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2018年 05月 22日

『酵母パン宗像堂』を読む

この2週間、睡眠障害が続いていて、長い夜を過ごしています。
(授業に影響は出ていませんのでご心配ありませんように。)

その長い夜を利用して、沖縄の宗像堂さんの本、『酵母パン宗像堂』さんについて文章を書きました。
ぜひご一読いただければうれしいです。

・・・
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『酵母パン宗像堂 丹精込めたパン作り 日々の歩み方』 文・村岡俊也 写真・伊藤徹也

沖縄の宗像堂さんの本、『酵母パン宗像堂』。当店(とらきつね)では先月のベストセラー2位にランクインしています。

3月の宗像誉支夫さん、宗像みかさんとのトークイベントでも話しましたが、この本は、ただのパン屋の本ではありません。私たちの生き方、考え方についてのヒントが詰まっているんです。
そして、宗像さんたちと親交の深い大嶺さん(陶芸家)、当真さん(農家)、甲本ヒロトさん、皆川明さんのインタビューが、各々どこまでも自然体なのに、面白すぎます。一人ひとりキャラがすごくて、登場人物のキャラ立ちにこれほど興奮したのはスラムダンク以来かと思われ、君たちは湘北高校かと、読みながら熱くなったものです。

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3月に行われた宗像堂さんのイベントにて

左から、くらすことの藤田ゆみさん、唐人町寺子屋(とらきつね)の鳥羽、宗像堂の宗像誉支夫さん、宗像みかさん
(写真は柴田浩次さんからお借りいたしました。ありがとうございます。)



宗像堂さんの本の中に出てくる「発酵」についての文章をここでご紹介します。
本の中でもこの部分は特に、宗像堂さん、誉支夫さんの思考の根っこ部分が露わになる箇所です。

【発酵】ありのままを受け入れる
「微生物を研究しようと対象を一つの菌に決めてしまうと、それは既に集団で機能している微生物の生態とは違うものになってしまう。微生物、つまり酵母は複雑な集団として存在している。その集団ありのままの生態を受け入れることが、酵母と付き合うということなんです。だから、彼らをコントロールできているっていう感覚もないんですよ。好ましいときだけ一緒に仕事をしてくれるパートナーのような存在。だから、人間側は謙虚にならざるを得ないというか、できるのは、酵母の環境をなるべく整えることだけですから。そして、目に見えない酵母を知覚するためには、自分の感覚を鋭くしていくしかないわけです。 < 中略 >  そうやって酵母と付き合っているうちに、不思議と自分自身と酵母が、相似の関係になっていくんです」


この文章は、人間(=人と人の間の存在)である私たちが、関係性について考える上で大きな示唆を与えてくれるものです。
例えば仕事仲間の一人の人格を見るとき、自分の子どもの人格を見るときに、その人となりを、ひとつの身体に閉じ込められた一つの人格として見ようとすると、その人の本質を見誤りがちです。

宗像さんは、別の【成形】について語る場面で、パンを「どのタイミングで窯に入れるかは、指先の記憶を積み重ねるしかない。身体性こそが、パンに宿るんです」と話していますが、人との関わりだって、「指先の記憶」のような脆弱な手触りの記憶をたよりに、少しずつ紡いでいくことだけが信頼の輪郭を作っていくものなのに、私たちはつい、この人はこういう傾向のある人だと、自分の既知の範疇でラベリングし、その人についての判断を安易に確定しがちです。しかし、それでは何も見たことにはならないでしょう。なぜなら、私たちは人間であり、つまり、人と人との間の関係自体が私たちだからです。

