カテゴリ:寺子屋エッセイ(読み物)( 205 )

1月30日の雑感

日々の受験直前指導の怒涛の中で、ここでお伝え損ねていることがたくさんあります。

中3生たちが本当に頑張っていること。
でもその中で、平気で人を裏切るようなことをする子がいること。
(中学生の男の子なんてそんなものだと割り切ってしまうことは簡単ですが、そんなに易々とは受け入れられません。)

成績表をご覧になった方はわかると思いますが、中2がグーンと伸び始めたこと。
そして中1がほんとうによくがんばっていて、前回の到達度テストでは、この時期としては学年平均偏差値が歴代約20年間で過去最高レベルとなったこと、他塾を含む全受験者の中で総合3位の生徒もいたこと。

大学受験生たちもセンターを終え、進路確定まで猛烈に努力を重ねていること。

ただ、寒さが厳しくならないせいで、今年の受験はなんとなく緊張感に欠ける部分があるのは否めないこと。

高校生の中には、生きることそのものに悩みながら、前に進みたくても進めない子もいること。

思春期に自堕落な生活で悩んでいる子たちって、単に頭の中の葛藤や煩悶が凄すぎて身動きが取れなくなっているだけの子が多いんじゃないかということ。
だから大人は思春期のダラしない子どもを見たら、あんたどれだけ思春期満喫してるの?って思ったらいいんじゃないかということ。

大人が子どもに「将来の夢」を尋ねる構造って、まじめな子どもたちを苦しめるだけじゃないかということ。
毎年この時期になるとそのせいで煩悶している子どもたちがいるのを目のあたりにすると、いたずらに大人が子どもを追い詰める構造ってどうにかならないのかと思うこと。

他にもたくさんあります。

子どもの悩みが深まるこの時期、親御さんの中にも同じように思わず考え込んでしまう時間がある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

そんな方にお勧めしたいのが昨日読んだ村井理子さんの以下のエッセイ。

答えが出ないことなんて当たり前だと思ってこれまでずっと生きていた。むしろ、自分の目の前に答えが用意されていないことこそが、人生の醍醐味だと思っていた。

そうやって始まるこのエッセイ。
答えが出ないことなんて当たり前、そう思っていた村井さんでさえ、思春期にいつの間にか子どもが変化し、親子間の感情がすれ違うことに対して、答えの出ない焦りを感じている。

それにしても、男の子って、自らの葛藤を母親の前では見せない子が多いですよね。
母親が明るくて無邪気(=バカ)な自分であることを望んでいることを知っているから、思春期になってもいつまでもそうである自分しか見せない。(他ならぬ私自身そうでした。)もう中学生になった僕はすっかり変質してしまっているのに、好きなお母さんの前では変わらない自分を半ば無意識に演じる子というのは多いと思います。

親も、そして他ならぬ本人自身も、いつの間にか変化した親子の間の関係性に悩まされる思春期のころ。
春ごろに発売予定の、『親子の手帖』に続くナナロク社から出る私の新刊は、そのことにも触れていますのでお手に取っていただければ幸いです。

村井理子さんの連載、「村井さんちの生活」には、最近の記事だけでも「いい親になりたい」とか「子育ては自分の子ども時代を巡る旅」とか、読んでいて涙腺が決壊しかねない文章がいろいろありますので、お時間があるときにぜひ。



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by terakoyanet | 2020-01-30 02:51 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

罪について(創作)

聖フランチェスコの生涯を描いた28枚の絵画を一目見るために、イタリア中部の町アッシジを訪れた。サンフランチェスコ聖堂を訪れたあと、町をふらりと歩いていると、右手に小さな石造りの教会があって、窓に飾られた赤いバラの花に惹かれて中に入った。教会ではたった30人ほどの信者を前にミサが行われていて、私が教会のオルガンの傍に(ひざまず)くとすぐに、腰が少し曲がった丸い老眼鏡をかけた神父が説教を始めた。


