罪について(創作)
2020年 01月 23日
聖フランチェスコの生涯を描いた28枚の絵画を一目見るために、イタリア中部の町アッシジを訪れた。サンフランチェスコ聖堂を訪れたあと、町をふらりと歩いていると、右手に小さな石造りの教会があって、窓に飾られた赤いバラの花に惹かれて中に入った。教会ではたった30人ほどの信者を前にミサが行われていて、私が教会のオルガンの傍に跪くとすぐに、腰が少し曲がった丸い老眼鏡をかけた神父が説教を始めた。
「今日は、アウグスティヌスのパラドックスのお話しをいたしましょう。」
神父がこのとき話し始めたのは、自己の存在証明についての話だった。
「皆さんは、『私自身は存在している』そのことを疑ってはいないかもしれません。しかし、自身の存在を論理的に説明することは、非常に困難な作業を伴います。私たち人間の存在は、それを明らかにしようとしたとたんに、はじめから矛盾を含んでいるということに気づかされます。私たちは、自分のことをAはAであると言い表すことができません。それは、同語反復以外の何ものでもないのです。実際の問題として、人は自分のことをAである、と表明している矢先に、変質してAではなくなるのです。人が死ぬことは、その変質に由来しています。人がたったいま、この瞬間も死に向かっているということは、変質してAでなくなっている証拠です。ほら、まさにあなたもこの瞬間に、死に向かって変質している。それほどに人間は不完全な存在です。だから、私たちは決してAはAである、と自分を定立することはできません。AはAであった、とか、AはAでありうる、とは辛うじて言うことができます。しかしながら、AはAである、とは決して私たちは言い得ることがないのです。」
まさに私もこの瞬間に、死に向かって変質している。私は自分の両手の骨が開いたり閉じたりするのを見ながら、そのことを考えた。
「一方で、この世において己をAはAであると表明できるのは、唯一、神のみです。ヨハネの福音書の18章を思い起こしてください。ここには、イエスが『私は私である』と言ったとたんに、イエスを捕らえようとした人々が後ずさりして、しまいには地に倒れてしまう場面が描かれています。人々は『私は私である』と言う神の子イエスの全能性に圧倒され、自分の非力を全身で思い知らされるのです。そこでは『私は私である』という言明さえも適わない人間存在の本質的な脆弱さが露わになります。一方で、神は完全であり損なわれることがありません。神は、『AはAである』と言うことができるがゆえに、完全な存在です。」
神はなにゆえに完全な存在であるのか、と問うてみる。私たちが不完全であることの対照物としての完全さなのであろうか。
「ですから、神のようにAはAである、ということを定立することができない人間は、それが不可能である以上、AはA´(Aダッシュ)であるという形、つまりAに非ざるものによって自身の同一性を回復するしか術はありません。だから、そこで考え出されたのが「関係」です。他者と相互に類比関係を結び、他者との交わりの中で、他者から与えられた眼差しの交錯によって、自身の実存を取り戻すのです。イエスが福音書で述べた掟、『わたしがあなた方を愛したように、あなた方が互いに愛し合うこと、これがわたしの掟である』は、ここにおいて意味を成します。もしあなたたちが、自分の存在を疑っておらず、しかも私は私である、というふうにそれを証明することができるなら、互いに愛し合う必要はないのです。そうではなく、私たちはそもそも、いずれ死に至る不完全な存在であるがために、不完全な存在としての孤独が宿命づけられているがゆえに、神はお互いに愛し合うことを人間に命じているのです。イエスは、自身の実存さえもままならない私たちの生を見抜き、これを掟としたのです。ですからあなた方も、他者と交わり、愛し合いなさい。アーメン。」
実存さえもままならない、不完全な存在としての孤独。このことが私たちの「原罪」なのかもしれない。そう思うと、これまで私を苦しめてきた「原罪」から許されたような気持ちにもなった。
私は幼いときから「罪」に苦しめられてきたのだと思う。カトリックには「告白」という制度があって、自分が犯した「罪」を神父の前で詳らかにしなければならない。告白という制度は、自らの「罪」を常に問い続けなければならなくなるという意味でとても厄介な代物だ。四六時中、これは罪だろうか、また罪を犯してしまった、そういうことを考えながら、いつでも頭の隅に罪悪感を抱えたまま生活をすることになる。自分がいつからいつまでに何回嘘をついたのか、その数を勘定しながら日々を暮らすのである。
しかし、どれだけ「告白」をしたところで、自分の罪はなくなることがない。告白を終えたとたんに別の罪が蘇生する。あれも罪だったのではないかと思い起こされる。告白をして許されることで、新たな罪が呼び覚まされるのだ。罪は外的な行為だけでなく内面にも存するものなので、心が罪を犯すことは避けがたく、いつでも罪悪感が心を絞めつける。その罪悪感は自己否定に繋がる。
質素な聖堂の中でそうやって幼いころの罪の感情を思い出していたとき、不意に、ああ、これは自分にとって案外苦しいことだったのだな、と気づかされた。苦しいことだった、そして苦しいと思っても良かったのだと心の中で反芻するうちに、長い間、心を絞めつけていた軛のようなものが解除されていくのを感じた。
「原罪」が不完全な存在としてこの世に生まれおちる私たちの宿命を示すならば、他方で「罪」とは不完全さを満たそうとする私たちが、そのための行為を誤ること指すのかもしれない。その行為を誤ると決して満たされることはないから、たやすく自己否定のループに陥ってしまうのではないか。
私は罪という実体を恐れ、それに苦しめられてきた。しかし、罪というのは必ずしも実体を伴うものでなく、自らの不完全さに対する対処を誤るということなのではないか。自らの孤独を深めることをせずに、一時の享楽に甘んじるということなのではないか。
行為を誤ることで満たされない、これを繰り返して神を遠ざけることは不幸だ。そうやって私たちに不幸を呼び込むものを「罪」という。一方で、私たちの不完全さは、それ自体は罪ではなかった。私たちの不完全さは、私たちを愛で満たすための器そのものだった。
2018 旅の記録1(1~7月)
2018年 11月 19日
















