このシリーズも残り3回。今日は、子どものいじめを抑えるために大人が未然にできることの話です。


(子どもと)築いた信頼関係をあえて利用することで、子どもたち一人ひとりの生存を守るのです。

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新刊発売前企画

『親子の手帖』部分公開
#親子の手帖


by terakoyanet | 2020-05-08 22:17 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

いじめと不登校

学級でのいじめとか、嫌がらせを受けたことによる不登校とか、そういう問題は本当に途絶えることがない。


やっぱり一番問題なのは、学校にいじめをさせない技術が決定的に欠けていること。

そして、いじめが起こったときに、いったい何が問題だったのか、その根っこの部分を子どもたちに考えさせるための言葉を、先生たちが持っていないこと。

いじめが起こったとき、「担任の先生は何もしてくれなかった。」いじめられた側の親は必ず言います。実際、学校の先生たちというのは何もせずに保身に走っているようにしか見えないことが多い。

でも、実際のところは、担任は何もしないのではなく、何をする技術も持っていないくて、どうすればいいのかわからない、そういう場合が圧倒的に多いのでしょう。(不幸なことに!)



学校の先生は、その場にいる子どもと子ども、子どもと大人の間の関係をしなやかにディレクションできる専門職でなければならない。そうでなければ、先生たちは今日も泣きながら苦しんでいる子どもたちを助けることはできない。



悪いと思っていない子どもに謝らせてはいけない。

悪い子がなぜ悪い事をするのか想像もせずに、悪い子という烙印を押したまま眺めているだけで、何かが好転するわけがない。

悪い子を悪い子として扱うのではなく、一人の人間として向き合ったとき、その子が何でそういう行動をとったのかが見えてくる。そうすれば初めてその子と向き合って話しをしてみることができる。うまい着地点が見つかるかはわからないけれど、まずはその子自体を見ようとしなければ、何も変わらない。


一方で、自分の子どもがいじめられるのが怖くて学校に行けなくなったなら、親は子どもと一緒に不安の沼底に沈むのではなくて、あなたは学校に行かなくったって大丈夫なのよと隣で太陽のように笑っていてほしい。


それだけで、子どもは、僕は、私は、きっと大丈夫なんだという心強さを感じるはずで、こういう時期の子どもにとっては、それが何よりも必要なことです。



念のために申し上げておけば、以上の内容は、本校が所在する当仁校区にいじめが多い、という話ではありません。いまだに当仁中は柄が悪いなんて、そんな噂を立てている人がいるらしく、何言ってんだと思うのですが、当仁中は決して悪い学校ではないどころか、むしろとても良い学校だと、子どもたちの顔を思い浮かべながらしみじみと思います。(もちろん誰かにとってはとても良い学校でだれかにとっては悪い学校かもしれません。でもそれは全ての学校に当てはまるでしょう。)

いじめは私立や国立の中学など成績上位の学校のほうが少ない、そう思っている方もいるようですが、果たしてそうでしょうか。私はそうは思っていません。どの学校に行っても巡り合わせによっては誰でもいじめに合う可能性があるし、加害者になる可能性だってあるかもしれない。(いまはLINEいじめがほんとうにこわい。)

いじめというのは、悪い子がいるから、弱い子がいるから起こるのではありません。それは人と人との関係性の病なのですから、原因を悪い子に求めるのではなく、私も原因をつくったひとりだという意識を持って、関係性そのものを見極めて対処する大人が必要です。



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by terakoyanet | 2018-07-13 16:01 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)


いじめはダメだけど、いじりはよい。
そもそも、その認識が間違っています。

いじられている子どもがヘラヘラとした笑顔を見せていて、それで周りの大人が安心しているとしたら、大間違いです。
その笑顔は、その子にとって、自尊心の最後の砦かもしれないんです。

