寺子屋ブログ by 唐人町寺子屋

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2018年 10月 11日

アクセス数が多い「カンニング行為について」の記事

もともとアクセス数が多かったのですが、最近アクセスが集中している、いまからちょうど10年前の10月(2008年10月)に書いた記事「カンニング行為について」ですが、この記事を大幅に加筆・修正したものを、拙著『親子の手帖』に載せています。それにしても、この記事へのアクセスが多いということは、どれだけ多くの人たち、現場の先生たちや親と家族、そして当事者(子ども)がカンニングをめぐる問いや悩みを抱えているかということを物語っていると思います。

カンニングは「悪いこと」というより、子どもの何らかのシグナルであることがあります。
また、カンニングをした子どもに「悪い子」のレッテルを貼ることが大きな問題を引き起こすことがあります。

カンニングはその子の問題というよりは、その子の環境の問題なのだという意識を持ち、大人が知恵を絞ることが求められています。

拙著では、カンニングへの対処についてだけではなく、行為をした子どもと親の関係についても踏み込んで書いていますので、この記事が気になった方は、お手にとっていただければ幸いです。



『親子の手帖』、多くの方に手にとっていただきありがとうございます。
昨日のAMAZONランキングでも、部門別(出版社別)で1位をいただいています。

ちなみに福岡市内の図書館では、少なくとも、総合図書館、中央図書館、西部図書館、和白図書館(コミセン和白)の4か所で蔵書・貸出があるそうです。
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by terakoyanet | 2018-10-11 01:01 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 09月 11日

『親子の手帖』に寄せられた感想

その後もSNSを中心に拙書親子の手帖についての感想が寄せられています。
感想を書いてくださった方たちは、ほとんど例外なく真剣に丁寧に読んでくださっているのが伝わってきて、ありがたく感じます。
今日は、読んだ方の感想、心の声を紹介させてください。
こういった「心の共有」に励まされる方がいたらと思います。

・・・

親子関係の難しさよ。
まだうちは幼稚園だけど、こらから直面するであろうことがたくさん書かれていた。
誠実に、個と個の関係でいきたい。
こういう大人が側にいてくれたら。
いや、自分がならなきゃいけないんだけど。

子どもの心は日々
成長します。
モヤモヤとする事も
あります。

でも それは自分の分身?
所有物みたいな感覚だから?
親と子
と言う関係じゃなく、
人として子を見たとき
尊敬する事が出来ました。

親の先回り、心配が
子の成長を妨げる事も
あると思います。
失敗すれば良い!

失敗しないように、先回りして 心配するのは、子の為だけじゃなく、自分自身が
困らない為もあったと思います。

毎日がスリリングでも
良いじゃん。
期間限定だし…

と、思えたら思春期の子と
暮らすことも 面白いじゃないかと感じた。

そんな時に出会った本は
私のそんな気持ちを後押し
してくれる本だった。
主人も興味を持ってくれて
夫婦で読んでいます。
同じ方をみて 育ててもらえるのは、ありがたいです。
福岡で学習塾を経営する #鳥羽和久 さんの #親子の手帖 は、帯にある写真家お二人のメッセージに惹かれて手にしてから、何度もどこからでも読み直している。
こんな歳を重ねてもまだ受容できずにいることがあるだろうか。それは特別辛いというんでもないけれど、鳥羽さんのお話を読むと10代の自分と重なる姿も描かれていて、良いも悪いもすべてわたしだと。
悩まずただ考えても、自らのどうしたい?が見えにくい時こそ、読書に助けてもらってきた。
親子の時間、親子の手帖、どちらもあとがきだけでも、琴線に触れる。

少し前にヴィパッサナー瞑想というものを行ったのだけど、この本の根元は、ヴィパッサナーに通じている気がした。ヴィパッサナーとは観察するということで、自分の意識とかを観察し続ける瞑想法(誤解を生むかもしれないので、正しくは専門の本など読んでください)。
.
親が子を叱ったり、選択を促したりする時のスタート地点は、親自身の心の不安だったりする。子への愛と自己愛は共存して然るべきだから、片方を尊重し片方を否定する必要はない。だけど、親は自分の心のうちをしっかり観察し、心得た上で子どもと向き合う必要がある。
.
親子だけでなく、仕事相手、パートナー、あらゆる関係性に当てはまる。
.
心に残った箇所は、人生の選択と責任と、成功と失敗について。選択は、受験をする時期くらいの子どもには、純粋な本人の意思決定などありえない。無意識含む親のコントロールがあるもんだ。選択は迷う。ひとつの選択肢を特権化しすぎないように。一寸先もわからない人生を生き、だからこそ、生きてもゆけるのだと。

いい親になりたいと思って親をやってたわけじゃないし、優しい母親になりたいと思っていたわけじゃない。

だけど、世間からの目を気にして、それを子供に押し付けていたのかもしれないね。。。 いい子でいてほしいのは、
勉強や運動ができるのは、世間体がいいから、ってどこかで思っていたのかもしれないね。

