残照


幾度も旅に出ては、旅先で出会ったことを忘れたくなくて、記録する。こうして旅のことについて何か記そうと思うたびに、いつも思い出すのが「私は旅や探検家が嫌いだ。」というレヴィ=ストロースの言葉だ。

これは『悲しき熱帯』の冒頭に置かれた作者の独白である。旅とそれを書く行為を「羞恥と嫌悪」に塗(まみ)れた感情で綴りながら、自らが「無為なもの」と言い切る冒険を途轍もない熱量で書ききったあの有名な書物は、この言葉で始まる。

現代の私たちは、かつてレヴィ=ストロースが世に問うた内容を知っている。
近代の知に拠って、西洋の特権的な視座だけで世界を見ると本質を見誤るということを、ある程度は理解している。
しかし、『悲しき熱帯』に表出する、旅先の何かに触発された語りは、構造主義的な意義を超えて私たちに直截に訴えかける魅力を放っている。
精緻な描写のひとつひとつは、あまりに生き生きとしている。旅という行為から剰余として溢れ出す、隠喩に彩られた濃密な思索は、読む人を捻じ伏せるように圧倒し、そして時にひどく悲しくさせる。そのときの感情は、うまく説明のつかないものだ。


去年、イベントで写真家の石川直樹さんをお呼びして話を聞く機会を得た。「僕が富士山に行って写真を撮るとしても、それは、富士山を撮るんじゃなくて、富士山で撮るにすぎない。そこで自分が何を考えるかということでしかない。」「そこでは自らボールを投げるのではなく、飛んでくるボールをただ受け取るだけ。」彼は写真についての最も基礎的な話のなかで、それをいつものように淡々としゃべった。

石川さんもエッセイ『最後の冒険家』の中に書いているとおり、地理的に未知の領域が残されていない現在では、近代的な意味での冒険家というのは存在自体がありえないものとなった。『私は、「本当の」旅の時代に生まれ合わせていればよかった』とレヴィ=ストロースによって語られた時代よりもっと、新世界との邂逅の魅惑から遠く離れてしまった私たちは、それらの残滓を見つけることさえ難しい。

しかし、それでいながら、私たちは相変わらず旅を楽しむことができる。
なぜなら、いまも変わらず、私たちの一寸先の未来は誰も手中にすることができず、そこは未知の至福で溢れているから。

『悲しき熱帯』は旅の記録というよりは、未知に出会った私の変容の記録である。そこで飛んできたボールを受け取った私が、時に無邪気な子どもに戻ったように、時に物思いに耽る青年のようにそこにいて、ただ湧き出た心をそのままに感じている。だからこそ、言葉が生起した瞬間の瑞々しさがそのまま文体の中に溢れ出していて、そのこと自体が、とてもくるおしくて、どうしようもなく悲しいのだ。




平成という時代は、自分の世界をコントロールして最適化できる時代の幕開けであった。
SNSでは、フォローしたり、フォローを外したりすることで、写真をトリミングするように、自分が見たい情報だけを見る、見たくない情報は見ないようにすることが可能である。
そうやって、いつも最適化できる安心な世界の心地よさを知っている現代の子どもたちは、自分の手でうまく制御できないことからは即座に退却しようとする傾向がある。
彼らは驚くほどに平坦を求めている。
「僕が一番求めているのは安定です。それだけあればいい。」この前のディスカッションで、高校1年生のAくんがそう言い切った。
彼は、学校の先生の理不尽さをたびたび批判するような、反骨精神に溢れる子なので、私はなおさら驚いた。

若者が変化を求めて転がり回る時代はすでに終わったのかもしれない。
彼らはいつも心地よい共感の中にいて、ぬくぬくとした関係を築くことができる友人関係を求めている。そして、思い通りにならない恋愛関係はちょっとめんどくさいと敬遠する。
でも実は、コントロールできないことと、恋愛対象への渇望というのはセットなので、これが意味することは、性的なもの全般に対する退却でもある。これが「草食化の時代」と言われた平成という時代の中身なのかもしれない。




『悲しき熱帯』に刻印された過剰な語りは、旅先で自らが「見られている」経験をすることから生じる。

旅よ、お前がわれわれに真っ先に見せてくれるものは、人類の顔に投げつけたれたわれわれの汚物なのだ。

このような言葉は、不気味なもの、得体のしれぬものに眼差されているという経験なしには生まれ得ない。
しかし、いつもスマホの画面と向き合っている私たちは、その画面から眼差しを返されることはない。そこにあるのは、すでに私のために選別された情報であり、私の分身であり、つまりは私のための安心できる世界であり、そこに「見られている」という経験は含まれない。

ツイッターのタイムラインを見ながら多くの人がやっているのは、自分自身の傷探しである。ある時は、自分と同じ傷を負っている人に甚(いた)く共感し、ある時は自分と同じ傷を誰かに負わせた人を責め立てる。また別のある時は、感情の自動機械のようにその両方をする。

