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生徒を指導する上で大切にしていることは、生徒をほめることです。
生徒の宿題の出来がよかったときは、なるべくベタ褒めする。難しい問題ができたときには、すごい!超あたまいい!!とほめる。ちょっとほめすぎかなと思うほどに。

そうすると子どもというのは先生がほめた自分に近づこうという意志が生まれる。これが大切です。

外山滋比古さんは、ベストセラー「ちょっとした勉強のこつ」の「バカにつけるクスリ」において、ほめるほめられるというのは、一種のプラシーボ効果(=偽薬であっても一定の薬効があらわれる)だとし、次のように言います。

ほめる、ほめられるのプラシーボ効果も大きい。立派なことをしてほめられるのなら当たり前であるが、なにもしないのに、ほめられるのは、偽薬である。それでもほめられると、そうなろうとするのが人間である。頭がよいかどうかは別として、頭がよい、とほめられれば、その結果、本当にいくらかは頭がよくなる。間違ってもバカと言ってはいけない。本当にダメになるおそれがある。


子どもたちのなかに、たまに中学在学中に急におバカになる子がいます。(これは圧倒的に女の子が多い。) そういう子は、自分がおバカだといつのまにか友達の前で公言したり、バカキャラを演じたりしているうちに、いつのまにか本当のおバカになってしまったという場合が多い。おバカキャラを演じるというのは実は恐ろしいことで、これ以上に自分自身を本当のおバカにする方法はないのです。


親御さんは子どもに間違っても「あんた本当にバカね」とか「あんたお姉ちゃんよりできないからね」とか言ってはいけません。そうすると、その子の力は育たなくなります。本当に「おバカ」で「お姉ちゃんよりできない子」になるだけの話です。

いやいやそんなことはない、お前はできるよできるよと、言い続けることで、そうじゃない場合よりも子どもは伸びます。「そんなことをしてもうちの子はたかがしれてます。」 え?いやいや、そんなことはない。まずは自分からしっかりだまして、そして子どもを伸ばるために、盲目に「できるよ」と声をかけてあげてください。「できない」と思い続け言い続けた結果よりはずっといい結果が生まれるのですから。


これと同じ寸法で、「お前のことが信用できない」ということを子どもに言い続け、疑い続けると、ウソつきの子どもが育ちます。子どもが信用ならないことをしたときにぐっとがまんして(これはかなりの忍耐が必要ですが)、私はあなたのことを信用してるから!という態度を一貫して取ることで、たいがいの子どもの暴走は防ぐことができます。「そんなことをしても甘えて好き勝手やるだけ」と思われるかもしれませんが、それはいままでの態度が子どもをそうさせているだけ、いまから少しずつ変えることで、子どもも少しずつ変わっていくのではないでしょうか。


ほめること、バカにしないこと、信用すること_d0116009_915986.jpg
サイパン島の夕日

by terakoyanet | 2008-06-22 08:55 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(8)

この前の場面の続きです。

問題は無数にある。粟か米か、これは喜劇である。工か商か、これも喜劇である。あの女かこの女か、これも喜劇である。綴織(つづれおり)か繻紾(しゅちん)か、これも喜劇である。英語かドイツ語か、これも喜劇である。すべてが喜劇である。最後に一つの問題が残る。生か死か。これが悲劇である。

十年は三千六百日である。普通の人が朝から晩に至って身心を労する問題はみな喜劇である。三千六百日を通して喜劇を演ずるものは遂に悲劇を忘れる。いかにして生を解釈せんかの問題に煩悶して、死の一字を念頭に置かなくなる。この生とあの生との取捨に忙がしきがゆえに生と死との最大問題を閑却する。

死を忘るるものは贅沢になる。一浮も生中である。一沈も生中である。一挙手も一投足もことごとく生中にあるがゆえに、いかに踊る、いかに狂うも、いかにふざけるも、大丈夫生中を出づる気遣いなしと思う。贅沢は高じて大胆となる。大胆は道義を蹂躙して大自在に跳梁する。

万人はことごとく生死の大問題より出立する。この問題を解决して死を捨てると言う。生を好むと言う。これにおいて万人は生に向かって進んだ。ただ死を捨てると言うにおいて、万人は一致するがゆえに、死を捨てるべき必要の条件たる道義を、相互に守るべく黙契した。

去れども、万人は日に日に生に向かって進むがゆえに、日に日に死に背いて遠ざかるがゆえに、大自在に跳梁して毫も生中を脱するの虞(おそれ)なしと自信するが故に、道義は不必要となる。

