カテゴリ:寺子屋エッセイ(読み物)( 190 )

期待値の差でしかない。

今朝起きて最初に開いたツイッターでこのつぶやきが目にとまりました。

「不満が多い人は期待値が高いです。感謝が多い人は期待値が低いです。 」

為末大さんのつぶやき。
為末大さんは"走る思想家"なので以前からこのブログでも何度かその思考を紹介したことがあります。

この話、昨日、シンガーの島崎智子さんたちと「女と味噌汁」に行ってちょうど話していたことでした。


子どもや親の中にも、いつも不満(ときに不安)をためている人たちというのがいます。
彼らはなぜ成績がこんなに伸びないの?こんなにできないの?といつも感じています。
でもこれは単に「斜め上を見ている」から。
「斜め上を見ている」人たちは、期待値が高いからいつまでも満たされません。

一方で、全く同じ成績でも、ある親子はいまの成績をそのままに受けとめて、その状態に対する敬意のようなものを持っている人たちがいます。
これは期待値が低いから。
期待値が低いというと悪いことのようですが、そうではなくバカボンのパパに言わせれば「これでいいのだ」ということ。

どちらのほうがいいかと言えば、言うまでもなく後者のほうがいいわけです。
「斜め上を見ている」人たちは自分で不幸を呼び寄せていることに気づいていない。
いつまでも満たされないのは自分の欲望がそうさせているのに、その欲望のいびつさに気づかない。
ほんとうはそうやって苦しくなっているときというのは自分を知るチャンスなのに、欲望に搦め取られすぎて自分をいつまでも内観できません。満たされず内観もできない人が何をするかと言えば、満たされない原因を周囲の人や環境に求めます。不満の原因を自分ではなく他人に当てこするようになります。これは本人にとって不幸なことだし、周囲の人からすれば迷惑です。

子どもの能力より斜め上ばかり見ている親に育てられると、虚栄心が強い子どもが育ちます。
虚栄心とは「自分を実際以上によく見せようとする心」のこと。
親がいつも斜め上にばかり見るものだから、子どもには自分をもっとよく見せなければいけないという意識ばかりが根付きます。
それが虚偽であっても、良く見えればいいんです。親が斜め上ばかり見て本当のことは何も見ていないところを子どもは知らずに真似してしまいます。

一方で、人は弱い存在なので、ときに「意図的に期待値を下げる」ということもあります。
最初から期待しなければ、傷つかない。こういう経験は誰しもあるのではないかと思います。
受験生を見ていても、志望校を決めるときにはじめから期待値を下げることで、傷つかないようにしようとする子は多いです。
こういう生徒を見ると、実に人間らしいなあとかえっていとおしく感じずにはおれません。

「これでいいのだ」では済まない人は多いです。そんなことで(現状に満足して)成長できるのか?と懐疑的に思う人もいるでしょう。でも、斜め上を見るというのは、肝心の現状が何も見えていないということなんです。だからそれよりも、現状を「これでいいのだ」とそのままに受けとめることを小さく積み重ねていくほうがずっと着実です。現状を受け止めるというのは、それに満足してしまうこととは異なります。

私たちは自分の考えが本当だと思っています。この子はなんでこんなに勉強ができないの?という思いが、事実として正しいと信じ切っています。でもそれは、自分がそういう認識を勝手に作り出しているんです。それは期待が大きすぎるだけかもしれないし、自分の不満もしくは不安がそうさせているだけかもしれません。

なかなか「これでいいのだ」は難しいのですが、期待値が高い自分も、期待値を下げることで傷つかないようにしている自分も、否定も肯定もせずに、ただ見守ってやるということを少しずつ学んでいくしかないのだろうと思います。見ないふりをしてしまうのがいちばんまずい。

先日から悩みがつきません。この文章は自分のために書いたものかもしれないと思います。


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by terakoyanet | 2019-07-18 09:29 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

代り映えしない明日をください。

現代のクラスタ化した親子関係を、ぞっとするような濃密さで描いた楽曲として、宇多田ヒカルの「あなた」(2017年)がある。


彼女は、この楽曲へのコメントとして「一つの普遍的な愛の形として、母親目線から音楽的表現をしたのはこの歌が初めてになります」「死んでも手放せないほどこの世のなにかに執着することの人間らしさに共感して、自分の死後を想像して“あなた”を制作しました」と語っている。


彼女はこの曲で子どもに「あなた」と呼びかけ、その愛と執着を切々と歌う。これまで、過去の楽曲で彼女が用いてきた二人称は、そのほとんどが「君」であり、そこには相手と自分の間の緊張感のある距離が常に保たれていた。私は私、君は君、というのが、いかにも彼女らしいふるまいだった。


しかし、この「あなた」の呼びかけでは、距離感が突如失われて「あなた」と私が渾然一体となって溶け合っているような危うさを感じさせる。「あなた」という言葉が、彼女から子どもへの呼びかけであると同時に、亡くなった母から私への呼びかけであることは、「死んでも手放させないほど」「自分の死後を想像して」という死について触れた彼女のコメントから明らかである。ここにおいて、私と子ども、母と私という二つの関係は、完全な相似形となる。そしてその二つが渾然と一体化して、それが彼女の声となって響くのである。


 あなたのいない世界じゃ どんな願いも叶わないから

 燃え盛る業火の谷間が待っていようと 守りたいのはあなた

 <中略>

 あなたと歩む世界は 息をのむほど美しいんだ

 人寄せぬ荒野の真ん中 私の手を握り返したあなた

 あなた以外なんにもいらない 大概の問題は取るに足らない

 多くは望まない 神様お願い 代り映えしない明日をください

 戦争のはじまりを知らせる放送も アクテヴィストの足音も届かない

 この部屋にいたい もう少し


「死んでも手放せないほどこの世のなにかに執着することの人間らしさに共感して」と綴った彼女は、親が子を思うとき(または子が親を思うとき)の狂気に近い感情を、ただそのままに描く。外の雑音の全てが遮断された部屋の中で一対一の母と子がそばに佇んでいる情景は、息が詰まるような艶めかしさがある。


私はすっかり虜になって子どもを見つめ、子どもは無心にそれを見つめ返す。あなたは私の世界そのものだと思う。明日もこれが続くならば、私はそれだけでいい。他には何も望まないと思う。