いじりだからと見過ごしてはいけません。
いじりの多くは、いじめと同じく一定のヒエラルキー・上下関係に依存した、すごく一方的な暴力です。

だから、バラエティ番組でたびたび登場するいじりが私は好きではありません。
弱者いじりをする人たちを私は見ていられません。

こういうことを言うと、そういうことを言っている人のほうが差別意識があるのだ、という人がいます。

でも、違うんです。そうではなくて、あなたが差別に対して鈍感なんです。
自分自身が差別される立場に転落する、その恐ろしさを知らないんです。


いつも天真爛漫な子どもたち。
目の前にいる友達が大好きだから、思わずお互いに悪口を言い合うじゃれ合いをいつも目にします。
それはとてもほほえましくて、見ているだけでこちらまでうれしくなるほど。

相思相愛のじゃれ合いと、いじりは、明らかに違います。(でも、じゃれ合いというのは、一時的な関係性に依存した脆弱なものということは覚えておかなくてはいけません。いつだっていじり、いじめに転落しうるから。)
テレビで芸人たちが展開するいじりは、いくら本人たちが「そこに愛があるから」と言ったところで、そんなものは言い訳にならない構造があります。他より劣る人、いびつな人、空気が読めない人をあざ笑っているでしょう。

繰り返しますが、いじめかいじりかというのは表面的には違っていても、その構造は同じです。
いじりもいじめの一種なんです。
このことに大人が敏感になっていかないと、けっして子どもたちのいじめの問題は是正されません。


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by terakoyanet | 2018-02-06 10:24 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

りまさんの写真

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(*写真はweb東奥さんより)

このはじける笑顔の10日後に亡くなった葛西りまさんの写真がご遺族の意思で公表されました。
りまさんのご家族が写真の公開に踏み切った経緯についてはこちらの記事に書かれています。

いじめで亡くなったりまさん。いじめは本当にむごいことなんだ、人の命を奪うほどのことなんだということを、中高生のみんな一人ひとりがかみしめてほしいと思います。

いじめを正当化する理由なんて、何一つないんです。
「○○だから、あの子が悪い」なんて理由をつけて、人をいじめたり無視したりするのは間違っているんです。

ひとり対複数になった時点で、複数側は卑怯です。
ひとりの子に対して、複数で悪口を言ったり、無視したり、絶対にしないで。

女の子たちが自分を守るために、自分たちで楽しむために、派閥(グループ)を作る気持ちはわかります。
一人ひとりはそんなに強くないし、グループを作ることで本当にいい友だちと出会えることだってあるよね。

でも、いつでも、派閥を作ることにはリスクがあること、それによって除け者(のけもの)にされて、傷つく人がいるという事実から、目を背けないで。私も周りの人も幸せになるように、考えて行動しましょう。

そして、この写真を見ても、何も感じない人に対して、その人たちを責めないで。
その人たちの固まってしまった心は、溶かすのに時間がかかるのです。
争う前に、その人たちが、いったい何を考えているのか、想像してみることからしか、何も前に進みません。

想像してその人たちの心が「わかる」わけではないかもしれません。
でも、想像してみる、寄り添おうとしてみる、そのことはとても大切です。


それにしても、りまさんの写真、本当に素敵ですね。



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by terakoyanet | 2016-10-18 13:59 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

マラケシュで最も印象に残っている場所をひとつ挙げるように言われたら、迷わずマドラサ・ベン・ユーセフが最初に頭に浮かぶ。

マドラサというのは神学校(高等教育機関)のことで、ここベン・ユーセフは16世紀に建てられたマラケシュ最大の学校である。最大とは言っても、メディナの迷路の中で、何の変哲もない外壁に囲まれたこの建物を見つけることは容易ではなく、ツアリストたちは、地元の人―ときには炎天下の中、別の場所に連れ回されたあげく不当な案内料を請求するガイドたち―の世話にならないと、なかなかたどり着けるものではない。

