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NHKのロクいちを見てくださった方々から反響が。子どもたちからもいろんなツッコミが。ありがとうございます。豊田記者が丁寧にまとめてくださいました。豊田記者は生徒たちと直接コミュニケーションを取りながら取材してくださって、取材を受けた生徒たちも嬉しかったんじゃないかなあと思います。

放送を見た方のために余計なことを少し加えさせていただくと、子どもたちは放送よりずっと痛みをともなう過激な話をしています。そして大人が舌を巻くほどかなり高度な話を展開しています。高校生はほんとうにすごい!面白すぎて毎週ヒリヒリしています。

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今日はこちら☟の投稿に反響が。(ちなみにこれは昨日、今日のことではありません。教室内で起きたセンシティブなことを書くときは1年以上の大きなタイムラグをとっています。)
プリントを忘れた子を叱ってもしょうがないんです。
困るなあという気持ちは伝えた上で(これだけでも子どもの心には随分負担になります)この子はそうなっていると思うしかないんです。そもそもプリントくらい忘れますよ。でも、継続してずっと忘れる子に対しては、なんでプリント忘れちゃうんだろうねということを根気強く一緒に考えていこうと思います。



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by terakoyanet | 2020-05-30 13:49 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)

明日のNHK18:10~のロクいち!福岡で、コロナ禍の中、唐人町寺子屋の高校生ディスカッション授業がどのように行われたのか、特集で放送されます。取材をしてくださった豊田記者の頑張りには目を見張らされるものがありました。
うちの教室がどうこうというより、高校生たちが本当に生き生きとしているので、ほんとうにぜひ見ていただきたいです。

番組の取材をいただいた高校生ディスカッションは、本校の非常に特徴的な授業のひとつで、唯一受験に直結しない、でも、圧倒的に自分の言葉を身につけることができる授業です。

今年は高校生7名による授業(というより対話)が行われており、毎回ほんとうに刺激的な時間になっています。

ディスカッションの子どもたち一人ひとりの発言をこちらで拾ってご紹介することはできませんが、いったいどんな内容のことを話しているか、授業のレジュメ内容をこちらでご紹介したいと思います。


◇2020年第1回(4/19 ZOOM遠隔で実施)
トークテーマ コロナ禍の世界、日本、そして私たち


Topic 1 休校下の生活 福岡県 緊急事態宣言(特定警戒都道府県)


Topic 2 情報とのつき合い方 


Topic3 コロナ禍と民主主義


人間は確かに動物である。だから動物を管理するように管理すれば感染は防げる。でも同時に人間は動物では「ない」。そのことの意味を、絶対忘れてはならない。        

AERA 4/20 「eyes 東浩紀」より


私は皆さんに保証したい。自由に旅行し移動する権利を得るのがとても大変だった私のような人間に言わせれば、こうした制限は絶対的な緊急時にしか正当化されません。民主主義社会では決して軽々しく発動されてはならず、暫定的でないといけない。しかし今は、多くの命を救うために欠かせないのです。      

論座 藤田直央(朝日新聞)メルケル独首相 テレビ演説より




◇2020年第2回(4/26 ZOOM遠隔で実施)
トークテーマ コロナ禍の世界、日本、そして私たち その2

Topic1 国家とは何か

国家権力とは何か? 国家がみずからの命令や法に(人びとがそれに納得しているかどうかにかかわらず)人びとを従わせることができるのはなぜか?

理由:国家は最終的には暴力(物理的力)をもちいることができるから。(国家はみずからの命令に背いた人間を逮捕し、処罰することができる。物理的な力の行使が大規模になると、戦争までいきつく。)
「権力」とはたとえ相手がイヤだと思ってもこちら側のいうことに従わせることができる「可能性」のこと。ここで相手を従せる可能性を保証するのは暴力だけではない。(たとえば会社は給料や昇進への希望、「クビにするぞ」というおどし等によって、従業員を従わせ、働かせる。教師は、及第させるか落第させるかをきめる権限をもつことで、遊びたい生徒に勉強させることができる。これらも一種の権力。)しかし、国家はその可能性を、暴力(物理的力)の行使によって確保するところに特徴がある。国家権力の源泉は暴力の行使にある。