そして、不意に気づく。そうか、私の母も「あなたがいるだけで幸せ」そう思った瞬間があったのだ。いま、この子を腕に抱いている私は、そのことが、かつて本当にあったことだと確信できる。私は母に何もしてもらっていないと思っていた。でも、そうじゃなかった。こうして、全てを肯定されて、抱きしめてもらっていたのだ。


そして、私の方も、母に何もしてあげられなかった、そういう後悔ばかりが胸を締めつけていた。だけど、こうして腕に抱かれている、それだけで私は、母に知らず知らずのうちに親孝行をしていたのかもしれない。苦しい思い出ばかりと思っていたけれど、こういう瞬間があったのなら、それでよかった、もう、それだけでよかったのかもしれない。自分が許されたような気持ちになる。私は、母とさよならをする前に、たった一度も抱きしめてもらえなかったような気がしていた。でも、こうしていまこの子を抱きしめて、そうすることで、いま私自身が抱きしめられているのを感じる。


 何度聞かれようと 変わらない答えを聞かせてあげたい

 なんと言われようと あなたの行く末を案じてやまない

 終わりのない苦しみを甘受し Darling 旅を続けよう

 あなた以外帰る場所は 天上天下 どこにもない


この歌の中にあるのは、単純な母性の肯定ではない。彼女は「誰しも原点があって、私の原点は母だったから、私の世界、あらゆる現象に彼女が含まれてるのは当然じゃん」と母親の圧倒的な影響について言及すると同時に、自身が育った環境については「今、世界がこうだって思っても、次の0.5秒後にそれがすべてひっくり返される可能性があるっていうのが普通」と語っている。共感の関係が次の瞬間に壊れてしまうかもしれないという恐怖を継続して味わうのは、誰かと関係を結ぶときに、他者への愛着を封印するという形の症状となって現れる。自分に近づいてくる相手を常に拒んでしまう。そういう形で症状は表出しがちである。


でも、赤ん坊はそんな私がいくら拒もうとしても、それでも愛着を求めてくる。「あなたを愛している」が日々の所作から伝わってくる。そういう無条件の愛着は、ときに私をぞっとさせる。それでも、「愛されている」実感は、少しずつ私を変化させる。封印されていた他者への愛着が、少しずつ取り戻されてゆく。そうやって、子どもによって、私の存在がめくれてゆくのを感じるのである。

私の問題に解決はないのかもしれない。でも私の帰る場所は「あなた」しかいない。この歌はそう繰り返す。この「あなた」は私の子どもであり、同時に私の母でもあり、そしてかつて母から「あなた」と眼差された「私」でもある。


平成の終わりに発表されたこの歌は、「あなた」との「代り映えしない明日」を渇求しながら生きのびてゆく私の、喪失と回復を辿る歌である。




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by terakoyanet | 2019-07-15 04:46 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

子どもの希望との付き合い方【改訂】

今日の夕方に書いた「子どもの希望とのつき合い方」。
たくさんの反響をいただいているので、書き散らしただけの文章を、もう少しきちんと書き直したいと思います。

・・・・

子どもが進路を決めるとき、または部活動や塾を続けるかどうか迷っているときなど、子どもが何らかの選択をするときに、昔の親はこうしろと自分の方針(「家」としての方針の場合もある)を押し付ける傾向が強かったが、いまの親はむしろ手放しで子どもに決めさせる人が多くなっている。

子どもの希望をそのまま支援することは、子どもの希望を大切にすることを通してその人格を認めるという意味でとても大切だが、一方で無条件に何でも子どもの希望通りにすればよいというものではない。

子どもは判断を誤る。それで痛い目を見て学べる面もあるかもしれないが、そのせいで大きなチャンスを逃すこともある。
だから、子どもの希望に対して疑問がある場合は、大人はちゃんと干渉する必要があると思う。

子どもの希望どおりに決定したことが正しいこととしてもてはやされている現場がある。そこでじっと目を凝らしてみると、どうしたらいいかわからない大人の姿が浮かび上がることがある。どうしていいかわからない自分を隠すために、判断から逃げるために、子どもの希望に異議を唱えようとしない大人がそこにはいる。これでは大人は子どもを不幸にしてしまう。少なくともその子を幸福へ導くことはできない。

でも、大人だってわからないのはあたりまえだ。未来のことなんて誰にもわかるわけがないのに、大人はどうしてそうやって責任を取ろうとして自分を責めるのだろう。
わからない大人と子どもがどうすればよいかといえば、結論が出なくてもいいからしっかり話すことだ。話すなんて当たり前のことだと思われているけれど、その効用についてはあまり理解されていない。話すからには結論を出さねばと考えがちだけど、話すことの本当の意味はそこにはない。話す過程があったという事実自体が、判断後の子どもを支えるのだ。だからすっきりとした結論が出ることにこだわらず、まずは話してみることが大切である。

話すときに母と子のような1対1だと気詰まりになりやすい。十代の子どもたちにとって、親と向き合うのは苦しくてつまらなくて恥ずかしくて、子どもにとってはあまり気が向かないことの場合も多い。だからできれば人数は3人、4人といたほうがいい。子どもと両親の3人で話す場合には、「あなたはどう思っているの?」と子どもに意思をやたらと確認するのではなくて、親ふたりのそれぞれが子どもの希望についてどう思っているかを公開討論のつもりで聞かせてあげたらいい。子どもはいつも無理やりにあいまいな意思を表明させられがちだが、あれはダメだ。(だってそれは子どもに「頑張る」という言質を無理やりとっているだけでしょう。そんなのうまくいくわけがない。)そうではなくて、子どもの意思がどうやったら芽生えるかを考えてあげてほしい。子どもの意思を芽生えさせるためのひとつのアイデアが、大人が目の前でいろいろなアイデアを少しくらい無責任でもいいから、いろいろ聞かせてあげるということだ。

そこに第3者が混じるとなお良い。親と子にとって第3者はクリーンな存在だ。彼らは子どものことを何の欲望も利害もなく見ることができるので、単なるアイデアマンとしてそこに存在できる。親というのはいつでも知らないうちに「あなたの人生なのよ」「選択によってあなたの人生は変わるのよ」という重たい荷物を子どもに背負わせているものだ。その重荷のせいで、子どもはいつも自由な思考を妨げられている。そういう重圧から解放されて、自分の人生の選択をクールにクリアに面白く考えることができたときに初めて、子どもは本来の欲望を発見する。自分独自の生き方について、ふつふつと興味が湧いてくる。


