寺子屋ブログ by 唐人町寺子屋

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2019年 01月 24日

「イヤ」に乗っ取られている。

中学生は今年のはじめに行われた、到達度テスト(県一斉模試)が次々に返却されているところです。

今回は、明らかに成績を伸ばした生徒が多く、
成績が伸びなかった中1のある男の子が

「みんな、成績が伸びていいなあ! 僕は全然、伸びてない!」

というので、

「●●くん、中学生になったら勉強しないと地頭だけじゃ成績伸びないんだよ。伸ばしたいならそろそろ勉強しないと。」

と私は言いました。すると●●くんは

「いや、先生、僕は勉強しているんですよ! でも親がウザすぎて、ただやって見せてるだけですけどね!」

と言うので、

「それは、もう、イヤに乗っ取られてるからね。イヤに乗っ取られてしまったのは●●くんのせいだけじゃないけど、成績を伸ばしたいなら、いま乗っ取られているイヤな気持ちから解放されて、自分のための勉強ができるようにならないと、ぜったいいまのままじゃ変わらないよ。いまは自分でやってるんじゃなくて、環境にやらされてるだけだからね。自分のための勉強ができないと、いつまでも面白くないよ。もう、親はほっといて、自分のための勉強に専念したほうがいいよ。」

と私が返すと

「先生、僕のことがよくわかってますね!!」

と捨て台詞のように大きな声で応えて、一人扉を開けて帰って行きました。

これからの彼に幸あれ。


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by terakoyanet | 2019-01-24 01:48 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2019年 01月 21日

中3のこと、受験勉強のこと

昨日は少しひさびさの中3の長時間授業。(先週の日曜は模試のせいでスタート時間が遅かったので。)

この1ヶ月で英語・数学の力を伸ばした生徒が本当に多いことを実感しました。
昨日生徒たちに配布した県模試の結果にも、それが如実に表れています。

この時期の受験生は、覚えるだけである程度点数が取れる(→定期テスト直前の勉強のしかた)部分の学習はすでに終わっている生徒も多く、あとはいかにひとつひとつの問題を掘り下げて、自分のものにできるかにかかっています。

特に数学は、基礎計算力がどれだけ大切かは言うまでもなく、そのあとは、いかに多くの問題パターンを自分のものにできたかが勝敗のカギを握っています。

焦る自分の気休めのために、ただ徒ら(いたずら)に過去問を解いているだけの子はいつまで経っても伸びません。
そういう一時的な自己充足のための学習をやっている子は、いつまでも自分がなぜ得点がとれないかということと向き合うことができていないので、決して弱点を克服することができません。(だってはじめから弱点を克服することから逃げているのですから。)

でもそうやって逃げている自分を見ようとしない。
必ずしも逃げることが悪いわけではない。
でもね、逃げている自分に気づけなくなってしまうのは、自分を騙し通せてしまうのは、ちょっとまずい。
もう少し、そのへん自己分析ができるようになったほうがいいと思うのです。

そういう力は将来、みんなの身を助けます。
あなたはせっかくそんなにまじめで真剣な人なんだから、受験を通して自分自身をごまかして裏切ることに決して慣れないでほしいのです。


・・・・

センターが終わり、今週は専願入試も。
いろんな葛藤や煩悶を抱えながらも、今日も一生懸命な受験生たちを心から応援しています。


・・・

今年のセンター国語の評論は、沼野充義さんによる翻訳の話でした。

まったく違った文化的背景の中で、まったく違った言語によって書かれた文学作品を、別の言語に訳して、それがまがりなりにも理解されるということじたい、よく考えてみると、何か奇跡のようなことではないのか