少しだけど気がついた。そんな風に世間のことを気にしてたっていいし、少しは親の期待の気持ちを子供に話ししたっていいんだ。

だってね、やっぱり家族が大好きだもの。
よく見せたいって思うこともあるよね。

これから何かできごとが起きた時、
この本のことを思い出して、気がつくことができると思う。

ああ、これは私の欲なのかもなー、って。
『親子の手帖』
親子関係の本ですが。
よくあるハウツー本ではありません。
読み始めると。親としての自分や我が子の事がよぎり、辛く心が抗いたくなる瞬間が多々でてきます。
読み進めるて行くうちに、そんな自分の事が受容でき、改めて親子の関係を見つめ直せる事が出来ました。
僕にとっては『本に救われた』と感じた本です
親子関係とは、究極の人間関係です。
ですので。
『上司と部下』『教師と生徒』などの関係性にも、きっと気づきの多い本になるのではないでしょうかー^ ^
僕の人生で大切な本になりました。

親子のかたちは、当たり前だけど親子の数だけあるもので、何が正しいか間違っているかなんて誰にも分かりません。
ただ、誰にでも経験があると思うどうしようもない気持ちの行き違いみたいなものがここには書かれていて、今子どもの心が分からないと悩んでいる親や、親に言いたいことを言えない子どもの立場にある人はもちろん、子ども時代になにかしらていた思いがある人、人間関係に悩んでいる人が読むと絶対に腑に落ちるものがあると思います。まっすぐに向き合うことの難しさと大切さに気付かされます。

うちは上手くいっているよと思っている親にもぜひ読んでいただきたいなぁ。

親子のことが書かれているけど、ここに書かれている社会での人間関係のことにもあてはまると言えます。
ぜひ色んな人に読んでもらいたい一冊です。

いまだに宿題の1/3〜1/2間違える小2の娘。ちょっと指摘すると大変な事になり、イライラしていた私。
.
『親子の手帖』の著者 鳥羽和久さん @toba_terakoya のトークイベントに行って来ました。
.
本は親目線とかつて子どもだった目線で、ときには涙ときにはぐさっとなりながら、でも否定はされない感覚の中読み進めました。
.
方法論ではない沢山の親子と関わってきた鳥羽さんの話に自分を重ねて見る事で、ギクシャクする事が増えつつあった娘との関係を一歩引いてみる事ができ、だいぶイライラが落ち着いた気がします。
Jun/07/2018。544回目の二上山。常日頃難しいなあと思っていることの上位に『伝える』ということが位置する。いま、鳥羽和久『親子の手帖』を読んでいて、もちろん親と子の関係が書かれているのですが、読み始めるとそれはそもそもの人間関係全般に言えることだとわかります。そう、子どももひとりの人間、個が確立された存在として扱わなければ、親…こちら側…の意図は伝わらないということですね。
新しい保育園に通いだして1ヶ月。息子、まあまあ楽しそうな様子になってきた。“楽しそうに” 保育園に通う日がくるなんて。まだ半信半疑。

鳥羽和久さんの「親子の手帖」良い意味でぞくっとしました。そうか、そうなのか、そうだよね、でも、想像以上に、そうなんだな。親子で更地に立つ感じがしました。









紹介しきれませんが、たくさんありがとうございます。


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by terakoyanet | 2018-09-11 00:37 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 06月 14日

保護者さまからのお便り

日ごろ、小中学生の保護者さまからいただいているお便りから、ごく一部ですがご紹介させていただきます。(しばらくご紹介が滞っていました。。)声を寄せていただいた皆さま、ありがとうございます。(最近2か月ぶんより)


中学に進級し、コツコツ頑張る成果が出たようで嬉しく思います。継続を信じています。(中1)

毎月の成績表に名前が載ったりすることで、他の存在を意識したり、今の自分の成績を見つめ直したり、色々な事に考えを巡らせてほしいです。(中1)

"親子の手帖"読ませていただきました。子育てする資格なし・・・とショックを受けたのに、また手にとってしまう不思議な本です。ありがとうございます。(中2)

前回より偏差値が上がった!とニコニコして帰ってきました。成績が上がっていくのが楽しいようです。塾だけでなく学校の授業がとても面白いらしく、少しだけ専門的な勉強に強い興味を抱いているようです。今まで勉強が楽しいと言ったことがなかったので、親としてもとてもうれしく思っています。(中1)

ブログ記事の「子どもの生き方はもう決まっている」は、とても腑に落ちました。最近、子どもと接していてモヤモヤとしていたものが、スッキリしたように思います。良いお話しをありがとうございます。(中1)

面談では有意義な時間をありがとうございました。おかげさまであの日から、本当に毎日勉強を頑張っています。継続は力なり!!頑張れ!●●!(中3)

学びの成果を丁寧に可視化していただき、ありがとうございました。本人もとても喜び、意欲につながっているようです。
社会など、物事と物事の間にあるつながりの細かなお話しに興味がわいているようです。今後もよろしくお願いします。(小6)

親子の手帖」拝読いたしました。自分と同じ人たち(親だけでなく、子どもも含め)が出てきました。親としては反省することしきりでしたが、でも反省よりも前に向いて進めというメッセージと受け取り、それを子どもにしっかり還元していきたいと思いました。(中2)

