寺子屋ブログ by 唐人町寺子屋

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カテゴリ:寺子屋エッセイ(読み物)( 179 )


2019年 01月 18日

バカでクソでカス。

ある高校生に聞いた話によると、以前彼女が通っていた英会話学校の代表が、少し前に自らの命を絶つことがあったそうだ。

その50代男性の代表は、長年思慕を募らせていた女性に交際を迫り、ついには、メールの大量送信や私有地への侵入などを行うなどのストーカー行為に至り、そのことで刑事裁判になって執行猶予の判決を受け、そのことが報道等により表沙汰になることで、代表の熱い指導で長年人気を保っていた教室の生徒が激減。判決から3か月経ったある日の朝、自らの命を絶ったそうだ。

その話を聞いたとき私は、被害者の方の心労がどれほどのものかと想像する一方で、この亡くなった代表に対して同情を禁じ得なかった。
いかばかりの絶望が彼を襲ったのだろうと考えると、それは想像を絶する地獄だっただろうことだけははっきりとわかるからだ。

とはいっても、彼が自らの命を絶った本当の理由なんて、誰にもわからない。
どれほど身近な人のやさしさがあっても、誰も彼を救うことはできなかったのかもしれない。

それでも、どうしても考える。
「お前は、バカでクソでカス。でも死なないで。」
執行猶予の判決を受けた彼に、そう叫ぶ人がいたら、もしかしたら、彼は救われなかっただろうかと。



(※話題内容の特定を避けるため、生徒から聞いた話の状況を、大幅に改変しています。)


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by terakoyanet | 2019-01-18 05:48 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback
2019年 01月 16日

受験直前の子どもとの付き合い方

今年も連日のように「受験前に親ができることは何か」という内容の質問をご家庭からいただきますが、尋ねられるたびに、ご家庭によって、子どもによって違うけど、基本的には何もしなくてよいんだよな、という感想を持つことが多いです。
ちゃっかり宣伝になってしまいますが、詳しくは拙著『親子の手帖』の第2章の最後に「受験直前の子どもとの付き合い方」という項目がありますので、そこに書いています。

「親ができることは何か」と考える方は、逆に、「親がやってはいけないことは?」を考えるとよいと思うのです。
やってはいけないことは、たとえば、親のほうが不安になって子どもにその不安を口にしてしまうこと、これまでの学習方針を受験直前になっていきなり変えることを勧めてしまうこと、兄弟や周りの子と自分の子を比較した発言をすること、などでしょう。




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by terakoyanet | 2019-01-16 01:49 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2019年 01月 07日

コロンボにて

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昨年行った、スリランカのコロンボ。
とても深い思い出が残る場所になりました。
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スリランカといえば仏教国であると日本の中高生は学ぶわけで、高校の地理や世界史では、仏教徒のシンハラ人と南インド系のタミル人とが対立した歴史なども学ぶわけですが、実際にスリランカに来てみると、シンハラ人とタミル人といっても、例えばタミルにはヒンドゥー以外にイスラム教のタミル人もたくさんいることや、北部と中部のタミル人はそもそもスリランカに渡ってきた時期や動機が異なること、さらに、海岸近くにはキリスト教(カトリック)の人たちが(主に漁民として)多数住んでいて、厚い信仰が守られていることなどが次々と分かり、その民族と宗教の多様性にとても驚かされました。