タイムラインの流れに身を任せ、それに転移することで自分を傷つけたものへの復讐を成就させる私たち。ツイッターはいまや傷探しのツールで、傷を見つけてはそれを埋める快楽を半ば反射的に繰り返す。こうやって、画面の中で自分の欲望が即時的に達成されてゆく世界には、「見られている」がない。

SNS上の「いいね」は、あなたが「いまのままでいい」ということを肯定するシステムである。
「いまのままでいい」は、自らが変容することに怖気づく主体をやわらかく包み、肯定する。
「いいね」は存在の甘やかしに他ならず、相互に「いいね」を繰り返すことで、その存在はめくれることをやめ、地滑り的にお互いをどんどん劣化させてゆく。

旅とは「見られる」という不気味なものを通して自らが開かれる経験である。しかし、インスタ映えを狙ったナイススポット巡りは、「見られる」経験を抑圧した上で「見る」ことができる私を肯定し、全能のものとして特権化するプロジェクトである。それは、即時的な「いいね」の快楽と相通じるものがある。

現在、SNSから離れてネットからは見えないコミュニティを作る動きや、本質的な体験を志向した新たな旅の提案など、現状に対する違和感を抱えた人たちによる新たな試行錯誤が続いている。これらの活動は「見られる」ことさえも目的化しかねない危うさを孕む。
しかし、最適化の時代に生きる私たちは、こうやって自身が変容していくことを半ば意識的に選択する必要があるのかもしれない。でなければ、スマホが与える情報と現実が身体化し、気づいたときには身動きが取れなくなっているかもしれない。




子どもとは不気味なもののことである。新生児の顔は実際に不気味である。

子どもは、自分にとって、もっとも親密でありながら、拡散し、増殖し、いつのまにか見知らぬ場所にたどりついてぼくたちの人生を内部から切り崩しにかかってくる、そのような存在である。
東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』

子どもが不気味な存在であるがために、神に近い神聖な存在とみなされていたのは、それほど昔のことではない。
石牟礼道子さんが幼いころの記憶を描いた『椿の海の記』という本がある。これを読むと、幼年時代の彼女が、まさに不気味な存在として、世界をありのままに受け取って生きるさまが描かれている。

見えている世界より、見えない世界の方がよりこわい。目をつぶって、掌でそろりと撫でればモノというものがわかり、猫の鼻の不思議のような嗅覚をわたしは持っていた。その掌をかざせば指の間から天井が見える。天井の模様が見える。天井の模様はまだ見ぬ他界への入口だった。幻怪な形の鬼たちの太ももや、片耳や、穴の深い壺が、のびちぢみしている。仏さま仏さま、指の間からお仏壇を見る。
石牟礼道子『椿の海の記』

子どもの世界というのは残酷なほどあからさまである。そして、石牟礼さんのこの本には、その奇妙な残酷さがそのままに描かれている。
私はこれを読んだときの「この世界を知らなかったら、本当に危なかった」という感覚が忘れられない。自分が見失ってしまった世界があることに驚き、憑き物が落ちたような気持ちになった。

それは、子どもという得体の知れぬ妖精によって書かれた本であった。そこにあるのは大人から見た子どもではなく、子どもの目から見た子どもの世界そのものであり、すでに世間に取り憑かれている大人からすれば、驚愕すべき「異文化」の世界であった。





私は、人間という種がその世界に対してまだ節度を保っており、自由を行使することと自由を表す標とのあいだに適切な関係が存在していた一時代の残照、インディオのアメリカにおいてすら果敢ない残照を、慈しむのである。
『悲しき熱帯Ⅰ』レヴィ=ストロース


かつてレヴィ=ストロースがインディオのラテンアメリカで見たものは「異文化」が持つ不気味な力であり、それは「人間という種が、その世界に対してまだ節度を保っていた」ころの「残照」であった。

彼がここで言う「残照」とは、時代に取り残され、人の記憶から消えようとしている世界に手を伸ばし、自分のもとへ必死に手繰り寄せようとすることである。そして、それが私たちとどこか似ていることをおぼろげに触知することであり、その手触りを大切に抱くことである。

このことを通して、私たちはどうにか真っ当に生きていくことができるのではないか。


陽はすでに落ち 暗い部屋にひとりこぼれゆく時を 足元にみつめ問えど答えなく 風が鳴るだけ
寺尾紗穂『残照』



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一昨日、機上から捉えた富士山
夏が近いことを感じさせる山容



寺尾紗穂さん、いよいよ来週、福岡へ。

寺尾紗穂・伊賀航・あだち麗三郎のバンド「冬にわかれて」初の福岡公演は6月7日(金)。
ゲストは坂口恭平さん、そしてカフェはくらすことさん。
素晴らしいイベントになること間違いありません。






