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やる気の話

普段、面談などで親子と喋っていると、いかに親が「やる気」という言葉に縛られて子どもに間違った声かけをしているかというのを実感することが多いんです。「やる気」という呪縛を解く話がここに。



茂木健一郎さんの「やる気」論は2016年にブログで紹介したことがあります。茂木さんの話、私たちがほとんど無意識にやってしまってる囚われを解除してくれるんですよね。




by terakoyanet | 2020-11-15 10:03 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

読み物の記事をいくつか

明日より4日間お休みをいただきます。
お昼間に手持ちぶさたなとき、夜なんとなく眠れないときに読んでいただければといままで反響をいただいた記事をいくつか貼っておきます。


~勉強のこと~

いま子どもに教えるために必要な条件

国語の伸ばし方

「役に立つ」とは何か

テスト前に勉強しないのは「やる気」の問題ではない



~親と子のこと~

親は子どもの「好き」を殺してしまうかもしれない
反響が大きかったため、togetterでまとめのページがつくられた模様です しくみは知りませんが

子どもの希望との付き合い方

子どもの生き方はもう決まっている
→この記事を大幅に改稿したものが今年発売される新刊『おやときどきこども』に収録予定です

子どもの自立 -親の不安を子どもに伝播させないこと
→拙著親子の手帖を書くきっかけになった記事です



読み物は全体として 寺子屋エッセイ(読み物) のページにまとめています。




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by terakoyanet | 2020-03-29 19:20 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

学校から歴史年表がたっくさん載った一覧のプリントをもらってきた子がいて「これを覚えたらいいですか?」と質問されたのですが、(多すぎてそんなに覚えなくていい!) 受験生に指導者ができることといえば、たくさん覚えることを提示してあげることじゃなくて、むしろ覚えることを絞ってあげることなんです。大切なことなので書いておきます。


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by terakoyanet | 2020-03-06 16:11 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

昨日、哲学者(今年は小説家として芥川賞の候補にノミネートした)の千葉雅也さんが、勉強についての核心をつくツイートを連発しました。(千葉さんは『勉強の哲学』という読むと脳天がクラクラするような刺激的な本も出しているので、この記事が気になった方はそちらもチェックすることをお勧めします。)








勉強にのめり込み、勉強によって自分を作り替えた経験がある人なら、千葉さんのこのツイート、深く肯かれるのではないでしょうか。

権威主義と言うといかにもいま評判が悪い言葉です。でも、勉強というのは、目の前の絶対的知に対して、己の身を投げうつようなそんな場面があって初めて何かを把捉し次のステップに進めるのだと思います。

その権威はできるだけ薄っぺらくて張りぼてではないものであることが望ましいのですが、とにかく、「お前は何もわかっていないのだ」と囁く目の前の他者に徹底的に追従して、私もあなたのようにわかるようになりたい、と希求する、それを続けることが勉強をするということであり、何かを勉強し尽くした人たちというのは、その感覚をきっと大切にしていると思います。

修猷館高校に進学した生徒たちが、進学説明会の際に後輩たちに向けて「鳥羽先生を信じてついていってください」という言葉を伝えてくれることが度々あるのですが、彼らは合格に向けて何が大切かということをやはりつかんでいるなと思います。
私自身、信じてもらう存在としては、あまりに未熟な指導者ですが、特に修猷館など上位校を目指す生徒たちにとって、指導者の頭の中をコピーするくらいに徹底的に覚えること、解析度を高め理解し尽くすこと、思考回路さえも真似すること、そういったことがとても大切なのです。その点、親や友人、他の塾の情報などに振り回されて、ああでもない、こうでもないとじたばたしてしまうタイプの子はほんとうに伸びません。勉強をするというのは信じる行為に近い。信じ続けて突き抜けた向こう側に、自分独自の思考の自由があります。

勉強についての核心を突く話_d0116009_03583091.jpg


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by terakoyanet | 2020-01-21 03:34 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

聖マリアンナ医大の話、高3の女の子が半泣きで怒っていました。当人や家族たちだけでなく、学校も、予備校も、塾も、1点さえも軽んじるなと指導してきた人全てが怒るべきことだと思います。ほんとうにひどい。

・・・

センター試験が終わりました。(試験を受けた生徒のみなさん、おつかれさまでした。)