子どもの希望についての具体的な判断のしかたは、そのときによってさまざまだが、「ある物事をこれからも続けるかどうか」についての判断の指標のひとつには、外的要因内的要因がある。

たとえば塾をやめたがっている子が、「塾の先生の教え方が悪く、教室の雰囲気が悪い」と言っているなら、それは外的要因である。
こういう場合は、塾を変えれば問題が解決することが多いので、早めに(できれば受験生の学年になる前に)変えた方がいい。

同じく塾をやめたがっている子が、授業がどうとかというよりは「宿題がきつい」「最近授業についていけない」「部活との両立が大変」と自分を主語にして要因を語る場合、これが内的要因である。
この場合は、塾をやめても状況が変わるとは限らないので、まずはいまの生活を見直すことから始めるべきだし、もし塾のスケジュールがきついなら、教室に伝えれば相談に乗ってくれるはずだ。内的要因が主な原因なのに外側のものをバサバサと切っていくと、その子はどんどん弱くなってしまうのは目に見えている。むしろ、「こういう状況の私でも、何かを続けることができる」という経験をすることが大切だと思う。

実際には外的要因と内的要因が絡まっていることも多いので、その点を整理する意味でも、大人が子どもからよく話を聞くことが求められている。





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by terakoyanet | 2019-07-01 02:26 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

子どもの希望との付き合い方

子どもが進路を決めるとき、部活動や塾を続けるかどうか迷っているときなど、子どもが何らかの選択をするときにに、
昔の親だったらこうしろと押し付ける傾向が強かったが、いまの親はむしろ手放しで子どもに決めさせる人が多くなっている。

子どもの希望通りにすることは、子どもの希望をかなえ、尊厳を守るという意味でとても大切だが、一方でなんでも必ず子どもの希望通りにすればよいというものではない。

子どもは判断を誤る。それで学ぶことも当然ある一方で、そのせいで大きなチャンスを逃すこともある。
だから、子どもの希望に対して疑問がある場合は、大人はちゃんと干渉する必要があると思う。

子どもの希望どおりにすることがもてはやされているときに、目を凝らすとどうしたらいいかわからない大人の姿が見え始めることがある。どうしていいかわからない自分を隠すために、判断から逃げるために、子どもの希望に異議を唱えない大人がいる。これは子どもを不幸にする。少なくともその子を幸福へ導くことはできない。

でも、大人だってわからないのはあたりまえだ。未来のことなんて誰にもわかるわけがないのに、大人はどうしてそうやって責任を取ろうとして自分を責めるのだろう。
わからない大人と子どもがどうすればよいかといえば、結論が出なくてもいいからしっかり話すことだ。当たり前のことだけど、話す過程があったという事実自体が、判断後の子どもを支える。だからすっきりとした結論が出ることにこだわらず、まずは話してみることが大切である。


具体的な判断のしかたとしては、そのときによってさまざまだが、ひとつの指標として、外的要因と内的要因とがある。

たとえば塾をやめたがっている子が、「塾の先生の教え方が悪く、教室の雰囲気が悪い」と言っているなら、それは外的要因である。
こういう場合は、塾を変えれば問題が解決することが多いので、早めに(できれば受験生の学年になる前に)変えた方がいい。

同じく塾をやめたがっている子が、授業がどうとかというよりは「宿題がきつい」「最近授業についていけない」「部活との両立が大変」と自分を主語にして要因を語る場合、これが内的要因である。
この場合は、塾をやめても何も状況は変わらないので、いまの生活を見直すことから始めるしかないし、塾のスケジュールがきついなら、教室にお願いすれば相談に乗ってくれるはずだ。内的要因が原因なのに外的なものをバサバサと切っていくと、その子はどんどん弱くなってしまうのは目に見えている。むしろ、こういう状況の私でも、何かを続けることができるという経験をすることが大切だと思う。

実際には外的要因と内的要因が絡まっていることも多いので、その点を整理する意味でも、大人が子どもからよく話を聞くことが求められている。


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by terakoyanet | 2019-06-30 16:59 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

子どもの勉強についての悩み

三者面談を通して、子どもさんの勉強についての悩みをたくさんいただいています。

ご相談いただいた内容から、これまでの勉強についての記事の中で参考になりそうなものをいくつか以下にリンクしますので、参考にご笑覧ください。












他にもありますし、拙著『親子の手帖』にもいくつかは載せていますが、上にあげたものは、勉強の具体的方法ではなくて、勉強をやっている子どもを見守る大人に求められる考え方について書いたものが多いです。

具体的な学習の仕方については、日々子どもたちに伝えていますし(これこそが私たちの仕事の中心にあることです)、面談でもお話しをしているとおりです。


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by terakoyanet | 2019-06-22 08:18 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

残照


幾度も旅に出ては、旅先で出会ったことを忘れたくなくて、記録する。こうして旅のことについて何か記そうと思うたびに、いつも思い出すのが「私は旅や探検家が嫌いだ。」というレヴィ=ストロースの言葉だ。

これは『悲しき熱帯』の冒頭に置かれた作者の独白である。旅とそれを書く行為を「羞恥と嫌悪」に塗(まみ)れた感情で綴りながら、自らが「無為なもの」と言い切る冒険を途轍もない熱量で書ききったあの有名な書物は、この言葉で始まる。

現代の私たちは、かつてレヴィ=ストロースが世に問うた内容を知っている。
近代の知に拠って、西洋の特権的な視座だけで世界を見ると本質を見誤るということを、ある程度は理解している。
しかし、『悲しき熱帯』に表出する、旅先の何かに触発された語りは、構造主義的な意義を超えて私たちに直截に訴えかける魅力を放っている。
精緻な描写のひとつひとつは、あまりに生き生きとしている。旅という行為から剰余として溢れ出す、隠喩に彩られた濃密な思索は、読む人を捻じ伏せるように圧倒し、そして時にひどく悲しくさせる。そのときの感情は、うまく説明のつかないものだ。


去年、イベントで写真家の石川直樹さんをお呼びして話を聞く機会を得た。「僕が富士山に行って写真を撮るとしても、それは、富士山を撮るんじゃなくて、富士山で撮るにすぎない。そこで自分が何を考えるかということでしかない。」「そこでは自らボールを投げるのではなく、飛んでくるボールをただ受け取るだけ。」彼は写真についての最も基礎的な話のなかで、それをいつものように淡々としゃべった。