道義に重を置かざる万人は、道義を犧牲にしてあらゆる喜劇を演じて得意である。ふざける。騷ぐ。欺く。嘲弄する。馬鹿にする。踏む。蹴る。ことごとく万人が喜劇より受くる快楽である。この快楽は生に向かって進むに従って分化発展するがゆえに、この快楽は道義を犧牲にしてはじめて享受し得るがゆえに、喜劇の進歩は停止するところを知らずして、道義の観念は日を追うて下る。


この部分、難しいので私が勝手にいまの人たちに分かりやすいように言い換えてみます。

生きていく上で問題は無数にあります。ご飯がいいかパンがいいか、これは喜劇です。自営がいいかサラリーマンがいいか、これも喜劇です。あの女の子がかわいいかこの女の子のほうがかわいいか、これも喜劇です。ワンピースがいいか、キャミソールとジーンズがいいか、これも喜劇です。語学の授業で英語を選択するかドイツ語を選択するか、これも喜劇です。これらすべてが喜劇です。しかし最後に一つの問題が残ります。生か死か。これが悲劇です。

10年は3600日です。普通の人は朝から晩までずっと喜劇で頭がいっぱいです。3600日を通して喜劇ばかりを演じている人はついに悲劇のことを忘れてしまいます。いかにして生きるかという自分探しに熱中するあまりに、死の一字を念頭に置かなくなります。こう生きるのがすてきとか、ああ生きるのがすてきとか言っているうちに、生と死という最大の問題を忘れてしまいます。

死を忘れる人はぜいたくになります。そんな人もテンションが上がる日もあれば、下がる日もあります。しかしそれはすべて生という舞台の上でのことであり、死という問題は閑却されています。一挙手一投足すべてが生という舞台上にあるので、いかに踊ろうが狂おうがバカ騒ぎしようが、いやいや大丈夫だよ、俺らは生という舞台を楽しんでいるんだ、何も心配なんかないと思います。このようなぜいたくはどんどん大胆になっていきます。大胆は大切なことを踏みにじり、どんどんエスカレートして歯止めがきなかくなります。

すべての人はみな本来は生死という大問題を抱えています。しかし死は恐ろしい、そのために、人はこの問題を忘却し、解决することで、死の問題を捨て、生を好む側に向かいます。このようにして、すべての人は生に向かって進みました。死を捨てるという点においては、すべて人の考えは一致しており、死を捨てるために必要な条件を相互に守るよう、私たちは知らず知らずのうちに人々と相互に契約を結んでいます。
(*この条件とは、象徴世界[このあと述べるマトリックス世界]を共有することと言っても良いでしょう。)

しかしながら、すべての人が毎日毎日、生の方だけを向いて進んで、毎日毎日、死に背を向けて遠ざかっていってしまうために、好き勝手、欲にまかせて何をやっても大丈夫、死にやしないと傲慢な自信を持つために、大切なことが忘れられ、不必要なものとなってしまいます。

大切なことを踏みにじるすべての人は、大切なことを犧牲にし、あらゆる喜劇を演ることでむしろ得意になっています。ふざける、騷ぐ、人を欺く、嘲弄する、バカにする、踏む、蹴る。これらはことごとくすべての人が喜劇から受ける快楽です。この快楽は生に向かって進むにしたがい、細かく分かれ発展していきます。また、この快楽は、大切なことを犧牲にしてはじめて享受し得ることなので、喜劇の進歩は停止するところを知らずに、大切なことは日を追うごとにさらに忘れられていきます。




この部分は、「虞美人草」のなかで最も痛烈に、世の中に対する批判(というより怒りに近い)が表明される場面です。

漱石はよく近代批判、文明批判の文脈で語られます。この場面で言われる「道義」といういかにも堅苦しい言葉は、現代の多くの人々に、古めかしい印象を与えるにすぎないかもしれません。

しかし、漱石の言う、世を蔽う象徴の問題、そして喜劇と悲劇の問題は、決して近代批判のような小さい枠でくくることができない、大昔も現代も変わらない普遍的な問題です。


前回述べたように、私たちの認識は言語等の象徴に支えられており、象徴を通して事物を観ることで、私たちは本来の空の不可思議を忘却してしまう。

2003年に完結した映画「マトリックス」シリーズのテーマはまさにそこでした。マトリックスという仮想現実空間はまさに私たちの住む象徴世界のことを示しています。そしてあのとめどなく増殖していくエージェント・スミスは、まさに「喜劇の進歩は停止するところを知らずして」と漱石に言わせた状況のメタファーです。