ようやくたどり着いて、この建物の中に入った人たちの多くが驚きの声を上げるに違いない。
そこは、一歩足を踏み入れると、まさに別世界。
たった数秒前に味わった喧騒が嘘のような静寂。
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体に纏わりついた熱気をふるい払うかのように首を縦横に振ったあと、ゆっくり深呼吸をする。
そうやって心身の状態を切り替えると、とたんに眩暈がするような緻密な美しさが体の中に染みるように入っていくのを感じる。

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イスラム建築の美しさは、内部にその美を秘めているところにある。
外観だけを取り繕おうとする美が多い世界の中で、外観では想像もつかなかった精密な美の世界が内部に宿っているのを目撃するのは、それだけで非常に眩(まばゆ)い経験だ。壁面は鮮やかながら、すべてがアラベスクの幾何学模様で飾られているために、知性的な落ち着いた雰囲気を感じる。


マドラサが私に強く印象を残したのは、その建物が、全寮制の学校としての形をそのまま保存していたからである。鮮やかな壁面をもつ中庭と礼拝室の周囲は、2階建ての寮室群に囲まれていて、その寮室ひとつひとつを覗き見ることができた。
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寮室はとても質素なつくりで、外光をうまく取り入れることができる構造になっている。
この禁欲的な部屋で勉学に打ち込んだかつての学生の姿を想像した。

神学校と言ったところで、きっとほとんどの人にとって縁遠いものと思われるに違いない。
でも、私自身は人生で、神学校という存在を身近に感じた時期がある。

私は実家がカトリックで幼少のころから毎日教会に通っていて、少年時代に、約十年もの間「ミサ答え」と呼ばれる神父の侍者を経験した。そして、中学に上がるときに、教会の神父やシスターたちから「神父にならないか」と声がかかった。ひとつ上の姉が、すでに修道院に入っていた私にとって、その誘いはあまりに現実的で切実な声で、大人の声に応えなければならないのだろうか、と考えた時期があった。でも周囲の懸命な教えにかかわらず神の存在の是非についてさえも保留していた私は、自分には意志も適性もないということがわかっていたので、それを拒否した。人生で初めて意識的に自分の意志を示したのはこのときだったと思う。

普通の公立中学校に入って驚いた。突然、大人たちが本音で語りだしたように見えた。こんなに醜い世界に住んでいたのかと、大人の偏狭さと、学校という狭い世界で起こるさまざまな理不尽さに慄(おのの)いた。
小学校からの大切な友人、最も身近な友人がいじめに遭った。彼は成績優秀で頭の回転が早かった。そして嫌味にならないユーモアと優しさを兼ね備えていて、私はそのキャラクターが羨ましかった。そんな彼が、「ガリ勉」のレッテルを貼られ、その人格を矮小化された結果、一部の人間に疎まれ、単なるストレス発散のはけ口として暴力を振るわれた。それが日常的に続いた。何もできない私は何度も学校の先生に相談しようと思った。周りの友人たちは自分の身を守ることで精一杯だったのか、誰もそんなことは口に出す雰囲気はなかった。次はわが身なのである。もう諦めている、というか、ただ我慢していまをやり過ごす、そう考えているように見えた。先生に相談しようと私は手紙まで書いたが、結局のところ渡せずじまいだった。私が単に意気地なしだったのであろうが、そのときは信頼できる大人がいないことを恨んだ。なぜ大人の誰かが手を差し伸べてくれないのかと思った。

ある夜私はおもむろにふとんから出てふとんの上に跪(ひざまず)いた。そして人生で初めて神様に祈った。
「○○くんを助けてください。○○くんを助けてあげられなくてごめんなさい。」
その夜から、毎晩親に気づかないようにふとんから出て、ふとんの上に跪き、神様に祈った。「○○くんを助けてください。」
祈りをささげるときにぶるっと震えながらつけた、電気ストーブの肌を焼くようなひりひりとした熱さを昨日のことのように思い出す。