初めて塾に通った為、全体の成績表を本人ははじめて見たと思います。とても刺激になったようであり、自分も成績表のランクに載りたいと言っておりました。少しでも、そのような向上心を持ってくれただけでも、大きな進歩と思います。引き続き、ご指導よろしくお願い致します。(小6)

レベルの高い寺子屋の授業についてゆけるのか、と心配でしたが、本人が思ったより頑張っていて驚きました。(中1)

いつもお世話になっております。成績表が出るとピリッと気持ちが引きしまるようです。塾が楽しいといつも元気よく出かけていきます。終わった後もいきいきとした顔で帰ってきます。どんな授業をしていらっしゃるのかとても気になります。(小6)

いつも丁寧なご指導をありがとうございます。先生の授業が一番わかりやすいと頼りにしています。(中3)

今月は初めての期末テストがありますので、一つ一つ確実に理解して身につけて欲しいと思います。学校の授業より分かりやすいと言っていました。今後もどうぞよろしくお願いします。(中1)

いろいろな学年の様子がわかり良かったです。また、本の内容紹介があり(数学する身体)興味がわきました。子供達が大人になるのは遠いものではないので、本などを通していろいろな問題を知ったり、何かを考えるきっかけを探してくれたら幸いだなと感じました。ぜひ拝読させて頂きますね。(中3)

みなさん切磋琢磨しながらがんばっていて、びっくりしました。(中2)

帰宅後、一番に成績表を出してきて、自分の名前がTOP○に入っていたことをすごくうれしそうに報告してきました。今後もうれしい結果が聞けるよう、コツコツ頑張ってほしいと思います。(小6)

いつもお世話になっております。総合の欄に子どもの名前が無い事に落胆する私に、「見て見てここに私の名前があるよ!次は2番めざすよ」とニコニコする娘。なんてポジティブな子なんだろうと感心しましたが、その後勉強する気配はございません。こんな娘ですが、ご指導よろしくお願いします。(小6)

中学に入学し、高校進学を身近に感じるようになった様子で、勉強時間が少し増えました。目標を高くあきらめずに努力してほしく思います。特進クラス目指して頑張ってます。今後もご指導よろしくおねがいします。(中1)

いろんなデータの盛り込まれた成績表でおどろきました。今後の参考になる資料もたくさんあって、とても勉強になりました。ありがとうございます。(中1)

コツコツ勉強している子がじわじわ成績を上げてきている様ですね。2年生になったので、ここからコツコツ毎日勉強していって欲しいです。(中2)

通わせていただくようになって、少しずつ勉強がおもしろくなってきたようです。ガミガミ言われることもなく、机に向かうようになったのは大きな進歩です。ありがとうございます。(中1)

受験生の意識を持ち、本人なりに学習に取り組んでいます。寺子屋を嫌がらず、喜んで行ってくれます。ご指導宜しくお願い致します。(中3)

成績が2年連続で大きく伸び、本人なりの努力の成果が見えます。これからも油断することなく、コツコツと課題に取り組んでほしいです。(中3)

この調子で目標に向かって頑張って下さい。小さいことの積み重ね、とても重要だと思います。コツコツと頑張ってほしいと思います。結果は必ずついてくると思うので。(中2)

念願の○位になり、喜んでおります。学校のテストも、本人としては満足のようで、12月の面談から変わってきたなと実感しております。良くがんばっているんだと、私もうれしく思います。(中2)

いつもご指導ありがとうございます。スランプが続くときこそ、力を蓄える機会。身体と心のサポートをしていきたいと思います。本年度もよろしくお願いいたします。(中3)

自分で気がついていることを2年生で実行に移すことが出来たら、また頑張った成果が出るのではないかと思います。楽しく学んで、色んなことを吸収する1年になります様、見守ります。(中2)

「親子の手帖」の出版おめでとうございます。さっそくとらきつねで買わせていただきました。(中3)

1年生の締めに良く頑張りました。まだまだ、伸びる力があると信じていますが、中学校生活が一番楽しい2年生、楽しみながら勉強も頑張って下さい。(中2)




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by terakoyanet | 2018-06-14 23:59 | 当校の特色 | Trackback | Comments(0)
2018年 05月 13日

『親子の手帖』未収録原稿「子どもの生き方はもう決まっている」

『親子の手帖』を書いたときに、他の章の文章と若干の重複があったために、まるごとカットした「子どもの生き方はもう決まっている」という文章があります。それをご紹介いたします。

・・・

子どもの生き方はもう決まっている

 「三つ子の魂百まで」というありふれたことわざもありますが、人間の生き方というのは、だいたい3歳から6歳くらいまでの間に決まってしまう、このことは多くの人たちが異口同音に語ってきたことであり、私も同じように思っています。

 「三つ子の魂百まで」というのは、そのころまでに子どもに傾けられた愛情や言葉、そしてそれによって涵養された子どもの感受性というのは、子どものその後の人生を左右するほど決定的に大きなものであるという意味です。その時期の子どもというのは、ただ自分が置かれた環境に身を置き、与えられた条件に追従するしかない存在なのですから、まさに親が子どものその後の人生の命運を握っている時期というわけです。