昨日までに聞いた、現代国語の授業を取っていた、高3のセンター現国の結果、100点、92点、92点、86点。(100点満点です。)
テクニックだけで取れる点数はたかが知れているので、ちゃんと読む力を育てたつもりです。良い結果が出て嬉しいです。
生徒たちのおかげでいい授業になっているから、来年度もみんな現国とってほしいなあと心から思います。

現代国語の授業では、今年度も授業で東浩紀,内田樹,大澤真幸,木村敏,鈴木孝夫,森田真生,鷲田清一,芥川龍之介,井伏鱒二,大江健三郎,川端康成,大庭みな子,岡本かの子,加賀乙彦,小池昌代,小林秀雄,佐々木幸綱,夏目漱石,堀江敏幸,三浦哲郎,柳田国男,森鴎外らを扱いました。それらをただ解くだけでなく、ちゃんと身になるような「読書」をしたのです。生徒らに何も残らないわけがありません。




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by terakoyanet | 2020-01-21 03:07 | 生徒のがんばり(テスト結果等) | Trackback | Comments(0)

受験が近づくにつれ、勉強に集中するどころか、どうしようもなく下を向きがちになり何も手につかなくなる子がいる。そういう子たちは、相対的に見て受験が自分にとって「敗北」を意味するものでしかないという現実がそのまま自己否定につながり、結果身動きが取れなくなってしまっている。


こういう生徒には「がんばれ」ではどうしようもない。私が昨夜ある男子に言ったのは「勉強なんてできなくてもいい」ということだ。他人との比較ですっかり自信を無くしていた彼に対して私ができることといえば、勉強ができるかどうかなんて君の価値には全く関係ないと全力で伝えることだけだった。


今日の授業で彼は表情が変わっていた。「勉強なんてできなくてもいい」なんて受験生には禁句とも思われる言葉を吐かれた彼が、今日は伸び伸びと授業を受け、数学で半年ぶりに60点以上の高得点をとった。


本人の力を阻害しているのは往々にして相対的な評価の低さでありそれに伴う自己否定感だ。そこを手当てするだけで、蘇る子どもはたくさんいると思う。子どもたちを相対的な評価の場所に置いている人間として、もっともっと手当てをしていかなければと改めて思った。



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by terakoyanet | 2020-01-18 05:10 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

前記事の「勉強のしかたがわからない」のお話し。これだけではわかりにくいと思いますので、昨年の10月に書いた「うちの子はがんばっているのに成績が伸びない」は大抵間違っているという記事から文章を一部引用します。(全文読みたい方はリンク先を見てください。)


うちの子どもは「がんばっているのに、成績が伸びない」というのは、大抵、親の勝手な解釈なんです。
実際は、「がんばっているからこそ、いまの成績が維持できている」のかもしれないのに、ただ、学校や模試において点数が伸びてないという表層的な理由に基づき、子どもに対し「成績が伸びない」という烙印を押す。がんばっているのなら、それが現状の子どもにとってはベストに近い状態かもしれないのに、その斜め上を見て、「成績が伸びない」と断定してしまう。それは親の願望でしかありません。そして、このことによって傷つく子どもは多いです。

「がんばっているのに、成績が伸びない」
親がそう他人に主張しているとき、大抵の子どもは親が「私のことを一生懸命考えてくれてる」「私はなぜ伸びないんだろう」と考えますから、子どもが親のことを嫌いになることはありません。目の前の親が高望みをすることで、自分自身を傷つけているのに、子どもは決してそう解釈することはありません。子どもというのは、大切な親を救うためには、自分自身を損ねることを厭いません。親は子どもを救っているつもりで、何度子どもに救われればそのことに気づくのでしょうか。

「がんばっているのに、成績が伸びない」
親がそう他人に主張しているとき、「うちの子はがんばっているけど、勉強のやり方がわかっていないから、成績が伸びない」という考えが含まれることが多いです。それはつまり、「そもそもうちの子は勉強のやり方がわかっていないし、それを的確に教えてくれる人がいない」という他者(たとえば学校や塾)に対する不満を含んでいます。
しかし、勉強が「わかる」という真の経験がある人たちは、きっとそんな考えを持つことはありません。なぜかと言えば、その人たちは、勉強のやり方というのは、自らの手によって掴み取ることによってしか、得られることのない類いのものだからということを知っているからです。
「馬を水辺に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない。」このことわざは、最終的には自分の意志でがんばらなければならない、というような単純な意味ではなく、学問でも他の分野でもそうですが、指導者ができることは、ある問題の解決のための具体的な方法を教示するところまでであり、実際にそれが「わかる」ようになるのは、本人の手によってでしかないという、学習というものの本源的な性質を示すものです。指導者として大切な素質は第一に「本人の能力を奪わないこと」であり、それを土台にしつつ「問題解決の糸口を見つけやすくしてあげる」(これは案外難しいことですから、指導者には能力差があるのです)ことに尽きるのですが、「うちの子はがんばっているのに、成績が伸びない」と主張する親たちはたびたび子どもが「わかる」こと自体を他人に依拠しようとします。これは、水辺で馬に無理やり水を飲ませようとしていることと同じであり、うまくいかないどころか、子ども自身にとっては完全にマイナスにしか働かない所為と言わざるをえません。「解決そのものを他人に依存すること」を教えるのは、親が無自覚に「本人の能力を奪う」例として、私がこれまでに幾度も見てきたことのひとつです。


