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前記事の「勉強のしかたがわからない」のお話し。これだけではわかりにくいと思いますので、昨年の10月に書いた「うちの子はがんばっているのに成績が伸びない」は大抵間違っているという記事から文章を一部引用します。(全文読みたい方はリンク先を見てください。)


うちの子どもは「がんばっているのに、成績が伸びない」というのは、大抵、親の勝手な解釈なんです。
実際は、「がんばっているからこそ、いまの成績が維持できている」のかもしれないのに、ただ、学校や模試において点数が伸びてないという表層的な理由に基づき、子どもに対し「成績が伸びない」という烙印を押す。がんばっているのなら、それが現状の子どもにとってはベストに近い状態かもしれないのに、その斜め上を見て、「成績が伸びない」と断定してしまう。それは親の願望でしかありません。そして、このことによって傷つく子どもは多いです。

「がんばっているのに、成績が伸びない」
親がそう他人に主張しているとき、大抵の子どもは親が「私のことを一生懸命考えてくれてる」「私はなぜ伸びないんだろう」と考えますから、子どもが親のことを嫌いになることはありません。目の前の親が高望みをすることで、自分自身を傷つけているのに、子どもは決してそう解釈することはありません。子どもというのは、大切な親を救うためには、自分自身を損ねることを厭いません。親は子どもを救っているつもりで、何度子どもに救われればそのことに気づくのでしょうか。

「がんばっているのに、成績が伸びない」
親がそう他人に主張しているとき、「うちの子はがんばっているけど、勉強のやり方がわかっていないから、成績が伸びない」という考えが含まれることが多いです。それはつまり、「そもそもうちの子は勉強のやり方がわかっていないし、それを的確に教えてくれる人がいない」という他者(たとえば学校や塾)に対する不満を含んでいます。
しかし、勉強が「わかる」という真の経験がある人たちは、きっとそんな考えを持つことはありません。なぜかと言えば、その人たちは、勉強のやり方というのは、自らの手によって掴み取ることによってしか、得られることのない類いのものだからということを知っているからです。
「馬を水辺に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない。」このことわざは、最終的には自分の意志でがんばらなければならない、というような単純な意味ではなく、学問でも他の分野でもそうですが、指導者ができることは、ある問題の解決のための具体的な方法を教示するところまでであり、実際にそれが「わかる」ようになるのは、本人の手によってでしかないという、学習というものの本源的な性質を示すものです。指導者として大切な素質は第一に「本人の能力を奪わないこと」であり、それを土台にしつつ「問題解決の糸口を見つけやすくしてあげる」(これは案外難しいことですから、指導者には能力差があるのです)ことに尽きるのですが、「うちの子はがんばっているのに、成績が伸びない」と主張する親たちはたびたび子どもが「わかる」こと自体を他人に依拠しようとします。これは、水辺で馬に無理やり水を飲ませようとしていることと同じであり、うまくいかないどころか、子ども自身にとっては完全にマイナスにしか働かない所為と言わざるをえません。「解決そのものを他人に依存すること」を教えるのは、親が無自覚に「本人の能力を奪う」例として、私がこれまでに幾度も見てきたことのひとつです。


誰かにわかるようにしてもらいたい、というのは勉強じゃないんです。
本人が、ある決意や覚悟をもって勉強に取り組み始めたときに初めて、勉強の世界が本人の前に開けてきます。それを経験もせずに、誰かにわかるようにしてもらいたいと願うことは、死んだように勉強するのと同じです。勉強の出来不出来以前に、生きたように勉強をすることを、子どもたちには知ってほしいと願っています。
そのためにも、できない子どもを責めるのではなく、子どもが生きた勉強をしているか、勉強の世界が本人の前に開けているか、そのことを一番大切に考えながらご家族にも子どもたちを見守っていただきたいと思います。




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by terakoyanet | 2019-11-22 03:37 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

テレビに出ている林先生を見ていてもそうですが、いま学生たちを教える先生たちはソフトな人が多いです。
私も大人たちからソフトな人間とよく言われます。その点、子どもたちはちゃんとそうじゃないと気付いていますが。。

子どもと指導者の関係はフラットであるほうがいいという話をするとたびたび誤解されるのですが、それだけでは子どもたちの力はつきません。フラットな関係を半ば利用して縦の関係を成就させることを自覚的にうまくやるのが、いま子どもたちに教える人たちにとって必要な条件です。