忘れ得ぬ日(航空高校唐人町修学旅行)
2018年 06月 02日









アイルランドの風
2018年 05月 09日












修学旅行はロンドンへ。
2018年 05月 08日
センター地理Bでムーミンの問題が出題。
2018年 01月 13日


新しい旅のすすめ その2
2017年 10月 11日
昨年オスロに行ったとき、私はこの街について事前に何も下調べをしていなくて、ムンクの絵とオペラハウスさえ見たら、あとはのんびりと近くの低山を歩きたいと思いました。そのときに活用したのはグーグルマップです。



そしてその湖とそこから西に5kmのこの湖の間に細い道がある。これ、トレッキング用の道じゃないかな。
さらにその湖からは登山道っぽい道がある…。
何の確証もない状況で、グーグルマップだけを頼りに歩き進めていくと、ピカピカに磨き上げたような鏡のような透明度の湖があったり、ちゃんと整備された道が確かにそこにあって人が楽しげに歩いていたりして、初めての場所なだけに緊張感がありつつも、それがいやでもほぐれてしまう瞬間というのがあって、それがとてもかけがえのないものに感じられるのです。

(そのあと地球の歩き方やロンリープラネットなどのガイドブックを見ても、この美しい低山のことは全く載っていなくて、まさにグーグルマップが運んでくれた縁なのだと感じました。)
先月、アメリカとメキシコを訪れたときは、Uberをさかんに活用しました。
Uberは、海外を訪問する人たちにとっては革命的なアプリです。
乗車場所、降車場所を予め指定できるし、支払いはすべてクレジット決算だから、これまでのタクシー利用に比べて圧倒的にストレスフリーです。

ただし、Uberが万全というわけではありません。乗車場所が大きな施設の場合には、待ち合わせがうまくいかなくなるときもありますし、キャンセル料のリスク等もあります。また、小さな町にはドライバーがいないので、そこまで行けても帰れないなんてこともあります。またネットが不安定な場所、繋がらない場所では、Uber自体が使えなくなるので、それに頼ろうとしていた場合、途方に暮れることもあるでしょう。

新しいテクノロジーによってどんどん便利になり、新しい旅の可能性が広がっていきます。でも一方で、どれほどに便利になろうとそれで万全ということには決してなりません。自分がいる場所の環境を思い通りパーフェクトにコントロールすることなんて土台無理なことですし、何よりも、変化しやすい自分自身の身体そのものに万全を期待することができないのです。しかし、だからこそ私たちはいつまでも旅を楽しむことができます。どれほどに新しいテクノロジーにより、旅の可能性が広がろうとも、一寸先の未来は誰も手中にできない。だからこれからも旅は続きます。
今日は旅の達人、石川直樹さんがとらきつねに来訪します。
石川さんは、新しい道具を使うことに躊躇がない一方で、その身ひとつで自らの知恵自体を道具に変えて世界を横断してきた、柔らかい身体=思考の持ち主。とにかく楽しみです。
とらきつね on Facebook 随時更新中です。
唐人町寺子屋の新しいオフィシャルホームページはこちらです。
入塾希望の方、お問い合わせの方はこちらの「お問い合わせフォーム」を通してご連絡ください。
弱者を他者に仕立てること
2017年 09月 04日
とらきつね on Facebook 随時更新中です。
唐人町寺子屋の新しいオフィシャルホームページはこちらです。
入塾希望の方、お問い合わせの方はこちらの「お問い合わせフォーム」を通してご連絡ください。
古代ローマの遺跡、フォロ・ロマーノへ
2017年 07月 05日
教会巡りがなぜ面白いかと言えば、その場所がいまそこに住む人々の生活と直接に関わっているのを感じるからです。その点、古代遺跡というのは老朽化した古い箱庭を見せられているようであまり面白くありません。
フォロ・ロマーノは世界遺産の凄まじい遺跡ですが、すでに死んでいるという意味では面白さに欠ける場所でした。
でも帰ってきてしばらく経ってそのとき撮った写真を見ると、すごいな、と思わせるのは、遺跡がすごいのか、それともいまの写真の技術がすごいのか。






そのうちご紹介したいと思います。
とらきつね on Facebook 随時更新中です。
唐人町寺子屋の新しいオフィシャルホームページはこちらです。
入塾希望の方、お問い合わせの方はこちらの「お問い合わせフォーム」を通してご連絡ください。
ローマのサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂
2017年 06月 14日



そのことは私にとって、驚異であり、大いなる謎である。遠藤もこの謎を自らの掌に手繰り寄せたかったのではないか。そんなことを想像する。


とらきつね on Facebook 随時更新中です。
唐人町寺子屋の新しいオフィシャルホームページはこちらです。
入塾希望の方、お問い合わせの方はこちらの「お問い合わせフォーム」を通してご連絡ください。