誰かにわかるようにしてもらいたい、というのは勉強じゃないんです。
本人が、ある決意や覚悟をもって勉強に取り組み始めたときに初めて、勉強の世界が本人の前に開けてきます。それを経験もせずに、誰かにわかるようにしてもらいたいと願うことは、死んだように勉強するのと同じです。勉強の出来不出来以前に、生きたように勉強をすることを、子どもたちには知ってほしいと願っています。
そのためにも、できない子どもを責めるのではなく、子どもが生きた勉強をしているか、勉強の世界が本人の前に開けているか、そのことを一番大切に考えながらご家族にも子どもたちを見守っていただきたいと思います。




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by terakoyanet | 2019-11-22 03:37 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

テレビに出ている林先生を見ていてもそうですが、いま学生たちを教える先生たちはソフトな人が多いです。
私も大人たちからソフトな人間とよく言われます。その点、子どもたちはちゃんとそうじゃないと気付いていますが。。

子どもと指導者の関係はフラットであるほうがいいという話をするとたびたび誤解されるのですが、それだけでは子どもたちの力はつきません。フラットな関係を半ば利用して縦の関係を成就させることを自覚的にうまくやるのが、いま子どもたちに教える人たちにとって必要な条件です。

このことについて、11年前にこちらのブログで書いていますので、以下に掲載します。

・・・

私は日々、子どもたちと同じ目線で指導を、と思っています。
というか、子どもより自分が上の立場と思うこと自体がなんだかよくわからないのです。
目の前にいるのは、ただただ自分より若い、経験が少ない人間がいるだけ。

私は、年齢や経験値、(または社会的地位等)が上だからといって、人との間に縦の関係が生まれる場面があるというのが、なぜそういうことになるのか感覚的によくわからないのです。

ですから私は自分の友達と接するときとあまりかわらない感じで子どもたちと接することになります。
それは、相手を認める、というような大仰なものではなく、ただいっしょに隣にいるだけというかんじの関係。

ただし、生徒を指導するにあたって、なれ合いの関係を形成してそれでよしとは当然なりません。
そこで私は縦の関係を持ち出して子どもたちと接します。
子どもたちと話しているとき、要望を受けるとき、ある一線を越えた場合には、私の意見をはっきりと言い、私のやり方に従わせます。そういうとき、子どもたちは、ほとんどの場合、私が一方的に提示するやり方に逆らわずに従います。
彼らが従うのは、日ごろからの横の関係(やわらかな友達関係)がきっと背景にあります。彼らは私に嫌われたいとは思っていないと思います。また、私がひどい理不尽な要求をする人間ではない、と思ってくれていると思います。

ですから、彼らは私が言うことに対しある程度理解を示した上で、自分の行動を私のやり方に合わせます。
私は本来、横の関係による指導がしたいと思っています。さらに言えば、人と接するとき、私はそういう関係しかつくることができません。
ただし私は指導をするときに、縦の関係を持ち出します。基本的に横の関係しかありえない、と思っている私がここで「縦の関係」という言葉を用いるのは意図的です。

私が「縦の関係」を子どもたちに発動しているとき、私は一方的に子どもたちに何かを押しつけようとしています。これは私の心が感じることです。
一方で、子どもたちは日頃の私に対する安心からか、ある程度納得して私のやり方に従います。
ですから子どもたちからみたら、もしかしたら「縦の関係」で押しつけたものではないかもしれません。
しかし私は感じます。私は「横の関係」の力を利用することで「縦の関係」を成就させた、と。