マドラサ・ベン・ユーセフの質素な寮室を覗き見したとき、神と近しかった過去のことが鮮やかに蘇った。かつてこの部屋で学問に勤しんだ学生の孤独に懐かしみと親しみを覚えた。
きっと学問と祈りというのは近接している。学問は、祈りと同じような深厚な動機がなくては、成しえないもの、私にはそう思える。私にとって、祈りはやや縁遠いものになってしまったけれど、マドラサ・ベン・ユーセフは、学問と祈りとが折り重なる場所として、私に深遠な印象を残した。



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by terakoyanet | 2015-11-23 04:42 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(2)

日々、戦っている中学生と高校生へ。

一人の人間に対し、複数の人間の暴力や罵声(悪口)が向けられているとき、複数側の人間に加担しないでください。複数対一人はいつだって卑怯です。

暴力や威嚇で相手を屈しようとする人間というのは、自分に真の実力がないことを諸手(もろて)を挙げて認めているのと同じことです。中身がないから、卑屈な手段に訴えないと相手に勝てない部分があるから、暴力に頼るのです。殴る人より殴られる人のほうに真の力があります。

一人で悩まないでください。みんなから無視されたり悪口言われたりしたとき、一人で抱え込まないでください。助けてくれる人はきっといます。(塾生は私たちがきっと助けます。)

あなたには非はありません。自信を失わないでください。あなたは大切なものは何も失っていません。大丈夫です。

複数の人から無視された場合、悪いのは複数の方です。どんな理由があろうとも、皆があなたが悪いと言ったとしても、悪いのは複数の方です。だから私は複数の子全員を否定してもあなたを守ります。



これはみんなに伝えたいことだけれど、一人の人を吊るし上げる複数の子のうちの一人に決してならないで。
あらゆる暴力に決して加担しない勇気を持とう。



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by terakoyanet | 2015-09-10 13:44 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

松竹景虎君の作文

長崎県新上五島町で今年1月に自殺で亡くなった中3生松竹景虎君が昨年の夏休みに作文を書いていたそうです。

<中3自殺>松竹景虎君が残した夏休みの作文 いじめテーマ ―毎日新聞―


◇松竹君が書いた作文(一部抜粋)

 空気

 情報社会である現在、毎日膨大な情報が流れてくるが、必ずといっていいほど目にする記事がある。それがいじめ問題だ。「中学の男子生徒がいじめにより自殺しました」などという事件が起こるのが最近はあたりまえと思う人が増えていると思う。

 いじめの加害者の気持ちを想像してみた。主な理由は二つほど考えられる。一つ目は、いじめという行為が楽しい。「相手の反応がおもしろい」などがよく補足としてつけ足される。このての加害者は恐らく、自分がその苦痛を知ることでしかやめないだろう。

 二つ目は、周りの友達に合わせているからだと考えられる。そう、ほとんどの人が自分が嫌われないように生活しているのだ。もし、少しでも友達が嫌いな子に優しくすれば、そのことを責められ、今度は自分がいじめの対象になるのではないかという不安と恐怖にかられる。それの連鎖がおこるから、周りの人に合わせるといじめがおこる可能性があると思う。

 もっともたちが悪いのは後者の方だ。なぜなら、いじめが完全に終わることがほとんどないからだ。対象者は移り変わってもいじめは続く。

 では、いじめの原因は何かを伝えよう。それは「空気」だ。これが目に見えないものだから恐ろしい。いじめをしなければ自分がやられてしまうという空気、いじめに参加しないといけない空気。いじめの加害者、主犯でさえも空気によって動かされているのだ。

 この問題を解決する方法はただ一つ……。みんなが親友になることだ。そう、実はすごく簡単なはずなのだ。人の笑顔は人を笑顔にし、その笑顔がまた別の人を笑顔にすると思う。僕の好きな歌にこういう歌詞がある。「空気なんてよまずに笑っとけ、笑顔笑顔、笑うかどには福来たる」。暗い顔をしていてもいいことは起こらない。学校で習う数学の公式や英単語を忘れても、笑顔の大切さだけは忘れないでください。