このことについて、11年前にこちらのブログで書いていますので、以下に掲載します。

・・・

私は日々、子どもたちと同じ目線で指導を、と思っています。
というか、子どもより自分が上の立場と思うこと自体がなんだかよくわからないのです。
目の前にいるのは、ただただ自分より若い、経験が少ない人間がいるだけ。

私は、年齢や経験値、(または社会的地位等)が上だからといって、人との間に縦の関係が生まれる場面があるというのが、なぜそういうことになるのか感覚的によくわからないのです。

ですから私は自分の友達と接するときとあまりかわらない感じで子どもたちと接することになります。
それは、相手を認める、というような大仰なものではなく、ただいっしょに隣にいるだけというかんじの関係。

ただし、生徒を指導するにあたって、なれ合いの関係を形成してそれでよしとは当然なりません。
そこで私は縦の関係を持ち出して子どもたちと接します。
子どもたちと話しているとき、要望を受けるとき、ある一線を越えた場合には、私の意見をはっきりと言い、私のやり方に従わせます。そういうとき、子どもたちは、ほとんどの場合、私が一方的に提示するやり方に逆らわずに従います。
彼らが従うのは、日ごろからの横の関係(やわらかな友達関係)がきっと背景にあります。彼らは私に嫌われたいとは思っていないと思います。また、私がひどい理不尽な要求をする人間ではない、と思ってくれていると思います。

ですから、彼らは私が言うことに対しある程度理解を示した上で、自分の行動を私のやり方に合わせます。
私は本来、横の関係による指導がしたいと思っています。さらに言えば、人と接するとき、私はそういう関係しかつくることができません。
ただし私は指導をするときに、縦の関係を持ち出します。基本的に横の関係しかありえない、と思っている私がここで「縦の関係」という言葉を用いるのは意図的です。

私が「縦の関係」を子どもたちに発動しているとき、私は一方的に子どもたちに何かを押しつけようとしています。これは私の心が感じることです。
一方で、子どもたちは日頃の私に対する安心からか、ある程度納得して私のやり方に従います。
ですから子どもたちからみたら、もしかしたら「縦の関係」で押しつけたものではないかもしれません。
しかし私は感じます。私は「横の関係」の力を利用することで「縦の関係」を成就させた、と。

ですからわたしはこのとき、「横の関係」に対して少し申し訳なく思います。

私にとって、「横の関係」を大切にしながらも、自身が「縦の関係」を発動していることを意識しながら指導することは忘れてはならないことです。そうでなければ、自然だと思っている「横の関係」までも、「縦の関係」に侵食されかねないと私事ながら思うのです。


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先日の高校進学説明会でスーパー中学生(特進クラス・部活動・クラブチーム・生徒会での活躍)として表彰されたYくんの雄姿。屋久島の模型地図を用いて何かを表現しようとしています。



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by terakoyanet | 2019-11-08 15:09 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

国語の伸ばし方

植本一子さんは去年の夏、私たちが日本財団の取材を受けたときに撮影に来たのが最初で、その数ヶ月後にトークイベントに来てもらったのでとらきつねに来てくださるのは今回で3度目、そして武田砂鉄さんは今回初めてとらきつねにお越しになります。


その武田砂鉄さんが去年の12月にタモリ倶楽部に出演したときの動画があります。
この日のタモリ倶楽部は「受験業界震撼の問題企画!作者の気持ちを作者は解けるか!?」という企画で花園大学の大学入試問題国語の文章「鼻毛に背負わせすぎ」の著者である武田砂鉄さんが「作者の気持ちを作者は解けるか」どうかを試すためにタモリたちとともに問題を解き、えー!?作者なのに作者の気持ちの問題が解けないのか!?といういわばお決まりのオチに落ち着くという、ある意味予定調和の笑いの内容と言えると思います。

