今日は朝から専願入試の結果が続々と届いています。
合格したみんなおめでとう💮

(今年、当仁中は専願入試を受ける生徒がとても多いと子どもたちが言っています。)


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by terakoyanet | 2020-01-23 11:38 | 生徒のがんばり(テスト結果等) | Trackback | Comments(0)

罪について(創作)

聖フランチェスコの生涯を描いた28枚の絵画を一目見るために、イタリア中部の町アッシジを訪れた。サンフランチェスコ聖堂を訪れたあと、町をふらりと歩いていると、右手に小さな石造りの教会があって、窓に飾られた赤いバラの花に惹かれて中に入った。教会ではたった30人ほどの信者を前にミサが行われていて、私が教会のオルガンの傍に(ひざまず)くとすぐに、腰が少し曲がった丸い老眼鏡をかけた神父が説教を始めた。


「今日は、アウグスティヌスのパラドックスのお話しをいたしましょう。」


神父がこのとき話し始めたのは、自己の存在証明についての話だった。


「皆さんは、『私自身は存在している』そのことを疑ってはいないかもしれません。しかし、自身の存在を論理的に説明することは、非常に困難な作業を伴います。私たち人間の存在は、それを明らかにしようとしたとたんに、はじめから矛盾を含んでいるということに気づかされます。私たちは、自分のことをAはAであると言い表すことができません。それは、同語反復以外の何ものでもないのです。実際の問題として、人は自分のことをAである、と表明している矢先に、変質してAではなくなるのです。人が死ぬことは、その変質に由来しています。人がたったいま、この瞬間も死に向かっているということは、変質してAでなくなっている証拠です。ほら、まさにあなたもこの瞬間に、死に向かって変質している。それほどに人間は不完全な存在です。だから、私たちは決してAはAである、と自分を定立することはできません。AはAであった、とか、AはAでありうる、とは辛うじて言うことができます。しかしながら、AはAである、とは決して私たちは言い得ることがないのです。」


まさに私もこの瞬間に、死に向かって変質している。私は自分の両手の骨が開いたり閉じたりするのを見ながら、そのことを考えた。


「一方で、この世において己をAはAであると表明できるのは、唯一、神のみです。ヨハネの福音書の18章を思い起こしてください。ここには、イエスが『私は私である』と言ったとたんに、イエスを捕らえようとした人々が後ずさりして、しまいには地に倒れてしまう場面が描かれています。人々は『私は私である』と言う神の子イエスの全能性に圧倒され、自分の非力を全身で思い知らされるのです。そこでは『私は私である』という言明さえも適わない人間存在の本質的な脆弱さが露わになります。一方で、神は完全であり損なわれることがありません。神は、『AはAである』と言うことができるがゆえに、完全な存在です。」


神はなにゆえに完全な存在であるのか、と問うてみる。私たちが不完全であることの対照物としての完全さなのであろうか。


「ですから、神のようにAはAである、ということを定立することができない人間は、それが不可能である以上、AはA´(Aダッシュ)であるという形、つまりAに非ざるものによって自身の同一性を回復するしか術はありません。だから、そこで考え出されたのが「関係」です。他者と相互に類比関係を結び、他者との交わりの中で、他者から与えられた眼差しの交錯によって、自身の実存を取り戻すのです。イエスが福音書で述べた掟、『わたしがあなた方を愛したように、あなた方が互いに愛し合うこと、これがわたしの掟である』は、ここにおいて意味を成します。もしあなたたちが、自分の存在を疑っておらず、しかも私は私である、というふうにそれを証明することができるなら、互いに愛し合う必要はないのです。そうではなく、私たちはそもそも、いずれ死に至る不完全な存在であるがために、不完全な存在としての孤独が宿命づけられているがゆえに、神はお互いに愛し合うことを人間に命じているのです。イエスは、自身の実存さえもままならない私たちの生を見抜き、これを掟としたのです。ですからあなた方も、他者と交わり、愛し合いなさい。アーメン。」