映画「マトリックス」は、象徴世界に住む私たちを「啓蒙」する映画でした。漱石の「虞美人草」は、象徴に覆われた世界の「喜劇」に対する大きな危惧を表明した作品であり、漱石の作品の中で最も啓蒙的な作品だと言えます。(4につづく)


*メタファー・・・隠喩、暗喩
*啓蒙・・・この場合、暗い(蒙い)ところに光を照らし、明らか(啓らか)にすること
by terakoyanet | 2008-06-20 08:52 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(6)

昨日で当仁期末テスト直前講座が終了しました。現在朝の7時ですが、子どもたちには今日のテストで自分が持つ力をできるかぎり発揮していい成果を残し、これからの学習の糧としてほしいと思います。

全体としては今回のテストはどの学年もいい成績が残せるのではないかと思っています。
指導していてかなり手ごたえを感じました。結果が楽しみです。



昨日の1年生の授業のとき、1年生男子の一部に雷を落としました。
テスト前日にかかわらず複数の男子が宿題を忘れていたので、宿題を忘れた子を「もう授業受けなくていい(怒)!帰れ!」と全員教室から締め出しました。
テスト前日に教室から締め出すことはリスクを伴うものであることはわかっていましたが、1年生男子の宿題に対する認識を変えるためには荒治療が必要と思い、決断しました。

その後、教室から締め出した子のご家庭に連絡を取りましたが、ご家庭は子どもさんのことを大切に真面目に考えているお宅ばかりで、今回のことをきちんと理解していただけました。
授業後に涙目で宿題をやっていなかったことを謝りに来た生徒もおり、心は通じたのではないかと思っています。



いよいよ期末テストが終わり、飛躍の夏に入ります。
今年も子どもたちにとって厳しくも楽しい夏になるよう、全力を尽くしますので、どうぞ宜しくお願いいたします。

期末テスト直前対策講座終了↗1年生に雷を落とす↘_d0116009_7272631.jpg期末テスト直前対策講座終了↗1年生に雷を落とす↘_d0116009_7275517.jpg
昨夜のテスト前最後の教室開放の終了間際に差し入れを食べる3年生たち
遅い時間までよく頑張ったねー!!


昨日、一昨日と、3年生のTさんやIT君、IK君といっしょに帰りました。
とても楽しい時間でした。
by terakoyanet | 2008-06-20 07:31 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(3)

いまから、期末対策最後の授業に向かいます。本日のテストはどうだったか楽しみです。

今日は3年生の日ごろ個別指導をとっていない子を中心に、14名×1人あたり20分の個別指導を行います。
20分で何ができる!?と思われるかもしれませんが、いえいえ、テスト前日の20分指導は大きいです。
日ごろの授業でみんなの弱点もわかっているので、ピンポイントの指示・指摘もでき、また、子どもたちの士気を高めることができるところにも大きな効果があります。


テスト前に頑張った、そしていい成績が取れた、という経験は、今後の受験勉強を頑張るための頭と心の財産になります。しっかり指導してきます。

ちなみに今夜は1・2年生が授業、3年生が教室開放です。
by terakoyanet | 2008-06-19 13:14 | お知らせ | Trackback | Comments(0)

ファイトーー!!

期末前最後の講義を終え、さきほど帰宅しました。
現在は深夜ですが、たったいまも眠い目をこすりながら必死に勉強している子がいることでしょう。頑張れ!頑張れ!ファイトーーー!!


今晩の3年生の教室開放は、21:10というかなり遅い時間の開始にかかわらず、17名も参加し、一生懸命勉強に励んでいました。本日も同時刻に3年生の教室開放が行われます。

ファイトーー!!_d0116009_1432261.jpg
3年生Nさんちのうさぎの画像をもらいました!
かわいい!!


ファイトーー!!_d0116009_1465696.jpg
一昨日、保護者様からとても立派なチョコレートをいただきました。
美味しくいただいております。ありがとうございました!

by terakoyanet | 2008-06-19 01:52 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)

いよいよ期末テスト!!