暴力は、それを恐れる者であれば誰にたいしてでも権力を発動することができる。暴力はあらゆる文脈をこえて権力をもちいることを可能にする。暴力の前では、他の権力源泉はほとんど機能することができない。しかも国家は法に基づいて暴力をもちいることができる。「国家とは合法的に暴力行使を独占する組織」(M.ウェーバー) だからこそ国家は、あらゆる組織や制度、集団を超えて、社会のなかに至上の権力(=主権)として君臨することができる。ー参考文献『国家権力とは何か』 萱野稔人

Topic2 コロナ禍と国家
◎デジタル感染追跡システム
→これらのシステム構築を国民が歓迎=自らで監視社会を歓迎する国民たち
→しかし、これらが国家権力(政府・警察など)に利用された場合どうなる?非常時非のみの対応にははならず、国家権力は新たな特権を手離したたがらない性質を考慮すべきではないか

Topic3 コロナ禍と人々の怒り

Topic4 高校生の不安と怒り


◇2020年第3回(5/10 ZOOM遠隔で実施)
トークテーマ 勉強を哲学する


Topic 1 なぜ勉強しなくちゃいけないんだろう?


Topic 2 しなくちゃいけないという問い方に疑問を持たなかった人へ


Topic 3 千葉雅也『勉強の哲学』

①勉強とは、これまでの自分の自己破壊である 

身近な環境になじんできた自分を客観視することで環境から引きはがし、別の考え方(言葉の使い方)をする新しい環境に引っ越すこと 

言葉を言葉として意識していない状態から、言葉を言葉として意識している状態への移行


②アイロニーとユーモア

アイロニー・・・自分が従ってきた環境を客観視し、それを疑うことでツッコミ(=批判)を入れ、真理を目指すこと

ユーモア・・・環境に対してボケをかますこと。つまり、これまでの1つの見方に縛られがちな環境に対して、別の見方を提示し、見方を多様化すること


⇒アイロニーは過剰になると、「絶対的に真なる根拠を得たい」という欲望になる。でもそれは実現不可能。だからアイロニーを過剰化させずにユーモアで折り返すことが推奨される。

⇒事実上私たちの言語使用では「ある見方」が仮固定されるもの。それは「こだわり」となってユーモアを切断してしまう。「こだわり」を固定的なものとみなすとそれは運命的に私たちを縛る。「勉強」はそのような「こだわり」を変化させ続けるもの。


Topic4 将来のためにいまを犠牲にすること


満ちたりた将来のためにいまできるだけがんばっておこうという論理、これは未来の幸福のために現在をとてつもなく貧しくする論理である。そのような論理にしたがって生きるひとたちは、老いれば老いたで、今日じぶんがあるのは…と過去をふりかえるのだろう。つまり過去の自分の延長線上にいまの自分を設定するのだろう。いってみれば、じぶんを過去の「実績」から逃げられなくするのだ。

老いの充実というのは、多くの場合、過去の栄光の記憶にのっかっている。あのときがんばっておいたから、いまこうしていられる…。「幸福な老年」とは、いままでの自分の業績に満足している状態である。つまり、過去の記憶とそこから生じた財によっかかって生きることである。ということは、別の生きかたというものをあらかじめ封じ込める生き方のことである。それは確定した過去の延長線上でなりたつ現在であり、したがってこの充実した老いはますます限定された狭い世界に入っていく。変化すること、存在がめくれることをみずからに禁じるような生きかたである。ー鷲田清一『じぶん・この不思議な存在』



◇2020年第4回(5/17 ZOOM遠隔で実施)
トークテーマ 幸福とは何か 

Topic 1 あなたは幸福ですか?


Topic2 幸福とは何か? 

社会学における「消極的幸福」「積極的幸福」

①消極的幸福…飢えや寒さ、命への脅威がなく病気や重労働など不幸や不安に苛まれない状態マイナスをゼロにする考え方

②積極的幸福…家族の幸福のため、自己実現のために物質的に豊かになること

高度経済成長期 物質的に豊かさになること=人(家族や世間を含む)から認められることと直結していた

成長神話⇒今日よりも明日がよくなることを誰もが信じていた豊かになる⇒人から認められる

=幸福の時代

③新しい消極的幸福…不安を煽り、不安を過度に共有しようとするマスコミや世間マイナスの疑似体験からゼロを得ようとする時代に


⇒モノを買うことでモノの向こうにある幸福を手に入れようとするのではなく、幸福を直接手に入れる方法を考える必要がある


Topic3 幸福を直接手に入れるとは?


①自分で気づかなかった自分の内部とつながること

「はまる」行為


*cf.人類の近代3大発見  

1)コペルニクス 地動説 地球は世界の中心じゃなかった!  