 そう考えると、子どもというのは不憫なものです。自分の人生を決定づける最も大切な時期が、そうとは気づかないうちに過ぎ去ってしまい、過ぎ去ってしまったあとには、それをどれだけ悔いても取り返しがつかないのですから。

 しかし、あなたも私もかつての子どもです。そしてあなたの両親もやはり、かつて子どもでした。私たちは、意のままにならない生を、原罪のように背負ったままで生き延びなければならない、そういう宿命を持っています。

一方で、この「三つ子の魂百まで」という言葉が、科学的にも正しいことが世間でまことしやかに語られるようになって以来、その認識が乱用、誤用されることが多くなってしまいました。「三つ子の魂百までって言いますから、うちの子にも1歳のときから英語を習わせていたんですけど…。」そんなことを平気で言ってしまう親御さんもいるわけですが、これはそもそも「三つ子の魂百まで」ということわざの意味自体を取り違えてしまっています。「三つ子の魂百まで」というのは、3歳くらいまでに大切なことを教育しておかないと、それが身につかなくなる、という意味では決してありません。むしろ、このことわざを「教育」にすぐ結び付けてしまうことこそ、とても危険で不幸なことなんです。


幼少のころから「教育」された子どもは弱くなりがちです。大人が知識を与え、それを吸収すれば褒められる。このことを繰り返すと、子どもは知識を与えられることを当たり前と思い、自分で考えようとしなくなります。また、褒められること自体が目的となるのは、その知識の質自体を低くするとともに、大人の機嫌をとるために勉強をするということを、ことさらに子どもに教え込んでしまうことになります。自分で考えようとしない子は、その後、応用的な思考を身につけることができません。大人の機嫌をとるために勉強するようになった子の勉強はいつまでもポーズにすぎず、思い通りにいかなければカンニングをしてでも大人の期待に応えようとするようになります。「なんでそんなに頑張れないの!?」と幼いころから言われ続けた子は、自己否定感情が強くなるだけでなく、周囲に対して暴力的になりがちです。(親は子どもに頑張ることではなく、暴力的な言動で人を脅かすことの方を、図らずも子どもに教えてしまったのです。)こうやって、幼少のころの「教育」の過ちが、中学生、高校生に成長した青年たちに大きな影を落としているということは多々あります。

私は職業柄、中学生や高校生のお母さん、お父さんたちが、子どもと格闘している姿を見ることが度々あります。子どもがなかなか勉強しないときに、部活やめさせるわよ、とか、そんなんだったら大学受けさせないわよ、就職しなさい、とか親はいつでも子どもに脅し文句を吐いて、なんとか子どもの誤った道筋を矯正しようとします。脅しではとどまらずに、実力行使に出て実際に子どもの感情を損なわせることで、自分がいま置かれている状況を子どもに身をもって知ってもらおうとする場合もあります。

そういったときに、私はいつも、そんなことをしても、子どもは決して思い通りにはならないだろう、と思います。自我がもうしっかり育ってしまったあとの中学生や高校生に対して一方的な権力をふるったところで、自我と自我のぶつかり合いになることは火を見るよりも明らかで、どだいうまくいくわけがないのです。だから、この世代の子どもとの関わりは「話し合い」が基本です。膝を突き合わせて自分の心と相手の心を向き合わせることからしか始まりません。

さらに言えば、子どもの下書きのようなものはすでに幼い時に済んでしまっています。中高生の子どもたちはその下書きをもとに、日々の生活を送っているのです。だから、中学生や高校生の親がいくら必死に呼びかけてもその子どもの欠点が埋まらない場合、それは子どもの中にすでに作り上げられた人生との付き合い方そのものが反映されていて、それを矯正するというのは簡単なことではありません。無理なことを要求され続けたら子どもは卑屈になるに決まっています。だから、中高生の親が、この子の生き方はある程度決まってしまっている、そのことを理解して子どもに接するのは大切なことです。

でも、子どもの欠点が目立つからといって、この子が幼いころの私の子育てが間違っていたんだわ、とそんなふうには考えないでください。親が子どもに対して感じている欠点と、その子ども取り巻く人たちが感じている性質は符合しないことが多いですし、子どもは半ば無意識的に自分の欠点を補うような行動をちゃんと選び取っているはずですから。また、「良い子育て」をしたからといって「良い子」が育つわけではありません。いくら子どもに的確な良い指導を繰り返したとしても、子どもが受け取るのはその的確さや良さではなく、その指導の質そのものであることは注目すべき点です。そうやって常に適切さを保った指導を受け続けると、子どもはむしろ自分では何も判断できなくなり、その結果、何もしようとしなくなります。しっかり者のお母さんのもとでは、自分では何もできない男の子が育ちやすいというからくりは、そこにあると私は思っています。(女の子の場合、お母さんをそのまま真似しようとするから、そうはならないことが多いです。) そのように考えると「良い子育て」というのは難しいです。私のような第三者から見ても、しっかり者のお母さんというのは素敵な女性たちです。でも、彼女たちの誠実さの発露そのものが、子どもにとっては毒になることがあるというのはとても難しい問題です。そう考えていくと、子育てというのは、親が方法論や良し悪しという価値判断からできるだけ離れ、子どもの存在をそれ自体として受け止めることからしか始まらないのかもしれません。