でも、タモリ倶楽部、タモリの笑いのいいところはそこに強引さがないところです。一方的な解釈を押し付けるようなことはしません。
実のところ、国語の入試問題で根拠なく「作者の気持ち」なんてものを答えさせる問題は絶対に出ません。この番組に登場する入試問題の作成者である今井隆介准教授(入試問題の素材に「鼻毛に背負わせすぎ」を選んだ時点で今井教授はきっと間違いない人!)も言っているとおり、解の根拠を説明できない問題は入試問題として不適合であり、出題者は論理的根拠があるという点において出題者としての責任を負って問題を作成しています。よって国語の問題を解くことは、作者というよりは、問題作成者との知恵比べ、がまん比べになります。
だからその意味で、国語を解くということがわかっていない人が「作者の気持ちを答えよなんてナンセンスだよ、そんなのわかるわけないじゃん」と言うのと同じような結論をこの番組が導き出していないことに安心しました。だってそれは端的に事実誤認だからです。この番組ではむしろ出題者の今井さんへの敬意が感じられたし、その一方で武田砂鉄さんのチャーミングさと「鼻毛に背負わせすぎ」という短編の面白みが存分に伝わってきました。こうやって、タモリの笑いというのは基本的にどの立場の人も傷つけない敬意を持ったものなので、安心して見ていられます。[その点、昨夜テレビであっていた「月曜から夜ふかし」は、取り上げられたケーキ屋さんが、そのセンスのなさを強調されるだけで終わっていて(マツコが私は好き、と言っていたがあんなものではフォローとしては弱すぎる)なんて一方的な編集なんだと憤ってしまいました。]

国語は伸ばしにくいと言われる科目ですが、きちんとポイントを押さえて学習すれば必ず伸びる科目です。
私たちの教室には、芥川龍之介や鷲田清一といった難しい内容の文章も果敢に読み解いていく小学生対象の国語の授業があり、中学生対象の国語力を伸ばすことだけに特化した授業「国語塾」があり(この授業はオプション料金が発生するのにかかわらず、当校の中学生の6割以上が履修しています)、センター試験や最新の入試問題を厳選して読み解く高校生対象の「現代国語」の授業があり(昨日の授業では2015年のセンターに出た大庭みな子の短編「紅茶」と、2018年の早稲田大社会科学部の問題に出た東浩紀の「ゲンロン0 観光客の哲学」を扱いました。ちなみに東浩紀さんの「ゲンロン0 観光客の哲学」の刊行記念読書会が2017年にとらきつねで開催されました 。こうしてとらきつねのイベントと大学入試、日ごろの授業はつながっています)、小・中・高のそれぞれの授業で子どもたち(計108名が履修中)が明確に国語の力を伸ばしており、その成果は歴然と日ごろの模試でも表れています。

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↑は先ごろ発表された夏の模試の平均偏差値。国語塾履修生(1学期から国語塾を履修している生徒)の平均、その他の生徒の平均です。
国語塾生は本人もご家族も勉強に熱心であることが多く、中2数学以外の全ての科目で国語塾履修生のほうが平均が高くなっていますが、やはり国語の平均偏差値は国語塾履修生が圧倒的に高いことがわかるデータになっています。中3に関しては英語(やここに載っていませんが社会)でも国語塾履修生が差をつけており、文系科目全体への好影響も伺える結果となっています。

当校で生徒たちに国語を解く上で何を意識づけさせているかをまとめると、以下のようになります。(以下がすべてではありません。一例です。)

1 まず大前提として、文章を読むことに深く集中すること。
2 決してフィーリング(感覚)で解かない。評論はもちろん、小説さえも論理的に解くこと。
3 問題を解くことは問題作成者との知恵比べと心得ること。
4 論説文・評論文など読みづらいものは、本文読解と設問を同時並行で読み進めて解いていく。
5 小説・随筆(比較的すいすい読めるもの)は、先に本文をすべて読んだ後に設問を解いてもよい。
6 設問で問われている内容は何か確認し、間違えないように印をつける。(「理由を答える」のか「考えて説明」するのか、「一文を探す」のか「部分を抜き出す」のかなど。
7 設問傍線部中(または傍線部直前)の指示語に〇をつけ、その指示語が何を示しているかを明らかにする。
8 本文中の接続詞(しかし・つまり・また、など)は文脈の転換点。注意を払う。
9 むやみやたらに本文に印をつけない。解くことを単なる「作業」に貶めないこと。印は必要な箇所に最低限つける。印をつける箇所を厳選すること自体が国語力アップの鍵。
10 選択問題というのは要はボケとツッコミである。出題者のボケに的確なツッコミを入れることができるかが勝負。各選択肢の、明らかに間違っている(ボケてる)箇所に線を引き×をつけ(これがツッコミ)、怪しいところには△をつける(ただし中途半端なツッコミはできるだけ避けたい)。※ボケにはパターンがあるので、そのパターンを授業中にしっかり確認をしています。
11 解くのに慣れてきたら、時間をはかって解く。