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by terakoyanet | 2019-06-01 01:27 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

一昨日、昨日と深夜にEテレで放送された「平成ネット史」、ご覧になった方はいらっしゃいますか?
落合陽一さん、堀江貴文さん、ヒャダインさんらとともに、宇野常寛さんがご出演されていました。

いよいよ10日後の1月14日(月祝)に、宇野常寛さんをお招きして宇野さんのゼミ「遅いインターネット計画」を開催します。
話を聞くのが、本当に楽しみです。

うちのイベントは基本的に利益を度外視して開催していますから、基本的にそこには愛しかありません。
宇野さんのどの部分が好きで今回お呼びすることになったのか、今日は昨年10月に発売された宇野さん編集の『PLANETS vol.10』(以下、PLANETS10) のご紹介も兼ねて、お話ししてみたいと思います。


宇野さんはPLANETS10の巻頭座談会(乙武洋匡×ハリス鈴木絵美×前田裕二×村本大輔+宇野常寛)において、村本大輔さんが、SNSにおいて自身が発信した意見に対する「いいね」に対して、小泉進次郎の悪口を喋ったらお客さんがワーッと盛り上がるという例(「小泉さん」は単なる一例ですから誤解しないでください、誰でもいいんです)に触れながら「(安易に)賛同されることが怖い」という発言をしたときに、宇野さんは次のように答えます。

僕はそれこそ質的な問題だと思う。そこで簡単に「いいね」が押せたりリツイートができたりすると流されてしまうんだけど、そういうことができなければ、その時は「村本、いいこと言った。小泉進次郎はダメだ!」と思ったとしても、3日後に横須賀に遊びに行って三浦半島でマグロ食べてたら小泉親子のポスターが貼ってあって、「ああ、意外と地元で愛されているんだなあ」とちょっと冷静になる瞬間があるかもしれないじゃないですか。僕が速度に注目しているのは、そういうことなんです。そういう幅をメディアのほうが持つことによって、改善できると思っている。

もちろんそれで100%解消できるなんてことはない。だって僕自身が結構独善的な人間で、基本的には自分の考えが一番正しいと思ってるわけですよ。でも人間って、自分の意見が常には通用しないことを、世界の真実として理解しているじゃないですか。そういった他者性というか、わかりあえなさ、つながらなさが勉強になって、もっとパワーアップできる。(自分が正しいと)信じている人はいていいし、僕もそういうタイプの人間です。それを追求するためには、逆にちゃんと人の話聞いた方がいいよ、ってことなんですよ。


宇野さんは「日本のインターネットは予めその人にとって気持ちのいい都合のいい、今の自分を肯定してくれるものや安心してくれる内容など分かっているものを脊髄反射的にリツイートし、拡散することで、スッキリするという使い方が定着して」いて、「自分を客観視する能力には限界がある」ことを忘れ、「情報に接することによって全能感に酔っている」人が多いことを同インタビュー内で指摘しています。それはインターネットが「速すぎる」からなんだという問題意識のもと、それを遅くすることで、「他者性というか、わかりあえなさ、つながらなさ」というものが独善的な判断の中に否応なく紛れ込んでくる、そういう「遅さ」を取り戻したいという切実な願いが込められているのを感じます。


この巻頭座談会のめちゃくちゃ面白いところは、宇野さんがそれまでの話題を「フィクション」の話と接続しているところ。
ここで思い出したんです。そうだ、宇野さんは、「フィクション」を愛するオタクだった。

PLANETS10という雑誌で、私が猛烈に面白かったところは、片渕須直と押井守という2人のアニメーション監督のインタビュー記事。
インタビューと言っているけれど、PLANETS10のインタビューの面白さは、聞き手であるはずの宇野さんが、当人と同じくらいの分量でグイグイ深いところまでしゃべっちゃうんです。だから、インタビューをされる側も、そこまでしゃべっちゃうんだというくらい、いろんなことを引き出され、後半になるにつれて、話が深まる、深まる。どこまでも。

片渕さんと宇野さんが、高畑勲、宮崎駿という2人の巨匠の臨界点について話している内容は、フィクションに興味がある人なら、絶対に読み逃すことはできない内容です。もうね、決定的な指摘がなされている。そして、片渕須直監督の『「この世界」と「片隅」は重ならない』という問題意識を、宇野さんも共有しながら、引き受けながら、彼が「遅いインターネット計画」なんてことを言っているとしたら、これは、もう、とんでもないことだなと思ったのです。

片渕須直さんと押井守さんの2人のインタビューを読んだ後に、もう一度、巻頭座談会の後半部を読み返すと、新たな地平というか、宇野さんの深い覚悟みたいなものが読み取れるんです。