2)ダーウィン 進化論 ヒトは神の分身ではない!?  

3)フロイト 無意識ヒトは自分自身さえわからない!?


②社会や身近な他人とつながること

定年後の再就職や大学院進学災害支援、ボランティア
ー山田昌弘『幸福の方程式』



◇2020年第5回(5/24 今年度初の対面授業)
トークテーマ 学校について 

Topic 1 休校期間の学校の対応と学校の再開について(オンライン授業の感想も)

Topic 2 学校は好き?  
先生・授業・友達・学校行事など         

Topic 3 学校の目的教育基本法における教育の目的・目標

教育基本法1条(教育の目的)
教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

⇒これをどう思いますか?

教育基本法2条(教育の目標)
その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。

⇒以下から1つ話題を取り上げてそれについて対話

・幅広い知識と教養を身につける。  
・真理を求める態度を養う。
・豊かな情操と道徳心を培う。      
・健やかな身体を養う。
2
・個人の価値を尊重する。
・個人の能力を伸ばす。
・創造性を培う。
・自主・自立の精神を養う。
・職業及び生活との関連を重視する。
・勤労を重んずる態度を養う。
3
・正義と責任を重んずる。
・男女の平等を重んずる。
・自他の敬愛と協力を重んずる。
・公共の精神に基づく。
・主体的に社会の形成に参画する。
・社会の発展に寄与する態度を養う。
4
・生命を尊び、自然を大切にする。
・環境の保全に寄与する態度を養う。
5
・伝統と文化を尊重する。
・それらを育んできたわが国と郷土を愛する。
・他国を尊重する。
・国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う。

Topic 4 これからの学校           
こういう学校をつくりたい



今年はこのような内容で授業を行ってきました。
明日の放送は楽しみですが、これからますます面白くなっていくであろう子どもたちの変容がほんとうに楽しみです。


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by terakoyanet | 2020-05-27 21:24 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)

海外とリスク

この数日、以下の記事へのアクセスが突然大幅に伸びました。

理由ははっきりしていて、フィリピンのブスアンガ島で日本人2人が行方不明になった事件が起こり、ブスアンガ島、コロン島などで検索した人たちの多くがこのブログに辿り着いたからです。

ブスアンガ島に行ったことのある人は日本ではまだ少ないようで、テレビ朝日さんの取材と画像提供に応じました美しい思い出の場所の写真が、惨たらしい事件の報道に使われることには非常に苦しい気持ちがあります。亡くなられた方たちのご冥福をお祈りいたします。

それにしても、現地のことを知ることも調べることもなく、自己責任という言葉で被害者を貶める人たちの無知と傲慢は目に余るものがあります。

海外でたくさんのテロや事件が起こっているのは確かです。でも、「海外は危ない」というふうに、安直に全体を一緒くたにして語ることはしたくありません。

海外に行く多くの人たちは、渡航先の安全について十分に調べた後に出かけています。
そんなことは当たり前です。だって自分や大切な家族の身体は絶対に守られなければならないのですから。

それでも海外に行くのは危機意識が足りないという人がいるのなら、その人は家から一歩も出るなと言うことと同じです。私たちは海外に行くことと同等のリスクは常日頃犯しています。車に乗ること、高速道路を走ることは、そのわかりやすい例のひとつです。

車に乗るのはしかたがないけど、海外に行くのはその人の趣味だから話が違うという人もいるようです。その人は趣味の楽しみを知らないか、または、単に趣味を楽しむ人を妬んでいるのでしょう。楽しむこととリスクを背負うことは隣り合わせであることは多いけれど、リスクがあることを全て避けて生きるというのは、人生を偏狭にすることとしか私には思えません。





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by terakoyanet | 2017-06-05 11:53 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

とらきつねとブルーリバーと私が登場するめんたいワイド、FBSで本日15:48からです。
唐人町スパイスや、中3の女の子2人も出ます。

私は気が弱いので見ません。
見た方、ぜひ耳障りのよい感想だけ聞かせてください!

http://ameblo.jp/blue-rv/entry-12066083186.html?frm_id=v.jpameblo



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by terakoyanet | 2015-09-14 09:06 | とらきつね | Trackback | Comments(0)