「今日は、アウグスティヌスのパラドックスのお話しをいたしましょう。」


神父がこのとき話し始めたのは、自己の存在証明についての話だった。


「皆さんは、『私自身は存在している』そのことを疑ってはいないかもしれません。しかし、自身の存在を論理的に説明することは、非常に困難な作業を伴います。私たち人間の存在は、それを明らかにしようとしたとたんに、はじめから矛盾を含んでいるということに気づかされます。私たちは、自分のことをAはAであると言い表すことができません。それは、同語反復以外の何ものでもないのです。実際の問題として、人は自分のことをAである、と表明している矢先に、変質してAではなくなるのです。人が死ぬことは、その変質に由来しています。人がたったいま、この瞬間も死に向かっているということは、変質してAでなくなっている証拠です。ほら、まさにあなたもこの瞬間に、死に向かって変質している。それほどに人間は不完全な存在です。だから、私たちは決してAはAである、と自分を定立することはできません。AはAであった、とか、AはAでありうる、とは辛うじて言うことができます。しかしながら、AはAである、とは決して私たちは言い得ることがないのです。」


まさに私もこの瞬間に、死に向かって変質している。私は自分の両手の骨が開いたり閉じたりするのを見ながら、そのことを考えた。


「一方で、この世において己をAはAであると表明できるのは、唯一、神のみです。ヨハネの福音書の18章を思い起こしてください。ここには、イエスが『私は私である』と言ったとたんに、イエスを捕らえようとした人々が後ずさりして、しまいには地に倒れてしまう場面が描かれています。人々は『私は私である』と言う神の子イエスの全能性に圧倒され、自分の非力を全身で思い知らされるのです。そこでは『私は私である』という言明さえも適わない人間存在の本質的な脆弱さが露わになります。一方で、神は完全であり損なわれることがありません。神は、『AはAである』と言うことができるがゆえに、完全な存在です。」


神はなにゆえに完全な存在であるのか、と問うてみる。私たちが不完全であることの対照物としての完全さなのであろうか。


「ですから、神のようにAはAである、ということを定立することができない人間は、それが不可能である以上、AはA´(Aダッシュ)であるという形、つまりAに非ざるものによって自身の同一性を回復するしか術はありません。だから、そこで考え出されたのが「関係」です。他者と相互に類比関係を結び、他者との交わりの中で、他者から与えられた眼差しの交錯によって、自身の実存を取り戻すのです。イエスが福音書で述べた掟、『わたしがあなた方を愛したように、あなた方が互いに愛し合うこと、これがわたしの掟である』は、ここにおいて意味を成します。もしあなたたちが、自分の存在を疑っておらず、しかも私は私である、というふうにそれを証明することができるなら、互いに愛し合う必要はないのです。そうではなく、私たちはそもそも、いずれ死に至る不完全な存在であるがために、不完全な存在としての孤独が宿命づけられているがゆえに、神はお互いに愛し合うことを人間に命じているのです。イエスは、自身の実存さえもままならない私たちの生を見抜き、これを掟としたのです。ですからあなた方も、他者と交わり、愛し合いなさい。アーメン。」


実存さえもままならない、不完全な存在としての孤独。このことが私たちの「原罪」なのかもしれない。そう思うと、これまで私を苦しめてきた「原罪」から許されたような気持ちにもなった。


私は幼いときから「罪」に苦しめられてきたのだと思う。カトリックには「告白」という制度があって、自分が犯した「罪」を神父の前で詳らかにしなければならない。告白という制度は、自らの「罪」を常に問い続けなければならなくなるという意味でとても厄介な代物だ。四六時中、これは罪だろうか、また罪を犯してしまった、そういうことを考えながら、いつでも頭の隅に罪悪感を抱えたまま生活をすることになる。自分がいつからいつまでに何回嘘をついたのか、その数を勘定しながら日々を暮らすのである。


しかし、どれだけ「告白」をしたところで、自分の罪はなくなることがない。告白を終えたとたんに別の罪が蘇生する。あれも罪だったのではないかと思い起こされる。告白をして許されることで、新たな罪が呼び覚まされるのだ。罪は外的な行為だけでなく内面にも存するものなので、心が罪を犯すことは避けがたく、いつでも罪悪感が心を絞めつける。その罪悪感は自己否定に繋がる。


質素な聖堂の中でそうやって幼いころの罪の感情を思い出していたとき、不意に、ああ、これは自分にとって案外苦しいことだったのだな、と気づかされた。苦しいことだった、そして苦しいと思っても良かったのだと心の中で反芻するうちに、長い間、心を絞めつけていたくびきのようなものが解除されていくのを感じた。