僕は今こんな座談会をやっているけど、本来はフィクションの評論家です。フィクションって基本的に他人の考えたものであって、究極的にいえば他人の妄想なんですよ。同じことを言っていても、「俺すごい」という自慢話や「これがすごい」という社会的主張として展開されると受け入れられないけれど、フィクションには共感して侵入されてしまう。本質的には、他人に汚染される体験なんですよ。最初から「これは現実からある程度切断されたものです」という語り口があることによって、他人の考えに侵入されることが快感に変わるんだと思う。だから僕はフィクションが一番好きなんです。

<中略>

政治の話になると人の意見を受け入れなくなるのは、現実だからだと思うんです。だから僕は、「虚構」をもっと大事にしたほうが良いと思ってる。この場合の「虚構」は、映画や小説だけでなくてお笑いやゲームも含めた「遊びの領域」のことです。遊び、プレイそのものが目的であることって、一見無駄なことのように思われるけれど、「~の為にプレイするじゃなくて」「プレイするためにプレイする」体験って、人間にとってちょっと特別じゃないですか。その領域があることによって得られる快感はすごく大きいと思う。だからそれをうまく使っていきたい。


ここまで読み進めていくと、フィクションのことが好きな宇野さんが「遅いインターネット計画」というのを始めたのが、とてつもなく狂気じみた(誉めています)面白いことという気がするのです。この面白そうという感覚は私がひとつ前の記事に書いた「フィクションという覚悟について」とも連動しています。

というわけで、私は、宇野さんの話、とても楽しみなのです。


1月14日(月・祝)の宇野さんのゼミの詳細はこちらをどうぞ。



チケットはこちら。残席わずかです。






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by terakoyanet | 2019-01-04 11:37 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

私は、真の表現者というのは「フィクション」に対する覚悟を持っていると思っていて、その「フィクション」に対する覚悟が現われている、最もわかりやすい例だと私が思っているのが、星野源が病床で書いた曲『地獄でなぜ悪い』の歌詞です。



無駄だ ここは元から楽しい地獄だ
生まれ落ちたときから 出口はないんだ

いつも窓の外の 憧れを眺めて
希望に似た花が 女のように笑うさまに 手を伸ばした

嘘でなにが悪いか 目の前を染めて広がる
ただ地獄を進む者が 悲しい記憶に勝つ

<中略>

作り物で悪いか 目の前を染めて広がる
動けない場所からいつか 明日を掴んで立つ 明日を掴んで立つ

幾千もの 幾千もの 星のような 雲のような
「どこまでも」が いつの間にか 音を立てて 崩れるさま

嘘で出来た世界が 目の前を染めて広がる
ただ地獄を進む者が 悲しい記憶に勝つ

作り物だ世界は 目の前を染めて広がる
動けない場所から君を 同じ地獄で待つ 同じ地獄で待つ

星野源『地獄でなぜ悪い』




私はこの歌詞を聞いたときに、星野源という人は、この時点で「星野源」をフィクションそのもののとして見立てて活動していくという覚悟を決めてしまったのだなと思ったのです。彼が植木等を敬愛しているというのはそういうことだったのか。これは怖ろしいことだな、すごいことだなと。

この考えの根底には、「作り物だ世界は」という根本的な洞察があるんです。

私たちはとかく「世界の真実」について考えがちだし、「私たちが生きている現実」について考えがちなのですが、そうではなくて彼は「私たちはすでに作り物である世界に投げ出されてしまって」いて、それははじめから「真実」や「現実」などの拠り所などはない「楽しい地獄」なのだというところから始めている。

私はこういう出立地を持つ表現者を信頼します。



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by terakoyanet | 2019-01-04 11:11 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

「役に立つ」とは何か。

昨日、附属福岡小の齋藤先生から「12歳からの哲学」と題した授業にお招きをいただき、子どもたちと話をしてきたのですが(来年も続きます。とても面白かった!子どもたちすごい!授業中の子どもたちの反応もよかったです)、事前アンケートで子どもたちから「哲学は役に立つのか」「哲学をやって利益はあるのか」という質問が届いていたので、それについてお話しをしました。(他にも、プラトン、デカルト、パスカル、スピノザ、ラカンを援用してたくさんのことをお話ししましたが。)

このことについて、以下に少し書きたいと思います。(昨日の説明を少し噛み砕いて話しますから、子どもたちに話した通りではありませんが。)


・・・

まず、「哲学は役に立つのか?」と考える前に、私たちが考えるべきことは、「役に立つ」ということについて、私たちはほんとうにわかっているのか?認識できているのか?という問題です。

老子や荘子の思想から導き出された有名なことわざに「無用の用」というものがあります。これは、「役に立たないように見えるものであっても、かえって役に立っている場合がある」という意味です。例えば、サッカーにおいて、一見、地味なはたらきしかしていないように見える選手を交代させると、とたんにチーム全体のバランスが崩れてしまうということがあります。このようなことは、あらゆるグループや組織において、たびたび起こり得ることです。