今朝は明るくなる前に起きたので、話題のドラマ『明日、ママがいない』(第2話)をGyao無料動画で見ました。

「差別を助長する」という批判を受けている同ドラマですが、作り手の意図は、差別問題の傷口をあえて開いて見せることで問題提起をするところにあり、スポンサーがいなくなっても継続するという姿勢を崩さないところから見ても、制作者側の高い志を感じることができます。

一方で、慈恵病院がこのドラマの中止を求めたことは当然と思えます。
赤ちゃんポストを運営する当事者にとって、「ポスト」という呼び名は到底受け入れがたい。

このドラマについて、はるかぜちゃん(春名風花さん)はTwitterにて

ポストは、ポストという名前に誇りを持って生きてる。それを「かわいそう~」といって見下す行為は、あのこの出生を、存在を、まるごと否定するに等しい行為だ。

と発言し、物議を醸したそうです。はるかぜちゃんはこのドラマの問題提起を正しく受け取って発言している。その意味で彼女の主張は間違っていません。

しかし、実際に「ポスト」と同じ境遇の子どもとその周囲の人たちにとっては、ドラマの問題提起の「本質」なんて二の次の話です。
「差別を助長する」というのは、何もドラマの「本質」を見誤って言っているわけではないのです。そうではなく、当事者は現実的に「差別を助長する」のが恐ろしいし、許せないのです。
魔の巣窟のような施設外観がいかに単なるドラマの「演出」であっても、そのような「イメージ」が演出されること自体に傷つくのです。

だから、このドラマの問題は難しいです。
「当事者」の枠から外れて見れば、このドラマにはきっと意義がある、最後まで続けてほしいと思います。
ネット上に散見されるような、「当事者」の切実感を全く共有しない、つまらない暇つぶしの外野の非難に負けることはないと思います。

しかし、制作者側が忘れてはならないのは、現に当事者がいるということ。
制作者の「我々は差別主義者ではない」という意識は、当事者にとっては時に傲慢な所為でしかない場合があるということです。


それにしても、芦田愛菜さんは、すでに人生の酸いも甘いも噛み分ける演技をするから驚かされますね。

まだ第2回を見ただけ、今後見るかどうかさえもわかりませんが、私がいま感じていることは以上です。


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by terakoyanet | 2014-01-29 08:55 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)

ドラマ『リーガルハイ』を見ていて、そしてドラマの主人公である古美門研介を見ていて、19世紀のドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェとその思想を連想することはそれほど難しいことではない。

ニーチェが『この人を見よ』の冒頭で「苦痛を申し立てずにはいられない」として槍玉にあげた「隣人愛」を、ドラマの中で果敢に実践する男こそ、NEXUS(=「絆」)代表のミスターウィンウィンこと羽生くんであり、その浅はかさを看過して彼を徹底的に叩きのめすのが
古美門研介その人である。この意味で少なくとも『リーガルハイ2』は「隣人愛」(絆) vs「超人」の戦いであったと言っても過言ではない。

そして戦いの結果、最終話にて明らかになったのは、「隣人愛」を実践する「人たらし」羽生くんは「超人」古美門氏に「ルサンチマン」を抱いているだけでなく、古美門氏を、その髪の分け目さえもいとしく思えるほど「愛して」いるという驚愕の事実であった。

最終話では、これまでのモヤモヤが次々に解消され、これまで我慢した甲斐があったなと思わず膝を打った。古美門は、前話までに描かれた、羽生くんの好意と同情とにより解消されたいくつかの争いが、いまではさらに醜悪な顛末を迎えていることを匂わせる。このことはニーチェが「同情の手が一個の偉大なる運命、痛手を負うた孤独、重い責務を背負っているという特権の中にまで差し延べられると、時と場合によっては、かえってそれらを破壊してしまうことさえある」(『この人を見よ』)と述べた事象を思い出させる。これまで「勝ち負けではない」と言いつつ「みんなを幸せにする」という道義的な解決をすることで結果的に「勝ち」を見せつけていた羽生は、最終話で完全に勝者の座から引きずり下ろされ、代わって「超人」古美門の勝利が高らかに宣告された。(その後も「勝者」のように振る舞う羽生に対しては「あいつはバカなのか」と古美門はただ呆れるしかなかったが。)
そして、黛弁護士が古美門のもとに戻り、三木弁護士が古美門への怨念を取り戻し、本田ジェーンが陰キャラに戻る。天啓を受けたかのようにすべてが元サヤにおさまる明るさは「永劫回帰」さながらで痛快だった。