「原罪」が不完全な存在としてこの世に生まれおちる私たちの宿命を示すならば、他方で「罪」とは不完全さを満たそうとする私たちが、そのための行為を誤ること指すのかもしれない。その行為を誤ると決して満たされることはないから、たやすく自己否定のループに陥ってしまうのではないか。


私は罪という実体を恐れ、それに苦しめられてきた。しかし、罪というのは必ずしも実体を伴うものでなく、自らの不完全さに対する対処を誤るということなのではないか。自らの孤独を深めることをせずに、一時の享楽に甘んじるということなのではないか。


行為を誤ることで満たされない、これを繰り返して神を遠ざけることは不幸だ。そうやって私たちに不幸を呼び込むものを「罪」という。一方で、私たちの不完全さは、それ自体は罪ではなかった。私たちの不完全さは、私たちを愛で満たすためのうつわそのものだった。



罪について(創作)_d0116009_02123371.jpg
ZINE 『旅をしても僕はそのまま』2019年発行 所収

参考文献 キリスト教講義 若松英輔+山本芳久


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by terakoyanet | 2020-01-23 02:25 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

昨日、哲学者(今年は小説家として芥川賞の候補にノミネートした)の千葉雅也さんが、勉強についての核心をつくツイートを連発しました。(千葉さんは『勉強の哲学』という読むと脳天がクラクラするような刺激的な本も出しているので、この記事が気になった方はそちらもチェックすることをお勧めします。)








勉強にのめり込み、勉強によって自分を作り替えた経験がある人なら、千葉さんのこのツイート、深く肯かれるのではないでしょうか。

権威主義と言うといかにもいま評判が悪い言葉です。でも、勉強というのは、目の前の絶対的知に対して、己の身を投げうつようなそんな場面があって初めて何かを把捉し次のステップに進めるのだと思います。

その権威はできるだけ薄っぺらくて張りぼてではないものであることが望ましいのですが、とにかく、「お前は何もわかっていないのだ」と囁く目の前の他者に徹底的に追従して、私もあなたのようにわかるようになりたい、と希求する、それを続けることが勉強をするということであり、何かを勉強し尽くした人たちというのは、その感覚をきっと大切にしていると思います。

修猷館高校に進学した生徒たちが、進学説明会の際に後輩たちに向けて「鳥羽先生を信じてついていってください」という言葉を伝えてくれることが度々あるのですが、彼らは合格に向けて何が大切かということをやはりつかんでいるなと思います。
私自身、信じてもらう存在としては、あまりに未熟な指導者ですが、特に修猷館など上位校を目指す生徒たちにとって、指導者の頭の中をコピーするくらいに徹底的に覚えること、解析度を高め理解し尽くすこと、思考回路さえも真似すること、そういったことがとても大切なのです。その点、親や友人、他の塾の情報などに振り回されて、ああでもない、こうでもないとじたばたしてしまうタイプの子はほんとうに伸びません。勉強をするというのは信じる行為に近い。信じ続けて突き抜けた向こう側に、自分独自の思考の自由があります。

勉強についての核心を突く話_d0116009_03583091.jpg


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by terakoyanet | 2020-01-21 03:34 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

受験が近づくにつれ、勉強に集中するどころか、どうしようもなく下を向きがちになり何も手につかなくなる子がいる。そういう子たちは、相対的に見て受験が自分にとって「敗北」を意味するものでしかないという現実がそのまま自己否定につながり、結果身動きが取れなくなってしまっている。


こういう生徒には「がんばれ」ではどうしようもない。私が昨夜ある男子に言ったのは「勉強なんてできなくてもいい」ということだ。他人との比較ですっかり自信を無くしていた彼に対して私ができることといえば、勉強ができるかどうかなんて君の価値には全く関係ないと全力で伝えることだけだった。


今日の授業で彼は表情が変わっていた。「勉強なんてできなくてもいい」なんて受験生には禁句とも思われる言葉を吐かれた彼が、今日は伸び伸びと授業を受け、数学で半年ぶりに60点以上の高得点をとった。


本人の力を阻害しているのは往々にして相対的な評価の低さでありそれに伴う自己否定感だ。そこを手当てするだけで、蘇る子どもはたくさんいると思う。子どもたちを相対的な評価の場所に置いている人間として、もっともっと手当てをしていかなければと改めて思った。



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by terakoyanet | 2020-01-18 05:10 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