勉強や仕事においても、一見無駄に見えることが役に立つという例は枚挙に暇(いとま)がありません。
私はこれまで700人もの受験生たちを直接指導してきましたが、中には、何事もできるかぎり効率よくやろうとする子がいます。効率よくやること自体は間違いでないのですが、ある子は、自分が役に立ちそうだと思うことしかやろうとしません。大切なこと、役に立つことに絞って、労力を節約しようとするあまりに、結局のところ、大切なことを取りこぼしてしまうのです。そういう子は、いつまでも成績が伸びません。

その子に欠けているのはきっと、自分が「役に立つ」ことを完全には認識できないという謙虚さです。私たちが自分の手で掴める「役に立つ」ことなんて、本当に役に立っていることのせいぜい1/10程度なのではないでしょうか。私たちが1割程度しか「役に立つ」を掴んでいないとすれば、「役に立つ」に拘る(こだわる)あまり、残り9割の「役に立つ」を逃してしまうのは畢竟(ひっきょう)当然のことです。

だから、無用の用を知り、無駄を厭わない人は強い
そして、自分が「役に立つ」ことを完全には認識できない、このことを身にしみて知るために「哲学」はきっと役に立ちます。




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by terakoyanet | 2018-12-20 12:29 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)


上のリンク先で読めるのは、社会学者・岸政彦さんによる『神は負けても、親切は勝つ』

私はカトリックの家に生まれたから、なぜ親や親戚が神を信仰しているのか、神の何を信仰しているか、幼いころからずっとずっと疑問でした。
そしてそれを尋ねること自体が不遜だという事実に戸惑い続けてきました。

「あとはもう、ただ考えるしかない。そしてできることをするしかない。」
そういうものに衝き動かされている事実が、祈りであり信仰であるということに気づいたのは、ずっと後になってからのことです。
自分がはじめから、わからないはずの他者を信憑していたことに気づかされたのもこのころです。

そういう信仰に対して無自覚でいたことを知ったとき、自分がとても罪深い人間のように思われました。親たちの思考停止の信仰に抗い続けたのに、私もわからないものを信仰していたのです。

でも、先に信仰があるのではなく、祈りが信仰の輪郭をつくる、それを先に教えてくれたらこれほどの逡巡はなかったのに、とも思います。

「神は負けても、親切は勝つ」
泣けるほど、いい言葉だなあ。


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by terakoyanet | 2018-12-05 11:18 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

この2週間、睡眠障害が続いていて、長い夜を過ごしています。
(授業に影響は出ていませんのでご心配ありませんように。)

その長い夜を利用して、沖縄の宗像堂さんの本、『酵母パン宗像堂』さんについて文章を書きました。
ぜひご一読いただければうれしいです。

・・・
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『酵母パン宗像堂 丹精込めたパン作り 日々の歩み方』 文・村岡俊也 写真・伊藤徹也

沖縄の宗像堂さんの本、『酵母パン宗像堂』。当店(とらきつね)では先月のベストセラー2位にランクインしています。

3月の宗像誉支夫さん、宗像みかさんとのトークイベントでも話しましたが、この本は、ただのパン屋の本ではありません。私たちの生き方、考え方についてのヒントが詰まっているんです。
そして、宗像さんたちと親交の深い大嶺さん(陶芸家)、当真さん(農家)、甲本ヒロトさん、皆川明さんのインタビューが、各々どこまでも自然体なのに、面白すぎます。一人ひとりキャラがすごくて、登場人物のキャラ立ちにこれほど興奮したのはスラムダンク以来かと思われ、君たちは湘北高校かと、読みながら熱くなったものです。

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3月に行われた宗像堂さんのイベントにて

左から、くらすことの藤田ゆみさん、唐人町寺子屋(とらきつね)の鳥羽、宗像堂の宗像誉支夫さん、宗像みかさん
(写真は柴田浩次さんからお借りいたしました。ありがとうございます。)



宗像堂さんの本の中に出てくる「発酵」についての文章をここでご紹介します。
本の中でもこの部分は特に、宗像堂さん、誉支夫さんの思考の根っこ部分が露わになる箇所です。

【発酵】ありのままを受け入れる
「微生物を研究しようと対象を一つの菌に決めてしまうと、それは既に集団で機能している微生物の生態とは違うものになってしまう。微生物、つまり酵母は複雑な集団として存在している。その集団ありのままの生態を受け入れることが、酵母と付き合うということなんです。だから、彼らをコントロールできているっていう感覚もないんですよ。好ましいときだけ一緒に仕事をしてくれるパートナーのような存在。だから、人間側は謙虚にならざるを得ないというか、できるのは、酵母の環境をなるべく整えることだけですから。そして、目に見えない酵母を知覚するためには、自分の感覚を鋭くしていくしかないわけです。 < 中略 >  そうやって酵母と付き合っているうちに、不思議と自分自身と酵母が、相似の関係になっていくんです」