いよいよ明日は期末テスト!!
本日は1・2年生がテスト前最後の授業、3年生は教室開放となっています。


[3年生教室開放の時間変更]
-要望をいただき、テスト前2日間の教室開放時間を大幅に拡大しました。-
6/18(水) 21:40~23:10
6/19(木) 14:00~17:30、21:40~23:10

※但し、22:30以降は保護者から承諾を得た生徒のみ利用可。


最後のふんばりで点数は何十点も変わります。
自分のためにどれだけ限界まで頑張れるか、期待しています。

それにしても3年生はやはり今までのテストとは全く次元の違う仕上がりです。
みんなよく勉強してます。



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3年生のIY君は、個別指導のとき自分のほうが先に教室に着いたときには、教室の建物の前や、横断歩道の前でにこにこ笑顔でお出迎えしてくれます。



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昨日遊びに来てくれた卒業生。
筑紫女学園高校のIKさん、修猷館高校のHK君、中村学園女子高校のSMさん。
(画像が暗いです; 実際はもっとかっこかわいいですー。たぶん)


ちょっとひさびさに会ったIKさんとSMさん、相変わらずのマシンガントークで高校生活について話しまくって私とHK君はちょっと圧倒されていました。

IKさんもSMさんもちょっと大人っぽくなったね。IKさんもSMさんも真面目に高校生生活を楽しんでいる様子で安心しました。

IKさんは本ブログ2度目の登場。数学が得意になったらしく、学校の先生に感謝してました。よかったねーー!
ふと天才型と努力型の話になったのですが、「私は努力型」とはっきり言えたIKさんはカッコイイです。

SMさんは本ブログ初登場! コースは理系を選んだらしく、今からが大変だねー。「私は努力が報われない」と言っていたけど、そんなことないよ。努力した経験自体がきっと財産になります。前を向いて頑張ってください!

HK君、今日はあんまり話せなかったけど、また話そうね!
by terakoyanet | 2008-06-18 01:53 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)

握手 井上ひさし

今回の期末テストの3年生国語の試験範囲に井上ひさしの「握手」が含まれています。その作品なかには、こういうシーンがあります。


ひさびさに会ったルロイ修道士に対して主人公の「わたし」が次のように言います。

「日本人は先生に対して、ずいぶんひどいことをしましたね。交換船の中止にしても国際法無視ですし、木づちで指をたたきつぶすに至っては、もうなんて言っていいか。申し訳ありません。」

それに対するルロイ修道士の言葉。

「総理大臣のようなことを言ってはいけませんよ。だいたい、日本人を代表してものを言ったりするのは傲慢です。それに、日本人とかカナダ人とかアメリカ人といったようなものがあると信じてはなりません。一人一人の人間がいる。それだけのことですから。」



このルロイ修道士の言葉は私も大切なことだと考えます。
まず、日本人はああだ、中国人はこうだ、アメリカ人はどんなだ、とか言ってる話は基本的にあてになりません。何も国民性とか言った言葉を完全に否定するわけではありませんが、ただ、そういう話というのは、結局のところ強引に言ってしまえば血液占いなんかとさほど大差はないと思うのです。ステレオタイプの日本人像に当てはまる人もいれば、そうでない人もいる。世間のB型像にカッチリ当てはまるB型の人もいれば、そうでない人もいる。(ちなみに私は典型的なB型だと関係の深い身近な人たちから言われます。)

そして日本人を代表してものを言う、自分の考えをさも日本人一般の型として発言する、そういったことはルロイ修道士が言うとおり傲慢だと私も思います。「日本人」という言葉で、いきなり大勢の人間を無差別に自分の言説に巻き込んでしまうのですから、それは実はとんでもないことです。

だから私は、ルロイ修道士同様に、日本は、日本人は、中国人は、とか、そういう一つのカテゴライズされたものにすぎないものを平気で主語にして語る、その語り口が好きではありません。


「握手」は全体にとても面白いと思います。3年生も自分なりの感想が思い浮かぶくらい、じっくり読み込んでみてください。
by terakoyanet | 2008-06-16 01:14 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)

来春(現中3生)の主な高校入試日程が発表されましたのでお知らせいたします。

1月27日 福岡県全地区私立推薦入試、専願入試
2月6日  福岡地区私立一般入試前期

2月2日  公立高校推薦入試願書受付
2月9日・10日 公立高校推薦入試(面接・作文・実技等)
2月13日 福岡地区私立一般入試前期合格発表(この日まで。各校で日程は異なる。)
2月16日 公立高校一般入試願書受付開始、公立高校推薦入試合格内定通知
2月21日  福岡地区私立一般入試後期
2月23日 公立高校願書受付終了
2月24日 公立高校1次志願倍率発表、公立高校志願先変更受付開始
2月26日 福岡県私立高校一般入試後期合格発表(この日まで。各校で日程は異なる。)
2月27日 公立高校志願先変更受付終了
3月11日 公立高校一般入試
3月18日 公立高校合格発表

今回の最大の変更点は、私立後期試験の日程が例年より遅いということです。
(昨年の私立入試日は前期が1日、後期が9日でしたから大幅な変更と言えると思います。)
これまでは、私立入試のあと、ラスト1ヶ月は公立対策に切り替えて頑張る!という感じだったのですが、今年から、公立を志望する私立後期試験受験者は、私立の勉強と公立の勉強を並行してやる必要がありそうです。これはなかなか大変です。

あと半年で受験シーズン。頑張っていきましょう。
by terakoyanet | 2008-06-15 13:42 | 進学情報 | Trackback | Comments(0)

kuta kuta...