宗像さんは「その集団ありのままの生態を受け入れることが、酵母と付き合うということなんです。だから、彼らをコントロールできているっていう感覚もないんですよ。」と言います。
酵母だって、人だって、その関係性そのものを受け入れることが、関係性そのものが存在の輪郭をなすものだと知りうることが、相手と付き合うということであり、それが「私があなたを支配しない」唯一の方法だと思うのです。
こうやって宗像さんが酵母について語っている言葉を、自分なりに人との関わりの文脈に置き換えていくと「人間側は謙虚にならざるを得ないというか、できるのは、酵母の環境をなるべく整えることだけですから。」というちょっと感動的な宗像さんの言葉が改めて腑に落ちます。子育てだって、私たちが子どもにできることは「子どもの環境をなるべく整えることだけ」ですよね。
私たちが物事や人と向き合うとき、関係性を紡ごうとするときに「謙虚にならざるをえない」ことを心の片隅に置いておくだけで、きっと世界は変わります。

この本には驚くべき表現が散りばめられているのですが、引用した文章の最後の一文「不思議と自分自身と酵母が、相似の関係になっていく」という言葉にはひときわ凄味があります。
この場合の「相似」というのは、親が子どものことをつい自分の似姿のように眼差してしまうのとは別の強度があります。相手をありのままに受け入れる、自分の身体感覚を研ぎ澄ます努力を続けながら物事と向き合っていく、そういうこと続けていくと、相手がふと、そのままで十全なもの、完全に充溢したものとして立ち現れる瞬間があるのでしょう。自分自身にも酵母にも、それぞれ弱点があるかもしれない、でも、それはそれとしてそのままでいまここに在り、それだけで十分なのだ、そのことに気づい たときに、酵母と自分自身が「相似の関係」になる不思議。相手のありのままに向き合うという関係の中では、私と酵母は対等であり、というより対等という言葉さえも不要な関係の先に、「相似」という言葉がある気がします。

『酵母パン 宗像堂』を読むと、こんなことを考えてパンを作っている人がいるという事実に驚愕するし、そのパンを実際に味わうことができるというのは何とも喜ばしいことではないかと深く強く感じます。

村岡俊也さんの文章も愛があって素晴らしいですし、伊藤徹也さんの写真は美しく発光していて見惚れます。パンの紹介やレシピも最高に魅力的です。

こちらの本、とらきつねに常設&販売しています。
そして、宗像堂さんのパンは今週末、26日(土)の販売です。

ぜひお手にとってみてください。

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石窯から取り出されたばかりの酵母パン


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by terakoyanet | 2018-05-22 10:26 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 04月 25日

鷲田清一の『わかりやすいはわかりにくい?』を読む

前回の国語塾で高校入試問題の過去問より、鷲田清一氏の『わかりやすいはわかりにくい?』を扱いました。今日はその内容をご紹介します。



私たちが「わからない」と思ったときに、「自分がこれまでに手に入れた理解の方式で無理やり解釈し、歪めてしまう」というやり方を、鷲田清一は「最悪の対処の仕方」と言います。(この指摘はとても大切だと思います。)そしていちばん大事なことは、「すでにわかっていることで勝負するのではなく、むしろわからないことのうちに重要なことが潜んでいて、そしてそのわからないもの、正解がないものに、わからないまま、正解がないまま、いかに正確に対処するかということ」だと言います。


考えてみれば、わたしたちのリアルの社会ではいつだってそうです。医療の現場において、2人の同じような症状に見える重症患者に対して、全く同じ処置を行ったのにかかわらず、一方は症状が治癒したのに、一方は治らずに亡くなってしまう、そういうことは残念ながら起こり得ることです。教育の現場において、同じくらい伸び悩んでいる2人の生徒に対してある指導法を試してみたときに、一方の生徒は伸びたのに一方の生徒は伸びない、そういうことは多々あります。子育てだって、同じように育てたはずの兄弟が、不思議なほど別様に育つということは当たり前のように起こりますよね。このように、リアルな世界の中に正解なんてものはない、そんなことはわかっているのに、多くの人が、わかりやすい言葉、わかりやすい説明と、納得できる結論(つまるところ正解)を求めるのです。


しかし、このような人たちに対して作者は次のように言います。

「だが大事なことは、困難な問題に直面したときに、すぐに結論を出さないで、問題が自分のなかで立体的に見えてくるまでいわば潜水しつづけるということなのだ。それが、知性に肺活量をつけるということだ。」