他にもありますが上のようなことを繰り返し繰り返しやっていくと国語力は着実に伸びていきます。内容が難しいときは、その内容について子どもたちが「そういう話だったのか!」と腑に落ちるような話をすることも大切です。集中して問題を解かせる→論理的な根拠をもとに問題を解説→最終的に子どもたちの心にすとんと落とし込む、これがうまくいったときは、思わず「今日はうまくいったー!」と叫びたくなることもあります。国語の授業は生モノで扱いにくいところもありますが、子どもたちのおかげでとても楽しく進行できていると感じます。そして、国語の授業で読んだこと感じたことが意識・無意識に子どもたちの将来の財産になることを、祈るような気持ちで密かに願っています。

最初にお話しした武田砂鉄さんのイベント、こちらを読んだ方はぜひご参加いただければと思います。ずばり面白くなると思います。(残席少ないので売り切れてしまった場合はご了承ください。)



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by terakoyanet | 2019-10-08 04:51 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

受け身の学習

現在、中2の夏期講習の数学では一次関数を進んでいます。
クラスには、同じようなテストを繰り返しても、得点が取れない子がいます。

その子たちの特徴として言えることは、わからない問題をわからないまま放置しているということ。
その中にはマジメな子もいて、自分では放置していないつもりの子もいます。でも、その子たちはどこかで、この問題をわからせてくれる人がどこかにいると思い、それを待っていて、自分で考えるということを怠っていることに、自分で気づいていません。

彼らは、授業を聞いてもいまいちわからなければ、まずはわかるまで自分で解いてみるしかないということを知りません。数学で得点が取れている子というのは、わからなければ、教科書や問題集を開いて解けるまで練習するという当たり前のことをやっています。

この前ある高校生が、数学は「わかりみ」だった、と言っていたのですが、その子が言うには、数学は自分で解いてみないことにはいつまでもわからない、自分で解いてみてはじめて「わかりみ」が生まれるという単純なことに気づいていなかったというのです。そのことを知らなかったので、わからなければわからないまま問題を眺めていただけだったそうです。

受け身の学習に慣れきってしまうと、学習というのは最終的には自分の力で解いて理解するしかないという当たり前のことに気づかなくなってしまうのだということは、子どもたちを教える大人たちも常に頭に置いておくべきことなのだと思います。


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by terakoyanet | 2019-07-26 10:49 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)

期待値の差でしかない。

今朝起きて最初に開いたツイッターでこのつぶやきが目にとまりました。

「不満が多い人は期待値が高いです。感謝が多い人は期待値が低いです。 」

為末大さんのつぶやき。
為末大さんは"走る思想家"なので以前からこのブログでも何度かその思考を紹介したことがあります。

この話、昨日、シンガーの島崎智子さんたちと「女と味噌汁」に行ってちょうど話していたことでした。


子どもや親の中にも、いつも不満(ときに不安)をためている人たちというのがいます。
彼らはなぜ成績がこんなに伸びないの?こんなにできないの?といつも感じています。
でもこれは単に「斜め上を見ている」から。
「斜め上を見ている」人たちは、期待値が高いからいつまでも満たされません。

一方で、全く同じ成績でも、ある親子はいまの成績をそのままに受けとめて、その状態に対する敬意のようなものを持っている人たちがいます。
これは期待値が低いから。
期待値が低いというと悪いことのようですが、そうではなくバカボンのパパに言わせれば「これでいいのだ」ということ。

どちらのほうがいいかと言えば、言うまでもなく後者のほうがいいわけです。
「斜め上を見ている」人たちは自分で不幸を呼び寄せていることに気づいていない。
いつまでも満たされないのは自分の欲望がそうさせているのに、その欲望のいびつさに気づかない。
ほんとうはそうやって苦しくなっているときというのは自分を知るチャンスなのに、欲望に搦め取られすぎて自分をいつまでも内観できません。満たされず内観もできない人が何をするかと言えば、満たされない原因を周囲の人や環境に求めます。不満の原因を自分ではなく他人に当てこするようになります。これは本人にとって不幸なことだし、周囲の人からすれば迷惑です。

子どもの能力より斜め上ばかり見ている親に育てられると、虚栄心が強い子どもが育ちます。
虚栄心とは「自分を実際以上によく見せようとする心」のこと。
親がいつも斜め上にばかり見るものだから、子どもには自分をもっとよく見せなければいけないという意識ばかりが根付きます。
それが虚偽であっても、良く見えればいいんです。親が斜め上ばかり見て本当のことは何も見ていないところを子どもは知らずに真似してしまいます。