石川さんもエッセイ『最後の冒険家』の中に書いているとおり、地理的に未知の領域が残されていない現在では、近代的な意味での冒険家というのは存在自体がありえないものとなった。『私は、「本当の」旅の時代に生まれ合わせていればよかった』とレヴィ=ストロースによって語られた時代よりもっと、新世界との邂逅の魅惑から遠く離れてしまった私たちは、それらの残滓を見つけることさえ難しい。

しかし、それでいながら、私たちは相変わらず旅を楽しむことができる。
なぜなら、いまも変わらず、私たちの一寸先の未来は誰も手中にすることができず、そこは未知の至福で溢れているから。

『悲しき熱帯』は旅の記録というよりは、未知に出会った私の変容の記録である。そこで飛んできたボールを受け取った私が、時に無邪気な子どもに戻ったように、時に物思いに耽る青年のようにそこにいて、ただ湧き出た心をそのままに感じている。だからこそ、言葉が生起した瞬間の瑞々しさがそのまま文体の中に溢れ出していて、そのこと自体が、とてもくるおしくて、どうしようもなく悲しいのだ。




平成という時代は、自分の世界をコントロールして最適化できる時代の幕開けであった。
SNSでは、フォローしたり、フォローを外したりすることで、写真をトリミングするように、自分が見たい情報だけを見る、見たくない情報は見ないようにすることが可能である。
そうやって、いつも最適化できる安心な世界の心地よさを知っている現代の子どもたちは、自分の手でうまく制御できないことからは即座に退却しようとする傾向がある。
彼らは驚くほどに平坦を求めている。
「僕が一番求めているのは安定です。それだけあればいい。」この前のディスカッションで、高校1年生のAくんがそう言い切った。
彼は、学校の先生の理不尽さをたびたび批判するような、反骨精神に溢れる子なので、私はなおさら驚いた。

若者が変化を求めて転がり回る時代はすでに終わったのかもしれない。
彼らはいつも心地よい共感の中にいて、ぬくぬくとした関係を築くことができる友人関係を求めている。そして、思い通りにならない恋愛関係はちょっとめんどくさいと敬遠する。
でも実は、コントロールできないことと、恋愛対象への渇望というのはセットなので、これが意味することは、性的なもの全般に対する退却でもある。これが「草食化の時代」と言われた平成という時代の中身なのかもしれない。




『悲しき熱帯』に刻印された過剰な語りは、旅先で自らが「見られている」経験をすることから生じる。

旅よ、お前がわれわれに真っ先に見せてくれるものは、人類の顔に投げつけたれたわれわれの汚物なのだ。

このような言葉は、不気味なもの、得体のしれぬものに眼差されているという経験なしには生まれ得ない。
しかし、いつもスマホの画面と向き合っている私たちは、その画面から眼差しを返されることはない。そこにあるのは、すでに私のために選別された情報であり、私の分身であり、つまりは私のための安心できる世界であり、そこに「見られている」という経験は含まれない。

ツイッターのタイムラインを見ながら多くの人がやっているのは、自分自身の傷探しである。ある時は、自分と同じ傷を負っている人に甚(いた)く共感し、ある時は自分と同じ傷を誰かに負わせた人を責め立てる。また別のある時は、感情の自動機械のようにその両方をする。

タイムラインの流れに身を任せ、それに転移することで自分を傷つけたものへの復讐を成就させる私たち。ツイッターはいまや傷探しのツールで、傷を見つけてはそれを埋める快楽を半ば反射的に繰り返す。こうやって、画面の中で自分の欲望が即時的に達成されてゆく世界には、「見られている」がない。

SNS上の「いいね」は、あなたが「いまのままでいい」ということを肯定するシステムである。
「いまのままでいい」は、自らが変容することに怖気づく主体をやわらかく包み、肯定する。
「いいね」は存在の甘やかしに他ならず、相互に「いいね」を繰り返すことで、その存在はめくれることをやめ、地滑り的にお互いをどんどん劣化させてゆく。

旅とは「見られる」という不気味なものを通して自らが開かれる経験である。しかし、インスタ映えを狙ったナイススポット巡りは、「見られる」経験を抑圧した上で「見る」ことができる私を肯定し、全能のものとして特権化するプロジェクトである。それは、即時的な「いいね」の快楽と相通じるものがある。

現在、SNSから離れてネットからは見えないコミュニティを作る動きや、本質的な体験を志向した新たな旅の提案など、現状に対する違和感を抱えた人たちによる新たな試行錯誤が続いている。これらの活動は「見られる」ことさえも目的化しかねない危うさを孕む。
しかし、最適化の時代に生きる私たちは、こうやって自身が変容していくことを半ば意識的に選択する必要があるのかもしれない。でなければ、スマホが与える情報と現実が身体化し、気づいたときには身動きが取れなくなっているかもしれない。




子どもとは不気味なもののことである。新生児の顔は実際に不気味である。

子どもは、自分にとって、もっとも親密でありながら、拡散し、増殖し、いつのまにか見知らぬ場所にたどりついてぼくたちの人生を内部から切り崩しにかかってくる、そのような存在である。
東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』

子どもが不気味な存在であるがために、神に近い神聖な存在とみなされていたのは、それほど昔のことではない。
石牟礼道子さんが幼いころの記憶を描いた『椿の海の記』という本がある。これを読むと、幼年時代の彼女が、まさに不気味な存在として、世界をありのままに受け取って生きるさまが描かれている。

見えている世界より、見えない世界の方がよりこわい。目をつぶって、掌でそろりと撫でればモノというものがわかり、猫の鼻の不思議のような嗅覚をわたしは持っていた。その掌をかざせば指の間から天井が見える。天井の模様が見える。天井の模様はまだ見ぬ他界への入口だった。幻怪な形の鬼たちの太ももや、片耳や、穴の深い壺が、のびちぢみしている。仏さま仏さま、指の間からお仏壇を見る。
石牟礼道子『椿の海の記』

子どもの世界というのは残酷なほどあからさまである。そして、石牟礼さんのこの本には、その奇妙な残酷さがそのままに描かれている。
私はこれを読んだときの「この世界を知らなかったら、本当に危なかった」という感覚が忘れられない。自分が見失ってしまった世界があることに驚き、憑き物が落ちたような気持ちになった。