わからないこと、曖昧なことをそのまま受け入れ、その問題を考え尽くして解析度を上げることで、できるだけその都度に正確なものに達しようとする作業の積み重ねのことを、作者は「知性に肺活量をつける」と呼びます。


私は2011年に初めてこの文章を読んだときより、いまのほうがずっとこの文章の言葉が身にしみて感じます。震災より前の2010年に出たこの本に書かれている鷲田清一の提言は、私にとっても、もしかしたら日本の社会にとっても少し早すぎたのかもしれません。でも、いまこそこれらの言葉が、最重要課題として私たちの前に生き生きと浮かびあがってくるのを感じるのです。


ここまで読んで、やっぱり「わかりにくい」と思っている人は、わかりにくいと思うあなたがいったい何を期待しているのかということについて再考してほしいのです。わからないことをわかろうとするという土台無理なことをやっているかぎり、あなたはいつまでも苦しくていつまでも浮かばれません。わからないことが怖いから、わからなければならないと思っているし、結論がなければ真実ではないと初めから決め込んでいるのです。でもそれらは、あなたがでっちあげたものにすぎません。だから、曖昧なものを曖昧なままに正確に表現するということについて、いま一度考えてほしいのです。ここでいう「正確」とは、その都度その瞬間に立ち現れる脆弱な何かのことで、「正解」とは位相が異なるものです。


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by terakoyanet | 2018-04-25 02:19 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 01月 22日

「安楽」を追い求めること

今日の高校コースの現代文では、藤田省三氏の「『安楽』への全体主義」を取り扱いました。
これは、1980年代に書かれた文章ですが、最近でも、東大、東北大、法政大、西南学院大、早稲田大など、あらゆる大学の入試で出題されている、よく知られた文章です。

この文章の中には、「安楽への隷属状態」という言葉が出てきます。
私たちは、日々「安楽」を求めるあまりに、自分の不安を取り除くことに躍起になっています。
不安が自分の不幸の原因になっているからには、それを何よりも優先的に取り除かなければならない、それが取り除かれた状態を「安楽」と呼び、それが他の全ての価値を支配する、唯一の中心価値になることが「安楽への隷属状態」と呼ばれています。

「安らぎ」というのは、本来は、私たちに自由を与えるものであるはずです。
私に「安らぎ」があるとき、私たちは他人に寛容になります。そして自分自身にも寛容になるので、自由な発想、自発的な創造が生まれる源となります。

しかし、「安楽」を求めること自体が、日常生活の中で四六時中忘れることのできない目標となってくると、事情は一変します。
そこでは、心の自足的安らぎは消滅し、安楽への狂おしいほどの追求と、安楽喪失への苛立った不安が、かえって心中を満たすことになります。こうした、安らぎを求めるがあまりに不安になるという「安らぎを失った安楽」という逆説的な精神状態こそ、現代を織りなす心象です。

だからこそ、私たちは
「不安」を動機に動いてみても、ろくなことにならない。
このことを、いつも心に携えておくべきだと思います。なぜなら、人が「不安」に突き動かされているときには、いつだって、他人への寛容が失われているし、自分の心をちゃんと見つめることも、自分自身を大切にすることも、できないのです。


日々、子どもたちを見ていると、子どもたちが大人の不安の犠牲になっていることを感じることがあります。
大人が「安楽」を追い求めるあまりに、子どもたちが大人の不安に巻き込まれるということが多々起きているのではないでしょうか。

「安楽」を追い求める大人は、子どものことを見ていません。子どもが失敗したら、それを全て子ども(または自分以外の周りの人)の責任にしてしまいがちです。その結果、子どもは「大切にされている」という手ごたえを十分に得ることができません。
でも、子どもにとって、その手ごたえほど大切なものはないのです。

しかしながら私は、手ごたえの有無を、それを享受させる責任を、これまでのように親だけにすべて任せてしまうのは、難しい気がしています。現代の親が「不安」の申し子だからこそ、塾という家庭でも学校でもない場所が、子どもに「大切にされている」という手ごたえを与える場でなくてはならないと思いますし、それは、これからの塾に求められる不可欠な条件であるとさえ思っています。「不安」の申し子たちは、そうやって協働して生きてゆかねばならないと思うのです。