本当にそうだなあと思いながら読みました。
今年のセンター国語は、とてもベーシックな良問でした。

また、センター地理Bで、地誌でウズベキスタンとウクライナが出たことに驚愕している人が多かったのですが、綿花・アラル海(の縮小)と灌漑・タシケント・イスラム教(中央アジア)といったキーワードをもつウズベキスタンのこと、チェルノーゼム・小麦・ドネツ炭田・クリボイログ鉄山といったキーワードをもつウクライナのことを、表層的にでも知っていれば解ける問題で、特に驚くべき問題ではありませんでした。ただ、全体で数問だけとても難易度が高い問題がありましたね。



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by terakoyanet | 2019-01-21 09:39 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)
2018年 10月 28日

「うちの子はがんばっているのに成績が伸びない」は大抵間違っている。

「うちの子はがんばっているのに、成績が伸びないんです」

他の塾から当校に移ってくる生徒は毎年何人もいるのですが、その際に時折、お母さま(ときにお父さま)から聞く言葉です。わたしはこの言葉を聞くと、いつも「そうだろうか?」と思います。

「がんばっているのに、成績が伸びない」というのは、大抵、親の勝手な解釈なんです。
実際は、「がんばっているからこそ、いまの成績が維持できている」のかもしれないのに、ただ、学校や模試において点数が伸びてないという表層的な理由に基づき、子どもに対し「成績が伸びない」という烙印を押す。がんばっているのなら、それが現状の子どもにとってはベストに近い状態かもしれないのに、その斜め上を見て、「成績が伸びない」と断定してしまう。それは親の願望でしかありません。そして、このことによって傷つく子どもは多いです。

「がんばっているのに、成績が伸びない」
親がそう他人に主張しているとき、大抵の子どもは親が「私のことを一生懸命考えてくれてる」「私はなぜ伸びないんだろう」と考えますから、子どもが親のことを嫌いになることはありません。目の前の親が高望みをすることで、自分自身を傷つけているのに、子どもは決してそう解釈することはありません。子どもというのは、大切な親を救うためには、自分自身を損ねることを厭いません。親は子どもを救っているつもりで、何度子どもに救われればそのことに気づくのでしょうか。

「がんばっているのに、成績が伸びない」
親がそう他人に主張しているとき、「うちの子はがんばっているけど、勉強のやり方がわかっていないから、成績が伸びない」という考えが含まれることが多いです。それはつまり、「そもそもうちの子は勉強のやり方がわかっていないし、それを的確に教えてくれる人がいない」という他者(たとえば学校や塾)に対する不満を含んでいます。(塾を移ってくるときに、最初にそのことを口にする方が多いのは、それが理由のひとつでしょう。)しかし、勉強が「わかる」という真の経験がある人たちは、きっとそんな考えを持つことはありません。なぜかと言えば、その人たちは、勉強のやり方というのは、自らの手によって掴み取ることによってしか、得られることのない類いのものだからということを知っているからです。「馬を水辺に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない。」このことわざは、最終的には自分の意志でがんばらなければならない、というような単純な意味ではなく、学問でも他の分野でもそうですが、指導者ができることは、ある問題の解決のための具体的な方法を教示するところまでであり、実際にそれが「わかる」ようになるのは、本人の手によってでしかないという、学習というものの本源的な性質を示すものです。指導者として大切な素質は第一に「本人の能力を奪わないこと」であり、それを土台にしつつ「問題解決の糸口を見つけやすくしてあげる」(これは案外難しいことですから、指導者には能力差があるのです)ことに尽きるのですが、「うちの子はがんばっているのに、成績が伸びない」と主張する親たちはたびたび子どもが「わかる」こと自体を他人に依拠しようとします。これは、水辺で馬に無理やり水を飲ませようとしていることと同じであり、うまくいかないどころか、子ども自身にとっては完全にマイナスにしか働かない所為と言わざるをえません。「解決そのものを他人に依存すること」を教えるのは、親が無自覚に「本人の能力を奪う」例として、私がこれまでに幾度も見てきたことのひとつです。