大手塾に通っているクラスメートが、自分がその塾に通っていることをやたら自慢する。それが見苦しいと中学生のある男の子が昨日苦言を呈していました。「〇〇〇に行ってるからって、じゃあお前はどうなの?」とかなり辛辣なことを言っていたので、宥めつつ、彼が言いたいこと自体には賛同しました。

子どもたちがある学校や塾に入っただけで自分が大きく見えるような錯覚を覚えるとしたら、それは子どもたち自身だけのせいじゃなく、それを取り巻く大人の責任も根深いものがあると思います。

塾自らが、塾に通わせる親が、積極的に子どもに対して上から見下すような価値観を根付かせようとする場面があります。しかし私は、これからの学習塾は、優越感やエリート意識を醸成することから明確に決別すべきだと思います。そういった意識の行く先には何も実体らしきものがないとわかったいま、そういう意識を利用して子どもを引っ張っていくことは虚偽であり時代錯誤だと強く言いたいと思います。優越感やエリート意識では、人間は幸せになんてなれませんよ。

むしろそんな詭弁に頼らなくても、子どもたちはちゃんと学力を伸ばすことができる、深い知識と知恵を蓄えてそれを人生に反映させることができるというのをちゃんと証明してみせるのが、(新しい時代の考え方にすっかり取り残されている)学校の外で子どもたちと勉強する大人たちの仕事だと思います。

寺子屋に通っている子どもたちも、決して塾に(寺子屋に)通っていることを自慢することなく、むしろ、身近にいる子に、自分が塾に通っている恩恵の一部でも伝えてあげられる、そんな人になってほしいと思います。


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by terakoyanet | 2020-01-17 02:13 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(1)

去る12月4日に開催された、親と子(オヤトコ)会議『不登校になって伸びた7つの能力』出版記念トーク福岡(このときの内容についてはぜひこちらをご覧ください/充実のレポート!よっぴーありがとうございます)のときに、質疑応答の時間があり、そのときの思い付きで答えたことを備忘用にTwitterでつぶやいたところ、反響がありました。


このつぶやきだけではわかりにくいので、以下にもう少しちゃんと書きます。

「うちの子、好きなことがないんですよね」「どうやって好きなことを見つけたらいいでしょうか」という親御さんにはじめに思い出していただきたいことは、子どもは幼い頃、好きなこと、夢中になることがきっとあったんです。電車の模型を夢中になって手で動かしていたかもしれないし、人形をつかって家族ごっこをやっていたかもしれない。それぞれの子どもがそれぞれの世界で自由に遊んでいた時代があり、そのころの子どもは、「好き」という言葉が不要なほどに、好きなものに囲まれていたのだと思います。

でも、子どもの「好き」はいつの間にか、大人の企てに絡み取られていきます。
親は小さい子どもに「好き?」と尋ねるでしょう。あれがよくないのです。
いつの間にか子どもは大人の「好き?」に応えようとする余りに、自分独自の「好き」を見失ってしまいます。

こうやって、親は何の悪気もなく、いつの間にか子どもの「好き」を奪い取り、殺してしまう。
これは多かれ少なかれ、どの親もやってしまうことかもしれません。


「うちの子の好きなことが見つからない」そう感じている親御さんは、きっと子どもが「好き」なことに出会っていないだけと思っていると思います。でも、実はそうではなくて、子どもはかつて「好き」なことに出会っていたのに、それをいつの間にか失ってしまって、わからなくなっているんです。

だから、(親だけでなく)大人たちの企てによって子どもの「好き」が満開になる前に小さく閉じてしまったことを理解した上で、「好き」を再構築・アップデートしなければ、ほんらいの「好き」は芽生えません。

「好き」が見つからない子に、これはどう?これは?と目の前にいろんなものを出してみることは、幼いころその子に尋ねた「好き?」と同じことを繰り返しているだけなので、子どもは「好き?」と尋ねられるたびに試されているような気分になって、余計に「好き」から遠ざかってしまいます。

もし可能な方法があるとすれば、「好き?」と尋ねるのではなくて、その子の視界に入る場所で、大人が勝手に好きなことをすることでしょうか。楽しさをそのままに、無理には見せようと思わずにたまたま見える範囲に置くようにするのです。そうすれば、子どもはおのずと大人たちが楽しんでいることに興味を持つかもしれません。