一方で、人は弱い存在なので、ときに「意図的に期待値を下げる」ということもあります。
最初から期待しなければ、傷つかない。こういう経験は誰しもあるのではないかと思います。
受験生を見ていても、志望校を決めるときにはじめから期待値を下げることで、傷つかないようにしようとする子は多いです。
こういう生徒を見ると、実に人間らしいなあとかえっていとおしく感じずにはおれません。

「これでいいのだ」では済まない人は多いです。そんなことで(現状に満足して)成長できるのか?と懐疑的に思う人もいるでしょう。でも、斜め上を見るというのは、肝心の現状が何も見えていないということなんです。だからそれよりも、現状を「これでいいのだ」とそのままに受けとめることを小さく積み重ねていくほうがずっと着実です。現状を受け止めるというのは、それに満足してしまうこととは異なります。

私たちは自分の考えが本当だと思っています。この子はなんでこんなに勉強ができないの?という思いが、事実として正しいと信じ切っています。でもそれは、自分がそういう認識を勝手に作り出しているんです。それは期待が大きすぎるだけかもしれないし、自分の不満もしくは不安がそうさせているだけかもしれません。

なかなか「これでいいのだ」は難しいのですが、期待値が高い自分も、期待値を下げることで傷つかないようにしている自分も、否定も肯定もせずに、ただ見守ってやるということを少しずつ学んでいくしかないのだろうと思います。見ないふりをしてしまうのがいちばんまずい。

先日から悩みがつきません。この文章は自分のために書いたものかもしれないと思います。


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by terakoyanet | 2019-07-18 09:29 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

今日の夕方に書いた「子どもの希望とのつき合い方」。
たくさんの反響をいただいているので、書き散らしただけの文章を、もう少しきちんと書き直したいと思います。

・・・・

子どもが進路を決めるとき、または部活動や塾を続けるかどうか迷っているときなど、子どもが何らかの選択をするときに、昔の親はこうしろと自分の方針(「家」としての方針の場合もある)を押し付ける傾向が強かったが、いまの親はむしろ手放しで子どもに決めさせる人が多くなっている。

子どもの希望をそのまま支援することは、子どもの希望を大切にすることを通してその人格を認めるという意味でとても大切だが、一方で無条件に何でも子どもの希望通りにすればよいというものではない。

子どもは判断を誤る。それで痛い目を見て学べる面もあるかもしれないが、そのせいで大きなチャンスを逃すこともある。
だから、子どもの希望に対して疑問がある場合は、大人はちゃんと干渉する必要があると思う。

子どもの希望どおりに決定したことが正しいこととしてもてはやされている現場がある。そこでじっと目を凝らしてみると、どうしたらいいかわからない大人の姿が浮かび上がることがある。どうしていいかわからない自分を隠すために、判断から逃げるために、子どもの希望に異議を唱えようとしない大人がそこにはいる。これでは大人は子どもを不幸にしてしまう。少なくともその子を幸福へ導くことはできない。

でも、大人だってわからないのはあたりまえだ。未来のことなんて誰にもわかるわけがないのに、大人はどうしてそうやって責任を取ろうとして自分を責めるのだろう。
わからない大人と子どもがどうすればよいかといえば、結論が出なくてもいいからしっかり話すことだ。話すなんて当たり前のことだと思われているけれど、その効用についてはあまり理解されていない。話すからには結論を出さねばと考えがちだけど、話すことの本当の意味はそこにはない。話す過程があったという事実自体が、判断後の子どもを支えるのだ。だからすっきりとした結論が出ることにこだわらず、まずは話してみることが大切である。

話すときに母と子のような1対1だと気詰まりになりやすい。十代の子どもたちにとって、親と向き合うのは苦しくてつまらなくて恥ずかしくて、子どもにとってはあまり気が向かないことの場合も多い。だからできれば人数は3人、4人といたほうがいい。子どもと両親の3人で話す場合には、「あなたはどう思っているの?」と子どもに意思をやたらと確認するのではなくて、親ふたりのそれぞれが子どもの希望についてどう思っているかを公開討論のつもりで聞かせてあげたらいい。子どもはいつも無理やりにあいまいな意思を表明させられがちだが、あれはダメだ。(だってそれは子どもに「頑張る」という言質を無理やりとっているだけでしょう。そんなのうまくいくわけがない。)そうではなくて、子どもの意思がどうやったら芽生えるかを考えてあげてほしい。子どもの意思を芽生えさせるためのひとつのアイデアが、大人が目の前でいろいろなアイデアを少しくらい無責任でもいいから、いろいろ聞かせてあげるということだ。