現代のあらゆる洗練化(=ジェントリフィケーション)はそのほとんどすべてが、不幸の源そのものから目を背け、追放しようとする欲望で動いており、その動きがはじめから不安を分かち難く内に含み持っている限り、私たちがその運動と付随する不安から逃れるのは至難の業です。

しかし、こうした私たちの「安楽」の追求が、かえって安らぎの欠如をもたらしているという矛盾を知ることは、きっと大切な生きるヒントになります。寛容への扉を開き、人を大切にすることについて考える契機になります。




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by terakoyanet | 2018-01-22 23:59 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2017年 10月 31日

中島義道さんトーク「差別感情を哲学する」を開催します

ご存知の方々は驚かれると思いますが、哲学者・中島義道(なかじまよしみち)さんのトーク「差別感情を哲学する」が12月13日(水)の夜にとらきつねにて開催されます。予約状況などの詳細はこちらのFBページをご確認ください。

「戦う哲学者」の異名をもつ中島義道さん。数年前に林修さん(林先生)が「テレビで扱うには毒気が強すぎる」と言いながらも「大好きで尊敬している」とある番組で紹介したために、一時的に本が手に入りにくくなったことも記憶に新しいです。高校生たちには受験頻出の評論家としての印象があるかもしれません。(しかし中島さんは評論家と言われる仕事とはかなり離れてことをしていると個人的には思います。)

「生きにくい」当事者として、社会や人
間にはびこる習性に対する違和を表明してきた中島さんの話は、ときに絶望に満ちた内容ですが、安易に「希望」を語る言葉よりもずっと、深く鋭く心が動かされます。

今回は「差別感情」をテーマにお話しをしていただきます。「差別はいけません」というような道徳の教科書のような話になるわけがなく、差別する当事者として(また差別される当事者として)この私たちの中に蠢く感情について私たちがどう考え抜くことができるのか、中島さんの話を聞きながら、私たち自身が自分の内なる思考と格闘する時間を作りたいという思いでこの会を開催いたします。

◇日時:12月13日(水)19:30~21:30

◇会場:とらきつね 福岡市中央区唐人町1-1-1成城ビル1F

◇定員:30名

◇参加費:3200円 (対象は高校生以上|高校生・大学生は2000円|寺子屋生は1000円 予約時にお伝えください)

※満員が予想されるイベントです。前日・当日のキャンセルはご遠慮ください。連絡なしのキャンセルの場合、今後のイベント参加をお断りいたします。ご了承ください。

◇申し込み方法
①FBのとらきつねページへメッセージ 
②とらきつね(092-731-0121)に電話(*但し営業時間内のみ)
③唐人町寺子屋HPのお問合せフォーム(http://my.formman.com/form/pc/bzDGovvrrWXWHS7P/)からメッセージ

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□中島義道 プロフィール

1946(昭和21)年福岡県生れ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。哲学博士(ウィーン大学)。2009(平成21)年、電気通信大学教授を退官。著書に『ウィーン愛憎』『哲学の教科書』『うるさい日本の私』『醜い日本の私』『〈対話〉のない社会』『孤独について』『人生を〈半分〉降りる』『私の嫌いな10の言葉』『働くことがイヤな人のための本』『続・ウィーン愛憎』『悪について』『狂人三歩手前』『人生に生きる価値はない』『人生、しょせん気晴らし』『差別感情の哲学』『ウィーン家族』『英語コンプレックスの正体』『差別感情の哲学』『明るく死ぬための哲学』など多数。


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by terakoyanet | 2017-10-31 12:15 | とらきつね | Trackback | Comments(0)
2017年 07月 13日