私たちが荒れ地に種を撒き、そして芽を出した植物が、やがて一見妙な花をつけ、いま実を結ぼうとしている。目の前の子どもというのは、その花や実の心根のようなものなのだ。子どものことをそうやってちゃんと真剣に眺めていさえすれば、さまざまな不安は消え去り、きっとその顔が見えてきます。その顔を手掛かりに、親と子の関係が紡がれていくことを願っています。



・・・


『親子の手帖』(重版出来)はいつのまにか、全国各地の書店に販路が広がり、たくさんの方の目にとまることになりました。手にとってくださった皆さまのおかげです。
6月には、大阪や京都の書店さまでも本のご紹介をするイベントの機会をいただくことになりました。ありがとうございます。

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by terakoyanet | 2018-05-13 07:48 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 02月 01日

カタログ的学習の弊害

先週のDCS(ディスカッション)では、熊大文学部の小論文(2017年)で出題された、内田樹さんの『昭和のエートス』を扱いました。
そこには次のような文章があります。


子どもたちはこれから学ぶことになる教科について、それを学ぶことの有用性や価値について語る言葉をまだ持っていない。しばしば「学ぶことの有用性や価値について語る言葉をまだ持っていない」という当の事実こそが彼らがそれを学ばなければならない理由だからである。
<中略>
学ぶものは自分が学ぶことの意味を適切に言うことができない。だからこそ学ばなければならないのである。
教育はそのように順逆が転倒したかたちで構造化されている。
教育をこれから受けようと思う人間は、カタログを拡げて、自分が受ける教育について時空を超えて俯瞰するような視点(ユビキタス的視点)に立つべきではない。子どもにそれを許せば、教育はその裁量の教育的意義を失ってしまうであろう。

内田樹『昭和のエートス』


これを読んだ鋭敏な高校生たちは、
「よく、何のために勉強するのか、とかいう学生が言いがちな質問に対する完全な回答がここにある」
「子どもがこれを理解するというより、教育をする大人がこれをどれだけ理解しているのか」

そういう話をしていました。

この内田氏の指摘はあまりに重要で、現代の教育に「失敗」している人たちの多くが陥りやすい罠について書かれていると感じます。

内田氏が同じ文章で指摘するとおり、小学一年生は、自分が「国語」を学ぶ理由を適切な日本語で説明することができません。「算数」の合理性について、数学的論理に基づいて述べることができません。しかし、むしろそのこと自体が、小学生が「国語」と「算数」を学ぶ理由なのです。

現在、大人がそのことを理解していないために、子どもの教育にさまざまな弊害が生じています。

まず、いまの大人たちは、「子どもの意見を尊重して」という言い方をしますが、そのときに、子どもが本当に自分なりの理解をしてその選択をしているかという点について考えることを等閑(なおざり)にしがちです。むしろ、自分自身もよくわからないから、子どもの意見を尊重するこという口実によって自分自身の責任を回避するという傾向が見られます。子どもの意思の赴くままに自然に育てるというのは、子どもに親の意識が集中しがちな現代においてとても大切な考え方ですが、一方で、現代の日本は、かつての日本の農村社会のような、子どもの生命力を喚起するような自然環境を失っていますし、子どもに薫陶を与える生き字引のような長老のような存在もおらず、放っておくだけで子どもは生きるための力を身につけることができると考えるのは、やや楽観的すぎるかもしれません。子どもは勝手に育つといいますが、適切な手入れがなければ十分に育たないのです。だから、大人がその手入れをさぼってはいけないと思うのです。

別の話になります。小・中学校教育において、重要視されている「調べ学習」ですが、なぜ科学を学ぶのかを知らない子どもたち、歴史を学ぶのかを知らない子どもたちに対して「調べ学習」を押し付けることは、(全くではないにせよ)あまり意味がないと言わざるをえません。子どもたちは、調べるための視点とその必然を理解できていないのですから、そういう子たちに調べることをやらせてみたところで、大人の一時的な評価を得るために、参考書のまねごとをするような空疎な内容になるのが関の山です。そんなことをするよりも、子どもを惹きつけるような、それは面白いと膝を打つような話を通して、子どもたちに知識と知恵を吸収させることが大事です。「調べ学習」ができるようになる、というのは結果的にそうなるはずなのに、はじめから調べ学習をやらせるなんて、生まれたての鳥に、いいから飛んでみろといきなり巣の中から外へ放り出すようなもので、うまくいくわけがないのです。高校や大学も、アクティブ・ラーニングなんかやるより、いまやっている勉強が、実は自分自身のことだ、自分の人生と確かに繋がっている、そう感じさせる授業ができれば、子どもたちは勝手にアクティブに動き始めるんです。本当はそれが子どもの自発性を伸ばすということであり、教育の力というものではないでしょうか。