日本と同じ島国ながら、これほどに多様な人たちが隣人として共生していかねばならないという現実は、日本の学校の社会や道徳の授業で標語のように語られる「共生社会」「多文化社会」という空疎な理想郷としての社会とは全く異なるリアルさで、スリランカの人たちの生を逞しくしています。日本の人たちはさかんに「英語が上手にならないー」と嘆いていますが、シンガポールやフィリピン、インドやスリランカといった同じアジアの国々の人たちが日本人の多くより英語を話せるのは、苛烈な共生社会、多文化社会を生き抜いてきたという現実があったからです。そういう社会背景を抜きにして英語の教育問題を語ったところで、言語を考える上での本質的な部分が抜け落ちているし、そんなファッションのための英語なんて、本来私たちの人生に必要はないのです。日本にだって本当は苛烈な現実があることが、たとえば磯部涼さんの『ルポ川崎』(サイゾー)や上間陽子さんの『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』などを読めば分かるわけですが、しかしそれらは圧倒的少数派として黙殺され、見えないことにされていて、そんな単一民族幻想にいまだに浸っている島文化というよりシマ文化の日本では、多民族社会のリアリティというのはなかなか見えてきません。だから、私は若い人たちは一度日本というシマを離れて多民族という現実を目のあたりにすることを熱くお勧めしたいのです。
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コロンボ13に位置する聖アントニオ教会(St. Anthony's Shrine)はかつては海岸沿いに建っていた、コロンボを代表する最も古い歴史を持つカトリック教会のひとつ。教会の入り口にある聖アントニオの像の下には彼の出身地のパドヴァ(イタリア)の大聖堂と同様に、なんと彼の舌の欠片が聖遺物としてガラスの箱の中に大切に保管され、多くの巡礼者を集めています。

インドやスリランカに行くと、「極東」の日本よりもずっと深く、ずっと身近に、ペルシアやアラブ、ヨーロッパと繋がっているという海の道、陸の道を実感することが多々あり、そのたびに心が揺さぶられます。

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1Fの聖堂で少しお祈りをした後に、2Fの聖パトリックの資料館をひと通り見て帰ろうとすると、「食べていきなさい」と資料館の階段の前に座っている女性に声をかけられました。私はそのときお腹がへっているわけではなかったので、「結構です」と丁寧に断るも、「食べていきなさい。無料だから。」と2度、3度言われ、いただくのが正しい作法かもしれない(そういう発想しか浮かばないのが残念)と思い、資料館の隣の部屋で、もらったカレーを頬張りました。
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スプーンなんかないので、現地の人たちと並んで手で食べました。
決して上等なカレーではないのですが、手で食べるカレーは、いま食べているという実感に溢れていて、日ごろいかに食べるという行為をないがしろにしているかということに気づかされました。道具(この場合、箸やスプーン)を介するというのは、おそらく知らず知らずのうちに、ある思考の型をつくるのだ、道具を使うことで、忘却の彼方に追いやられた思考や感覚がきっと他にもたくさんあるのだ、そんなことを考えました。

教会の2Fにカレーを食べに来ている人たちの中に、今日食べるものに困っている人たちが混じっていることは、容易にうかがい知ることができました。日本でも、子ども食堂とか、炊き出しとか、食のためのさまざまな取り組みがあるけれど、かつての日本にはきっとこうやって、宗教や町のコミュニティがもっと自然に困窮者を助けるしくみがあったのかもしれないということを想像しました。きっと個人や小さなグループががんばるよりも、全国各地の寺や教会がその役割を果たしたほうが持続性があるし、宗教には本来的にそういう役割が含まれているはず、そう思いました。

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この日、私はスリランカのある有名な「社長」に会いました。彼の家系はスリランカの政治の大物が大勢いて、東京で10以上の飲食店を経営しています。

彼のかつての遊び仲間には安室奈美恵、フジモン、馬場ちゃん(ロバート)らがいて、現在はネゴンボに美味しい本格日本料理を味わうことができるホテルを建設中です。
「スリランカでは医療も教育も無料、生きるだけなら衣食住にもほとんどお金が必要ないから、働く意欲がない人が多い。仕事で嫌なことをさせたらまず次の日から来ない。クレームをつけたら、謝罪とフォローどころか、二度と連絡がつかなくなり、途中で仕事が投げ出されてしまう。時間、約束、契約の概念がない。僕はいい車に乗りたいけど、周りには、自転車からさえ降りたがっている人がいる。」日本とスリランカの両方で人を雇用する彼は、ため息混じりにそう言いました。

一度日本の契約様式を知ってしまうと、時間も約束も守らず、自転車からさえ降りようとするスリランカの人たちは、ストレスが溜まる存在だそうです。
でも、「道具」と同じように、私たちが時間や契約を守ることを自明としたときに失われたものがあり、きっとそれは振り返られることはないのでしょう。