さて、現在、全国の小規模映画館で絶賛上映中の映画『ハンナ・アーレント』は、
1961年のアイヒマン裁判を傍聴し、雑誌「ザ・ニューヨーカー」に論文を掲載した結果、世界中のシオニストたちからバッシングを受けた当時のアーレント(ドイツ系ユダヤ人の女性哲学者)の単独者としての苦悩を描いたものである。

数百万人のユダヤ人を強制収容所に送る指揮をとったアイヒマンは、ユダヤ人への差別心と憎悪から大量の殺人を犯した、人間性のかけらもない極悪非道な輩だと誰もが思う中で、アーレントは、自身が収容所に送られた経験を持つユダヤ人であるのにかかわらず、アイヒマン裁判がいかに独善的で不公正なものであるかということ、そしてアイヒマン自身がいかに普通の人間であるかということを詳らかにする。

アーレントは、アイヒマンが犯した悪の凡庸さと陳腐さを描くことで、私たちが外部に「悪人」を措定したその瞬間から、悪の本性が隠されることを指摘する。アイヒマン裁判ははじめからアイヒマン被告という「悪人」が独り立ちしており、その「悪人」ゆえの「悪業」が裁かれたという意味で、悪の本質についての考察がなされていないことをアーレントは深く憂えている。

リーガルハイ2の第9話にはこのシリーズの真骨頂とも言うべき場面がある。
殺人容疑で起訴された安藤貴和。彼女が殺人現場から出る場面を見たという証人が多数いるという検察に関し、「安藤貴和に見えたに違いない。みんながそれを望んでいるから。人は見たいように見る。聞きたいように聞き、信じたいように信じるんです。」「検察は、証拠によってではなく民意によって起訴したんです。」「愚かな国民の愚かな期待にも応えなければならないんですか。」と矢継ぎ早に古美門は問いかける。
「民意」という名のもとに、安藤貴和が「悪女」としてレッテルを貼られたがゆえに、それに沿った証言が得られ、さらにその「悪女」ゆえの「悪業」は「死刑に処すに値する」ことであるして世論が高まる。古美門はそのような民意を「愚かで醜く卑劣」だと言う。

自らの愚かさ、醜さ、卑劣さを隠したいがために、他者に「悪人」という主体を押し付け、そのことで安心する私たち。最終話で
「我がままで勝手で狡くて汚くて醜い底辺のゴミ虫」である私たちだが「醜さを愛する」―つまり自らの「醜さ」を受け入れることで「悪」を他人になすりつけないーことだけが唯一の解決法であることを示した展開はあっぱれの面白さであった。


ただひとつ、心にひっかかる問題が残る。
クルトの問題である。

アーレントは『イェルサレムのアイヒマン』を執筆したせいで、家族同然の愛すべき友人クルトから背を向けられてしまう。映画『ハンナ・アーレント』のなかで、最も悲しいシーンのひとつである。

いかにアーレントの単独者としての姿勢に畏敬を払う者であっても、危篤状態にかかわらず渾身の力でアーレントに背を向けるクルトを責めることができることができる人がいるであろうか。

悪の本性のようなものを仮に語ったとして、巨大な「悪」から大きな損害を受けた当事者たちにとって、それがいったい何の意味があるのか、ということである。
当事者たちにとって「悪」には「悪人」のような主体はないなんてことが、果たして耐えられることなのだろうか。そのことを考えずにはいられませんでした。






※文中の『この人を見よ』の和訳は、新潮文庫『この人を見よ』(西尾幹二訳)より。 


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by terakoyanet | 2013-12-19 12:16 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

あまちゃん最終回

あまちゃん最終回でしたね。
すばらしかったです。

漠然と、もう人生でドラマにはまることなんてないだろうなと思っていたのに・・・
あまちゃんに心を融かされてしまいました。
本当に面白かったです。

脚本も演出も役者も音楽もどれもよかった。
何かがうまくいくときって、全てが有機的に共鳴し合うからびっくりするようなものができるんですね。

普段、オープニングの音楽は、録画やオンデマンドだったら飛ばしてしまうところなのに、
あまちゃんのテーマは一度も早送りしなかった。することさえ考えなかった。
だってあのテーマを聞くことで、さあ、あまちゃんを見るぞっていう心構えができるから。
特別な音楽でした。