それは、子どもという得体の知れぬ妖精によって書かれた本であった。そこにあるのは大人から見た子どもではなく、子どもの目から見た子どもの世界そのものであり、すでに世間に取り憑かれている大人からすれば、驚愕すべき「異文化」の世界であった。





私は、人間という種がその世界に対してまだ節度を保っており、自由を行使することと自由を表す標とのあいだに適切な関係が存在していた一時代の残照、インディオのアメリカにおいてすら果敢ない残照を、慈しむのである。
『悲しき熱帯Ⅰ』レヴィ=ストロース


かつてレヴィ=ストロースがインディオのラテンアメリカで見たものは「異文化」が持つ不気味な力であり、それは「人間という種が、その世界に対してまだ節度を保っていた」ころの「残照」であった。

彼がここで言う「残照」とは、時代に取り残され、人の記憶から消えようとしている世界に手を伸ばし、自分のもとへ必死に手繰り寄せようとすることである。そして、それが私たちとどこか似ていることをおぼろげに触知することであり、その手触りを大切に抱くことである。

このことを通して、私たちはどうにか真っ当に生きていくことができるのではないか。


陽はすでに落ち 暗い部屋にひとりこぼれゆく時を 足元にみつめ問えど答えなく 風が鳴るだけ
寺尾紗穂『残照』



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一昨日、機上から捉えた富士山
夏が近いことを感じさせる山容



寺尾紗穂さん、いよいよ来週、福岡へ。

寺尾紗穂・伊賀航・あだち麗三郎のバンド「冬にわかれて」初の福岡公演は6月7日(金)。
ゲストは坂口恭平さん、そしてカフェはくらすことさん。
素晴らしいイベントになること間違いありません。






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by terakoyanet | 2019-06-01 01:27 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

「平成の子どもたち」いただいたご感想

4月13日(土)に行われたお話し会「平成の子どもたち」。
入場を制限させていただく満席での開催になりました。
ご参加いただいた皆さま、そして登壇してくれた高校生たち、改めてありがとうございました。
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当日は以下のような流れでお話しをさせていただきました。

●はじめに 親と子の関係 『親子の手帖』のこと

●言葉で伝わるという誤解

●こどものことが「わかる」ということ

●今昔のこども観

●理解のある親とこどもの精神

●社会の多様化と子どもの不安定化

●高校生たちに聞く、現代の学校 実学偏重の現代教育

~高校生たちに話を聞く 高3竹内さん

●AIの時代の新たな主体
~高校生たちに話を聞く 高3仁藤くん・高2永戸くん

●「ことば」を取り戻す

●「コミュニケーション」の弊害

●こどものことばに応答する

●意志と責任





当日、ご参加いただいた方々にご感想、ご意見をいただきました。
読み応えがあるものばかりで、確かに、なるほど、と何度も頷きました。
全てを紹介しきれませんが、一部だけ掲載させていただきます。
もう、いただいた感想だけでも、ZINE(小冊子)を作りたくなるような充実ぶりです。
ぜひ読んでいただければと思います。


***


わからないものをわからないままにして、一緒にいるというのは、とても難しいと感じています。
私が子どもと接するのが苦手なのはこのためですし、大人となら話せるというのもまた、一般常識やマナーを足場にしていればとりあえず大丈夫というだけのことなのだと思います。
子どもに限らず、他人をわかったつもりでいることがアブないですね。


リセットについては、世代で認識がくい違うように感じました。
(中略)彼らのゲーム性は、リセットして始めからやり直すという意味はうすいと思います。
リセットはたぶんしません。なかったことにはならないので。
ただ、あのときこのとき、こうしていたら、こうしたらという"if"の自分・世界が無数にあって、それに異和感がないということかなと思いました。あくまで私の感覚です。
だからこそこれから先の自分にも無数のルートがありえるし、選ぶことができるように思いますし、選ばなかったが確かにありえたはずの自分を思って悲しむこともあるように思います。

→「if"の自分・世界が無数にあって、それに異和感がない」の部分、なるほどー!と思いました。


定期的にお聴きしたいと思うお話でした。
大人も今の子供達と同じ価値観になるというのはかなり難しいし、特にお話し会に興味を示すことがないような「大人」にとって、ほぼ不可能な気もするため、とても為になった今日のお話を、動画で配信していただけたら、そのような「大人」とも少し共有し、話し合いの場をもてるかもしれないと思いました。(中略)
是非またこのような会を設けて頂けるとありがたいです。
今日はとても面白い考え、反省させられる会をありがとうございました。


今日の講演を拝聴することができて良かったです。
子供の考え、親の考え、最近は子供の成績が下がり、責任の押しつけをしました。
今日伺って、私は間違えているなと思いました。
先ず、子供の話にしっかり耳を傾けていきたいです。


今日は初めて”お話し会”に参加させて戴きました。(先生の本は読ませていただきました。)
とても和やかな雰囲気で楽しい時間でした。
私は"The 昭和"の年齢の為、余計に現代のネット社会は(便利さは活用させて貰っていながら)怖さの方が強くて余り良く思っていませんが、子供はこれからその社会で生きていくので、少し自分の認識や価値観も変化させて戴かないとと思い直しました。


一番、痛かったのは”そう育った”を受け入れること、子どもの欠点を認めることができないのは、親が自分のことを受け入れていないからだというお話でした。今一度、自分を振り返る時間を持とうと思います。何とか上手く子供との関係を築ける様に、自分との関係を考えます。


初めてお話し会に参加させていただきました。
今まで子どもの事をわからない事がはずかしかったり、駄目だなと思って焦ったりもしていました。又、正論をぶつけて、反論させない様にする事もありました。
お話しを聞いて、私は、私なりで良いのかも知れないと思ったし、正論をぶつける事の弊害(主体性が育たなくする)がある事を気付かされました。
貴重なお話しをありがとうございました。


理解のある親の子はもろい子になりやすいというお話は衝撃的でした。
我々の古い世代と、今の高校生達は違うOSで動いているというお話が面白かったです。
リベラルアーツが大事ということが再確認できました。高校生の生の声が聞けて良かったです。