この文章は、人間(=人と人の間の存在)である私たちが、関係性について考える上で大きな示唆を与えてくれるものです。
例えば仕事仲間の一人の人格を見るとき、自分の子どもの人格を見るときに、その人となりを、ひとつの身体に閉じ込められた一つの人格として見ようとすると、その人の本質を見誤りがちです。

宗像さんは、別の【成形】について語る場面で、パンを「どのタイミングで窯に入れるかは、指先の記憶を積み重ねるしかない。身体性こそが、パンに宿るんです」と話していますが、人との関わりだって、「指先の記憶」のような脆弱な手触りの記憶をたよりに、少しずつ紡いでいくことだけが信頼の輪郭を作っていくものなのに、私たちはつい、この人はこういう傾向のある人だと、自分の既知の範疇でラベリングし、その人についての判断を安易に確定しがちです。しかし、それでは何も見たことにはならないでしょう。なぜなら、私たちは人間であり、つまり、人と人との間の関係自体が私たちだからです。

宗像さんは「その集団ありのままの生態を受け入れることが、酵母と付き合うということなんです。だから、彼らをコントロールできているっていう感覚もないんですよ。」と言います。
酵母だって、人だって、その関係性そのものを受け入れることが、関係性そのものが存在の輪郭をなすものだと知りうることが、相手と付き合うということであり、それが「私があなたを支配しない」唯一の方法だと思うのです。
こうやって宗像さんが酵母について語っている言葉を、自分なりに人との関わりの文脈に置き換えていくと「人間側は謙虚にならざるを得ないというか、できるのは、酵母の環境をなるべく整えることだけですから。」というちょっと感動的な宗像さんの言葉が改めて腑に落ちます。子育てだって、私たちが子どもにできることは「子どもの環境をなるべく整えることだけ」ですよね。
私たちが物事や人と向き合うとき、関係性を紡ごうとするときに「謙虚にならざるをえない」ことを心の片隅に置いておくだけで、きっと世界は変わります。

この本には驚くべき表現が散りばめられているのですが、引用した文章の最後の一文「不思議と自分自身と酵母が、相似の関係になっていく」という言葉にはひときわ凄味があります。
この場合の「相似」というのは、親が子どものことをつい自分の似姿のように眼差してしまうのとは別の強度があります。相手をありのままに受け入れる、自分の身体感覚を研ぎ澄ます努力を続けながら物事と向き合っていく、そういうこと続けていくと、相手がふと、そのままで十全なもの、完全に充溢したものとして立ち現れる瞬間があるのでしょう。自分自身にも酵母にも、それぞれ弱点があるかもしれない、でも、それはそれとしてそのままでいまここに在り、それだけで十分なのだ、そのことに気づい たときに、酵母と自分自身が「相似の関係」になる不思議。相手のありのままに向き合うという関係の中では、私と酵母は対等であり、というより対等という言葉さえも不要な関係の先に、「相似」という言葉がある気がします。

『酵母パン 宗像堂』を読むと、こんなことを考えてパンを作っている人がいるという事実に驚愕するし、そのパンを実際に味わうことができるというのは何とも喜ばしいことではないかと深く強く感じます。

村岡俊也さんの文章も愛があって素晴らしいですし、伊藤徹也さんの写真は美しく発光していて見惚れます。パンの紹介やレシピも最高に魅力的です。

こちらの本、とらきつねに常設&販売しています。
そして、宗像堂さんのパンは今週末、26日(土)の販売です。

ぜひお手にとってみてください。

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石窯から取り出されたばかりの酵母パン


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by terakoyanet | 2018-05-22 10:26 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

前回の国語塾で高校入試問題の過去問より、鷲田清一氏の『わかりやすいはわかりにくい?』を扱いました。今日はその内容をご紹介します。



私たちが「わからない」と思ったときに、「自分がこれまでに手に入れた理解の方式で無理やり解釈し、歪めてしまう」というやり方を、鷲田清一は「最悪の対処の仕方」と言います。(この指摘はとても大切だと思います。)そしていちばん大事なことは、「すでにわかっていることで勝負するのではなく、むしろわからないことのうちに重要なことが潜んでいて、そしてそのわからないもの、正解がないものに、わからないまま、正解がないまま、いかに正確に対処するかということ」だと言います。


考えてみれば、わたしたちのリアルの社会ではいつだってそうです。医療の現場において、2人の同じような症状に見える重症患者に対して、全く同じ処置を行ったのにかかわらず、一方は症状が治癒したのに、一方は治らずに亡くなってしまう、そういうことは残念ながら起こり得ることです。教育の現場において、同じくらい伸び悩んでいる2人の生徒に対してある指導法を試してみたときに、一方の生徒は伸びたのに一方の生徒は伸びない、そういうことは多々あります。子育てだって、同じように育てたはずの兄弟が、不思議なほど別様に育つということは当たり前のように起こりますよね。このように、リアルな世界の中に正解なんてものはない、そんなことはわかっているのに、多くの人が、わかりやすい言葉、わかりやすい説明と、納得できる結論(つまるところ正解)を求めるのです。