「がんばっているのに、成績が伸びない」と言われ続けた子どもというのは、自分自身を他人に高く大きく見せがちになります。虚栄心が強い子どもになりやすいのです。その結果、なんとなく周囲から浮いていると感じる子も少なくありませんし、そのくせ自己否定感が強く自分を大切にできない、どこにも居場所がないように感じられる、他人にも興味がもてない、そんな大人に育っていく子も少なくありません。いつもどこか「偽物」である私を感じていて、何冊自己啓発本を読んでも、何度セミナーに参加しても、満たされることはありません。親から「解決そのものを他人に依存すること」を教えられた子どもの苦しみはそうやってずっと後を引くことがあるのです。

「うちの子はがんばっているのに、成績が伸びない」なんて、子どもに言わないであげてください。
がんばっているなら、それが現在の子どもの力です。その結果も含めて、全てを認めてあげてください。

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by terakoyanet | 2018-10-28 07:13 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 09月 17日

英語を覚えるということ ~ 似顔絵のこと

現在、中間考査直前の対策授業が行われています。
準備万端の子と、まだまだ準備不足の(単に覚えていないことが多い)子の差が大きいと感じます。
考査直前になると、この子は今回伸びそう、とか伸び悩みそうとかが、はっきりと見えてきます。
出遅れている子の猛烈な挽回を期待しています。

当仁中の中1は、学校で英単語のスペリングコンテストがあったそうで、発表された上位40名中の寺子屋生の割合がすごく高かったと子どもたちが話していて、私のほうもうれしくなりました。
寺子屋生の8割が上位にランクインしていたそうで、満点の生徒も。
「でも、当たり前やん、寺子屋の人、圧倒的に有利やない?」とある女の子。

中1生は、中2・中3と同じく夏期講習の間に約800語の英単語テストが行われました。
今年は中1生も本当に頑張りました。毎回90点以上をとった生徒たちは700語以上、半分しか覚えられなかった生徒でも400語の英単語を夏の間に覚えました。
そんな彼らからすれば、学校の英単語テストは、かなり簡単なものでした。

最近、学習において、丸暗記というのはつくづく評判が悪いです。
しかし、「覚える努力をしなくていい」なんて言う語学教師はみんなうそつきです。
語学は覚えなければ始まらない科目です。

それにしても、単語を覚える、というのは訓練が必要だと、子どもたちを見ていて思います。
日ごろ単語を覚えていない中学生に、ほら、覚えなさい、と言ったところでなかなか覚えられないのです。その点、寺子屋の生徒たちは、日々の訓練が積まれています。日ごろから覚える訓練ができているからこそ、新しい単語が出てきてもすぐ覚えられます。

これは自分一人で刺激が少ない環境で勉強している子には身に付きにくい力で、寺子屋に途中から(中2・中3から)入ってくる生徒で最も多いのが、「勉強得意だったはずなのに、英語が取れなくなった」という子ども。彼らは「覚える習慣」を身につける機会がなかったために、理解力はあるのに英語が苦手になっている子どもたちです。語学は言葉そのものを扱う学問ですから、言葉を知らなければ、いかに理解力があっても得点できないのは当たり前のことです。


・・・

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いま、中3と中1で、私の似顔絵を描くのがはやっていて、特に中3のある子が、ブログに載せろと毎日言ってくるので、載せることにしました。

・・・・

毎日の授業がとても楽しいです。

9月の後半は、子どもたちの夏のがんばりの成果がしっかりと数字となって現れますから、到達度テスト、県模試、2学期中間テストと、結果が出るのを心待ちにしているところです。



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by terakoyanet | 2018-09-17 01:51 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)
2018年 07月 22日

「友達と勉強する」ことについて

いよいよ夏休み! 「友達と勉強する!」と言って家を飛び出す子もいるでしょう。
友達と勉強する是非について質問をいただきましたので、こちらで答えておきたいと思います。
実は、7年も前にこのことについて書いた記事があるので、そちらを引用します。