これほど切実にいじめについて考え抜いた一人の同世代の生徒が自らの命を絶ったという事実を、小中高生のみんなに知ってほしいと思います。

教室に蔓延する「空気」。とても苦しかったでしょう。



無責任な大人ほど「見て見ぬふりは同罪だ」なんてことを言います。
でも、「空気」の恐ろしさを知っている子どもたちは、そんなこと言われても、自分一人でその「空気」を変えることができないってことがわかっています。だから結果的に「見て見ぬふり」になってしまう。

「いじめはいけない」と上から語る先生なんて存在意義はありません。
教室からいじめをなくすには、それとなく「空気」を読んで、それをうまく換気しながら空気の中身を変えていける先生が必要です。そのために先生達にはもっともっと知恵を絞ってほしいです。「空気」の中にいる子どもたちは微力です。大人の助けが必要です。

そして、子どもたちには、まず、松竹君が記したその「空気」の恐ろしさを、この作文を通して知ってほしいと思います。
そうすれば「空気」を感じても、その「空気」と距離を置くことができるかもしれない。
距離を置くことができる子が増えれば、その「空気」が牙をむくことが少なくなります。



松竹君が引用した「空気なんてよまずに笑っとけ、笑顔笑顔、笑うかどには福来たる」の歌詞は桃黒亭一門(ももいろクローバーZ)の「ニッポン笑顔百景」から取られています。

笑おう 笑おう 笑えなくても 笑うしかないでしょ 笑いましょ 笑おう 口角上げて ひたすら 笑いましょ
笑おう 泣いたら負けだ やけくそ 笑いましょ
そんな歌詞を含むこの歌が、松竹君にとっての応援歌となっていたとすれば、なんともせつなくて悲しすぎます。

ももいろクローバーZは、奇しくも松竹君が亡くなったちょうど4か月後の今年5月8日に「泣いてもいいんだよ」をリリースしています。
全然泣けなくて苦しいのは誰ですか 全然今なら 泣いてもいいんだよ」と繰り返すこの曲を聴いていると、泣くことができなかった松下君の悲劇について、考えずにはいられません。



◇桃黒亭一門「ニッポン笑顔百景」(IKZO version)

幾三バージョンでないのを探したのですが・・・ありませんでした。


◇ももいろクローバーZ「泣いてもいいんだよ」



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by terakoyanet | 2014-06-06 11:01 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

「いじめている君へ」のシリーズは朝日新聞デジタルで読むことができます。

このシリーズ最終回は、はるかぜちゃんの愛称で知られる小6タレントの春名風花さんが書いた文章。
私はあえて小6なのにこんな文章を!とかは書きたくありません。
確かに彼女は早熟ですが、考えるということにおいて本来年齢は関係ありません。
彼女はツイッターで日ごろから鋭い言葉を吐いていますが、今回の言葉もいじめの本質を突くとても鋭いものです。


―――――――

ぼくは小学6年生です。タレントだけど、ふつうの女の子です。

今から書く言葉は君には届かないかもしれない。だって、いじめてる子は、自分がいじめっ子だなんて思っていないから。

いじめがばれた時、いじめっ子が口をそろえて「じぶんはいじめてない」って言うのは、大人が言う保身(ほしん)のためだけじゃなく、その子の正直な気持ちじゃないかなと思います。

ただ遊んでいるだけなんだよね。自分より弱いおもちゃで。相手を人間だと思ってたら、いじめなんてできないよね。感情のおもむくままに、醜悪(しゅうあく)なゲームで遊んでいるんだもんね。

ぼくもツイッターでよく死ねとか消えろとかブスとかウザいとか言われます。顔が見えないから体は傷つかないけど、匿名(とくめい)なぶん、言葉のナイフは鋭(するど)いです。

ぼくだけでなく、時には家族を傷つけられることもある。涙が出ないくらい苦しくて、死にたくなる日もあります。

けれどぼくは、ぼくがいくら泣こうが、本当に自殺しようが、その人たちが何も感じないことを知っている。いじめられた子が苦しんで、泣いて、死んでも、いじめた子は変わらず明日も笑ってご飯を食べる。いじめは、いじめた人には「どうでもいいこと」なんです。