実存さえもままならない、不完全な存在としての孤独。このことが私たちの「原罪」なのかもしれない。そう思うと、これまで私を苦しめてきた「原罪」から許されたような気持ちにもなった。


私は幼いときから「罪」に苦しめられてきたのだと思う。カトリックには「告白」という制度があって、自分が犯した「罪」を神父の前で詳らかにしなければならない。告白という制度は、自らの「罪」を常に問い続けなければならなくなるという意味でとても厄介な代物だ。四六時中、これは罪だろうか、また罪を犯してしまった、そういうことを考えながら、いつでも頭の隅に罪悪感を抱えたまま生活をすることになる。自分がいつからいつまでに何回嘘をついたのか、その数を勘定しながら日々を暮らすのである。


しかし、どれだけ「告白」をしたところで、自分の罪はなくなることがない。告白を終えたとたんに別の罪が蘇生する。あれも罪だったのではないかと思い起こされる。告白をして許されることで、新たな罪が呼び覚まされるのだ。罪は外的な行為だけでなく内面にも存するものなので、心が罪を犯すことは避けがたく、いつでも罪悪感が心を絞めつける。その罪悪感は自己否定に繋がる。


質素な聖堂の中でそうやって幼いころの罪の感情を思い出していたとき、不意に、ああ、これは自分にとって案外苦しいことだったのだな、と気づかされた。苦しいことだった、そして苦しいと思っても良かったのだと心の中で反芻するうちに、長い間、心を絞めつけていたくびきのようなものが解除されていくのを感じた。


「原罪」が不完全な存在としてこの世に生まれおちる私たちの宿命を示すならば、他方で「罪」とは不完全さを満たそうとする私たちが、そのための行為を誤ること指すのかもしれない。その行為を誤ると決して満たされることはないから、たやすく自己否定のループに陥ってしまうのではないか。


私は罪という実体を恐れ、それに苦しめられてきた。しかし、罪というのは必ずしも実体を伴うものでなく、自らの不完全さに対する対処を誤るということなのではないか。自らの孤独を深めることをせずに、一時の享楽に甘んじるということなのではないか。


行為を誤ることで満たされない、これを繰り返して神を遠ざけることは不幸だ。そうやって私たちに不幸を呼び込むものを「罪」という。一方で、私たちの不完全さは、それ自体は罪ではなかった。私たちの不完全さは、私たちを愛で満たすためのうつわそのものだった。



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ZINE 『旅をしても僕はそのまま』2019年発行 所収

参考文献 キリスト教講義 若松英輔+山本芳久


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by terakoyanet | 2020-01-23 02:25 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

昨日、哲学者(今年は小説家として芥川賞の候補にノミネートした)の千葉雅也さんが、勉強についての核心をつくツイートを連発しました。(千葉さんは『勉強の哲学』という読むと脳天がクラクラするような刺激的な本も出しているので、この記事が気になった方はそちらもチェックすることをお勧めします。)








勉強にのめり込み、勉強によって自分を作り替えた経験がある人なら、千葉さんのこのツイート、深く肯かれるのではないでしょうか。

権威主義と言うといかにもいま評判が悪い言葉です。でも、勉強というのは、目の前の絶対的知に対して、己の身を投げうつようなそんな場面があって初めて何かを把捉し次のステップに進めるのだと思います。

その権威はできるだけ薄っぺらくて張りぼてではないものであることが望ましいのですが、とにかく、「お前は何もわかっていないのだ」と囁く目の前の他者に徹底的に追従して、私もあなたのようにわかるようになりたい、と希求する、それを続けることが勉強をするということであり、何かを勉強し尽くした人たちというのは、その感覚をきっと大切にしていると思います。