脚本と演出では、登場人物ひとりひとりに愛が注がれていて
私たち視聴者にもさまざまな見方が許容されている。
誰も傷つかないのに、決して媚を売っているわけでもない。
感動シーンと思いきや、茶々が入って笑いが起こる。
いつでも過度になりすぎず、抑制が効いている。
冷静と情熱の間の距離感に思わず膝を叩かずにはいられませんでした。

主演の能年ちゃんは天才ですね。
彼女以外にあきちゃんは考えられない。奇跡的なめぐりあわせとしか思えない。

最終回に近づくにつれ、主要登場人物一人ひとりの心のほつれが次第にほどけ、収束に向かいました。
それに心を寄せる私の心までほどけていくような、穏やかで温かい体験でした。



素晴らしいと言えば、数日前の楽天の優勝、田中将大選手の活躍。
本当にすごいです。おめでたいです。


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by terakoyanet | 2013-09-28 08:58 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)

GW休暇、過去の振り返り記事4つ目。今回はこれでおしまいです。

―――

さっきフジ系のTNCでコンバットⅡを見た。このテレビ、深夜放送だから時間的に子どもには奨められないがかなり面白い。今日もかなりウケました。若手芸人ばかりが集まったお笑い番組だけど、それぞれの芸人にそれなりの実力があり、その実力をガチンコでぶつかり合わせてるのがとても楽しい。私の世代の人だったら、かつての「夢で逢えたら」とか「とぶくすり」とかを連想させる勢いのある番組。

今夜はその中で「ごくせん」のパロディーがあって、とっても面白かった。
私自身は「ごくせん」はあまり見たことがないけれど、このパロディーはよかった。

本ドラマでは、ヤンクミがヤンキーたちに説教してとてもいいこと言っている場面はいわゆる感動シーンなのか、暴れ者のはずのヤンキーたちが静かに聞き入っている。まるでそれは遠山の金さんの成敗のシーンのようだ。

しかしこのパロディーでは、静かに聞き入っているヤンキーに混じって一人、文学座風の学生がヤンクミがせっかくいいこと言ってるのにそれを聞かずにそれどころか自分勝手に意味不明で場違いな発声練習のようなことをやったり動きまくったりしてヤンクミの話なんか聞かないのだ。

ヤンクミの名セリフもこれでは片落ちである。その名セリフが導くはずの大団円は消え、収拾がつかなくなり、わけのわからないままそのシーンは終わる。すべてを感動ドラマにしなければ気がすまないヤンクミに対する大いなる風刺ともとれるこのパロディーは、なかなか痛快だった。


痛快ついでに言っておくと、このごくせんのために、なんとなく肩身がせまい思いをしている学校の先生方(特に女の先生)がもしおられたらとても不憫に思う。
ごくせんはフィクションだから、実際と混同するほうがおかしいという意見は当然あるだろうが、ただしこのドラマを見ている子どもたちは意識無意識にかかわらず、このような番組の影響を受ける。ヤンキーがかっこいいといい風潮が増長され、さらに、そういう子どもの目から見て、ヤンクミの対極にある、生真面目な女性らしい若いかよわい先生が、もしつまらない先生とうつるのなら本当にかわいそうだと思う。

若い女の先生が、荒れた中学・高校でどれだけ蔑まれていることか。子どもをいじめから守る取り組みはさかんだが(といっても全くもって十分ではないが)、先生をいじめから守る取り組みというのはほとんど忘れられている。でも真面目な女の先生ほど中学・高校でバカ学生(言葉が悪くてすみません)からひどい仕打ちを受けている。

私が中学生のころ、隣のクラスの担任の若い女の先生が、学期途中に病気で忽然といなくなった。噂によると、その先生は精神を病んで療養することになったと聞いた。でも、わたしはそれを聞いても一瞬ああかわいそうだなあと思っただけでさほど心を動かされることはなかった。その当時の私は、おそらく子どもだったから、先生だって自分と同じ弱い1人の人間だという簡単なことがわかっていなかったのだ。先生は「大人」だから自分とは違う、と思っていたのだ。

子どもが容易に先生を傷つけてしまうのは、先生という仮面の後に、脆弱な人間性が横たわっていることに対する想像力の欠如からだ。先生だって傷つく、先生だって弱い、だからかわいそうだ、そういう簡単なことが子どもにはわからないのだ。