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高校生のエネルギーに圧倒されました。彼らの現状と、私たちが気づいていない古くて新しい生き方を体得していることについて私は全くの無知でした。
私のような頭のカタイおやじに向けて、もっと数多くこういう話をしてもらえる機会が増えていったらいいのになあと思いました。
ただ、最終盤、エネルギーと情報量の多さに脳がつかれてしまいました。何回か聞いて、予備知識も入れてくる必要があるなと感じました。
大変貴重なお話の機会をいただき、ありがとうございました。


私には4歳になったばかりの娘がいます。
毎日毎日言い合いになり、自分の大人気無さに嫌悪する日々を過ごしています。
とりあえず今日家に帰ってからは、私はこの子のことは理解できないのだから、話を良く聞いて、一緒に喜んだり、悲しんだりすることに集中しようと思います。
楽しい時間でした。ありがとうございました。


とても面白い内容でした。
子供がこの春、小学校に入学し、社会への一歩を踏み出した喜びを感じているのがよく分かる一方で、自分の手を離れていくつつあり、その心の中はよく分からないなあと思っているところでありました。
自分がおしつけられた教育を受け、そのことにも気づかずに大人になってしまったので、子供にはおもしろい人生を送ってほしいなあと思っています。


深く余韻の残るお話がたくさんありました。
子どもに関わる仕事をしていると、親へのアプローチのむずかしさは私も感じます。
子どもは素直でまっすぐでやわらかく変化していく。
まず変わらなきゃいけないのは大人で、その姿ふるまいを子どもに見せていく、身体化していくべきだというのは、なるほどその通り!と思いました。
全体的に”よくわからない”それでいいんだなーと思いました。もっと本を読もう。

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ゲーム的な考え方のお話しの中で、”リセット”についての議論を聞いた際に、自分の小学校の頃の学校教師の話を思い出しました。
恐らく20年近く前になると思うのですが、ある同級生の無鉄砲な行動に対しての説教で、「今の子どもは、マリオのゲームみたいになんでもリセットできると思っている。死んだら元には戻らんのやぞ!」と激しく怒っていたこと、それを聞きながら、僕ら生徒は、内心ポカンとしていたこと(なにやら世代間ギャップがあるかもしれないということで)・・・などいろいろと当時の情景がでてきました。

リセットということ自体が、世代間で認識がかなりくい違っているような印象です。リセットということばには、”やり直し”や“元通りになる“といった意味合い以外に、”死”の概念にかなり近いニュアンスでとらえる人も多いのかもしれません。そうなると、鳥羽先生がおっしゃっていたように、リセットに対して抵抗がある人が多いのも、(特に上の世代で)当然かもしれないなあ、と漠然と思っていました。


先月のうきはでのお話を聞いて、もう一度聞きたいと思い参加しました。
私は現在○○歳ですが、地元の公立小中学校に通い、さらに地元で「一番良い」と言われる公立高、国立大を出て、公務員になりました。
周囲からはずっと、親孝行だと言われ、自分でも特に迷うことも違和感を覚えることもなく過ごしてきました。

どちらかというと楽観的な性格ですが、ものすごく楽しい、ものすごく何かをやってみたいと思うような場面もなく、ただ単に冷めた性格なんだろうと自己分析していたのですが、鳥羽さんの話に出てくるいろんな親子が、私の母と私自身に当てはまるものばかりで、やっと私の親子関係の歪さに気がつくことができました。

でも、やっぱり30年近くの関係を変えるのは難しいし、見放すこともできないことも分かりました。鳥羽さんが紹介してくださった本が、自分の気持ちを自分で認識して、「本意ではないけど、今はこう生きるしかない」と"選択して"受け入れる助けになっているような気がします。
感謝の気持ちを伝えたくて長くなりましたが、書かせていただきました。ありがとうございます!

→もっとも心に残ったご感想のひとつです。気持ちを伝えてくださったこと、ほんとうにありがたく思います。


『親子の手帖』を読み、今日の話を聞きたいと思い参加しました。
小6男子の親ですが、自分で考える力をつけてほしいと思って育てる中で、本人が話すときはよく聞き、質問されたら、私のわかる限りで答える、をしてきたのですが、それが、子供の考える芽を摘むーと聞いてショックを受けております・・・ なので、これから、私もわからないことがたくさんあるから、一緒に学ぼう、考えようという心持ちで過ごしたいです。どちらかというと、素直すぎるところがあるのは、反論させなくしてきたのかも、と、これも考えさせられました。


今の若い子の考え方、時代の変化も、私が知るようにしないと、子供の話を聞くことも、自分よがりになってしまうな、と思いました。
いつの間にか、私が”昔は良かった”とつぶやくおばさん世代になっていてびっくりしました。自分のこれまでのストーリー、今の時代、子供のことを分からない自分と自覚すること・・・。日頃考えないことを考えた時間でした。
リベラルアーツの話を聞いて、今まで読んだことのない本を読みたくなりました。ありがとうございました。


今回のトークショーを拝聴して、とても心に残ったのは、”守られる子供”という概念が近代につくられた子ども像だということ。
今、ちょうど岸政彦さんの本を読んでいたこともあり、”特権”を持つ者への差別というキーワードと自分の脳内で連鎖させてしまった。
ただまさに生きづらい平成の時代を生きる高校生たちの前向き(彼らからすれば一般的な?)な言葉にとても勇気づけられた。
むしろ彼らを勇気づけたいと思っていた自分の無意識な差別意識に気づく始末で、とても恥ずかしいと思う。


大学職員として勤務していた際、信じられるほどの予算をつぎこんでアクティブラーニングをする場所(空間)を作った。まさに地獄。
学生たちは議論などせず、YouTubeを観ていた。正しい使い方かもしれない。YouTubeではなく読書空間にして、知の土台を作ってくれたらと思う。
ただ、自身の知の土台が未熟であるために、なかなか理解に時間がかかり、また、分からないことも多くあった。
お客さまが「動画配信」してほしいとおっしゃっていて、私も同意見です。
そのお客さまは、分からなかったのではなく、とても心に響いたので、もう一度ゆっくりじっくり聴きたいということだと思います。大切な話を自分の中にアーカイブしていく作業はとても難しいです・・・。ありがとうございました。


鳥羽先生が「平成の子供たち」で仰っていたので、息子に「勉強しないの?」と言わずに「勉強しない現象について、どう感じていらっしゃいますか?」と聞いたら、「へ?」と答えました。昔から訳の分からない子ですが、どうぞこれからも宜しくお願い致します。