ですからわたしはこのとき、「横の関係」に対して少し申し訳なく思います。

私にとって、「横の関係」を大切にしながらも、自身が「縦の関係」を発動していることを意識しながら指導することは忘れてはならないことです。そうでなければ、自然だと思っている「横の関係」までも、「縦の関係」に侵食されかねないと私事ながら思うのです。


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先日の高校進学説明会でスーパー中学生(特進クラス・部活動・クラブチーム・生徒会での活躍)として表彰されたYくんの雄姿。屋久島の模型地図を用いて何かを表現しようとしています。



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by terakoyanet | 2019-11-08 15:09 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

国語の伸ばし方

植本一子さんは去年の夏、私たちが日本財団の取材を受けたときに撮影に来たのが最初で、その数ヶ月後にトークイベントに来てもらったのでとらきつねに来てくださるのは今回で3度目、そして武田砂鉄さんは今回初めてとらきつねにお越しになります。


その武田砂鉄さんが去年の12月にタモリ倶楽部に出演したときの動画があります。
この日のタモリ倶楽部は「受験業界震撼の問題企画!作者の気持ちを作者は解けるか!?」という企画で花園大学の大学入試問題国語の文章「鼻毛に背負わせすぎ」の著者である武田砂鉄さんが「作者の気持ちを作者は解けるか」どうかを試すためにタモリたちとともに問題を解き、えー!?作者なのに作者の気持ちの問題が解けないのか!?といういわばお決まりのオチに落ち着くという、ある意味予定調和の笑いの内容と言えると思います。

でも、タモリ倶楽部、タモリの笑いのいいところはそこに強引さがないところです。一方的な解釈を押し付けるようなことはしません。
実のところ、国語の入試問題で根拠なく「作者の気持ち」なんてものを答えさせる問題は絶対に出ません。この番組に登場する入試問題の作成者である今井隆介准教授(入試問題の素材に「鼻毛に背負わせすぎ」を選んだ時点で今井教授はきっと間違いない人!)も言っているとおり、解の根拠を説明できない問題は入試問題として不適合であり、出題者は論理的根拠があるという点において出題者としての責任を負って問題を作成しています。よって国語の問題を解くことは、作者というよりは、問題作成者との知恵比べ、がまん比べになります。
だからその意味で、国語を解くということがわかっていない人が「作者の気持ちを答えよなんてナンセンスだよ、そんなのわかるわけないじゃん」と言うのと同じような結論をこの番組が導き出していないことに安心しました。だってそれは端的に事実誤認だからです。この番組ではむしろ出題者の今井さんへの敬意が感じられたし、その一方で武田砂鉄さんのチャーミングさと「鼻毛に背負わせすぎ」という短編の面白みが存分に伝わってきました。こうやって、タモリの笑いというのは基本的にどの立場の人も傷つけない敬意を持ったものなので、安心して見ていられます。[その点、昨夜テレビであっていた「月曜から夜ふかし」は、取り上げられたケーキ屋さんが、そのセンスのなさを強調されるだけで終わっていて(マツコが私は好き、と言っていたがあんなものではフォローとしては弱すぎる)なんて一方的な編集なんだと憤ってしまいました。]

国語は伸ばしにくいと言われる科目ですが、きちんとポイントを押さえて学習すれば必ず伸びる科目です。
私たちの教室には、芥川龍之介や鷲田清一といった難しい内容の文章も果敢に読み解いていく小学生対象の国語の授業があり、中学生対象の国語力を伸ばすことだけに特化した授業「国語塾」があり(この授業はオプション料金が発生するのにかかわらず、当校の中学生の6割以上が履修しています)、センター試験や最新の入試問題を厳選して読み解く高校生対象の「現代国語」の授業があり(昨日の授業では2015年のセンターに出た大庭みな子の短編「紅茶」と、2018年の早稲田大社会科学部の問題に出た東浩紀の「ゲンロン0 観光客の哲学」を扱いました。ちなみに東浩紀さんの「ゲンロン0 観光客の哲学」の刊行記念読書会が2017年にとらきつねで開催されました 。こうしてとらきつねのイベントと大学入試、日ごろの授業はつながっています)、小・中・高のそれぞれの授業で子どもたち(計108名が履修中)が明確に国語の力を伸ばしており、その成果は歴然と日ごろの模試でも表れています。