先生どうしの助け合いが上手くいっている稀な学校では、若い女性の先生を、強面の男性教師が背後で子どもたちに何らかのプレッシャーをかけて守っているところもあるだろうと思う。しかし、若い女の先生が、もうどうしようもないほどただ痛めつけられている学校が多くあるのも事実だ。先生たちどうしはライバル関係で、虚栄心がはたらく。ある先生が生徒を統率できていないのに、自分ができている場合、それ見たことかと自分の指導力を誇り、そうでない先生を尻目に懸ける・・・そういうことは、学校ではよく見られる光景だ。これでは若い女の先生たちは、窮地に追い込まれるばかり。

合わないならやめてしまえばいい、そう言うのは簡単だけど、私はそうじゃないと強く言いたい。
その先生が自分の力を十分に発揮する前に、女の若い先生というだけで、生徒たちになめられ、いい指導をする機会をつぶされてしまう。この状況をただほっといて、合わないなら、生徒を統率できないならやめてしまえなんてひどい言い分だと思う。
若い先生たちは「そのうちやり過ごせるようになるよ」とベテランの先生たちに言われる。しかしやり過ごせない人だっているし、やり過ごすことが嫌な人だっているのだ。なんとかベストを尽くしたい、子どもたちにきちんとした指導をしたい、そう真面目に思っている先生ほど潰されてしまうことも多い職場なのだ。

そういう修羅場にいる女の先生たちにとって、ごくせんは応援歌になり得るのだろうか。
ごく一部の先生にはなり得るかもしれない。しかし、実際には遠山の金さんの成敗のようには上手くいかず、一番伝えたいことを話しているときには、決まってどうしようもない闖入者が現れる、それが現実ではないだろうか。

私は、子どもたちに、先生というのは意外と未熟な生物でみんなと同じか弱い人間なんだ、でもだからこそ、先生が言うことには耳を傾ける価値があるんだということを、伝えていけたらと思います。


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ゲーム

先日AKB48の峯岸みなみが謝罪したあの映像が脳裏に焼き付いている。
囚人を思わせる坊主頭とそれを殊更に目立たせる白い画面。
中3の女の子が「あれはちょっと引くわ~」と言っていたが、私も同じく「引くわ~」と思った。

タレントのフィフィさんが

アイドル恋愛禁止とか、もう目を覚ませよ。恋愛もライフスタイルのひとつ。それも含めて応援してやれよ。それがファンじゃないの?昔のアイドルの状況と違うんだよ

とか言っていたけど私はそれは違うと思った。

ポイントは、今回峯岸みなみが破ったのは「恋愛禁止」というAKB48という仮想ゲーム上のルールだということ。
いわゆるオタファンの人たちはAKB48という年頃の女の子たちがリアルで恋愛をしてないなんて本気で信じてるわけではなく(と言ってしまうと本当は身も蓋もないのだが)、恋愛をしていないということになっている、というルールが存在し、それが表面上守られていればそれでOKなのだ。しかしそのルールはこのゲームの肝であり、遵守されなれなければならないのだ。

峯岸みなみの罪は、恋愛をしたこと自体というよりは、熱愛報道によりゲームの秩序を乱したことにあり、そのことを理解しなければ、今回の問題の本質は見えないと思う。
彼女はそのことを理解しているからこそ坊主頭にしたし、だからこそそれはゲームの埒外にある人たちから見ると明らかな過剰である。女子中学生の「引くわ~」は、その過剰さを目の当たりにしたときの反応である。


バレなければよかったんでしょ。
バレたら反省するなんて、万引きする中学生といっしょじゃん。
反省するなら、最初からやらなければいいじゃん。



というコメントがネットの掲示板にあった。
「バレなければよかったんでしょ。」これはある意味正解だ。
法的に問題がある万引きと違って、バレなければあらゆる意味で何の問題もなかったはずだ。

しかし、万引きと違って、恋愛は、「最初からやらなければいい」ものではなく、やったことがバレてはいけないこと(=仮想ゲームのルールを乱すから)なのである。ここをはっきりさせることは倫理問題上とても大切だ。

フィフィさんのように「恋愛禁止」というルール自体を「時代錯誤だ」と批判する人がいるけど、それを批判するなら、AKB48というゲーム機構そのものについて本腰を入れて批判すべきだ。「恋愛禁止」というのはゲームの1ルールであり、そのルールを必要とする体質自体を批判しなければ本質的な批判にならないと思う。