日本人は始まりの時間は守っても、終わりの時間は守らない。日本の作法や契約様式は、倫理的な装いのままに裏切る。だから、裏切りを洗練化させることに血まなこになっている国から来た私には、スリランカの自転車を降りたがる人たちに対して、深い憧憬を抱かずにはいられなかったのです。


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by terakoyanet | 2019-01-07 14:54 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2019年 01月 04日

宇野常寛さんの「遅いインターネット計画」と「フィクション」について

一昨日、昨日と深夜にEテレで放送された「平成ネット史」、ご覧になった方はいらっしゃいますか?
落合陽一さん、堀江貴文さん、ヒャダインさんらとともに、宇野常寛さんがご出演されていました。

いよいよ10日後の1月14日(月祝)に、宇野常寛さんをお招きして宇野さんのゼミ「遅いインターネット計画」を開催します。
話を聞くのが、本当に楽しみです。

うちのイベントは基本的に利益を度外視して開催していますから、基本的にそこには愛しかありません。
宇野さんのどの部分が好きで今回お呼びすることになったのか、今日は昨年10月に発売された宇野さん編集の『PLANETS vol.10』(以下、PLANETS10) のご紹介も兼ねて、お話ししてみたいと思います。


宇野さんはPLANETS10の巻頭座談会(乙武洋匡×ハリス鈴木絵美×前田裕二×村本大輔+宇野常寛)において、村本大輔さんが、SNSにおいて自身が発信した意見に対する「いいね」に対して、小泉進次郎の悪口を喋ったらお客さんがワーッと盛り上がるという例(「小泉さん」は単なる一例ですから誤解しないでください、誰でもいいんです)に触れながら「(安易に)賛同されることが怖い」という発言をしたときに、宇野さんは次のように答えます。

僕はそれこそ質的な問題だと思う。そこで簡単に「いいね」が押せたりリツイートができたりすると流されてしまうんだけど、そういうことができなければ、その時は「村本、いいこと言った。小泉進次郎はダメだ!」と思ったとしても、3日後に横須賀に遊びに行って三浦半島でマグロ食べてたら小泉親子のポスターが貼ってあって、「ああ、意外と地元で愛されているんだなあ」とちょっと冷静になる瞬間があるかもしれないじゃないですか。僕が速度に注目しているのは、そういうことなんです。そういう幅をメディアのほうが持つことによって、改善できると思っている。

もちろんそれで100%解消できるなんてことはない。だって僕自身が結構独善的な人間で、基本的には自分の考えが一番正しいと思ってるわけですよ。でも人間って、自分の意見が常には通用しないことを、世界の真実として理解しているじゃないですか。そういった他者性というか、わかりあえなさ、つながらなさが勉強になって、もっとパワーアップできる。(自分が正しいと)信じている人はいていいし、僕もそういうタイプの人間です。それを追求するためには、逆にちゃんと人の話聞いた方がいいよ、ってことなんですよ。


宇野さんは「日本のインターネットは予めその人にとって気持ちのいい都合のいい、今の自分を肯定してくれるものや安心してくれる内容など分かっているものを脊髄反射的にリツイートし、拡散することで、スッキリするという使い方が定着して」いて、「自分を客観視する能力には限界がある」ことを忘れ、「情報に接することによって全能感に酔っている」人が多いことを同インタビュー内で指摘しています。それはインターネットが「速すぎる」からなんだという問題意識のもと、それを遅くすることで、「他者性というか、わかりあえなさ、つながらなさ」というものが独善的な判断の中に否応なく紛れ込んでくる、そういう「遅さ」を取り戻したいという切実な願いが込められているのを感じます。


この巻頭座談会のめちゃくちゃ面白いところは、宇野さんがそれまでの話題を「フィクション」の話と接続しているところ。
ここで思い出したんです。そうだ、宇野さんは、「フィクション」を愛するオタクだった。

PLANETS10という雑誌で、私が猛烈に面白かったところは、片渕須直と押井守という2人のアニメーション監督のインタビュー記事。
インタビューと言っているけれど、PLANETS10のインタビューの面白さは、聞き手であるはずの宇野さんが、当人と同じくらいの分量でグイグイ深いところまでしゃべっちゃうんです。だから、インタビューをされる側も、そこまでしゃべっちゃうんだというくらい、いろんなことを引き出され、後半になるにつれて、話が深まる、深まる。どこまでも。