最後に、私が日ごろ実感していることについての話です。
小学校のころは優秀だったのに、中学以降は伸び悩む、そういう子たちがいます。
そういう子たちの中には、小さいころにカタログ的学習を身につけた弊害がはっきりと見える子がいます。
勉強の世界というのは、私たちの生存の周りに無限に拡がっているものなのですが、小さいころからカタログを与えられた子どもというのはそのことに対する感度が抜け落ちてしまいます。彼らは、勉強はカタログから選ぶものと思っていて、カタログ外に世界が拡がっていることを知りません。さらにカタログの中から自分が楽できるもの(それが仮に他のものに比べれば相対的に興味があるものだとしても)だけを選ぶ癖がついてしまっています。そういう子たちは、カタログ外のことが目の前に現れても、それはムダで意味がないと半ば無意識に捨象する癖がついていますから、中学以降、カタログに捉われずに新しい知識とあらゆる事象とを縦横無尽に結び付けていく他の子に比べ、どうしても応用的な思考力が劣ります。数学的、言語的に鋭い反射能力を示す子はたくさんいますが、それがその子にとっての生きる思考になっていないのです。



それにしても、教育の問題について、高校生と話すのはエキサイティングです。
教育の問題を話しているようで、どうしても、自分のこれからの生き延び方についての話になるのが、とても面白いです。



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by terakoyanet | 2018-02-01 03:32 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 01月 22日

「安楽」を追い求めること

今日の高校コースの現代文では、藤田省三氏の「『安楽』への全体主義」を取り扱いました。
これは、1980年代に書かれた文章ですが、最近でも、東大、東北大、法政大、西南学院大、早稲田大など、あらゆる大学の入試で出題されている、よく知られた文章です。

この文章の中には、「安楽への隷属状態」という言葉が出てきます。
私たちは、日々「安楽」を求めるあまりに、自分の不安を取り除くことに躍起になっています。
不安が自分の不幸の原因になっているからには、それを何よりも優先的に取り除かなければならない、それが取り除かれた状態を「安楽」と呼び、それが他の全ての価値を支配する、唯一の中心価値になることが「安楽への隷属状態」と呼ばれています。

「安らぎ」というのは、本来は、私たちに自由を与えるものであるはずです。
私に「安らぎ」があるとき、私たちは他人に寛容になります。そして自分自身にも寛容になるので、自由な発想、自発的な創造が生まれる源となります。

しかし、「安楽」を求めること自体が、日常生活の中で四六時中忘れることのできない目標となってくると、事情は一変します。
そこでは、心の自足的安らぎは消滅し、安楽への狂おしいほどの追求と、安楽喪失への苛立った不安が、かえって心中を満たすことになります。こうした、安らぎを求めるがあまりに不安になるという「安らぎを失った安楽」という逆説的な精神状態こそ、現代を織りなす心象です。

だからこそ、私たちは
「不安」を動機に動いてみても、ろくなことにならない。
このことを、いつも心に携えておくべきだと思います。なぜなら、人が「不安」に突き動かされているときには、いつだって、他人への寛容が失われているし、自分の心をちゃんと見つめることも、自分自身を大切にすることも、できないのです。


日々、子どもたちを見ていると、子どもたちが大人の不安の犠牲になっていることを感じることがあります。
大人が「安楽」を追い求めるあまりに、子どもたちが大人の不安に巻き込まれるということが多々起きているのではないでしょうか。

「安楽」を追い求める大人は、子どものことを見ていません。子どもが失敗したら、それを全て子ども(または自分以外の周りの人)の責任にしてしまいがちです。その結果、子どもは「大切にされている」という手ごたえを十分に得ることができません。
でも、子どもにとって、その手ごたえほど大切なものはないのです。

しかしながら私は、手ごたえの有無を、それを享受させる責任を、これまでのように親だけにすべて任せてしまうのは、難しい気がしています。現代の親が「不安」の申し子だからこそ、塾という家庭でも学校でもない場所が、子どもに「大切にされている」という手ごたえを与える場でなくてはならないと思いますし、それは、これからの塾に求められる不可欠な条件であるとさえ思っています。「不安」の申し子たちは、そうやって協働して生きてゆかねばならないと思うのです。


現代のあらゆる洗練化(=ジェントリフィケーション)はそのほとんどすべてが、不幸の源そのものから目を背け、追放しようとする欲望で動いており、その動きがはじめから不安を分かち難く内に含み持っている限り、私たちがその運動と付随する不安から逃れるのは至難の業です。

しかし、こうした私たちの「安楽」の追求が、かえって安らぎの欠如をもたらしているという矛盾を知ることは、きっと大切な生きるヒントになります。寛容への扉を開き、人を大切にすることについて考える契機になります。




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by terakoyanet | 2018-01-22 23:59 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2017年 11月 17日

大人の悪口を言う子どもたち

昨日も子どもたちが自分の親の悪口を言い立てていました。
「うちの親、まじで性格悪い。」
「うちの親、まじひげ親父。」
「うちの親は横でテレビ見すぎ。」
「うちの親は、要求が細かい。」
「うちの親は、うるさい。無理な要求するし、話が長い。」
「ていうか、親っていうか、俺も性格悪い。」
ある子が言うと、それに刺激されるように他の子が言い出すので、私は面白いなあと思って聞き流しています。