修猷館高校に進学した生徒たちが、進学説明会の際に後輩たちに向けて「鳥羽先生を信じてついていってください」という言葉を伝えてくれることが度々あるのですが、彼らは合格に向けて何が大切かということをやはりつかんでいるなと思います。
私自身、信じてもらう存在としては、あまりに未熟な指導者ですが、特に修猷館など上位校を目指す生徒たちにとって、指導者の頭の中をコピーするくらいに徹底的に覚えること、解析度を高め理解し尽くすこと、思考回路さえも真似すること、そういったことがとても大切なのです。その点、親や友人、他の塾の情報などに振り回されて、ああでもない、こうでもないとじたばたしてしまうタイプの子はほんとうに伸びません。勉強をするというのは信じる行為に近い。信じ続けて突き抜けた向こう側に、自分独自の思考の自由があります。

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by terakoyanet | 2020-01-21 03:34 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)

聖マリアンナ医大の話、高3の女の子が半泣きで怒っていました。当人や家族たちだけでなく、学校も、予備校も、塾も、1点さえも軽んじるなと指導してきた人全てが怒るべきことだと思います。ほんとうにひどい。

・・・

センター試験が終わりました。(試験を受けた生徒のみなさん、おつかれさまでした。)

昨日までに聞いた、現代国語の授業を取っていた、高3のセンター現国の結果、100点、92点、92点、86点。(100点満点です。)
テクニックだけで取れる点数はたかが知れているので、ちゃんと読む力を育てたつもりです。良い結果が出て嬉しいです。
生徒たちのおかげでいい授業になっているから、来年度もみんな現国とってほしいなあと心から思います。

現代国語の授業では、今年度も授業で東浩紀,内田樹,大澤真幸,木村敏,鈴木孝夫,森田真生,鷲田清一,芥川龍之介,井伏鱒二,大江健三郎,川端康成,大庭みな子,岡本かの子,加賀乙彦,小池昌代,小林秀雄,佐々木幸綱,夏目漱石,堀江敏幸,三浦哲郎,柳田国男,森鴎外らを扱いました。それらをただ解くだけでなく、ちゃんと身になるような「読書」をしたのです。生徒らに何も残らないわけがありません。




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by terakoyanet | 2020-01-21 03:07 | 生徒のがんばり(テスト結果等) | Trackback | Comments(0)

今日はセンター入試。
受験生たちの健闘を朝からずっと祈り続けています。

・・・・

受験生はただでさえ不安に陥りやすいものですから、
どうか、ご家族が不安感を与えることをないよう、配慮をお願いします。

入試の直前だけ学校や塾を休むというのはよくないです。
学校ではわかりませんが、少なくとも塾では直前にしかできないことを濃厚にやっています。
直前になって休みたいという子はそれだけ心がじたばたしている証拠であり、それだけで心配になります。
ないものねだりのベストを探し求める心は理解できますが、もっと自分の「いま」を認めてあげなければ、いつまでも自分を見つめる力はつきませんよ。

早稲田佐賀高校をはじめ、合格報告が連日次々と。
合格した生徒の皆さん、おめでとう🌸


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by terakoyanet | 2020-01-18 13:57 | お知らせ | Trackback | Comments(0)

受験が近づくにつれ、勉強に集中するどころか、どうしようもなく下を向きがちになり何も手につかなくなる子がいる。そういう子たちは、相対的に見て受験が自分にとって「敗北」を意味するものでしかないという現実がそのまま自己否定につながり、結果身動きが取れなくなってしまっている。


こういう生徒には「がんばれ」ではどうしようもない。私が昨夜ある男子に言ったのは「勉強なんてできなくてもいい」ということだ。他人との比較ですっかり自信を無くしていた彼に対して私ができることといえば、勉強ができるかどうかなんて君の価値には全く関係ないと全力で伝えることだけだった。


今日の授業で彼は表情が変わっていた。「勉強なんてできなくてもいい」なんて受験生には禁句とも思われる言葉を吐かれた彼が、今日は伸び伸びと授業を受け、数学で半年ぶりに60点以上の高得点をとった。


本人の力を阻害しているのは往々にして相対的な評価の低さでありそれに伴う自己否定感だ。そこを手当てするだけで、蘇る子どもはたくさんいると思う。子どもたちを相対的な評価の場所に置いている人間として、もっともっと手当てをしていかなければと改めて思った。



