぶのかを知らない子どもたち、歴史を学ぶのかを知らない子どもたちに対して「調べ学習」を押し付けることは、(全くではないにせよ)あまり意味がないと言わざるをえません。子どもたちは、調べるための視点とその必然を理解できていないのですから、そういう子たちに調べることをやらせてみたところで、大人の一時的な評価を得るために、参考書のまねごとをするような空疎な内容になるのが関の山です。そんなことをするよりも、子どもを惹きつけるような、それは面白いと膝を打つような話を通して、子どもたちに知識と知恵を吸収させることが大事です。「調べ学習」ができるようになる、というのは結果的にそうなるはずなのに、はじめから調べ学習をやらせるなんて、生まれたての鳥に、いいから飛んでみろといきなり巣の中から外へ放り出すようなもので、うまくいくわけがないのです。高校や大学も、アクティブ・ラーニングなんかやるより、いまやっている勉強が、実は自分自身のことだ、自分の人生と確かに繋がっている、そう感じさせる授業ができれば、子どもたちは勝手にアクティブに動き始めるんです。本当はそれが子どもの自発性を伸ばすということであり、教育の力というものではないでしょうか。

最後に、私が日ごろ実感していることについての話です。
小学校のころは優秀だったのに、中学以降は伸び悩む、そういう子たちがいます。
そういう子たちの中には、小さいころにカタログ的学習を身につけた弊害がはっきりと見える子がいます。
勉強の世界というのは、私たちの生存の周りに無限に拡がっているものなのですが、小さいころからカタログを与えられた子どもというのはそのことに対する感度が抜け落ちてしまいます。彼らは、勉強はカタログから選ぶものと思っていて、カタログ外に世界が拡がっていることを知りません。さらにカタログの中から自分が楽できるもの(それが仮に他のものに比べれば相対的に興味があるものだとしても)だけを選ぶ癖がついてしまっています。そういう子たちは、カタログ外のことが目の前に現れても、それはムダで意味がないと半ば無意識に捨象する癖がついていますから、中学以降、カタログに捉われずに新しい知識とあらゆる事象とを縦横無尽に結び付けていく他の子に比べ、どうしても応用的な思考力が劣ります。数学的、言語的に鋭い反射能力を示す子はたくさんいますが、それがその子にとっての生きる思考になっていないのです。



それにしても、教育の問題について、高校生と話すのはエキサイティングです。
教育の問題を話しているようで、どうしても、自分のこれからの生き延び方についての話になるのが、とても面白いです。



とらきつね on Facebook 随時更新中です。



by terakoyanet | 2018-02-01 03:32 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 01月 31日

日々、同じパフォーマンスを。

日々、私が授業をするときに最も意識していることのひとつは、毎日、毎回の授業で、同質のパフォーマンスを保つことです。

いつもちゃんと授業に向き合っている子どもたちはすぐに気づきます。
少しでも気持ちが乗っていなかったり、調子が悪かったりすると、授業中の子どもたちはそれに敏感に反応し、それが結果的に授業全体に影響を及ぼしてしまうのです。

だから、私は毎日のルーティンが、できるだけ抑揚のないものになるように心がけています。
パフォーマンスに影響が出るのが厭なので、お酒はほとんど飲みませんし、授業や子どもたちに集中したいので、それ以外の部分で、使う心を節約しているのか、無感情だという印象をもたれることもあります。

授業直前の一番集中したい時に、保護者様の感情的な電話により、それが妨げられることがあると、正直に言って、困ったなあ、苦しいなあ、と思います。
受験期は、受験生たちがきつい思いをしているのはもちろんですが、指導する私たちもやはりきついのでなおさら苦しくなります。今年はそういうことがなくて、ありがたく思っていますが、毎日、毎日、同じ先生が、同じように良い指導をちゃんとしてくれる、そういう状況をつくるためには、私の場合には、強い意志が必要なのだということを、この時期になると改めて感じます。

卒業した生徒たちと会った時に言われてうれしいのは、「先生、変わってないですね」という言葉です。
そうだよ、5年前、10年前、15年前にあなたを教えていたときとまったく同じように、今日も子どもたちの顔を思い浮かべながら、いまの彼らのためにもっともふさわしい内容はこれだ、プリントはこれだ、と考えながら、授業の準備をしているんです。(でも、教える技能はきっと以前より向上しています。) 自分がそうしないといやだから続けてきたことであり、それについてほめられても何もうれしくないのですが、でも生徒に言われるのは、変わっていない何かに気づいてくれている気がして、それを確認できるような気がして、うれしいものです。

(*ただ、卒業生のみんなは、もし会いに来てくれるなら、できれば事前に教えてほしいです。いきなり来られると、時間と心の容量不足で、ちゃんとお話ができません。)





とらきつね on Facebook 随時更新中です。



by terakoyanet | 2018-01-31 12:33 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 01月 24日

You can lead a horse to water but you cannot make it drink.

You can lead a horse to water but you cannot make it drink.