さらに、本人がいるところで、大人どうしでその子についておしゃべりするのもいいでしょう。
そのときに「お前、どうや? 興味ある?」なんて本人に無理に話を振らないことです。その子について知っている人たちが、「彼は何事もじっくり考えるタイプだからこれ好きそう」とか「彼女は〇〇が器用だから、××を習得するの早そう」とかそんな話を大人どうしでしてみるといいです。(このような方法は、精神看護において「リフレクション」と呼ばれます。)変に褒めたりけなしたりしてはいけません。そこに評価を入れてしまうと、子どもはジャッジされているという気持ちになり、下を向いてしまいかねません。子どもは大人のやり取りを通して、そうか、僕は(私は)そんなふうに見られているんだなー、と自分をひとつの対象として味わうことを知ります。そして、いつのまにか、大人が面白いと思っていることにおのずと巻き込まれるような形で、子どもに「これ好きかも」という欲望が芽生えることがあるのです。そういう欲望が生まれる場所と機会を用意することくらいは、大人にできるかもしれないと思います。

「好き」は望んでできるものではなく、おのずと生まれるものですから「期待」はしないことです。
子どもたちはいつか生きるための「好き」をちゃんと見つけます。


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by terakoyanet | 2019-12-16 01:02 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(1)

坂口恭平とオノラリア

今日はいよいよ坂口恭平さん、末井昭さんのトークイベント当日です。

以下は、坂口恭平さんの「いのっちの電話」は、神から「召命」を受けた中世の人たちと同じ働き方なんです、という話。

・・・

一昨日に高校生たちと読んだ村上陽一郎さんの『科学者とは何か』は、医師や法曹家(弁護士)がお金をもらって仕事をする意味について、その根っこを再考することができる面白い文章だった。


西洋中世における医師や法曹家の仕事は、木こりやパン焼き、肉屋などの一般的な職業とは、本質的に異なるものだったそうだ。それは、医師や法曹家の仕事が単に「知的」な職業だからというからではなく、彼らだけが神の「召命」によってその仕事をしていたからである。


何故なら、そうした仕事は、この世で「苦しんでいる人々」に、救いの手、助けの手を差し伸べるものだからである。身体の病いに苦しみ、精神の不安に苦しみ、そして社会的な正義を犯されて苦しんでいる人々に対して、神は、特別に才能を与え、自分の意図を実現する手先になってくれるべき人々を用意し、それらの人々の手を借りて、助けと慰め、正しさと補いとを、与えようとした。したがって、神は、彼らに常に呼びかけているのである。「苦しんでいる人々のために、(私があなたに与えた)その才能を使いませんか?」と。
『科学者とは何か』村上陽一郎


西洋中世における医師や法曹家の仕事は、聖職者たちと同様に、神の「召命」に従って人を救うことであり、神に対する責任を負って働くことを是としていた。一方で、現在の医師や法曹家(弁護士など)は単なる世俗的なエリートの職業となった。だが、苦しんでいる人間を助けようとする点は今も昔も変わらないので、現在の医師や法曹家たちは、神ではなく、患者や依頼人に対して直接に信義的、道義的責任を負うようになる。


現在、私たちは医師や弁護士に規定の金額を支払うことで契約関係を結び、その対価として彼らから治療やサービスを受ける。(だからこそ現在の医師や弁護士には規定の金を払ってくれた契約者に対して責任が生じるのだ。)しかしこの方法は、神の召命に基づいて仕事をしていた時代の医師や法曹家には馴染まない。だから、翻って西洋中世のころの医師らの報酬について見てみると、そこには「オノラリア」という習慣があった。


医師が患家を訪れる。医師は背中に口の開いた袋を背負っている。診療・治療が終わって、「ではお大事に」と患者もしくはその家族に背を向ける。袋もそちらを向く。患家の人は、そこへいくばくかのお金を入れる。次々と患家を周っている間に、医師には、誰が幾ら入れてくれたか判らなくなってしまう。
『科学者とは何か』村上陽一郎


「オノラリア」は医師に対する「報酬」として、神との誓約に基づいてなされる仕事への尊敬と名誉の承認という意味合いを帯びていた。だから、その金額は払う側の医師に任せられるという特殊な性格を持っており、だから例えば「袋に手を入れて、払うふりをして払わない」という今では倫理的に正しくないと思われる行為さえも、それが尊敬と名誉の承認という振る舞いでさえあれば、それは何の問題もないのである。