片渕さんと宇野さんが、高畑勲、宮崎駿という2人の巨匠の臨界点について話している内容は、フィクションに興味がある人なら、絶対に読み逃すことはできない内容です。もうね、決定的な指摘がなされている。そして、片渕須直監督の『「この世界」と「片隅」は重ならない』という問題意識を、宇野さんも共有しながら、引き受けながら、彼が「遅いインターネット計画」なんてことを言っているとしたら、これは、もう、とんでもないことだなと思ったのです。

片渕須直さんと押井守さんの2人のインタビューを読んだ後に、もう一度、巻頭座談会の後半部を読み返すと、新たな地平というか、宇野さんの深い覚悟みたいなものが読み取れるんです。


僕は今こんな座談会をやっているけど、本来はフィクションの評論家です。フィクションって基本的に他人の考えたものであって、究極的にいえば他人の妄想なんですよ。同じことを言っていても、「俺すごい」という自慢話や「これがすごい」という社会的主張として展開されると受け入れられないけれど、フィクションには共感して侵入されてしまう。本質的には、他人に汚染される体験なんですよ。最初から「これは現実からある程度切断されたものです」という語り口があることによって、他人の考えに侵入されることが快感に変わるんだと思う。だから僕はフィクションが一番好きなんです。

<中略>

政治の話になると人の意見を受け入れなくなるのは、現実だからだと思うんです。だから僕は、「虚構」をもっと大事にしたほうが良いと思ってる。この場合の「虚構」は、映画や小説だけでなくてお笑いやゲームも含めた「遊びの領域」のことです。遊び、プレイそのものが目的であることって、一見無駄なことのように思われるけれど、「~の為にプレイするじゃなくて」「プレイするためにプレイする」体験って、人間にとってちょっと特別じゃないですか。その領域があることによって得られる快感はすごく大きいと思う。だからそれをうまく使っていきたい。


ここまで読み進めていくと、フィクションのことが好きな宇野さんが「遅いインターネット計画」というのを始めたのが、とてつもなく狂気じみた(誉めています)面白いことという気がするのです。この面白そうという感覚は私がひとつ前の記事に書いた「フィクションという覚悟について」とも連動しています。

というわけで、私は、宇野さんの話、とても楽しみなのです。


1月14日(月・祝)の宇野さんのゼミの詳細はこちらをどうぞ。



チケットはこちら。残席わずかです。






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by terakoyanet | 2019-01-04 11:37 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2019年 01月 04日

フィクションという覚悟について

私は、真の表現者というのは「フィクション」に対する覚悟を持っていると思っていて、その「フィクション」に対する覚悟が現われている、最もわかりやすい例だと私が思っているのが、星野源が病床で書いた曲『地獄でなぜ悪い』の歌詞です。



無駄だ ここは元から楽しい地獄だ
生まれ落ちたときから 出口はないんだ

いつも窓の外の 憧れを眺めて
希望に似た花が 女のように笑うさまに 手を伸ばした

嘘でなにが悪いか 目の前を染めて広がる
ただ地獄を進む者が 悲しい記憶に勝つ

<中略>

作り物で悪いか 目の前を染めて広がる
動けない場所からいつか 明日を掴んで立つ 明日を掴んで立つ

幾千もの 幾千もの 星のような 雲のような
「どこまでも」が いつの間にか 音を立てて 崩れるさま

嘘で出来た世界が 目の前を染めて広がる
ただ地獄を進む者が 悲しい記憶に勝つ

作り物だ世界は 目の前を染めて広がる
動けない場所から君を 同じ地獄で待つ 同じ地獄で待つ

星野源『地獄でなぜ悪い』




私はこの歌詞を聞いたときに、星野源という人は、この時点で「星野源」をフィクションそのもののとして見立てて活動していくという覚悟を決めてしまったのだなと思ったのです。彼が植木等を敬愛しているというのはそういうことだったのか。これは怖ろしいことだな、すごいことだなと。