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by terakoyanet | 2020-01-18 05:10 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

大手塾に通っているクラスメートが、自分がその塾に通っていることをやたら自慢する。それが見苦しいと中学生のある男の子が昨日苦言を呈していました。「〇〇〇に行ってるからって、じゃあお前はどうなの?」とかなり辛辣なことを言っていたので、宥めつつ、彼が言いたいこと自体には賛同しました。

子どもたちがある学校や塾に入っただけで自分が大きく見えるような錯覚を覚えるとしたら、それは子どもたち自身だけのせいじゃなく、それを取り巻く大人の責任も根深いものがあると思います。

塾自らが、塾に通わせる親が、積極的に子どもに対して上から見下すような価値観を根付かせようとする場面があります。しかし私は、これからの学習塾は、優越感やエリート意識を醸成することから明確に決別すべきだと思います。そういった意識の行く先には何も実体らしきものがないとわかったいま、そういう意識を利用して子どもを引っ張っていくことは虚偽であり時代錯誤だと強く言いたいと思います。優越感やエリート意識では、人間は幸せになんてなれませんよ。

むしろそんな詭弁に頼らなくても、子どもたちはちゃんと学力を伸ばすことができる、深い知識と知恵を蓄えてそれを人生に反映させることができるというのをちゃんと証明してみせるのが、(新しい時代の考え方にすっかり取り残されている)学校の外で子どもたちと勉強する大人たちの仕事だと思います。

寺子屋に通っている子どもたちも、決して塾に(寺子屋に)通っていることを自慢することなく、むしろ、身近にいる子に、自分が塾に通っている恩恵の一部でも伝えてあげられる、そんな人になってほしいと思います。


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by terakoyanet | 2020-01-17 02:13 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

尾道の朝の風景

早朝の尾道に行く機会がありました。
尾道は言わずと知れた北前船の寄港地として発展した港町。

町の風景は大きく変化したとは言え、坂の多い路地、国宝・重文の文化財が立ち並ぶ寺社、尾道水道と対岸の因島と、ほんとうに見どころの多い美しい町並みで、一度ここに住んでみたいと思える場所です。

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東京物語(小津安二郎)を見た後の尾道は、20年前に見た尾道とは一味もふた味も違って見えて愛おしく思えました。


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ちゃんと写真を撮っていませんが、本と音楽の店「紙片」、これほどの独創を感じる店はなかなか出会えません。
置いてある本も、そしてデザインも、ほんとうに素晴らしかった。

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あ、たぷの里だ。

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by terakoyanet | 2020-01-14 13:09 | 好きな場所 | Trackback | Comments(0)

1月13日の雑感

昨日は早稲田佐賀高校の入試が行われ、過去最多数の生徒が受験に臨みました。
試験が終わって教室にやって来た子どもたちの表情のすがすがしさに心が弾みました。
次はいよいよ専願入試、そして公立推薦入試、高専入試。
受験生たちの正念場が続きます。

昨日は中1の共通クラス、今日は中1特進クラスの授業。
中1は最近ちょっとゆるみが見られたので、昨日は数学の宿題ができなかった子一人ひとりとお話しをしました。(この一人ひとりにお子さんが含まれているかどうかは、本人に尋ねてみてください。)しばらくは宿題の状況に注視し、より細やかに声を掛けていきたいと思います。この時期の中1はほんとうに大切な時期です。

今日はセンター前最後の現代国語の授業でした。
中には3年間ずっと現代国語の授業に参加し続け、1994年以降のセンター国語過去問をほぼコンプリートした生徒も。
現代国語の授業は何気にとんでもなく高度なことをやっているので、3年間授業に通い続けた生徒は、読解力どころか、自身が物書きになるレベルの基礎は身につくと思います。今日は哲学者の大澤真幸と小説家の三浦哲郎の文章。センター前最後なので、敢えてめちゃくちゃ解く甲斐のある問題を選びました。