私は友だちと勉強することが良いとは思いません。
勉強とは自分の頭で理解するものです。基本的に一人でするものです。

友だちとの勉強は甘えが出やすいです。
それどころかただの遊びになってしまって、時間だけがやたら過ぎてしまったということになりかねません。

テスト前(受験前)で時間がないのに、友だちとやるなんて、どれだけ余裕だよ?と思ってしまいます。


友だちと勉強しようと言っている子たちは、言っている時点で心に隙があります。

自分でもわかるでしょう。

がんばろう!!!というより、どこかで遊びたい、楽しみたいと思っているでしょう。

勉強と楽しみは分けて考えないと効率は上がりません。
中途半端に「勉強したい。でも遊びたい。」と思っていては、いつまでも真の実力をつけるような勉強はできないでしょう。

自分の頭をフルに使って懸命に考え込んでいるときに、横に友だちがいてはジャマでしょう。
言葉は悪いですが、私はそう思います。

よほどの理由がない限り、勉強は一人でやればいいのです。
一人で本当に集中しているときこそ、大きな成長の可能性があります。



私の基本的な考え方は、このときと変わっていません。
勉強しなくて遊んでしまう罪悪感から「勉強会」を開いたところで、結局遊んだりしゃべったりしてしまい、なんとも言えない後味の悪さが残るでしょう。遊ぶ時はめいっぱい遊んだらいいのに、なんでそんなことをするのだろうと思います。

ただ、例外もあります。
Aさんが「○○がわからないから教えて」とBさんにお願いして、そうしてBさんが、Aさんがちゃんとわかるまで付き合って教える。そういうことはあります。子どもどうしで良い生徒と先生の関係ができることがあり、そういうときに一緒に勉強した意味が生じることはあります。
ただ、この場合、得しているのがAさんなのはどうしても否めません。Bさんも教えることで発見はあるでしょう。でもこのよい関係を同じ中学生同士で続けるのは、いろいろな意味で無理のあることです。

マンガを読んだり映画を見たりするときに、隣に人がいてもいいけど、結局その世界を味わうのは私一人の心です。
それと全く同じ意味で、勉強をするときには、隣に人がいてもいいけど、結局その世界にのめり込むのは私一人の心です。
勉強にのめり込む際に、隣にいる友達が映画を見るときと同じようにいっしょにのめり込んでくれたらいいのだけど、勉強はそうなりにくい。
だから、勉強は一人でやることに慣れましょう。一人で勉強をするという孤独に慣れることが、学力を伸ばすために一番大切なことです。



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by terakoyanet | 2018-07-22 23:09 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 06月 15日

授業のコツ

1年ほど前に、ある同業者(塾の先生)の方から、「生徒を引き付ける授業をするコツを教えてください。生徒を伸ばすためのコツを教えてください。」という内容のメールが来て(実際には自分がどうやって指導をしているか等、いろいろと書かれていましたが)面喰ったことがありました。そもそも、FB(フェイスブック)のメッセージで仕事のノウハウを尋ねるのはおかしな話だと思ったので(だって、たとえばそれって例えば料理家にレシピ教えてくださいってメッセージで尋ねるようなものですよね)まともな返事をしなかったのですが、コツというのは、もちろん意識している部分もあるけれども、もう体が勝手にやっているような無意識的な部分も大きくて、なかなか答えられるものではありません。

集団授業をする人には向き不向きがあって、幸い私は集団授業をするのが向いているのだろうと思います。
その理由は、少し逆説的ですが、私は目の前にいる生徒たちを「集団」として見ることができないという性質を持っているからです。
だから、ひとり具合が悪そうな子が目に留まると、周りの子は関係なしに声をかけるし、授業に集中していない子がいると、「先生はあなたにひとりに向かって話しているのに、なぜ無視するの?」と問いかけます。なぜそうするかというと、単にすごく気になるからです。(私とは違って、クラスの生徒を「集団」として見ることで、全体をまとめあげることに成功している先生もいるでしょうね。)