出会い方

出会い方ってあるでしょう。
その人の醜いところとか、嫌なところばかり見えることがあるでしょう。

でも、それって、出会い方が違っただけで、180度、違う見方になっていたかもしれません。
その人に感動して、大好きになっていたかもしれません。

だから、私は、自分がその人のことを、ひとつの見方しかできていないということをいつも考えるようにしようと思います。決めつけないようにしようと思います。

逆に、私自身、他の人にひとつの色に塗られてしまった、負の烙印を押されてしまったと感じることがあります。

でも、それだって、単に出会い方が悪かったんだと思えば、自分を殊更に否定せずに済みます。
出会い方で決まっているだけと思えば少し楽になります。

クラスで居場所がなくなる子がいます。
会社で仕事ができないと指をさされ、孤独になる人がいます。

でもそれだって、単に出会い方の問題です。
だから、あなたの尊厳は、あなた自身で、大切に守ってください。
そして、人を決めつけて、その尊厳を蝕まないでください。
自分自身の弱さと醜さは、決して他人に暴かれるものではなく、いつも自分自身の内なる課題であるべきです。


これは先月、ある高校生の女の子とお互いにぽつぽつと言葉を繋いでいたときに出てきた話です。




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by terakoyanet | 2017-07-13 00:30 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2017年 06月 19日

東浩紀さんのAERAの記事に対する評判について。

東浩紀さんのAERAの記事が一部の人たちの間ですこぶる評判が悪いようだ。


「原発は倫理に反している。これは必ずしも即時全廃を意味しない。悪いことだとわかっていても、やらなければならないときもある。」


悪いことだとわかっていても、やらなければならないときもある、なんて書くと、反原発派の人たちが怒るのも当然である。もうなんだか開き直ってしまっているようにも読めるこの文章は、予想通りと言えるが、安直すぎるという批判が多く寄せられているようだ。(しかも私が敬愛する人たちからも。)


しかし、私個人としては、東さんは至極ふつうのことを言っているようにしか読めない。

彼がこの文章で言わんとすることの主題は、そもそも原発の是非ではない。彼は単に、倫理に反しているということと、それを現実的に抑え込むということとは別の話であり、その間には飛躍があるのだという当然のことを言っているにすぎない。


今回、東さんが受けている批判は、実はこれまでの歴史の中で延々と繰り返されてきた、哲学者が甘受する誹謗と同じ類いのものであり、もはや古典的とさえ呼べる図式がそこにはある。それは例えばかつて夏目漱石が、余裕派と呼ばれたり、ポストコロニアル批評家たちに「植民地主義に無抵抗な作家」と揶揄されたりしたときと同じ誤解/誤読である。


夏目漱石が実際の政治を語らなかったのは、漱石の言葉を借りれば、それが「第一義の問題」ではないからだ。第一義の問題から離れたとき、人は不遜になり、嘘をつき、自分の傲慢さに無頓着になる。漱石の批判精神は、初期から後期の作品に至るまでその認識で透徹されている。いかに倫理的に政治を語ることが難しいか、そのことを漱石は認識していた。漱石は植民地主義に無頓着でも無抵抗でもなく、単にそれを語ることを自らに禁じたのである。自らの口で政治を語る人たちは、それがいかに正しい意見であっても、いや、それが正しいからこそ、その語りが不穏なものを呼び寄せることに気づかないのだろうか。政治を正しく語ることは、決して倫理などではない。


哲学者というのは「現実の問題」というのが存在すると疑わない人たちにとっては(それがまさかでっちあげられたものだとは信じたくもない人たちにとっては)いつも優柔不断な人である。何の実効性のある意見も持たないような「役立たず」で「自己満足」な「遊民」に見えるらしい。

彼らには哲学者たちが「現実の問題」を語る前に、「そもそも」の場所で踏ん張っているのが一向に見えない。(この哲学者たちのどうしようもない「踏ん張り」の現場を見たいなら、漱石の『虞美人草』に出てくる「甲野さん」の描写に括目してほしい。) 


東浩紀は良くも悪くも「哲学者」である。この記事の中でも基本的には倫理について語っているだけで、「現実の問題」を語ってなどいない。でも、原発という「超」がつくほどの現実味を帯びた話の中で倫理を語ってしまうと、我慢ができなくなって「現実的」に怒る人たちが出るのは当然である。