この話を読んで真っ先に思い出したのが、今日とらきつねにゲストでやってくる坂口恭平さんの「いのっちの電話」である。彼は8年もの間、希死念慮のある人たちからの電話を無償で受け続けている。彼は自分の仕事が、お金という対価に対するサービスを履行するという形になじまないことを知っていて(それどころか彼は「金を使うと不幸になる」とか「基本的に金稼ぎしてるやつは全員怪しむようにねw」とか発言している)自分がどれだけの仕事をしたかということを、実際にいくらもらったかということと関係なく自分の帳簿につけている。これはまさに西洋中世の「オノラリア」の精神と同じであり、きっと当時の医師たちは、袋に思ったほどお金が入っていなかったとしても、それを不服と思うことはなかったのではないか。


坂口さんへの長年の謎として「死にたい人たちと話していて自分が擦り減ってしまわないのか、そしてそれは割に合う仕事なのか」というものがあったのだが、この問いは「オノラリア」によって説明が可能である。

彼が希死念慮のある何千人もの人たちと関わって擦り減らないのは、彼が自分は特別な仕事をしているという自覚を持っていて、だから戦略的に相談者と直接の契約を結ばないという形を選び取っているからだ。(直感的な感覚をそのまま戦略に変えることができるのが彼の確かな賢さだと思う。)じゃあ、彼が誰と契約を結んでいるかと言えば、それは「神」ではないだろうが「今はフリードリヒ・ニーチェにむかっているんだ」(『まとまらない人』)と言っているくらいだから、神とは全く異なる、それでいて神の似姿をした何かなのだろう。

「割に合う仕事なのか」という問いについては、彼にとってお金は報酬にならず、自らの召命を果たしているという自覚がある限りは、周囲の僅かな「仕事への尊敬と名誉の承認」があればそれが報酬なのだから、割に合わないということはない、という回答になると思う。(だから、私たちは「オノラリア」としての賛辞と承認を彼にもっともっと与えたほうがいいと思う。報酬が足りないとき、坂口さんは自分で自分をほめているので、それで事足りている可能性もあるが。)


ということで、「坂口恭平とオノラリア」のお話は以上です。今日のトークが楽しみです。



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by terakoyanet | 2019-12-11 15:12 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

今週日曜日、12月2日に次のようなニュースが全国で流れました。

丸刈りなど強制でうつ状態、済々黌高退学の元生徒が熊本県を「1円」提訴

中学校に上がる前、初めて坊主になったとき、お風呂に入ったときに自分の頭と間抜けな顔が鏡に映って見えて、思わず目が離せなくなって泣いたことを思い出します。

私は、自分が中学生だった当時から、丸刈りに強い違和感を感じていたので(いま坊主みたいな頭ですが、それとこれとは話が別です)このことについて、自分の問題として強く反応せざるをえないところがあります。

いまから4年半ほど前に、先輩から強要されて坊主になって泣いていた子がいた日の憤りを記した文章があります。
その文章が、一昨日からTwitter上で多くの人たちに共有され(社会学者の岸政彦さん、マンガ家の瀧波ユカリさん、翻訳者の村井理子さんらが拡散したことが大きい)1日で1か月分くらいのアクセスをいただいています。

問題は、こういった経験が子どもたちに理不尽さを許容する心根を作ってしまうことです。
こうして理不尽さが連鎖する社会が作られるとすれば、それに甘んじることなく闘うべきではないかと思います。
その意味で、今回の裁判には意義があると私は感じています。

以下にそのときの記事を転載いたします。

・・・・・

いつになったら悪習が終わるのか。 2015年7月8日

今日書くことは、意見が異なる方もいらっしゃるかもしれないと思いながらも敢えて書きますが、
中学の男子たちを見ていると、ある部活動の生徒たちが皆坊主になることがあり、驚かされることがあります。

坊主の定番の野球部だけでなく、坊主とは無縁と思えるサッカー部の生徒まで坊主になることも。

部員全員が坊主になるときというのは、顧問やコーチ、先輩のうちのいずれかの力が働いています。
「気合を示せ」「反省しているところを見せろ」・・・
理由は何であれ、坊主になることを強制するのです。