子どもたちは学校の先生の悪口も毎日のようにしゃべっているのですが、度が過ぎているなと思う場合、注意することもあります。それひどすぎるよね、と。

でも、子どもが親の悪口を言うときというのは、むしろそうやって親への愛着を示している子が多くて、なんだか安心します。

子どもが大人の悪口を言うというのは健全なこと。そう思います。
悪口を言われるのは私だってイヤですが、でも、子どもが大人の悪口を言うというのは、子どもが大人という壁にぶち当たっているということであり、それは必要だと思うのです。

だから、親は子どもに悪口を言われるくらいでいいんじゃないかと思います。
まだ小学生の子どもから悪口を言われる親というのは心配になります(この場合、親子関係に問題があることがあります)が、中高生の子どもが親の悪口を言うとき、その子は親からちゃんと自立しようとしているということの証左であることが多いものです。

逆に、聞き分けのよい子というのは案外心配なものです。
子どもは思春期において、大人への共感、そして疑問や反発を通して、人格と言われるものをつくっていきます。そうやって、自分の思考と大人の思考との(いまはやりの言葉で言えば)アウフヘーベンによって、社会性や善悪の正体、自らの倫理観を深いところまで掘り下げ、親とは別の場所で思考できる人間が育っていくのです。

だから、周りの親や大人に対する悪口を言わない子は心配なところがあります。
悪口を言わないというのが、単純にその子の倫理観に根差すものと感じることがあります。
そうであれば、あまり心配がないのですが、中には、その子の思考が親のコントロール下にあるから、この子は親の悪口を言わないんだなと感じることがあります。

これはお母さんが魅力的なエネルギーを発散しているタイプの子に多いのですが、その子はいつもどこかで母親という太陽のような存在に対して、全面的な承認と称賛を求められているのでしょう。
そういう関係というは母親も子どももほとんど無意識なのですが、そういう親子のコミュニケーションの円環の中にいる子というのは、まず親の悪口を言うことはありません。その子は、親というのは決して傷つけてはならないものであることを身をもって知っていますから。このような子は、コントロール下に置かれたまま中高時代をそのままやり過ごすことが多いのですが、いよいよ自立すべき成人前後になったときに、いろいろと親との関係に悩まされることがあるようで、私もそういった卒業生たちから話を聞くことがあります。

このことについて話し始めると長くなりますのでここまでにしますが、とにかく、子どもが親の悪口を言っているときというのは、案外ほほえましいことが多いです。(それに比べ、学校の先生の悪口は全然ほほえましくないです。子どもたちも大変ですが、学校の先生もほんとうに大変だと思います。)たまに親のことで本当に困っている子が相談をしてきますが、そういう子というのは、悪口を言う余裕もない、悩み抜いている子です。


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by terakoyanet | 2017-11-17 15:47 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2017年 10月 18日

成功の裏返し

夏に教室に遊びに来た健二くん(仮名)と話しました。
健二くんは大学3年生。いまは京都の大学に通っています。


健二くんは小学校に上がる少し前からお母さんとそして3つ上の兄と3人暮らしでした。
大学に入り、家族と離れて一人暮らしになって気づいたことがいろいろとあるそうです。

最近の若い子たちの中には、大学時代に急激な成熟を遂げる子たちがいます。その数(割合)は以前より多い気がします。
現代の情報が氾濫する状況は負の面として語られがちですが、情報を読み取る力、取捨できる力がある子は、数ある情報から自分が拠り所とすることができるような思考を的確に捉えます。そのときの道具として、インターネットなどの即席の情報が明らかに寄与していると感じることが多々あるのです。

「僕の母って、いつも自分が正しい存在であることで輝いている人で、僕はずっとこの人の機嫌取りをしてきたんだなって離れてみて初めて気づいたんです。」

私の目には、健二くんのお母さんは「あなたの人生なんだから、あなたの好きなようにしなさいっ」と子どもを手放すことに自覚的な方と映っていました。

「いつも、ふとしたときに、これは母が怒るだろうな、とか、これは母が喜んでくれる、とか、全く母の目に届かないところで動いているのに、そうやって自分の行動を母の目でチェックしてしまうんです。これはもう癖みたいなもので、無意識にやっちゃうんです。これは、母と離れて初めて気づいたことです。僕の母は基本的に、自分の人生に対してあなた自身が責任を持ちなさい、というスタンスで、僕自身、母といい距離感だと自分で思っていたところがあったんですけど、でも、母が長いこと僕に伝えてきたことには、かなりのバイアスがかかっていたことに気づいたんです。この前、インタビューかなんかで養老孟司さんが、成功体験は危ない、という話をしているのをたまたま読んで。」

私は、彼のお母さんがかつて「私は健二がどこの学校に行ってもいいと思っているけど、でも成功体験がないからそれを経験させたい」と話していたのを思い出しました。それは高校入試の直前の面談の際でした。私の方も、彼を2年以上指導してきて、彼が根っこの部分で学習に対する自信を持っていないこと、頑張る姿勢を見せているときでさえどこか受け身の姿勢から抜け出すことができないことに対して、どうにか変化が生まれれば、と思っていました。だから、お母さんがおっしゃっていること、彼に根っこの部分で自信を持ってほしいという気持ちが理解できました。しかし一方で、このタイミングで彼の目の前でそれを言うのは彼にとってプレッシャーになるのではないかな、そうやって心配したあのときのこと ーすでに6年も前のことになるのですがー をはっきりと思い出していました。