しかし、このような人たちに対して作者は次のように言います。

「だが大事なことは、困難な問題に直面したときに、すぐに結論を出さないで、問題が自分のなかで立体的に見えてくるまでいわば潜水しつづけるということなのだ。それが、知性に肺活量をつけるということだ。」


わからないこと、曖昧なことをそのまま受け入れ、その問題を考え尽くして解析度を上げることで、できるだけその都度に正確なものに達しようとする作業の積み重ねのことを、作者は「知性に肺活量をつける」と呼びます。


私は2011年に初めてこの文章を読んだときより、いまのほうがずっとこの文章の言葉が身にしみて感じます。震災より前の2010年に出たこの本に書かれている鷲田清一の提言は、私にとっても、もしかしたら日本の社会にとっても少し早すぎたのかもしれません。でも、いまこそこれらの言葉が、最重要課題として私たちの前に生き生きと浮かびあがってくるのを感じるのです。


ここまで読んで、やっぱり「わかりにくい」と思っている人は、わかりにくいと思うあなたがいったい何を期待しているのかということについて再考してほしいのです。わからないことをわかろうとするという土台無理なことをやっているかぎり、あなたはいつまでも苦しくていつまでも浮かばれません。わからないことが怖いから、わからなければならないと思っているし、結論がなければ真実ではないと初めから決め込んでいるのです。でもそれらは、あなたがでっちあげたものにすぎません。だから、曖昧なものを曖昧なままに正確に表現するということについて、いま一度考えてほしいのです。ここでいう「正確」とは、その都度その瞬間に立ち現れる脆弱な何かのことで、「正解」とは位相が異なるものです。


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by terakoyanet | 2018-04-25 02:19 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

今日の高校コースの現代文では、藤田省三氏の「『安楽』への全体主義」を取り扱いました。
これは、1980年代に書かれた文章ですが、最近でも、東大、東北大、法政大、西南学院大、早稲田大など、あらゆる大学の入試で出題されている、よく知られた文章です。

この文章の中には、「安楽への隷属状態」という言葉が出てきます。
私たちは、日々「安楽」を求めるあまりに、自分の不安を取り除くことに躍起になっています。
不安が自分の不幸の原因になっているからには、それを何よりも優先的に取り除かなければならない、それが取り除かれた状態を「安楽」と呼び、それが他の全ての価値を支配する、唯一の中心価値になることが「安楽への隷属状態」と呼ばれています。

「安らぎ」というのは、本来は、私たちに自由を与えるものであるはずです。
私に「安らぎ」があるとき、私たちは他人に寛容になります。そして自分自身にも寛容になるので、自由な発想、自発的な創造が生まれる源となります。

しかし、「安楽」を求めること自体が、日常生活の中で四六時中忘れることのできない目標となってくると、事情は一変します。
そこでは、心の自足的安らぎは消滅し、安楽への狂おしいほどの追求と、安楽喪失への苛立った不安が、かえって心中を満たすことになります。こうした、安らぎを求めるがあまりに不安になるという「安らぎを失った安楽」という逆説的な精神状態こそ、現代を織りなす心象です。

だからこそ、私たちは
「不安」を動機に動いてみても、ろくなことにならない。
このことを、いつも心に携えておくべきだと思います。なぜなら、人が「不安」に突き動かされているときには、いつだって、他人への寛容が失われているし、自分の心をちゃんと見つめることも、自分自身を大切にすることも、できないのです。


日々、子どもたちを見ていると、子どもたちが大人の不安の犠牲になっていることを感じることがあります。
大人が「安楽」を追い求めるあまりに、子どもたちが大人の不安に巻き込まれるということが多々起きているのではないでしょうか。

「安楽」を追い求める大人は、子どものことを見ていません。子どもが失敗したら、それを全て子ども(または自分以外の周りの人)の責任にしてしまいがちです。その結果、子どもは「大切にされている」という手ごたえを十分に得ることができません。
でも、子どもにとって、その手ごたえほど大切なものはないのです。

しかしながら私は、手ごたえの有無を、それを享受させる責任を、これまでのように親だけにすべて任せてしまうのは、難しい気がしています。現代の親が「不安」の申し子だからこそ、塾という家庭でも学校でもない場所が、子どもに「大切にされている」という手ごたえを与える場でなくてはならないと思いますし、それは、これからの塾に求められる不可欠な条件であるとさえ思っています。「不安」の申し子たちは、そうやって協働して生きてゆかねばならないと思うのです。