18年もやっていれば、ノウハウはたくさんあります。こうやって教えたら理解しやすい、そういう材料は、国語・数学・社会・理科・英語、5科目の全ての単元においてたくさん握りしめています。
ちゃんと話を聞いてくれる生徒たちが必ず「わかりやすい」と言ってくれるのは自信になります。(指導者の自信というのは、不思議なほど子どもに驚くほど良く伝わりますね。自信を持って指導している先生の話は、子どもたちはちゃんと聞きます。)
そしてその「わかりやすい」という反応があるからこそ、自分自身の教え方を点検できるのであり、彼らにはとても感謝しています。

でも、集団授業をうまくやるには、指導がわかりやすいだけではダメです。
わかりやすい指導でも、子どもたちがそれを聞かなかったら意味をなさないからです。
子どもたちは1日の学校を終えて、かなり疲労して来るのですから、よほど工夫しない限り、話を聞き続けてはくれないでしょう。

だから、常に子ども一人ひとりの「いま」にアクセスしなければなりません。
「いま」話を聞いていない生徒がいたら、「ほら、いま、話を聞いていなかったせいで、大事なこと聞き逃しちゃった。あーあ、聞けばわかったのに。」そうやって、「いま」のあなたの状況をその場で即座に指摘して、しまった、と思わせなければいけません。惰性で通いがちな子どもたちに、「いまのあなたはどうなの?」ということを常に問いかけることが、とても大切です。

まだまだ、まとめきれないし、書きたいことは山ほどありますが、(質問をくれた人がこれを読むかはわかりませんが、)
質問に対する1年ごしの回答です。


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by terakoyanet | 2018-06-15 01:59 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 05月 19日

中1はいまが大切な時期。

中1の子どもたちにとって、この時期は中学校生活のこれからが見えてくる大切な時期。
部活動生たちは部活動が本格化し始めますし、同時に、体育大会の練習などを通して、中学校生活のハードさを初めて実感していると思います。

そんな時期ですが、今年の中1生、よく頑張っています。
宿題の達成度が高いのです。

はじめ苦戦している子が多かった英語も、かなり精度が上がってきました。
社会や理科もちゃんと勉強してきていることがうかがえます。

この学年の強みは、ちゃんと話を聞くことができるということ。
授業中に話を聞くことが何より大切ということは、いくら強調してもしきれないくらいで、授業についていくことができない生徒というのは、単に聞くことができていないという場合が多いんです。
その意味で、この学年は伸びる、そう思っています。

中1の共通授業から今年から開設されたライトコースの授業に移った生徒が4・5名おり、そのため、中1の共通授業に空きがあります。
もう少し生徒がいたほうが、クラスがきゅっと引き締まる気がします。
ですから、現在、中1のお子さんが身近にいらっしゃったら、お声掛けいただければ幸いです。



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by terakoyanet | 2018-05-19 10:56 | お知らせ | Trackback | Comments(0)
2018年 04月 21日

中2のみんな、がんばりました。~都道府県の覚え方~

昨日は中2の社会で都道府県と県庁所在地テストが行われました。

すべての都道府県と県庁所在地の位置と漢字を正確に覚えなければなりません。
地理の基礎になる、とても大切なテストですが、位置を覚えるのが難しい+漢字を正確に書くのが難しい という理由で、毎年苦労する生徒が多い単元でもあります。

今日は中2の子たちのがんばりを称えたいです。
都道府県と県庁所在地名をセットにしたテストは昨夜が初めてですが、そのテストで一人残らず全員が50点を上回りました。

50点なんてたいしたことない、と思う方もいるかもしれませんが、
そのテストは生徒たちが間違えそうなところばっかりを狙い撃ちした抜粋テストでした。

かなりの努力を積まないと50点を取れない子がいることを知っているから、一人残らず50点以上を取ったことをうれしく思いました。
みんなをほめたときに、50点台をとったある子が、頑張ったもん、とうれしい顔をしていたのが印象に残っています。

1回目のテストで全員が50点を超えたのはおそらく歴代初です。
80点以上の合格者が全体の3分の2ほどで、満点も複数、最頻値(最も多い得点)は1つ間違いの96点でした。