この考えの根底には、「作り物だ世界は」という根本的な洞察があるんです。

私たちはとかく「世界の真実」について考えがちだし、「私たちが生きている現実」について考えがちなのですが、そうではなくて彼は「私たちはすでに作り物である世界に投げ出されてしまって」いて、それははじめから「真実」や「現実」などの拠り所などはない「楽しい地獄」なのだというところから始めている。

私はこういう出立地を持つ表現者を信頼します。



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by terakoyanet | 2019-01-04 11:11 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 12月 20日

「役に立つ」とは何か。

昨日、附属福岡小の齋藤先生から「12歳からの哲学」と題した授業にお招きをいただき、子どもたちと話をしてきたのですが(来年も続きます。とても面白かった!子どもたちすごい!授業中の子どもたちの反応もよかったです)、事前アンケートで子どもたちから「哲学は役に立つのか」「哲学をやって利益はあるのか」という質問が届いていたので、それについてお話しをしました。(他にも、プラトン、デカルト、パスカル、スピノザ、ラカンを援用してたくさんのことをお話ししましたが。)

このことについて、以下に少し書きたいと思います。(昨日の説明を少し噛み砕いて話しますから、子どもたちに話した通りではありませんが。)


・・・

まず、「哲学は役に立つのか?」と考える前に、私たちが考えるべきことは、「役に立つ」ということについて、私たちはほんとうにわかっているのか?認識できているのか?という問題です。

老子や荘子の思想から導き出された有名なことわざに「無用の用」というものがあります。これは、「役に立たないように見えるものであっても、かえって役に立っている場合がある」という意味です。例えば、サッカーにおいて、一見、地味なはたらきしかしていないように見える選手を交代させると、とたんにチーム全体のバランスが崩れてしまうということがあります。このようなことは、あらゆるグループや組織において、たびたび起こり得ることです。

勉強や仕事においても、一見無駄に見えることが役に立つという例は枚挙に暇(いとま)がありません。
私はこれまで700人もの受験生たちを直接指導してきましたが、中には、何事もできるかぎり効率よくやろうとする子がいます。効率よくやること自体は間違いでないのですが、ある子は、自分が役に立ちそうだと思うことしかやろうとしません。大切なこと、役に立つことに絞って、労力を節約しようとするあまりに、結局のところ、大切なことを取りこぼしてしまうのです。そういう子は、いつまでも成績が伸びません。

その子に欠けているのはきっと、自分が「役に立つ」ことを完全には認識できないという謙虚さです。私たちが自分の手で掴める「役に立つ」ことなんて、本当に役に立っていることのせいぜい1/10程度なのではないでしょうか。私たちが1割程度しか「役に立つ」を掴んでいないとすれば、「役に立つ」に拘る(こだわる)あまり、残り9割の「役に立つ」を逃してしまうのは畢竟(ひっきょう)当然のことです。

だから、無用の用を知り、無駄を厭わない人は強い
そして、自分が「役に立つ」ことを完全には認識できない、このことを身にしみて知るために「哲学」はきっと役に立ちます。




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by terakoyanet | 2018-12-20 12:29 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 12月 13日

ナナロク社のこと

現在、とらきつねでは、12月16日の植本一子さんトーク開催を記念して、植本一子さんの書籍、及び、ナナロク社さんから刊行された書籍のフェアを開催しています。


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トークの第1部は植本さんとナナロク社代表、村井さんのトーク。


今日はナナロク社のことを少しお話しします。


ナナロク社 http://www.nanarokusha.com/ は2008年に村井光男さんと川口恵子さんによって立ち上げられた出版社。

「ナナロク」の名は、ふたりが1976年生まれであることなど、きっと76個くらいその由来はあるんじゃないかと思いますから、死ぬまでに全部聞いてみたいと思っているところです。