漱石は「現実の問題」を語りすぎる人たちを「動きすぎる」と制した。「動く」ことは「罪悪」だと言った。私が思うに、哲学者というのは「動く」という「罪悪」を知っている人たちのことである。でも、そういう人は軟弱に見える。軟弱で隙があるように見えるから、根拠もなく馬鹿にされる。振る舞いそのものが扱き下ろされる。その点で、東さんも今回、一部の人たちからたやすく馬鹿にされすぎているようである。(ちなみに私が今回書いていることは、東氏が漱石ほどに優れているとかそういう話では全くない。) 

しかし、繰り返し言えば、これはいままでずっと哲学者が人として真っ当に扱われず、鼻で笑われてきた歴史の繰り返しにすぎない。



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by terakoyanet | 2017-06-19 11:02 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2017年 06月 19日

7月19日に、東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』刊行記念読書会@福岡 が開催されます。

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今年、国内最大の話題となっている人文書、東浩紀さんの『ゲン
ロン0 観光客の哲学』の読書会が、東浩紀さん本人を東京よりお招きして唐人町とらきつねにて開催されます。

当日は各章ごとに概説が行われたあと、質問と議論が行われるという流れになりますので、『ゲンロン0』を既読の方はもちろん、未読の方もご参加いただけます。

19年前
の鮮烈なデビュー作『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』以来、日本の現代思想の中心人物のひとりとしての東さんの仕事を追ってきたコアな方から、現代の事象を「哲学」を通して考えてみたい、初めてだけど学んでみたいという方まで、さまざまな方のご参加をお待ちしています。
定員が30名と少ないため、じっくりと深くお話しができる会になればと思っています。

登壇者としては東浩紀さん
のほか、進行役に山内泰氏(ドネルモ・ふくしごと)、発表者として当方とらきつね/唐人町寺子屋の代表 鳥羽和久(寺子屋ネット福岡)、そして対話をする方として古賀徹氏(哲学者・九州大学准教授)というメンツでお話しを進めさせていただきます。

先日、とらきつねのお客様とお話ししていたときに、「哲学」と聞くと思わず怯んでしまうというお話をなさっていました。しかし、哲学は本来、皆に開かれているものです。哲学者と皆さんの間に素人の私(鳥羽)が発表者として参加することで、世界について、私について、考えてみたいと真剣な思いを抱いていらっしゃる皆さんがこれなら参加しやすいかも、と思ってくださることを願っています。東さんはもちろんのこと、古賀徹さん、山内泰さんのお話し、そして参加者の皆さん方の発言も楽しみにしています

東浩紀さんの文章は、大学入試にもたびたび出題されています。「ゲンロン0」は現在、東大の生協をはじめ、全国の大学生協で最も売れている本で、その内容は若い人たちを熱く惹きつけています。
寺子屋の生徒さん、保護者様も、ぜひご参加ください。


◇日時:7月19日(水) 開場18:30 開演19:00
◇場所:とらきつね 福岡市中央区唐人町1-1-1成城ビル1F

◇参加費:3800円(学生1800円)
※小学生以下は無料ですが、お子さんの声が漏れるときには、周りの方への配慮をお願いいたします。

◇申込方法:ご来店、お電話(092-731-0121/但しとらきつねの営業時間のみ)、とらきつねFBメッセージ、唐人町寺子屋お問合せフォーム(http://my.formman.com/form/pc/bzDGovvrrWXWHS7P/)のいずれかにてお願いいたします。6月16日に予約開始。

※当日はゲンロンの書籍販売が行われます。ぜひ楽しみにご利用ください。
※直前(前日や当日)のキャンセルはご遠慮ください。


◇登壇者プロフィール

〇ゲスト 東浩紀
1971年生まれ。東京都出身。哲学者・作家。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。株式会社ゲンロン代表、同社で批評誌『ゲンロン』を刊行。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『弱いつながり』(幻冬舎)など多数。2017年4月、2年半ぶりの単著『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン)を刊行。