中2の子たち、宿題に対する意識が高い学年に成長したと、つくづく思います。

都道府県を覚えるとき、このページなど、とても便利ですよ。(でも漢字は自分で書いて確認しないといけません。)



都道府県の覚え方の手順は、


①まずは漢字はほっておいてとにかく位置だけ覚える。

*ランダムに白地図の各都道府県を指さして瞬時に都道府県名を口頭で答えられるように練習をする。この練習では、ハイテンポでランダムに白地図を指し示して問題を出してあげる人(その人は当然正確に答えがわかってないとダメ)がいると便利なのですが、人の助けを得ることができない場合には、のページを活用しましょう。


②都道府県の漢字を書けるようにする。
*間違えやすいのは 新を筆頭に、玉、愛木、鳥取(逆さまに取鳥とする子が毎年いる)、岐阜本。


③県庁所在地のうち、都道府県と名前が異なるものだけをピックアップして覚える。

*島根ー松江、香川ー高松、愛媛ー松山 が鬼門になる子が多いです。さいたま市はひらがなで。漢字で間違えやすいのは、那や、前(なぜかノギヘンにしたがる)


という①②③の順序になります。


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by terakoyanet | 2018-04-21 02:11 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)
2018年 02月 01日

カタログ的学習の弊害

先週のDCS(ディスカッション)では、熊大文学部の小論文(2017年)で出題された、内田樹さんの『昭和のエートス』を扱いました。
そこには次のような文章があります。


子どもたちはこれから学ぶことになる教科について、それを学ぶことの有用性や価値について語る言葉をまだ持っていない。しばしば「学ぶことの有用性や価値について語る言葉をまだ持っていない」という当の事実こそが彼らがそれを学ばなければならない理由だからである。
<中略>
学ぶものは自分が学ぶことの意味を適切に言うことができない。だからこそ学ばなければならないのである。
教育はそのように順逆が転倒したかたちで構造化されている。
教育をこれから受けようと思う人間は、カタログを拡げて、自分が受ける教育について時空を超えて俯瞰するような視点(ユビキタス的視点)に立つべきではない。子どもにそれを許せば、教育はその裁量の教育的意義を失ってしまうであろう。

内田樹『昭和のエートス』


これを読んだ鋭敏な高校生たちは、
「よく、何のために勉強するのか、とかいう学生が言いがちな質問に対する完全な回答がここにある」
「子どもがこれを理解するというより、教育をする大人がこれをどれだけ理解しているのか」

そういう話をしていました。

この内田氏の指摘はあまりに重要で、現代の教育に「失敗」している人たちの多くが陥りやすい罠について書かれていると感じます。

内田氏が同じ文章で指摘するとおり、小学一年生は、自分が「国語」を学ぶ理由を適切な日本語で説明することができません。「算数」の合理性について、数学的論理に基づいて述べることができません。しかし、むしろそのこと自体が、小学生が「国語」と「算数」を学ぶ理由なのです。

現在、大人がそのことを理解していないために、子どもの教育にさまざまな弊害が生じています。

まず、いまの大人たちは、「子どもの意見を尊重して」という言い方をしますが、そのときに、子どもが本当に自分なりの理解をしてその選択をしているかという点について考えることを等閑(なおざり)にしがちです。むしろ、自分自身もよくわからないから、子どもの意見を尊重するこという口実によって自分自身の責任を回避するという傾向が見られます。子どもの意思の赴くままに自然に育てるというのは、子どもに親の意識が集中しがちな現代においてとても大切な考え方ですが、一方で、現代の日本は、かつての日本の農村社会のような、子どもの生命力を喚起するような自然環境を失っていますし、子どもに薫陶を与える生き字引のような長老のような存在もおらず、放っておくだけで子どもは生きるための力を身につけることができると考えるのは、やや楽観的すぎるかもしれません。子どもは勝手に育つといいますが、適切な手入れがなければ十分に育たないのです。だから、大人がその手入れをさぼってはいけないと思うのです。