一日中授業づけで完全燃焼しました。長時間なので、少しくらい力を抜かないともたないのですが、テスト前は抜こうと思っても力が入ってしまい、終わったときはフラフラでした。

あと5日間、試験対策全力でやります。みんな頑張ろう。


kuta kuta..._d0116009_192629.jpg
今日、私の唯一の休み時間(30分)の間に、折りよく遊びに来た卒業生3人組
左から、福岡中央高校のKY君、福岡舞鶴高校のKK君、修猷館高校のHK君

笑顔がさわやかなKY君、高校になっても相変わらずの頑張り屋。その頑張りはきっと将来の財産になるよ。
体育祭が終わった当日に来てくれたKK君、今度送別会やろうね。高校生活を楽しんでいるようでよかったです。
相変わらずのマイペースHK君。楽しい生活を送っていそうで何より。でもね、早く頑張り始めたほうがいいよ。中学より高校で頑張るほうがずっと大変なんだから、いまからがほんとの勝負だから、頑張ってください。活躍期待してます!


地震のニュースが流れています。被災地の方々に早く安心して眠れる日が来ますように。
by terakoyanet | 2008-06-15 01:06 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)

「眼に見るは形である」と甲野さんはまた別行に書き出した。

「耳に聴くは声である。形と声は物の本体ではない。物の本体を証得しないものには形も声も無意義である。何物かをこの奧に捕えたるとき、形も声もことごとく新らしき形と声になる。これが象徴である。象徴とは本来空の不可思議を眼に見、耳に聴くための方便である。……」


甲野さんは『虞美人草』の主要人物。彼はここで「形と声は物の本体ではない」と言っています。「物の本体」とは単に「空の不可思議」であり、そして形や声といった「象徴」は「空の不可思議」を見聞きする為の方便にすぎないと言っています。

これは、人が「物」と言うときには、それは常にすでに象徴化されたあとの「物」でしかないのに、人はそれが実体の「物」でもあるかのように扱う、という洞察に基づいています。人が「物」を自明の「物」として観た瞬間に、「空の不可思議」は永遠に過去のものとして葬り去られ、代わりに〈信=真〉が立つのです。そしてまさかもともと「物」の場所に「空の不可思議」があったことも忘れてしまい、わたしたちは象徴化された世界でぬくぬくと生きていくこととなります。


観ずるものは見ず。昔の人は想こそ無上なれと説いた。逝く水は日夜を捨てざるを、いたずらに真と書き、真と書いて、去る波の今書いた真を今載せて杳然(ようぜん)と去るを思わぬが世の常である。堂に法華と言い、石に佛足と言い、橖に相輪と言い、院に浄土と言うも、ただ名と年と歴史を記してわが事畢る(おわる)と思うは屍を抱いて活ける人を髣髴する様なものである。見るは名あるがためではない。観ずるは見るがためではない。太上は形を離れて普遍の念に入る。


続けて言われます。「観ずるものは見ず。」 

見ていると思っている人は見ていない。人は自らが見ているものと見ていないものを解していません。彼らが見ているものとはつまり〈真〉です。そこに〈物〉があるという疑いようのない確信それ自体を見るのです。

一方で彼らが見ていないものとは「空の不可思議」です。彼らは死んだ者も想像的に生き返らせ、自らをも騙すことができる魔術師なので、よもや自らが現に「屍を抱いて」いるとは気づきません。

一方で、「空の不可思議」を観るとは、屍を剥き出しの姿で見ることです。「空の不可思議」の問いは死という深淵の問いに直結します。それは怪物的な問いと言えます。もしかしたら世界中の人々は屍を見ないことに全精力を注ぎ込んでいるのではないでしょうか。世界を支える「象徴」は、常に人の空想的な支えになることによって、人を欺いています。(3へつづく)


夏目漱石『虞美人草』論(2)_d0116009_2304766.jpg
Waterfall  ニュージーランド南島
January 2007

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by terakoyanet | 2008-06-15 01:00 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(2)