現代がもし、詩が力を持たない時代だとすれば、きっとそれはとても不幸なことです。

ナナロク社は、詩と、そこから紡ぎだされる現象を大切にしている出版社だと感じます。

谷川俊太郎さんの数々の詩集をはじめ、さまざまな、シンプルながらコンセプチュアルな作品が刊行されています。

そしてそれらの作品は、けっして時代の風になぎ倒されることのない、凛とした強さを持っています。


ナナロク社の本は、装丁が素晴らしい。

手にとって見ていただきたいのです。見てるだけではわかりませんよ。手に載せて、少しページをめくってみれば、きっとその美しさとやさしさが実感をともなって体に染み込んできます。

詩集というのはこうやって掌で感じながら楽しむものなのだということを、深く感じることができます。


ナナロク社の名を世に知らしめるきっかけになったベストセラーといえば、川島小鳥さんの『未来ちゃん』がありますが、「宅老所よりあい」がすぐそば(唐人町寺子屋&とらきつね と同じ校区内にある)の福岡の私たちにとっては、もしかしたら『へろへろ』(鹿子裕文さん)のほうがピンとくる方が多いかもしれません。



ナナロク社の数あるエピソードのなかで、私が好きな話を2つご紹介したいです。


1つめは、現在、ベストセラー爆走中の藤岡拓太郎さんのマンガ『夏がとまらない』にまつわるお話し。

※『夏がとまらない』を読んだことがない方は、下のリンク先の「18才」だけでも読めば、その面白さがせつなさがわかると思います。



https://www.takutaro.com/making-of-natsugatomaranai/

「夏がとまらない」日記は、藤岡さんが、この本を作るにあたり、ナナロク社から本を出したい!と思って村井さんにメールを送るところから始まります。そのあとの、藤岡さんのマンガを読んだ村井さんの返信メールが、編集者というのはこれほどか!と驚愕してしまう内容なのです。


抜粋しようと思いましたが、全部載せた方がわかりやすいし面白いので、そのまま載せます。(藤岡さん、村井さん すみません)



藤岡さん
こんばんは。
ナナロク社の村井です。


どたばたとしているうちに、メール、遅くなりました。


さて、先日お話をした、「夏がとまらない」についてですが、つぎのように考えています。


見たことがないのに、見たことがあるように感じる、
はじめてみるのに、思い出すようにとらえられるもの、
そして、おかしみが感じられるもの。


これが、私が『「夏がとまらない」といったもの』について、言えることです。


藤岡さんの作品は全般に、いわゆる「あるある」ではなく、
むしろ、そんなひとたちはいない「ないない」なのですが、
それを、「あるある」のように描いていることにも、
私は、面白いと思っているところです。


ただ、より、藤岡さんの独自性を強めることとして、
季節の風情や、懐かしさや、あるいは優しさといったようなものが、感じられる作品を読みたいと思います。


ここからは、書いていて難しくなるのですが、
なので読んで意味がとらえにくくても、
それは藤岡さんのせいではないので、気にせず読んでください。


とりあえず、書きます。


私は、笑いに逃げない笑いで、笑えるものが、読みたいです。
すでに、多くの芸人や喜劇作者によって、笑いの類型はたくさん出ております。
それにより、読者、受け手も、かなり、訓練されてしまっています。
良い面もあるのですが、あるていどの形で、笑いとして受容してしまうことが、あるかと思います。


なんとなくこうすると不条理の笑いになるな、とか、
ここは多少乱暴に終えても大丈夫だなとか、
藤岡さんの作品がそういった作品ということではないのですが、
笑いを作るうえで、笑いに逃げ込める要素は、いまはとても多いように思うのです。


そういったなかで、
藤岡さんの作品を読むと、
心のなかから、なにかが反応してくる、
なにかを思い出す、といった、
笑いということをつきぬけた何か(それは笑いなのですが)を、見てみたいと思っています。


そういった中、私として、
「夏がとまらない」は、よい作品でした。


まあ、つらつら書きました。
意を尽くせませんが、このまま送ります。


創作のご武運をお祈りしております!!!