そこに第3者が混じるとなお良い。親と子にとって第3者はクリーンな存在だ。彼らは子どものことを何の欲望も利害もなく見ることができるので、単なるアイデアマンとしてそこに存在できる。親というのはいつでも知らないうちに「あなたの人生なのよ」「選択によってあなたの人生は変わるのよ」という重たい荷物を子どもに背負わせているものだ。その重荷のせいで、子どもはいつも自由な思考を妨げられている。そういう重圧から解放されて、自分の人生の選択をクールにクリアに面白く考えることができたときに初めて、子どもは本来の欲望を発見する。自分独自の生き方について、ふつふつと興味が湧いてくる。


子どもの希望についての具体的な判断のしかたは、そのときによってさまざまだが、「ある物事をこれからも続けるかどうか」についての判断の指標のひとつには、外的要因内的要因がある。

たとえば塾をやめたがっている子が、「塾の先生の教え方が悪く、教室の雰囲気が悪い」と言っているなら、それは外的要因である。
こういう場合は、塾を変えれば問題が解決することが多いので、早めに(できれば受験生の学年になる前に)変えた方がいい。

同じく塾をやめたがっている子が、授業がどうとかというよりは「宿題がきつい」「最近授業についていけない」「部活との両立が大変」と自分を主語にして要因を語る場合、これが内的要因である。
この場合は、塾をやめても状況が変わるとは限らないので、まずはいまの生活を見直すことから始めるべきだし、もし塾のスケジュールがきついなら、教室に伝えれば相談に乗ってくれるはずだ。内的要因が主な原因なのに外側のものをバサバサと切っていくと、その子はどんどん弱くなってしまうのは目に見えている。むしろ、「こういう状況の私でも、何かを続けることができる」という経験をすることが大切だと思う。

実際には外的要因と内的要因が絡まっていることも多いので、その点を整理する意味でも、大人が子どもからよく話を聞くことが求められている。





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by terakoyanet | 2019-07-01 02:26 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

中学生は今年のはじめに行われた、到達度テスト(県一斉模試)が次々に返却されているところです。

今回は、明らかに成績を伸ばした生徒が多く、
成績が伸びなかった中1のある男の子が

「みんな、成績が伸びていいなあ! 僕は全然、伸びてない!」

というので、

「●●くん、中学生になったら勉強しないと地頭だけじゃ成績伸びないんだよ。伸ばしたいならそろそろ勉強しないと。」

と私は言いました。すると●●くんは

「いや、先生、僕は勉強しているんですよ! でも親がウザすぎて、ただやって見せてるだけですけどね!」

と言うので、

「それは、もう、イヤに乗っ取られてるからね。イヤに乗っ取られてしまったのは●●くんのせいだけじゃないけど、成績を伸ばしたいなら、いま乗っ取られているイヤな気持ちから解放されて、自分のための勉強ができるようにならないと、ぜったいいまのままじゃ変わらないよ。いまは自分でやってるんじゃなくて、環境にやらされてるだけだからね。自分のための勉強ができないと、いつまでも面白くないよ。もう、親はほっといて、自分のための勉強に専念したほうがいいよ。」

と私が返すと

「先生、僕のことがよくわかってますね!!」

と捨て台詞のように大きな声で応えて、一人扉を開けて帰って行きました。

これからの彼に幸あれ。


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by terakoyanet | 2019-01-24 01:48 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

昨日は少しひさびさの中3の長時間授業。(先週の日曜は模試のせいでスタート時間が遅かったので。)

この1ヶ月で英語・数学の力を伸ばした生徒が本当に多いことを実感しました。
昨日生徒たちに配布した県模試の結果にも、それが如実に表れています。

この時期の受験生は、覚えるだけである程度点数が取れる(→定期テスト直前の勉強のしかた)部分の学習はすでに終わっている生徒も多く、あとはいかにひとつひとつの問題を掘り下げて、自分のものにできるかにかかっています。