〇対話者 古賀徹 哲学者・九州大学准教授
〇進行役 山内泰 
NPO法人ドネルモの代表理事・㈱ふくしごと取締役
〇発表者 鳥羽和久 
㈱寺子屋ネット福岡代表取締役・唐人町寺子屋塾長・日本航空高校唐人町校校長、「とらきつね」店主。




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by terakoyanet | 2017-06-19 10:48 | とらきつね | Trackback | Comments(0)
2017年 05月 28日

ウブドの散歩道、チャンプアンリッジウォーク

チャンプアンリッジウォーク(Campuhan Ridge Walk)はウブド周辺の数ある散歩道の中でも特に美しいことで知られていて、さっきまで居た町中の喧騒が嘘のように気持ちの良い風が吹いています。午前中の散歩がオススメです。

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東浩紀の新著『ゲンロン0』を読んでいます。「観光客」という軽薄な存在の捉え直し。とても面白いです。全部読んだ後にお話しできればと思います。


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by terakoyanet | 2017-05-28 09:23 | 好きな場所 | Trackback | Comments(0)
2017年 04月 19日

情報戦

情報に翻弄されて不安になっているときは、一度立ち止まって深呼吸をして、自分の足元を見つめ直した方がいい。その不安は他者に対する不安ではない。あなた自身の不安なのだから。電話の向こうの人に、そう話をしたくなることがあるけれど、正面切ってそんなことを言うのは難しいです。

不安を解消したいという欲に突き動かされている人に、いや大丈夫と話しても、全く効果がないどころか、むしろその欲を制止・抑圧されるとその人に感じさせれば、反発が生じたり、ときには忽ちに目の前からいなくなってしまったり。

不安→かりそめの安心→不安 を繰り返すのは苦しい。
不安は情報に翻弄されるから生じます。たくさんの情報があるのに、その中に、何一つ寄りかかることができる確固たるものがない、だから不安は増長します。

でも、情報の本質はそういうものです。それは人生の滋養になりません。
情報は、自分の心と身体を使って得られたものではないでしょう。そんなものに流される人生は、荒波に翻弄される小さな木の枝同様に、浮き沈みを繰り返したのちに、早々と朽ちていきます。

情報が人の人生を朽ちさせるようなものなら、そこから距離を置く工夫をしましょう。
情報に頼るのではなく、自分の嗅覚に頼りましょう。

その嗅覚は決して確固たるものではない。だから、そこに不安があれば、再び情報に頼ろうとするかもしれません。
でもそこは踏ん張りどころです。辛抱が必要です。人とモノに心を寄せるというのは、本来的に苦しいことですから、覚悟が必要なんです。
嗅覚に頼るというのは、独断に陥ることではないんです。匂いはその都度に変化します。自分自身もその都度に変化します。その変化に対する感受性を研ぎ澄ますこと。そしてその変化自体を受け入れること。それが私たちに求められている生きのびるための知恵ではないでしょうか。


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by terakoyanet | 2017-04-19 08:54 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2017年 02月 15日

幸田露伴の『趣味』を読む

前回の現代国語(高校コース)の授業では、幸田露伴の『趣味』を読みました。
まさに珠玉の短文と言うべき文章で、時折、生徒たちと読む機会を作っています。

『趣味』は過去に一橋大学をはじめ、多くの国立大の国語の問題でも何度も登場しており、擬古文(近代文語文)のために現代の私たちにはちょっと読みにくいのですが、音読するとさらに良さが分かるのは、擬古文ならではのことで、本来は原文を読んでいただいたほうがよいのですが、今回は、この文章の現代語訳(意訳あり)を書くことで、もうすぐ卒業する生徒たち、特に高3生たちへのギフトとしたいと思います。

(ギフトと言えば、高3生のある子が、先日、自習室をはじめとするいまの寺子屋の中で気になることについて率直に話してくれました。大切なギフトをもらいました。ありがとう。)