***


この感想を共有すること自体、このイベントの醍醐味だったのではないかと思えるほどのたくさんの実のある言葉、ありがとうございました。
この日お話しした内容の一部は、秋口くらいまでには発刊できたらいいなと思っている私の新刊に掲載される予定です。
『親子の手帖』とあわせて、新しい本のほうもよろしくお願いいたします。



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by terakoyanet | 2019-04-24 20:26 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

スリランカの聖堂に花束を。

カトリックの人たちにとって、復活祭(イースター)はクリスマスと同等に、もしくはそれ以上に大切な祝日です。その日を狙った同時多発テロが、この10年間治安が安定していたスリランカで起こりました。

私は昨年の9月、今回 テロの標的になった、コロンボの聖堂 St. Anthony Shrine を訪問し、今年の1月に「コロンボにて」という記事を書きました。この記事では、この聖堂での出来事、頂いたカレーの味わい、そしてスリランカという多民族国家の「苛烈な現実」について書きました。まさに今回の事件は、スリランカの「苛烈な現実」を改めて思い知らされる出来事となってしまいました。心が強く揺さぶられて、何も手に付かないほどです。

私は、標的になった聖堂を最近訪問した数少ない日本人として、そして自身もカトリックの家に生まれ教会に育てられた人間として、何かを書いておかねばならないという義侠心のようなものに駆られ、いまパソコンの前に座っています。



今回テロのターゲットとなったコロンボの St. Anthony Shrine は、スリランカのカトリック教会を代表する建物です。そして同じくターゲットとなったコロンボの近郊の町ネゴンボは、最も古くからカトリック教徒が多く住みついた、信者たちにとって特別な意味を持つ町です。今回のテロは、スリランカのカトリック教徒にとって最も大切な日に、最も大切な場所で起こったのです。ですから、スリランカのカトリック教徒たちはいま、想像もつかないほどの動揺と恐怖にふるえているでしょう。そして信仰と生命を同時に攻撃されたことに対する強い悲しみと憤りを感じているに違いありません。


「食べていきなさい。」
St. Anthony Shrine の2階の階段の前で、何の迷いもなく私にカレーを食べて帰るよう呼びかけたあの女性のことを思い出します。(『コロンボにて』を参照のこと。)
「カトリックの方たちがカレーを食べに来るのですか?」私は彼女に尋ねました。
「いいえ、違うわ。カトリックでも仏教徒でもヒンドゥーでも、ここでは誰もが無料でカレーを食べていいの。神は信仰によって差別すると思う? 神は信仰が違うからと言ってカレーを食べるなとは決して言いません。だから、信仰がわからないあなたに、私はカレーを食べていくように言ったでしょう。ここはそういう場所なの。」
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スリランカのカトリック信者は国の人口比の6%にすぎない勢力ですが、カトリック信者の中には、シンハラ人もタミル人も区別なくおり、どちらも含むことなどから、カトリック教会は民族間融和の役割を担うものと期待されてきました。そして実際に、教会や修道会は実際に慈善活動等を通してその役割を果たしてきました。この意味で、カトリックが狙われた今回のテロは、一体何をターゲットとしたのか、という点において、決して単純ではありません。シンハラ(仏教徒)vsタミル(ヒンドゥ)とか、キリスト教vsイスラム教といった、既存の図式だけでは捉えることはできません。今回のテロの標的が「民族間融和」の象徴であるカトリック教会であったのはなぜなのでしょうか。

スリランカ政府は、事件のあと、同国からFacebookやInstagramなど一部SNSへのアクセスを遮断しました。現在、スリランカ多数派(国民の7割)であるシンハラ人たちの一部による、他の少数派に対するヘイトが問題になっています。特に同国では少数派にあたるムスリム(人口比の1割)たちがその標的になっています。そして、そのヘイトの現場は多くがネット上、つまりはSNS上です。

自身が見下している集団が権益を得ることを快く思わない人がいるのは万国共通なのでしょうか。
ムスリムたちが、産油国の潤沢な資金の恩恵を受けて、成り上がっている。
見下しているやつらが、既得権益を得ている。
ふざけるな。調子に乗るな。少数派は少数派らしく、弱者は弱者らしくしていろ。
このような図式は、残念ながら、今も昔も日本でも散見される現象です。

リンク先の記事にもあるとおり、シンハラのナショナリストたちは、ムスリムの居住地区とモスクが襲撃する事件も起こしています。ムスリムたちがそういうヘイト的な空気に日常的に晒されていることと、今回の事件は決して無関係ではないでしょう。しかし、今回のような事件が起きると、ムスリム排斥の動きが勢いを増すことは疑いようがありません。ムスリムの人たちが、ますます肩身が狭い思いをすることになるかもしれません。

しかし今回の標的はカトリックであり、ホテルにいる外国人でした。これまでのイスラム過激派の動きからすれば、既定路線かもしれませんが、しかし、スリランカのカトリックは「民族間融和」の象徴であり、その点はヨーロッパのテロとは事情が違うのです。

2015年1月に教皇フランシスコが同国を訪れ、コロンボの St. Anthony Shrine 近くの海岸では、100万人に上る市民が熱狂的に教皇を迎えました。(ちなみに同国のカトリック信徒は120万人。)教皇が同国を訪れたのは、スリランカ初の聖人である聖ジョセフ・ワーズ(St. Joseph Vaz)の列聖式のためでした。ジョセフ・ワーズには、困窮した人であればその信仰にかかわらず救済の手を差し伸べた逸話があり、教皇フランシスコは、100万人の人々の前で「和平のため宗教的な分断を超えることの重要さ」について語ったとされます。

スリランカのカトリックが「民族間融和」の象徴であるのは、単に教義的な部分に留まりません。
スリランカのカトリックの人たちは、聖典と祈りを英語に依拠しています。
シンハラ語は仏教徒たちの言語であり、タミル語はヒンドゥー教徒たちの言語です。
結果として、カトリックの人たちの宗教言語は英語になります。(そのため、カトリック信者たちによって、子どもが通う学校の試験を英語で受けられるように政府に訴える運動も起こっています。)英語は、他の多民族国家と同様に、スリランカにおいても、別の言語を持つ人と人の間の共通語として機能しており、その英語を母語として操るのがカトリックの人たちなのです。ですからスリランカのカトリックは、教義にとどまらず、言語・文化的にも民族間融和を象徴していると言える存在です。