特に数学は、基礎計算力がどれだけ大切かは言うまでもなく、そのあとは、いかに多くの問題パターンを自分のものにできたかが勝敗のカギを握っています。

焦る自分の気休めのために、ただ徒ら(いたずら)に過去問を解いているだけの子はいつまで経っても伸びません。
そういう一時的な自己充足のための学習をやっている子は、いつまでも自分がなぜ得点がとれないかということと向き合うことができていないので、決して弱点を克服することができません。(だってはじめから弱点を克服することから逃げているのですから。)

でもそうやって逃げている自分を見ようとしない。
必ずしも逃げることが悪いわけではない。
でもね、逃げている自分に気づけなくなってしまうのは、自分を騙し通せてしまうのは、ちょっとまずい。
もう少し、そのへん自己分析ができるようになったほうがいいと思うのです。

そういう力は将来、みんなの身を助けます。
あなたはせっかくそんなにまじめで真剣な人なんだから、受験を通して自分自身をごまかして裏切ることに決して慣れないでほしいのです。


・・・・

センターが終わり、今週は専願入試も。
いろんな葛藤や煩悶を抱えながらも、今日も一生懸命な受験生たちを心から応援しています。


・・・

今年のセンター国語の評論は、沼野充義さんによる翻訳の話でした。

まったく違った文化的背景の中で、まったく違った言語によって書かれた文学作品を、別の言語に訳して、それがまがりなりにも理解されるということじたい、よく考えてみると、何か奇跡のようなことではないのか

本当にそうだなあと思いながら読みました。
今年のセンター国語は、とてもベーシックな良問でした。

また、センター地理Bで、地誌でウズベキスタンとウクライナが出たことに驚愕している人が多かったのですが、綿花・アラル海(の縮小)と灌漑・タシケント・イスラム教(中央アジア)といったキーワードをもつウズベキスタンのこと、チェルノーゼム・小麦・ドネツ炭田・クリボイログ鉄山といったキーワードをもつウクライナのことを、表層的にでも知っていれば解ける問題で、特に驚くべき問題ではありませんでした。ただ、全体で数問だけとても難易度が高い問題がありましたね。



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by terakoyanet | 2019-01-21 09:39 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)

「うちの子はがんばっているのに、成績が伸びないんです」

他の塾から当校に移ってくる生徒は毎年何人もいるのですが、その際に時折、お母さま(ときにお父さま)から聞く言葉です。わたしはこの言葉を聞くと、いつも「そうだろうか?」と思います。

「がんばっているのに、成績が伸びない」というのは、大抵、親の勝手な解釈なんです。
実際は、「がんばっているからこそ、いまの成績が維持できている」のかもしれないのに、ただ、学校や模試において点数が伸びてないという表層的な理由に基づき、子どもに対し「成績が伸びない」という烙印を押す。がんばっているのなら、それが現状の子どもにとってはベストに近い状態かもしれないのに、その斜め上を見て、「成績が伸びない」と断定してしまう。それは親の願望でしかありません。そして、このことによって傷つく子どもは多いです。

「がんばっているのに、成績が伸びない」
親がそう他人に主張しているとき、大抵の子どもは親が「私のことを一生懸命考えてくれてる」「私はなぜ伸びないんだろう」と考えますから、子どもが親のことを嫌いになることはありません。目の前の親が高望みをすることで、自分自身を傷つけているのに、子どもは決してそう解釈することはありません。子どもというのは、大切な親を救うためには、自分自身を損ねることを厭いません。親は子どもを救っているつもりで、何度子どもに救われればそのことに気づくのでしょうか。

「がんばっているのに、成績が伸びない」
親がそう他人に主張しているとき、「うちの子はがんばっているけど、勉強のやり方がわかっていないから、成績が伸びない」という考えが含まれることが多いです。それはつまり、「そもそもうちの子は勉強のやり方がわかっていないし、それを的確に教えてくれる人がいない」という他者(たとえば学校や塾)に対する不満を含んでいます。(塾を移ってくるときに、最初にそのことを口にする方が多いのは、それが理由のひとつでしょう。)しかし、勉強が「わかる」という真の経験がある人たちは、きっとそんな考えを持つことはありません。なぜかと言えば、その人たちは、勉強のやり方というのは、自らの手によって掴み取ることによってしか、得られることのない類いのものだからということを知っているからです。「馬を水辺に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない。」このことわざは、最終的には自分の意志でがんばらなければならない、というような単純な意味ではなく、学問でも他の分野でもそうですが、指導者ができることは、ある問題の解決のための具体的な方法を教示するところまでであり、実際にそれが「わかる」ようになるのは、本人の手によってでしかないという、学習というものの本源的な性質を示すものです。指導者として大切な素質は第一に「本人の能力を奪わないこと」であり、それを土台にしつつ「問題解決の糸口を見つけやすくしてあげる」(これは案外難しいことですから、指導者には能力差があるのです)ことに尽きるのですが、「うちの子はがんばっているのに、成績が伸びない」と主張する親たちはたびたび子どもが「わかる」こと自体を他人に依拠しようとします。これは、水辺で馬に無理やり水を飲ませようとしていることと同じであり、うまくいかないどころか、子ども自身にとっては完全にマイナスにしか働かない所為と言わざるをえません。「解決そのものを他人に依存すること」を教えるのは、親が無自覚に「本人の能力を奪う」例として、私がこれまでに幾度も見てきたことのひとつです。