昨日の中3Sクラスで登場したこのことわざの意味は、

「馬を水のところに連れて行くことはできるが、馬に水を飲ませることはできない。」

私たち指導者たちもそうです。
子どもたちを水のある場所に連れて行くことはできます。
でも、水を飲むかどうかは、最終的には子どもたち次第です。

よい個別指導の教師は、子どもの傍にいますから、その水を口元まで運んであげることができます。
よい集団授業の教師は、その子どものすぐ近くに、水を飲んでいる別の子どもがいることを生かして、その子が自分ひとりで水を飲む力をつけることを促すことができます。

それでも、水を飲むかどうかは、最終的には子どもたち次第です。

昨日、このことわざがでてきたとき、子どもたちにその話をしました。
受験に必要な知識の99.8%を教え終わったいまなら、きっと伝わると思ったからです。

この時期の受験生たちは、自分の本質的な弱点にいよいよ向き合っています。
そんな彼らを見て、その真摯さに胸を打たれるし、彼らは受験を通して、ちゃんと成長していると感じるのです。


とらきつね on Facebook 随時更新中です。



by terakoyanet | 2018-01-24 13:04 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 01月 22日

「安楽」を追い求めること

今日の高校コースの現代文では、藤田省三氏の「『安楽』への全体主義」を取り扱いました。
これは、1980年代に書かれた文章ですが、最近でも、東大、東北大、法政大、西南学院大、早稲田大など、あらゆる大学の入試で出題されている、よく知られた文章です。

この文章の中には、「安楽への隷属状態」という言葉が出てきます。
私たちは、日々「安楽」を求めるあまりに、自分の不安を取り除くことに躍起になっています。
不安が自分の不幸の原因になっているからには、それを何よりも優先的に取り除かなければならない、それが取り除かれた状態を「安楽」と呼び、それが他の全ての価値を支配する、唯一の中心価値になることが「安楽への隷属状態」と呼ばれています。

「安らぎ」というのは、本来は、私たちに自由を与えるものであるはずです。
私に「安らぎ」があるとき、私たちは他人に寛容になります。そして自分自身にも寛容になるので、自由な発想、自発的な創造が生まれる源となります。

しかし、「安楽」を求めること自体が、日常生活の中で四六時中忘れることのできない目標となってくると、事情は一変します。
そこでは、心の自足的安らぎは消滅し、安楽への狂おしいほどの追求と、安楽喪失への苛立った不安が、かえって心中を満たすことになります。こうした、安らぎを求めるがあまりに不安になるという「安らぎを失った安楽」という逆説的な精神状態こそ、現代を織りなす心象です。

だからこそ、私たちは
「不安」を動機に動いてみても、ろくなことにならない。
このことを、いつも心に携えておくべきだと思います。なぜなら、人が「不安」に突き動かされているときには、いつだって、他人への寛容が失われているし、自分の心をちゃんと見つめることも、自分自身を大切にすることも、できないのです。


日々、子どもたちを見ていると、子どもたちが大人の不安の犠牲になっていることを感じることがあります。
大人が「安楽」を追い求めるあまりに、子どもたちが大人の不安に巻き込まれるということが多々起きているのではないでしょうか。

「安楽」を追い求める大人は、子どものことを見ていません。子どもが失敗したら、それを全て子ども(または自分以外の周りの人)の責任にしてしまいがちです。その結果、子どもは「大切にされている」という手ごたえを十分に得ることができません。
でも、子どもにとって、その手ごたえほど大切なものはないのです。

しかしながら私は、手ごたえの有無を、それを享受させる責任を、これまでのように親だけにすべて任せてしまうのは、難しい気がしています。現代の親が「不安」の申し子だからこそ、塾という家庭でも学校でもない場所が、子どもに「大切にされている」という手ごたえを与える場でなくてはならないと思いますし、それは、これからの塾に求められる不可欠な条件であるとさえ思っています。「不安」の申し子たちは、そうやって協働して生きてゆかねばならないと思うのです。


現代のあらゆる洗練化(=ジェントリフィケーション)はそのほとんどすべてが、不幸の源そのものから目を背け、追放しようとする欲望で動いており、その動きがはじめから不安を分かち難く内に含み持っている限り、私たちがその運動と付随する不安から逃れるのは至難の業です。

しかし、こうした私たちの「安楽」の追求が、かえって安らぎの欠如をもたらしているという矛盾を知ることは、きっと大切な生きるヒントになります。寛容への扉を開き、人を大切にすることについて考える契機になります。




とらきつね on Facebook 随時更新中です。



by terakoyanet | 2018-01-22 23:59 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 01月 03日

新年あけましておめでとうございます

元旦に屋久島の南にある蛇乃口滝まで歩きました。(尾乃間温泉から片道2時間ほど歩きます。)
照葉樹がきらきらと光る冬の森の中を、コースサイン用の赤テープをたどって歩き進めているときにふと考えました。

私たちはいま何を信じてこの赤いサインをたどって歩いているんだろう。
初めて歩く山道。この赤テープが正しいという保証はどこにもないのに、それが正しくなければ屋久島のジャングルに紛れて死んでしまうかもしれないのに、そのたよりないサインを信頼して、それに命を半ば預けて、歩き進めてゆく不思議。

でも、考えてみれば、私たちの人生の道行も同じかもしれません。
度々迷いそうになる道中に出会う人たち。その人たちが放つ脆弱なサインに身を賭し、自分がいま進んでいる道が正しいのか間違っているのかもわからないまま、次のサイン、また次のサインと、辿りたどり進んでゆく。

屋久島で会った作家の古居智子さんが「人間はわからないものを信じる力があるから面白い」と話していました。
旅も人生も、わからないものを信じてみる、そこに身を賭してみる、だから面白い。

2018年も「わからないこと」を大切に邁進してまいります。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

d0116009_16183557.jpg
新春のモッチョム岳(屋久島南部)


とらきつね on Facebook 随時更新中です。



by terakoyanet | 2018-01-03 16:19 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)