『趣味』 幸田露伴

趣味は人の思考であり、見識であり、思想であり、気品であり、心である。心は卑しいところを改め、善い方へと正していかないわけにはいかないだろうし、気品は清く高くあるべきである。思想は汚らしくも下品でもないことが必要であり、見識は卑しいところがないことが必要である。嗜好には行き過ぎのないけじめがほしいし、趣味がひどく低くて浅いのは残念なことである。自らの手で土壌を作り、自らの手で養い、自らの手で育て上げ、その結果、自分自身の中に自然に生じた心の色が花のように咲き出でた趣味こそを、特に栄えさせねばならない。

目の覚めるような華やかなものを好む人がいる。心が引き締まるようなものを喜ぶ人がいる。淡白なものを好む人がおり、濃厚なものを愛おしく思う人がいる。艶やかな美しさを愛する人がおり、渋く古びたものを欲しがる人がいる。人の趣味は、ちょうど人の顔の形や人の声色がそれぞれに異なっているように、千差万別である。自分の基準で他人を正してはならず、逆に、いたずらに他人の真似をして自分を捻じ曲げるのも難しくて上手くはいかない。なぜなら趣味は、人々それぞれに宿る心の花から出た自然の色だからである。花を染めて元ではない色を作り、花を洗い流して元の花の色にはない色を作ったとして、本当にそれに何の甲斐があるというのだろうか。それぞれの人に咲く花は、土壌を作り、養い育て、充分に成長させて、その結果、自然に表出した色を、春や秋の空の下に、心ゆくまで豊かに解き放って自由に美しく伸ばしていかねばならない。人の趣味は、土壌を作り、養い、充分に育て上げて、その自然に基づく趣味の香りをゆったりと世の中に広げ香らせるべきである。

自らに不足があることを知るのは、満足に至るための道である。至らないことを知るのは、高みを目指すための道である。自分の趣味が不十分であることを知り、尚も至らないということを悟る人は幸せである、その人の趣味は、まさに次第に成長し、次第に進歩しようとしているのである。自分の趣味が幼稚であることを反省もしないで、自分が良いと思うものばかりをいつも良いと思い、自分の興味深いものばかりをいつも興味深いとして、高みを目指そうとせず、卑しいところを改めようとしない人には幸いはない。その人の心の花はすでに石となり、生命を失っているからである。

髪飾りはいつも黄金であることを欲し、着物は必ず絹であることを欲するのは、欲望というものであり、それは趣味ではない。欲望は自分を縛り、そこに自由はない。趣味は自分を縛ることをせず、自由がある。趣味が低く、欲望が強ければ、自分が欲しいものが手に入らないと、その苦悩は際限のないものとなる。趣味が高く、欲望が薄いものならば、もし自分の欲しいものが手に入らなくても、それとは別にふさわしい楽しみが、一つや二つどころではなく見つけられるだろう。ちっぽけな野菊の花を髪飾りにしても、香りの消えた山吹の花を髪飾りにしても、薔薇の一輪が白く膨らんでいるのを髪飾りにしても、梅もどきのいくつかの実の赤いものを髪飾りにしても、その人の趣味から見たときに「良い」とするものであれば、たとえ木の端や竹の切れ端を髪飾りにしても、そこに満足や喜びがあるに違いない。時と所におうじて、どんなときも、どんな場所でも、喜びの気持ちを見出すことができるのは、趣味によるものである。欲しいものが得られないと苦しみ、遂げたい願いが遂げられなければ悩み、そのように、自分の心を、自分の外にある物の奴隷にして、心がその物に支配されてしまうようになるのは、欲望がそうさせるのである。欲望は人を苦しめ、趣味は人を生かす。趣味の豊かな人は幸せであることよ。

自分に何か得るところがあっても、他人にそれを期待しない、これを徳という。自分の心に楽しむことがあって、物事に煩わされることがない、これを趣味という。どんなときでも、どうにか十分な趣味さえ持っていたら、荒れ果てた寂しく寒々しい境遇であっても、その趣味によって楽しむことができるだろう。だから、培わなければならない、養わなければならない、そして育て上げなければならない、人の趣味性を。




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by terakoyanet | 2017-02-15 14:45 | おすすめの本・音楽 | Trackback | Comments(0)