村井光男



すでに『夏がとまらない』のファンであった私は、村井さんから藤岡さんに送られたこのメール文を読んで、ちょっと愕然としました。村井さんのこのメール自体が詩であり、そして「あるある」「ないない」の話のところなど、『夏がとまらない』という作品のよさを虚飾なく端的に表していることに驚いたのです。


ナナロク社という確かな目をもつ版元のフィルターを通ることが、作品にとって、読み手にとって、幸福なことなのだということを知ったエピソードです。



2つめは、ナナロク社の最新刊、『ことばの生まれる景色』の著者である荻窪の本屋Titleの辻山良雄さんが、つい先日綴った「よく読むタイプ」というタイトルの短いエッセイ。(このタイトルがまた良いな)
http://www.gentosha.jp/articles/-/11735


この本の担当であった編集者・川口恵子さんが「よく読む人」であったこと、良き「第一の読者」であったことが、この本を最終的に当人も見知らぬ着地点まで到達させてしまったことが書かれていて、とても興味深いです。

血の通った本というのは、こうやってできるのだ、そういう現場を見せてもらった気持ちになりました。



今回のイベントで、ナナロク社の村井さん、川口さんがお越しになるので、ナナロク社の「すさまじい」本(本屋Title 辻山さん)はこうやってできるのだ、ということを、あらかじめ皆さんに知ってもらいたく、やや長い文章をまとめました。



当日、第1部と第2部の合間に、短い時間ですが、村井さん、川口さんからナナロク社という出版社とその本についてのプレゼンが行われます。


楽しみにご参加ください。

下の写真は、誕生日に植本さんから大量のお菓子をもらった村井さんの写真。チャーミングです。



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by terakoyanet | 2018-12-13 15:30 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 12月 05日

神は負けても、親切は勝つ(岸政彦さん)


上のリンク先で読めるのは、社会学者・岸政彦さんによる『神は負けても、親切は勝つ』

私はカトリックの家に生まれたから、なぜ親や親戚が神を信仰しているのか、神の何を信仰しているか、幼いころからずっとずっと疑問でした。
そしてそれを尋ねること自体が不遜だという事実に戸惑い続けてきました。

「あとはもう、ただ考えるしかない。そしてできることをするしかない。」
そういうものに衝き動かされている事実が、祈りであり信仰であるということに気づいたのは、ずっと後になってからのことです。
自分がはじめから、わからないはずの他者を信憑していたことに気づかされたのもこのころです。

そういう信仰に対して無自覚でいたことを知ったとき、自分がとても罪深い人間のように思われました。親たちの思考停止の信仰に抗い続けたのに、私もわからないものを信仰していたのです。

でも、先に信仰があるのではなく、祈りが信仰の輪郭をつくる、それを先に教えてくれたらこれほどの逡巡はなかったのに、とも思います。

「神は負けても、親切は勝つ」
泣けるほど、いい言葉だなあ。


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by terakoyanet | 2018-12-05 11:18 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 10月 28日

「うちの子はがんばっているのに成績が伸びない」は大抵間違っている。

「うちの子はがんばっているのに、成績が伸びないんです」

他の塾から当校に移ってくる生徒は毎年何人もいるのですが、その際に時折、お母さま(ときにお父さま)から聞く言葉です。わたしはこの言葉を聞くと、いつも「そうだろうか?」と思います。

「がんばっているのに、成績が伸びない」というのは、大抵、親の勝手な解釈なんです。
実際は、「がんばっているからこそ、いまの成績が維持できている」のかもしれないのに、ただ、学校や模試において点数が伸びてないという表層的な理由に基づき、子どもに対し「成績が伸びない」という烙印を押す。がんばっているのなら、それが現状の子どもにとってはベストに近い状態かもしれないのに、その斜め上を見て、「成績が伸びない」と断定してしまう。それは親の願望でしかありません。そして、このことによって傷つく子どもは多いです。

「がんばっているのに、成績が伸びない」
親がそう他人に主張しているとき、大抵の子どもは親が「私のことを一生懸命考えてくれてる」「私はなぜ伸びないんだろう」と考えますから、子どもが親のことを嫌いになることはありません。目の前の親が高望みをすることで、自分自身を傷つけているのに、子どもは決してそう解釈することはありません。子どもというのは、大切な親を救うためには、自分自身を損ねることを厭いません。親は子どもを救っているつもりで、何度子どもに救われればそのことに気づくのでしょうか。