今回の問題からは、小さいコミュニティから人気が拡大し、メジャー化したAKB48というゲーム機構における、小さなコミュニティ vs マジョリティの軋轢を見ることができる。
マジョリティ側の大きな批判に対し、小さなコミュニティ側であるファンの人たちは、彼女の今回の行動を、ゲームのルールを破るという大罪を犯した彼女が禊をしたとして、一定の評価をするだろう。しかし一方で仮に同じ過ちが繰り返されたり、さらなるスキャンダルが掘り起こされたりした場合には、彼女は一気にファンたちからそっぽを向かれ、グループ(ゲーム)を去らざるをえなくなるだろうと思う。AKBメンバーとファンとは同じゲームのプレイヤーであり、彼女にはこれ以上の失点は認められないのだ。

たかがゲーム。しかしゲームには、その運命に抗えないという意味では、リアルを軽く凌駕する力があることを知り、戦慄を覚えます。

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by terakoyanet | 2013-02-07 10:55 | 雑感・授業風景など | Trackback

今日はテレビで「コクリコ坂」があったんですね。
今日の授業で2年生のある女の子が『「コクリコ坂」を見ようと思っていたのに。』と、ぷんぷんしているのを見て知りました。

見た方どうでしたか。
私は1年半前に映画館で見たのですが、とっても面白かったです。

良さがわからん・・・と特に若者たちの多くが言っていますが、
私は年を重ねてきたせいでしょうか。
堪能できました。

アニメ映画といえば、私は昨年「おおかみこどもの雨と雪」を見ました。
とてもいいですが、でも私は「コクリコ坂」のほうが好きです。
近年のジブリでは一番好きです。




以下は2年前に私が書いた感想です。
いま読むとちょっと斜に構えた文章ですが。

―――――


先日、ジブリの「コクリコ坂から」を見た。

テレビでコクリコ坂があったんですね。_d0116009_1353240.jpg

*ホークスタウン(生徒曰くホータン)のユナイテッドシネマにて。


ノスタルジーがつまった映画。

挿入歌に坂本九の「上を向いて歩こう」が使われていたが、私はこの曲を聴くたびに強い憧憬が心をよぎる。その憧憬とは、この曲が持つメッセージが真っ直ぐ人たちの心に届いていた時代に対するものだ。いまよりずっと純粋でずっと単純だった時代に対する憧れ。

一度、この映画の主人公たちと同じく1960年代に青春時代を過ごした人たちに尋ねてみたいところだ。本当にこのような時代はあったのですか?と。



話が逸れるが、2001年にウルフルズとRe:Japanが坂本九の「明日があるさ」をカバーした。
私はそのとき、この時代にこの曲をカバーするなんてバカげていると思った。
ニコニコと「明日があるさ」と歌う歌手を見て、なんて空疎なんだと思った。なんて無神経なんだと思った。バカにしていやがると思った。

集合写真でひとりだけ笑っていない人に、無理やり笑顔をつくらせるような強引さ。
「明日があるさ」と高らかに謳っておきながら、実際には「明日がない」というネガティブな共同体がはじめから前提とされており、それでもカラ元気を出して「明日がある」って言っとかないとねという強迫的とも言える所作を感じ、身震いがした。「明日がある」と言っている奴らが実際のところ一番ペシミストじゃないか、と思った。



で、本題に戻ってこのコクリコ坂。
すべての嫌悪すべきものが排除されていた。大人のいやらしいところなど微塵も描かれておらず、恋の駆け引きも何もなく、ただひたすらさわやかだった。その徹底したさわやかさにとても好感を持った。

この物語を観て強いノスタルジーを感じるのは、1963年を経験していない私たちであっても青年時代に体験したことがある真っ直ぐでひたむきな思いがそこに描かれているからだ。
実際のところ、私自身に真っ直ぐでひたむきな時代があったかどうかはわからない。しかしこの映画には、私自身がかつてこのような気持ちを抱いた時代があり、そしてこれからもそれを大切にしたい、と思わせる力があった。これぞ物語の力だ。

映画のディテールにも優れたところが見られた。
私たちの世代には全くなじみのないカルチェラタンのカオス的な雰囲気。
下宿人が描いた油絵から、海が旗をつけた船を発見する場面の色彩。
学校の理事長を廊下で待つ場面のコミカルな時代描写。
思わず笑みがこぼれるシーンがいくつもあり、観ながら穏やかな幸福感を感じた。


強迫的に希望的未来を押しつけるより遥かにすぐれた方法で、私たちに明るい未来のあり方を教えてくれるこの映画が私は好きです。


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by terakoyanet | 2013-01-12 00:07 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)