国語の伸ばし方_d0116009_04274914.jpg
↑は先ごろ発表された夏の模試の平均偏差値。国語塾履修生(1学期から国語塾を履修している生徒)の平均、その他の生徒の平均です。
国語塾生は本人もご家族も勉強に熱心であることが多く、中2数学以外の全ての科目で国語塾履修生のほうが平均が高くなっていますが、やはり国語の平均偏差値は国語塾履修生が圧倒的に高いことがわかるデータになっています。中3に関しては英語(やここに載っていませんが社会)でも国語塾履修生が差をつけており、文系科目全体への好影響も伺える結果となっています。

当校で生徒たちに国語を解く上で何を意識づけさせているかをまとめると、以下のようになります。(以下がすべてではありません。一例です。)

1 まず大前提として、文章を読むことに深く集中すること。
2 決してフィーリング(感覚)で解かない。評論はもちろん、小説さえも論理的に解くこと。
3 問題を解くことは問題作成者との知恵比べと心得ること。
4 論説文・評論文など読みづらいものは、本文読解と設問を同時並行で読み進めて解いていく。
5 小説・随筆(比較的すいすい読めるもの)は、先に本文をすべて読んだ後に設問を解いてもよい。
6 設問で問われている内容は何か確認し、間違えないように印をつける。(「理由を答える」のか「考えて説明」するのか、「一文を探す」のか「部分を抜き出す」のかなど。
7 設問傍線部中(または傍線部直前)の指示語に〇をつけ、その指示語が何を示しているかを明らかにする。
8 本文中の接続詞(しかし・つまり・また、など)は文脈の転換点。注意を払う。
9 むやみやたらに本文に印をつけない。解くことを単なる「作業」に貶めないこと。印は必要な箇所に最低限つける。印をつける箇所を厳選すること自体が国語力アップの鍵。
10 選択問題というのは要はボケとツッコミである。出題者のボケに的確なツッコミを入れることができるかが勝負。各選択肢の、明らかに間違っている(ボケてる)箇所に線を引き×をつけ(これがツッコミ)、怪しいところには△をつける(ただし中途半端なツッコミはできるだけ避けたい)。※ボケにはパターンがあるので、そのパターンを授業中にしっかり確認をしています。
11 解くのに慣れてきたら、時間をはかって解く。


他にもありますが上のようなことを繰り返し繰り返しやっていくと国語力は着実に伸びていきます。内容が難しいときは、その内容について子どもたちが「そういう話だったのか!」と腑に落ちるような話をすることも大切です。集中して問題を解かせる→論理的な根拠をもとに問題を解説→最終的に子どもたちの心にすとんと落とし込む、これがうまくいったときは、思わず「今日はうまくいったー!」と叫びたくなることもあります。国語の授業は生モノで扱いにくいところもありますが、子どもたちのおかげでとても楽しく進行できていると感じます。そして、国語の授業で読んだこと感じたことが意識・無意識に子どもたちの将来の財産になることを、祈るような気持ちで密かに願っています。

最初にお話しした武田砂鉄さんのイベント、こちらを読んだ方はぜひご参加いただければと思います。ずばり面白くなると思います。(残席少ないので売り切れてしまった場合はご了承ください。)



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by terakoyanet | 2019-10-08 04:51 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

受け身の学習

現在、中2の夏期講習の数学では一次関数を進んでいます。
クラスには、同じようなテストを繰り返しても、得点が取れない子がいます。

その子たちの特徴として言えることは、わからない問題をわからないまま放置しているということ。
その中にはマジメな子もいて、自分では放置していないつもりの子もいます。でも、その子たちはどこかで、この問題をわからせてくれる人がどこかにいると思い、それを待っていて、自分で考えるということを怠っていることに、自分で気づいていません。

彼らは、授業を聞いてもいまいちわからなければ、まずはわかるまで自分で解いてみるしかないということを知りません。数学で得点が取れている子というのは、わからなければ、教科書や問題集を開いて解けるまで練習するという当たり前のことをやっています。

この前ある高校生が、数学は「わかりみ」だった、と言っていたのですが、その子が言うには、数学は自分で解いてみないことにはいつまでもわからない、自分で解いてみてはじめて「わかりみ」が生まれるという単純なことに気づいていなかったというのです。そのことを知らなかったので、わからなければわからないまま問題を眺めていただけだったそうです。

受け身の学習に慣れきってしまうと、学習というのは最終的には自分の力で解いて理解するしかないという当たり前のことに気づかなくなってしまうのだということは、子どもたちを教える大人たちも常に頭に置いておくべきことなのだと思います。


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by terakoyanet | 2019-07-26 10:49 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)