「がんばっているのに、成績が伸びない」と言われ続けた子どもというのは、自分自身を他人に高く大きく見せがちになります。虚栄心が強い子どもになりやすいのです。その結果、なんとなく周囲から浮いていると感じる子も少なくありませんし、そのくせ自己否定感が強く自分を大切にできない、どこにも居場所がないように感じられる、他人にも興味がもてない、そんな大人に育っていく子も少なくありません。いつもどこか「偽物」である私を感じていて、何冊自己啓発本を読んでも、何度セミナーに参加しても、満たされることはありません。親から「解決そのものを他人に依存すること」を教えられた子どもの苦しみはそうやってずっと後を引くことがあるのです。

「うちの子はがんばっているのに、成績が伸びない」なんて、子どもに言わないであげてください。
がんばっているなら、それが現在の子どもの力です。その結果も含めて、全てを認めてあげてください。

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by terakoyanet | 2018-10-28 07:13 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

現在、中間考査直前の対策授業が行われています。
準備万端の子と、まだまだ準備不足の(単に覚えていないことが多い)子の差が大きいと感じます。
考査直前になると、この子は今回伸びそう、とか伸び悩みそうとかが、はっきりと見えてきます。
出遅れている子の猛烈な挽回を期待しています。

当仁中の中1は、学校で英単語のスペリングコンテストがあったそうで、発表された上位40名中の寺子屋生の割合がすごく高かったと子どもたちが話していて、私のほうもうれしくなりました。
寺子屋生の8割が上位にランクインしていたそうで、満点の生徒も。
「でも、当たり前やん、寺子屋の人、圧倒的に有利やない?」とある女の子。

中1生は、中2・中3と同じく夏期講習の間に約800語の英単語テストが行われました。
今年は中1生も本当に頑張りました。毎回90点以上をとった生徒たちは700語以上、半分しか覚えられなかった生徒でも400語の英単語を夏の間に覚えました。
そんな彼らからすれば、学校の英単語テストは、かなり簡単なものでした。

最近、学習において、丸暗記というのはつくづく評判が悪いです。
しかし、「覚える努力をしなくていい」なんて言う語学教師はみんなうそつきです。
語学は覚えなければ始まらない科目です。

それにしても、単語を覚える、というのは訓練が必要だと、子どもたちを見ていて思います。
日ごろ単語を覚えていない中学生に、ほら、覚えなさい、と言ったところでなかなか覚えられないのです。その点、寺子屋の生徒たちは、日々の訓練が積まれています。日ごろから覚える訓練ができているからこそ、新しい単語が出てきてもすぐ覚えられます。

これは自分一人で刺激が少ない環境で勉強している子には身に付きにくい力で、寺子屋に途中から(中2・中3から)入ってくる生徒で最も多いのが、「勉強得意だったはずなのに、英語が取れなくなった」という子ども。彼らは「覚える習慣」を身につける機会がなかったために、理解力はあるのに英語が苦手になっている子どもたちです。語学は言葉そのものを扱う学問ですから、言葉を知らなければ、いかに理解力があっても得点できないのは当たり前のことです。


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いま、中3と中1で、私の似顔絵を描くのがはやっていて、特に中3のある子が、ブログに載せろと毎日言ってくるので、載せることにしました。

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毎日の授業がとても楽しいです。

9月の後半は、子どもたちの夏のがんばりの成果がしっかりと数字となって現れますから、到達度テスト、県模試、2学期中間テストと、結果が出るのを心待ちにしているところです。



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by terakoyanet | 2018-09-17 01:51 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)