いじめを止めるのは、残念ながらいじめられた子の死ではありません。その子が死んでも、また他の子でいじめは続く。いじめは、いじめる子に想像力(そうぞうりょく)を持ってもらうことでしか止まらない。

いじめゲームをしている君へ。

あのね。キモい死ねと連日ネットで言われるぼくが生まれた日、パパとママはうれしくて、命にかえても守りたいと思って、ぼくがかわいくて、すごく泣いたらしいですよ。この子に出会うために生きてきたんだって思えるくらい幸せだったんだって。それは、ぼくが生意気(なまいき)になった今でも変わらないそうですよ。

想像してください。君があざ笑った子がはじめて立った日、はじめて歩いた日、はじめて笑った日、うれしくて泣いたり笑ったりした人たちの姿を。君がキモいウザいと思った人を、世界中の誰(だれ)よりも、じぶんの命にかえても、愛している人たちのことを。

そして、その人たちと同じように笑ったり泣いたりして君を育ててきた、君のお父さんやお母さんが、今の君を見てどう思うのか。

それは、君のちっぽけな優越感(ゆうえつかん)と引き換(か)えに失ってもいいものなのか。いま一度、考えてみてください。
(はるな・ふうか=タレント)




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by terakoyanet | 2012-08-17 17:44 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(2)

2週間後の7月27日(日)は1・2年生の到達度テスト!
7月31日(木)は3年生の到達度テスト!

テスト範囲は膨大です! いまからテストを意識した勉強を始めてください。

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今度合宿で訪れるサンビレッジ茜のグラススキーゲレンデより




先日個別指導をしているときに、ある子が学校の授業中に生徒たちがある先生をいじめている、という話をしていました。
その子も先生へのいじめに加担している印象を受けたので、それはおかしい、先生がかわいそうだ、とその子に訴えました。
ご家庭でも子どもがそういうことを言った場合には、それは子どもたちがおかしい、ということをきちんと伝えていただきたいと思います。




昨日の個別指導のときには、とても気になることを聞きました。
個別指導をした子のクラスのある授業で「精神的に成長してほしい人ランキング」というのがあり、男子と女子のランキングが出たとのこと。

私が個別指導をした子も1位ではないものの名前が出たらしく、心を痛めていました。
しかもこのランキングは(一部の)子どもたちのなかでは「バカなやつランキング」という認識のもと行われたとのことで、子どもたちの話を聞く限り、こういうことをする趣旨が全く理解できません。
by terakoyanet | 2008-07-13 10:51 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(2)

いじめ・暴力反対運動

日々、戦っている中学生と高校生へ。

一人の人間に対し、複数の人間の暴力や罵声(悪口)が向けられているとき、複数側の人間に加担しないでください。一人対複数はいつだって卑怯です。

暴力や威嚇で相手を屈しようとする人間というのは、自分に真の実力がないことを白旗振って認めているのと同じことです。中身がないから暴力に頼るのです。殴る人より殴られる人のほうに真の力があります。

いじめを受けたとき、一人で悩まないでください。みんなから無視されたり悪口言われたりしたとき、一人で抱え込まないでください。助けてくれる人はきっといます。(塾生は私が助けます。)

いじめを受けたあなたには非はありません。わたしはいじめを受ける子のほうがずっとずっと好きです。自信を失わないでください。あなたは大切なものは何も失っていません。大丈夫です。

複数の人から無視された場合、悪いのは複数の方です。どんな理由があろうとも、皆があなたが悪いと言ったとしても、悪いのは複数の方です。だからわたしは複数の子全員を否定してもあなたを守ります。

あらゆる暴力にNOを言おう。
一人の人を吊るし上げる複数の子のうちの一人に決してならないで。
あらゆる暴力に加担しない勇気を持とう。
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by terakoyanet | 2008-04-05 02:55 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(4)