どうか、受験生たちが最後まで自分が納得がいくほどに努力を重ね、そして本番にありったけの力を出すことができることを願っています。




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by terakoyanet | 2020-01-13 23:55 | お知らせ | Trackback | Comments(0)

とらきつね一般書ランキング(11/22-12/29)


とらきつねより、昨年最後の書籍ランキングです。


(初)1うれしい生活 植本一子 河出書房新社
(1)2まとまらない人 坂口恭平 リトルモア
(初)3「いいんだよ」は魔法の言葉 立花高等学校 梓書院
(9)4 親子の手帖 鳥羽和久 鳥影社
(再)5 自殺会議 末井昭 朝日出版社
(初)6 不登校になって伸びた7つの能力 吉田晃子 星山海琳 廣済堂出版
(再)7 自殺 末井昭 朝日出版社
(初)8 橙書店にて 田尻久子 晶文社
(初)9 ありのままがあるところ 福森伸 晶文社
(初)10 小さな天才の育て方・育ち方 吉田晃子 星山海琳 セルバ出版



満席のイベントが3つも行われ、たくさんの方々で賑わったとらきつね。これまでで最も多くの本が皆さまのもとに届いた月となりました。

そんな中、トップを飾ったのは植本一子さんの初の写真集『うれしい生活』。ほんとうにすばらしいので一人でも多くの方に届きますように。


田尻久子さんは当店ですごく売れるのですが、今回は売れるペースが過去でいちばん早いです。しょうぶ学園福森さんの『ありのままがあるところ』も初登場。話題作目白押しです。


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1位の植本一子さん写真集『うれしい生活』については、別のところでレビューを書きましたので以下に転載します。

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植本一子 うれしい生活(河出書房新社)

写真を撮ることを「世界との一定の関係に自分を置くこと」と言ったのはスーザン・ソンタグ(『写真論』1987年)だが、『うれしい生活』はまさに、植本一子という一人の人間がどのように世界と関係を結んできたかを記録した写真集である。

被写体に対しての愛を感じる写真というのは美しい。でも、愛に耽溺する余り、愛に対しての驕りを感じさせる写真は、とたんに醜悪になる。

植本一子が撮る人たちの多くは笑っていない。
彼女の撮る写真は、どこか被写体と一定の距離感が保たれていて、愛があるのに醒めている。彼女は愛に耽溺しないし驕らない。私はそこに彼女の作家性を強烈に感じる。

自然光のみで撮影するスタジオ「天然スタジオ」を運営する彼女の写真は、やはり光が美しい。(彼女のことを"光の魔術師・下北のフェルメール"と呼んでいる人がいたな。)この光は彼女の潔い覚悟の現れである。光の前では何もごまかせない。光は全てを衆目に晒す。

この写真集を何度も繰り返し見てしまうのは、彼女の世界への希求がそのままに映し出されているからだ。「たとえ一緒にいられなくても、遠くでもいいから、どうか、わたしを好きなまんまでいて。」そんな声が聞こえてくるようで、胸がどうしようもなく締めつけられる。

しかし、夫である石田さん(ECD)の視線は、そういった彼女の作家性を食い破ってしまう。ECDはこの写真集における異物である。彼の透徹した個(孤)の眼差しは、私たちの奇妙な生という営みを睨み返す。ECDはこの写真の途中から痩せていき、ついには死に至る。彼の死は、この写真集に永遠性を備えた命を与えた。なんてことだろうと思う。

たとえ一緒にいられなくても、あなたに会えたことがうれしい。私たちは最も身近な家族とでさえ、いつまでもいっしょにはいられない。子どもは瞬く間に離れていってしまうし、私もあなたも、もしかしたら明日死んでしまうかもしれない。

それでも、たったいまあなたといるという現実がうれしいのだ。私たちには「いま」しかなく、できることは、いまといまとを大切に繋いでいくことだけだ。この写真集は、うれしい「いま」の光で溢れている。




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by terakoyanet | 2020-01-08 20:38 | とらきつね | Trackback | Comments(0)