「成功の裏返しは失敗じゃないですか。僕はずっと失敗に囚われてきたんです。僕はいつの間にか母親が用意していた成功と失敗の二元論の中で生きていて、単に目の前にあるものを自然に受け取るという単純なことができていなかったと、養老さんの話を読んで気づきました。成功体験というのは結果じゃないですか。結果的に成功したことが自信に繋がるということであって、成功体験を求めることから始めると、初めからその成功は損なわれていて、その先には喪失しかないんです。僕は単に事実を事実のままに受け取ればよかったのに、それを成功や失敗として受け取り、それで勝手に傷ついてきたことに気づかされました。これが僕が母から知らず知らずのうちに受け取っていたバイアスのひとつです。」

そう話す彼の頬は紅潮していました。成功体験というのは、高度経済成長やバブルの記憶が残る人たちによる特殊な思考にすぎない、彼はそう断じました。この点についてはもっと根が深いものかもしれない、私はそんな気がしますが、確かに、成功体験を求めることは、どうしても「成功しなければ」というミッションを自身に科すことになり、それはその人の人生をがんじがらめにしてしまうことがある、彼が中学時代に、自信がなくて、いつも受け身に見えていたのも、成功体験にとらわれていたからもしれない、彼の話を聞きながら、そんなことを考えました。

こうやって、生徒たち、卒業生たちから学ぶことは、たくさんあります。


*プライバシーを配慮しています。そのため、以上の話はそのまま事実ではなく、創作を含んでいます。


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by terakoyanet | 2017-10-18 11:28 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2017年 09月 03日

子どもに大声を禁じること。


ふだん、中2の女の子たちは、勉強に対して真面目なのに、声が大きい子が多くて、半ば冗談で、でもときにはかなり本気で、うるさい〜!と注意されます。

休憩時間はともかく、授業中は、静かにしないと授業が成り立たなくなるし、そのことで困るどころか、悩んだり不安になったりする子さえいるから許されないこと、そのことは子どもたちといつも共有しています。しかし、うるさい子どもの存在自体に私がどうしても否定的になれないのは、子どもたちが常日頃、いかに抑圧された環境にいるかということを考えざるをえないからです。

子どもが静かにしていること、これは本来は決して自然なことではないです。このことを大人は忘れがちです。静かにできるのが大人になること、人の迷惑を考えることが自立することに繋がる、そう教える前に、大人は、その思考自体が任意に作られたものであるということを忘れてはならない気がするのです。

中3の宮崎合宿に行く前のオリエンテーションの際に、私は毎年子どもたちに「夜、外で叫んでも大丈夫だよ。」と控えめに声をかけます。合宿所の周囲は、夜には人っ子ひとりもいない公共施設があるだけで、民家も1軒もない環境です。この前はある子が、地行浜で線香花火をしていたら警官に叱られたと嘆いていましたが、合宿に参加した子どもたちは、1日9時間の精いっぱいの学習を終えて、破裂音が鳴る花火に興じ、大声で笑い合っていて、本当に楽しそうでした。

日頃はうるさくすることがないある男子が、花火の途中に「先生、叫んでいいですか?」と許可を求めに来て、いいよと言うと、あるユーチューバーのよくわからない言葉を叫びました。すると遠くにいた男子がそれに呼応してさらにわけのわからない言葉で返していて、あ、これは犬の遠吠えと同じだと、にわかに感動しました。

昨今の保育園問題もそうですが、子どもに対して過度に静粛と成熟を求めるのは大人の悪だと私は思います。このことについて、大人どうしの共感を広げていかなくてはと思います。


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by terakoyanet | 2017-09-03 11:25 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2017年 06月 19日

テスト前に勉強をしないのは「やる気」の問題ではない。

1学期期末考査対策真っ只中の子どもたち。
加速度を増して学習に没頭している子がいる一方で、頑張っているみんなを横目で見ながらあまり何もやっていないように見える子もいます。

大切なテストの前に何もやっていない子を見ると、ご家族も心配になったり焦ったりすることと思います。

しかし、テスト前になってもなかなか机について勉強できない子どもたちと話していて、最近つくづくと思うことは、彼らは必ずしも「やる気」がないわけではないということです。彼らは勉強をやっている子と同程度に「勉強やったほうがいいよね」と思っているけれど、それが行動に移すことができていません。これは実は習慣の問題なんです。勉強の習慣がある子は、やろうと思ったらすぐに実行できます。でも、習慣がない子たちは、ある子たちと同程度の「やる気」では行動に移すことができないんです。

だから、習慣がない子たちに「あなたはやる気がない」と叱責してもなかなかうまくいきません。
他の子と同程度に「やる気」があったかもしれないのに、「やる気」自体を否定されて、むしろ動けなくなるかもしれません。

習慣というのは数日でつくものではありません。
だから、この子はこういうふうに育ったのねーと見守るしかないところがあります。

塾は、習慣をつけるきっかけをつくる場所だと心得て、子どもたちにあらゆる働きかけを試みていきたいと思います。


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by terakoyanet | 2017-06-19 11:59 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)