別の話になります。小・中学校教育において、重要視されている「調べ学習」ですが、なぜ科学を学ぶのかを知らない子どもたち、歴史を学ぶのかを知らない子どもたちに対して「調べ学習」を押し付けることは、(全くではないにせよ)あまり意味がないと言わざるをえません。子どもたちは、調べるための視点とその必然を理解できていないのですから、そういう子たちに調べることをやらせてみたところで、大人の一時的な評価を得るために、参考書のまねごとをするような空疎な内容になるのが関の山です。そんなことをするよりも、子どもを惹きつけるような、それは面白いと膝を打つような話を通して、子どもたちに知識と知恵を吸収させることが大事です。「調べ学習」ができるようになる、というのは結果的にそうなるはずなのに、はじめから調べ学習をやらせるなんて、生まれたての鳥に、いいから飛んでみろといきなり巣の中から外へ放り出すようなもので、うまくいくわけがないのです。高校や大学も、アクティブ・ラーニングなんかやるより、いまやっている勉強が、実は自分自身のことだ、自分の人生と確かに繋がっている、そう感じさせる授業ができれば、子どもたちは勝手にアクティブに動き始めるんです。本当はそれが子どもの自発性を伸ばすということであり、教育の力というものではないでしょうか。

最後に、私が日ごろ実感していることについての話です。
小学校のころは優秀だったのに、中学以降は伸び悩む、そういう子たちがいます。
そういう子たちの中には、小さいころにカタログ的学習を身につけた弊害がはっきりと見える子がいます。
勉強の世界というのは、私たちの生存の周りに無限に拡がっているものなのですが、小さいころからカタログを与えられた子どもというのはそのことに対する感度が抜け落ちてしまいます。彼らは、勉強はカタログから選ぶものと思っていて、カタログ外に世界が拡がっていることを知りません。さらにカタログの中から自分が楽できるもの(それが仮に他のものに比べれば相対的に興味があるものだとしても)だけを選ぶ癖がついてしまっています。そういう子たちは、カタログ外のことが目の前に現れても、それはムダで意味がないと半ば無意識に捨象する癖がついていますから、中学以降、カタログに捉われずに新しい知識とあらゆる事象とを縦横無尽に結び付けていく他の子に比べ、どうしても応用的な思考力が劣ります。数学的、言語的に鋭い反射能力を示す子はたくさんいますが、それがその子にとっての生きる思考になっていないのです。



それにしても、教育の問題について、高校生と話すのはエキサイティングです。
教育の問題を話しているようで、どうしても、自分のこれからの生き延び方についての話になるのが、とても面白いです。



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by terakoyanet | 2018-02-01 03:32 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 01月 24日

You can lead a horse to water but you cannot make it drink.

You can lead a horse to water but you cannot make it drink.

昨日の中3Sクラスで登場したこのことわざの意味は、

「馬を水のところに連れて行くことはできるが、馬に水を飲ませることはできない。」

私たち指導者たちもそうです。
子どもたちを水のある場所に連れて行くことはできます。
でも、水を飲むかどうかは、最終的には子どもたち次第です。

よい個別指導の教師は、子どもの傍にいますから、その水を口元まで運んであげることができます。
よい集団授業の教師は、その子どものすぐ近くに、水を飲んでいる別の子どもがいることを生かして、その子が自分ひとりで水を飲む力をつけることを促すことができます。

それでも、水を飲むかどうかは、最終的には子どもたち次第です。

昨日、このことわざがでてきたとき、子どもたちにその話をしました。
受験に必要な知識の99.8%を教え終わったいまなら、きっと伝わると思ったからです。

この時期の受験生たちは、自分の本質的な弱点にいよいよ向き合っています。
そんな彼らを見て、その真摯さに胸を打たれるし、彼らは受験を通して、ちゃんと成長していると感じるのです。


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by terakoyanet | 2018-01-24 13:04 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)