現代のあらゆる洗練化(=ジェントリフィケーション)はそのほとんどすべてが、不幸の源そのものから目を背け、追放しようとする欲望で動いており、その動きがはじめから不安を分かち難く内に含み持っている限り、私たちがその運動と付随する不安から逃れるのは至難の業です。

しかし、こうした私たちの「安楽」の追求が、かえって安らぎの欠如をもたらしているという矛盾を知ることは、きっと大切な生きるヒントになります。寛容への扉を開き、人を大切にすることについて考える契機になります。




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by terakoyanet | 2018-01-22 23:59 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

ご存知の方々は驚かれると思いますが、哲学者・中島義道(なかじまよしみち)さんのトーク「差別感情を哲学する」が12月13日(水)の夜にとらきつねにて開催されます。予約状況などの詳細はこちらのFBページをご確認ください。

「戦う哲学者」の異名をもつ中島義道さん。数年前に林修さん(林先生)が「テレビで扱うには毒気が強すぎる」と言いながらも「大好きで尊敬している」とある番組で紹介したために、一時的に本が手に入りにくくなったことも記憶に新しいです。高校生たちには受験頻出の評論家としての印象があるかもしれません。(しかし中島さんは評論家と言われる仕事とはかなり離れてことをしていると個人的には思います。)

「生きにくい」当事者として、社会や人
間にはびこる習性に対する違和を表明してきた中島さんの話は、ときに絶望に満ちた内容ですが、安易に「希望」を語る言葉よりもずっと、深く鋭く心が動かされます。

今回は「差別感情」をテーマにお話しをしていただきます。「差別はいけません」というような道徳の教科書のような話になるわけがなく、差別する当事者として(また差別される当事者として)この私たちの中に蠢く感情について私たちがどう考え抜くことができるのか、中島さんの話を聞きながら、私たち自身が自分の内なる思考と格闘する時間を作りたいという思いでこの会を開催いたします。

◇日時:12月13日(水)19:30~21:30

◇会場:とらきつね 福岡市中央区唐人町1-1-1成城ビル1F

◇定員:30名

◇参加費:3200円 (対象は高校生以上|高校生・大学生は2000円|寺子屋生は1000円 予約時にお伝えください)

※満員が予想されるイベントです。前日・当日のキャンセルはご遠慮ください。連絡なしのキャンセルの場合、今後のイベント参加をお断りいたします。ご了承ください。

◇申し込み方法
①FBのとらきつねページへメッセージ 
②とらきつね(092-731-0121)に電話(*但し営業時間内のみ)
③唐人町寺子屋HPのお問合せフォーム(http://my.formman.com/form/pc/bzDGovvrrWXWHS7P/)からメッセージ

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□中島義道 プロフィール

1946(昭和21)年福岡県生れ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。哲学博士(ウィーン大学)。2009(平成21)年、電気通信大学教授を退官。著書に『ウィーン愛憎』『哲学の教科書』『うるさい日本の私』『醜い日本の私』『〈対話〉のない社会』『孤独について』『人生を〈半分〉降りる』『私の嫌いな10の言葉』『働くことがイヤな人のための本』『続・ウィーン愛憎』『悪について』『狂人三歩手前』『人生に生きる価値はない』『人生、しょせん気晴らし』『差別感情の哲学』『ウィーン家族』『英語コンプレックスの正体』『差別感情の哲学』『明るく死ぬための哲学』など多数。


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by terakoyanet | 2017-10-31 12:15 | とらきつね | Trackback | Comments(0)

出会い方

出会い方ってあるでしょう。
その人の醜いところとか、嫌なところばかり見えることがあるでしょう。

でも、それって、出会い方が違っただけで、180度、違う見方になっていたかもしれません。
その人に感動して、大好きになっていたかもしれません。

だから、私は、自分がその人のことを、ひとつの見方しかできていないということをいつも考えるようにしようと思います。決めつけないようにしようと思います。

逆に、私自身、他の人にひとつの色に塗られてしまった、負の烙印を押されてしまったと感じることがあります。

でも、それだって、単に出会い方が悪かったんだと思えば、自分を殊更に否定せずに済みます。
出会い方で決まっているだけと思えば少し楽になります。

クラスで居場所がなくなる子がいます。
会社で仕事ができないと指をさされ、孤独になる人がいます。

でもそれだって、単に出会い方の問題です。
だから、あなたの尊厳は、あなた自身で、大切に守ってください。
そして、人を決めつけて、その尊厳を蝕まないでください。
自分自身の弱さと醜さは、決して他人に暴かれるものではなく、いつも自分自身の内なる課題であるべきです。


これは先月、ある高校生の女の子とお互いにぽつぽつと言葉を繋いでいたときに出てきた話です。




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by terakoyanet | 2017-07-13 00:30 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)