それの受け取り方は子どもたちによって異なります。
本当に気合を示したいと、ちょっと照れながらも何の抵抗もなく坊主にする子もいれば
傷つかないために「あくまで自分の意思で坊主にするんだ。」と自分に言い聞かせながら坊主にする子もいれば、到底受け入れることができないのに泣く泣く坊主にする子もいます。

私は幼いころから同調圧力に敏感で、それをとても怖がってきた人間です。
だから、皆で坊主になれ、という有無を言わせない宣告は、昔も今もとても恐ろしく感じます。

もし先輩に坊主になれと言われて坊主になった子(後輩)がいるときには、それを言った先輩に対し、「お前は自分が何を言ったかわかっているのか」と厳しく問いただす人間が必要だと私は思います。
しかし、多くの部活動の現場ではそうではない。むしろ大人が同じことをしてきたから、それを真似した子どもたちが先輩となったときに、そのような強要を行う、そしてそのことがわかっているから大人たちはそれを黙認する、それどころか奨励さえする。そういう場面が多いと感じます。

しかし私は、坊主になりたくない子、坊主になろうとは思っていない子に対し、坊主を強要することに強く反対します。そんなつまらない悪習はすぐにでも葬り去られるべきだと思います。(※坊主自体を悪習と呼んでいるのではありません。)

このような同調を強要することがどれだけ暴力的で危険なことであるかということを、私たちは歴史で学んでいるはずです。いやいやそんなに大きな話ではない、たかがスポーツの話だ、いやむしろスポーツってそんなものだなんていう声も聞こえてきそうですが、私はそういった同調を強要するようなスポーツなんていうクソつまらないものは、すぐにやめてしまえ、という気持ちを抑えることができません。そんなものに頼らなくても、もっとうまくやる方法があるはずです。

日本には、大人だったら決して許されないのに、子ども相手なら許されてしまうことが多すぎます。
子どものことをバカにしすぎています。


お花畑の小学校と違って、中学・高校は、世間の厳しさや理不尽さを反面教師的に学ぶ場となっています。
しかし、世間の厳しさや理不尽さなんていうものは、教育の場で大人がわざわざ拵えてあげなくても、子どもたちは近い将来、それにぶつかって藻掻くはずです。それに対する耐性だけ身につけさせて、将来それらにぶつかったときに、藻掻くこともせずにただ順応する人間を育むことこそが教育の本当の目的だとすれば、それは皮肉にもある程度成功していると言えましょう。

子どもたちには、自分が感じた違和感を大切にしてほしいと思います。
無理に周りにあわせる必要なんてないし、周りに合わせられない自分に対して自信を失う必要もないんです。

苦しみをひとりで噛み締めている子も、苦しみを紛らわしてやりすごしている子も
皆が考えることを諦めずに、前に進む意思を持ち続けることができるよう、願っています。





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by terakoyanet | 2019-12-06 02:28 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

子育てを通して、私たちは幾度も、自分自身への問い直しを迫られます。自分というのは、なんて不可解でわがままで、弱くて脆いんだ、そういうことに気づかされて、そんな自分を認めたくないという気持ちにもなります。子が煩わしいと思って自己嫌悪に陥ったり、子が愛せない自分を憂えたり、子の気持ちより自分の感情を優先していることに気づいて愕然としたり。そんな、子どもをいつも傷つけてしまうような、泥にまみれた子育てをしているのに、それでもなお、親は子を愛おしく思う気持ちから、決して逃れることができません。だから親は尊いのです。

日々のさまざまな心の動きを通して、自分を知る、自分になる。そういう人生そのものともいうべき歩みを、子どもといっしょに濃密に積み重ねることができるから、子育てというのは、本当に深い味わいがあるものなのでしょう。

ー『親子の手帖』よりー



いまインスタグラムを見ていたら、茨城県の「器と暮らしの道具ハコニワ」さんのページに、21歳の息子の誕生日を迎えた母の心情に『親子の手帖』のこの部分の文章が添えられた記事があり、心を揺さぶられました。自分では何をどこに書いたかいまや定かではないのですが、こうやって必要なときに必要なページが開かれることに、本という媒体の不思議な力強さを感じます。
https://www.instagram.com/p/B5DPugWlSXh/