カトリックの教義からすれば、ムスリムの人たちはもちろん、イスラム過激派の人たちでさえ、慈しむべき存在でしょう。しかし、現在、グローバル化という名の下に、あらゆる差異を、慈しみをもって包括し、その結果、それら個別性を無化してしまうような運動(=新しい全体主義)が進んでいるとすれば、そして、それにカトリックが加担しているとすれば、そしてその象徴が「英語」であり「資本主義」であり「文化産業」であるとすれば、カトリックが「民族間融和」を善として打ち出している限り、「融和」は一種の同化政策と受け取られかねず、抵抗は解消しないでしょう。

安易に民族間融和なんてことはできないからこそ、私たちは考え続けなければなりません。
融和という解決策にすがるのではなく、むしろ解決しなくても生き延びることができる知恵を考える方が大切なのではないでしょうか。その意味で、私たちに不足しているのは具体的な解決策よりも、祈りそのものなのではないでしょうか。

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St. Anthony Shrine でカレーを食べたあの日のことを何度も思い出します。
あの日も日曜日で、私はひと際熱心に祈る彼らの一員となって、お祈りをしました。
この国にはまだ祈りが息づいている。そのことに感激しながら、お祈りをしました。

私がお祈りをしていると、2列前にお母さんと座っている5歳くらいの小さな女の子が、ふと後ろを振り向きました。
私が彼女に気づいたような反応をしたのものだから、彼女はにこっと笑って、そして前を向いては何度も後を振り向いてにこっと笑顔を見せました。そのたびに私は何とも言えないマヌケな表情で、金魚のように口をパクパクさせたり、少し目を大きく開いたりして、彼女の笑顔に応えました。そうしているうちに、彼女はお母さんからパコっと頭を叩かれ、それからは後ろを振り向かなくなりました。これは彼女とのわずか3分ほどの思い出です。

国を代表する聖堂とはいえ、ヨーロッパのバジリカやカテドラルとは全く規模が違います。
さほど大きい場所ではありません。
近くには別の教会もありますから、毎週この聖堂に集まるコミュニティは、全員が顔見知りという程度の人数しかいないはずです。

その小さなコミュニティの中で、無残にも一瞬にして50名以上の人たちが殺されたのです。
彼女はちゃんと生き延びたかな。生きていてほしいと思います。

今回の殺戮はそのまま、このコミュニティの破壊を意味します。
人の命が失われたと同時に、それまで引き継がれてきた大切な祈りと知恵が失われました。
これは、仮に時間が経って元通りになったように見えるときが来ても、決して回復しません。
失われたものは、ずっと失われたままです。
それは、損なわれてしまったあとには、そこに何があったのかもわからないようなものです。
人の命が失われるというのは、そういうことです。

明日へのささやかな意思を突然断ち切られた人がいる。
もうあなたに会えない。受け入れ難い現実に、もだえ苦しみながら夜を過ごしている人がいる。
そのことに、強い悲しみを覚えています。
今回の事件、とうてい他人ごととは思えません。
スリランカの聖堂に花束を。



言(ことば)に絶えたる日は始まる。
見せつけらるるおのが弱さよ、
見失いたる神のさびしさ
。 藤井武「羔の婚姻」



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by terakoyanet | 2019-04-22 03:49 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

早急に結論を出したがる親たち

子どもの状況が改善しないからと言って、すぐに部活動をやめろとか、塾をやめろとか、自身の状況判断だけで早急に何らかの結論を出そうとする親がいますが、それによって何かが好転することはまずありません。


そもそも、改善していないという認識自体が間違っている場合があります。(親が「子どもの状況が悪化している」と主張するときさえ、実際には悪化しているどころか好転していることが度々あります。)
子ども自身は日々変化しているのに関わらず、親がそれに気づいていない、または親の焦るスピードの方が子どもの変化のスピードを上回っているということが度々あります。


子どもの状況は親が待つことさえできれば好転することが多いのに、親が待てずにちゃぶ台をひっくり返すようなことをするから子の手元には何も残らない、そういうことがたびたびあります。でも、そういうとき、多くの子どもは、親は自分のためにやってくれている、と解釈するから、親が自身のそれまでの努力を踏みにじることをしているのにかかわらず、子どもは自分が悪かったと考えてしまい、結果、自己否定感ばかりが募ります。そしていつも子どもに許されてしまう親は、いつまでも反省しません。そうやって、親はいつまでも反省することなく子どもを傷つけ続け、その結果、身動きのとれない子どもが醸成されます。


子どもの状況が変わらないと親が嘆いているときは、単に親の方が待つことができていないだけです。
変化のスピードは、子どもによってさまざまです。
親が思うような速さで子どもが変わらないからといって、子どもに何かを断念させたり、子どもから何かを奪ったりすることは、子どもの大切な自尊心を傷つけるだけです。



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by terakoyanet | 2019-03-23 01:40 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

日々のブログ

日々のブログで、具体的な顔を思い浮かべながら、子どもやご家族になんでもないメッセージを送る。
さっきアップしたブログでは


中1は数学がとっても難しかった(というか問題数が多すぎた)ようですが、今回のように学校の平均点が40点台のテストになった場合、点数が取れなかった子どもにご家庭で過剰に「数学だけなんでこんなにできないの?」と言ってしまうと、ほんとうに数学が嫌いで苦手な子になってしまうので、むしろ、取ることができなかった原因を親子でいっしょに考えるスタンスでお話ししてみていただければと思います。


ということを書きました。我ながら余計なことを書いているなと思うのですが、ただ、これだけのことで、助かる子どもがいるのを知っているし、ああそうかと考えてくれるご家族がいることを知って書いています。

伝えたい人に伝わっているという実感がなければ、ブログが12年間続くこともなかったと思います。
直接お話しできなくても、こうして、子どもやご家庭に伝えるツールがあるというのは、とても大切なこと、そしてありがたいことだと思っています。


今日もこちらのページを開いてくださりありがとうございます。
現在カウンターが壊れていますが、2日前くらいにこちらのブログアクセスが累計300万PVを超えました。ありがとうございます。

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ドラパンマン、イエーイ!


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by terakoyanet | 2019-02-27 19:03 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)