「がんばっているのに、成績が伸びない」
親がそう他人に主張しているとき、「うちの子はがんばっているけど、勉強のやり方がわかっていないから、成績が伸びない」という考えが含まれることが多いです。それはつまり、「そもそもうちの子は勉強のやり方がわかっていないし、それを的確に教えてくれる人がいない」という他者(たとえば学校や塾)に対する不満を含んでいます。(塾を移ってくるときに、最初にそのことを口にする方が多いのは、それが理由のひとつでしょう。)しかし、勉強が「わかる」という真の経験がある人たちは、きっとそんな考えを持つことはありません。なぜかと言えば、その人たちは、勉強のやり方というのは、自らの手によって掴み取ることによってしか、得られることのない類いのものだからということを知っているからです。「馬を水辺に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない。」このことわざは、最終的には自分の意志でがんばらなければならない、というような単純な意味ではなく、学問でも他の分野でもそうですが、指導者ができることは、ある問題の解決のための具体的な方法を教示するところまでであり、実際にそれが「わかる」ようになるのは、本人の手によってでしかないという、学習というものの本源的な性質を示すものです。指導者として大切な素質は第一に「本人の能力を奪わないこと」であり、それを土台にしつつ「問題解決の糸口を見つけやすくしてあげる」(これは案外難しいことですから、指導者には能力差があるのです)ことに尽きるのですが、「うちの子はがんばっているのに、成績が伸びない」と主張する親たちはたびたび子どもが「わかる」こと自体を他人に依拠しようとします。これは、水辺で馬に無理やり水を飲ませようとしていることと同じであり、うまくいかないどころか、子ども自身にとっては完全にマイナスにしか働かない所為と言わざるをえません。「解決そのものを他人に依存すること」を教えるのは、親が無自覚に「本人の能力を奪う」例として、私がこれまでに幾度も見てきたことのひとつです。

「がんばっているのに、成績が伸びない」と言われ続けた子どもというのは、自分自身を他人に高く大きく見せがちになります。虚栄心が強い子どもになりやすいのです。その結果、なんとなく周囲から浮いていると感じる子も少なくありませんし、そのくせ自己否定感が強く自分を大切にできない、どこにも居場所がないように感じられる、他人にも興味がもてない、そんな大人に育っていく子も少なくありません。いつもどこか「偽物」である私を感じていて、何冊自己啓発本を読んでも、何度セミナーに参加しても、満たされることはありません。親から「解決そのものを他人に依存すること」を教えられた子どもの苦しみはそうやってずっと後を引くことがあるのです。

「うちの子はがんばっているのに、成績が伸びない」なんて、子どもに言わないであげてください。
がんばっているなら、それが現在の子どもの力です。その結果も含めて、全てを認めてあげてください。

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by terakoyanet | 2018-10-28 07:13 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 10月 11日

意見を求めるなら、その世界を、書き手を、作品を愛している人からがいい。

すぐれた散文を発表し続ける文筆家の若松英輔さんが、1ヶ月前に呟いていたこの言葉。



若松さんのこのつぶやき、私はとても大切なヒントになる言葉だと思います。

本でも映画でも料理店でも(きっと塾でも)そうですが、誰かに意見を求めるなら、その世界を、書き手を、作品を愛している人からがいいのです。

「愛情のない眼には映らない何かがあり、その人も何かを賭けて語るからだ。」

愛している人は、確かにその世界の魅力を捉まえている。

それを捉まえていない人の話は、しょせんその人の独り語り(モノローグ)にすぎず、
相手に罪を擦りつけることで、自分の失点を見ないようにする仕掛けでしかないことが多いのだ。

それに対して、愛してしまった人というのは、自分の存在の欠片を、事実上あっちに持っていかれてしまっているのだ。

こんなふうにして、自分という持ち場を離れてしまった人の言葉というのは、本物だ。
自分という拠り所を離れるのは、それだけで命懸けだから、言葉も本物になる。

だから、意見を求めるなら、その世界を、書き手を、作品を愛している人からがいい。
私もそう思います。



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by terakoyanet | 2018-10-11 02:15 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)