☆『親子の手帖』に次ぐ新刊が、来年の春までにナナロクより刊行されます。自分がいちばんというくらい好きな出版社から本を出すことができる僥倖。今回は親よりも子どもを主人公に据えた本になります。本の編集は谷川俊太郎さんの数々の詩集や、和田誠さん、鹿子裕文さんの本を手掛ける川口恵子さん、そして本の校閲はテレビセブンルールへの出演でも知られる牟田都子さんという、ちょっと私にはもったいなすぎる布陣による新作になります。全てが『親子の手帖』を読んでくださった皆様のおかげです。ありがとうございます。(鳥羽)



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by terakoyanet | 2019-11-22 05:00 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

前記事の「勉強のしかたがわからない」のお話し。これだけではわかりにくいと思いますので、昨年の10月に書いた「うちの子はがんばっているのに成績が伸びない」は大抵間違っているという記事から文章を一部引用します。(全文読みたい方はリンク先を見てください。)


うちの子どもは「がんばっているのに、成績が伸びない」というのは、大抵、親の勝手な解釈なんです。
実際は、「がんばっているからこそ、いまの成績が維持できている」のかもしれないのに、ただ、学校や模試において点数が伸びてないという表層的な理由に基づき、子どもに対し「成績が伸びない」という烙印を押す。がんばっているのなら、それが現状の子どもにとってはベストに近い状態かもしれないのに、その斜め上を見て、「成績が伸びない」と断定してしまう。それは親の願望でしかありません。そして、このことによって傷つく子どもは多いです。

「がんばっているのに、成績が伸びない」
親がそう他人に主張しているとき、大抵の子どもは親が「私のことを一生懸命考えてくれてる」「私はなぜ伸びないんだろう」と考えますから、子どもが親のことを嫌いになることはありません。目の前の親が高望みをすることで、自分自身を傷つけているのに、子どもは決してそう解釈することはありません。子どもというのは、大切な親を救うためには、自分自身を損ねることを厭いません。親は子どもを救っているつもりで、何度子どもに救われればそのことに気づくのでしょうか。

「がんばっているのに、成績が伸びない」
親がそう他人に主張しているとき、「うちの子はがんばっているけど、勉強のやり方がわかっていないから、成績が伸びない」という考えが含まれることが多いです。それはつまり、「そもそもうちの子は勉強のやり方がわかっていないし、それを的確に教えてくれる人がいない」という他者(たとえば学校や塾)に対する不満を含んでいます。
しかし、勉強が「わかる」という真の経験がある人たちは、きっとそんな考えを持つことはありません。なぜかと言えば、その人たちは、勉強のやり方というのは、自らの手によって掴み取ることによってしか、得られることのない類いのものだからということを知っているからです。
「馬を水辺に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない。」このことわざは、最終的には自分の意志でがんばらなければならない、というような単純な意味ではなく、学問でも他の分野でもそうですが、指導者ができることは、ある問題の解決のための具体的な方法を教示するところまでであり、実際にそれが「わかる」ようになるのは、本人の手によってでしかないという、学習というものの本源的な性質を示すものです。指導者として大切な素質は第一に「本人の能力を奪わないこと」であり、それを土台にしつつ「問題解決の糸口を見つけやすくしてあげる」(これは案外難しいことですから、指導者には能力差があるのです)ことに尽きるのですが、「うちの子はがんばっているのに、成績が伸びない」と主張する親たちはたびたび子どもが「わかる」こと自体を他人に依拠しようとします。これは、水辺で馬に無理やり水を飲ませようとしていることと同じであり、うまくいかないどころか、子ども自身にとっては完全にマイナスにしか働かない所為と言わざるをえません。「解決そのものを他人に依存すること」を教えるのは、親が無自覚に「本人の能力を奪う」例として、私がこれまでに幾度も見てきたことのひとつです。


誰かにわかるようにしてもらいたい、というのは勉強じゃないんです。
本人が、ある決意や覚悟をもって勉強に取り組み始めたときに初めて、勉強の世界が本人の前に開けてきます。それを経験もせずに、誰かにわかるようにしてもらいたいと願うことは、死んだように勉強するのと同じです。勉強の出来不出来以前に、生きたように勉強をすることを、子どもたちには知ってほしいと願っています。
そのためにも、できない子どもを責めるのではなく、子どもが生きた勉強をしているか、勉強の世界が本人の前に開けているか、そのことを一番大切に考えながらご家族にも子どもたちを見守っていただきたいと思います。




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by terakoyanet | 2019-11-22 03:37 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)