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読み物の記事をいくつか

明日より4日間お休みをいただきます。
お昼間に手持ちぶさたなとき、夜なんとなく眠れないときに読んでいただければといままで反響をいただいた記事をいくつか貼っておきます。


~勉強のこと~

いま子どもに教えるために必要な条件

国語の伸ばし方

「役に立つ」とは何か

テスト前に勉強しないのは「やる気」の問題ではない



~親と子のこと~

親は子どもの「好き」を殺してしまうかもしれない
反響が大きかったため、togetterでまとめのページがつくられた模様です しくみは知りませんが

子どもの希望との付き合い方

子どもの生き方はもう決まっている
→この記事を大幅に改稿したものが今年発売される新刊『おやときどきこども』に収録予定です

子どもの自立 -親の不安を子どもに伝播させないこと
→拙著親子の手帖を書くきっかけになった記事です



読み物は全体として 寺子屋エッセイ(読み物) のページにまとめています。




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by terakoyanet | 2020-03-29 19:20 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

去る12月4日に開催された、親と子(オヤトコ)会議『不登校になって伸びた7つの能力』出版記念トーク福岡(このときの内容についてはぜひこちらをご覧ください/充実のレポート!よっぴーありがとうございます)のときに、質疑応答の時間があり、そのときの思い付きで答えたことを備忘用にTwitterでつぶやいたところ、反響がありました。


このつぶやきだけではわかりにくいので、以下にもう少しちゃんと書きます。

「うちの子、好きなことがないんですよね」「どうやって好きなことを見つけたらいいでしょうか」という親御さんにはじめに思い出していただきたいことは、子どもは幼い頃、好きなこと、夢中になることがきっとあったんです。電車の模型を夢中になって手で動かしていたかもしれないし、人形をつかって家族ごっこをやっていたかもしれない。それぞれの子どもがそれぞれの世界で自由に遊んでいた時代があり、そのころの子どもは、「好き」という言葉が不要なほどに、好きなものに囲まれていたのだと思います。

でも、子どもの「好き」はいつの間にか、大人の企てに絡み取られていきます。
親は小さい子どもに「好き?」と尋ねるでしょう。あれがよくないのです。
いつの間にか子どもは大人の「好き?」に応えようとする余りに、自分独自の「好き」を見失ってしまいます。

こうやって、親は何の悪気もなく、いつの間にか子どもの「好き」を奪い取り、殺してしまう。
これは多かれ少なかれ、どの親もやってしまうことかもしれません。


「うちの子の好きなことが見つからない」そう感じている親御さんは、きっと子どもが「好き」なことに出会っていないだけと思っていると思います。でも、実はそうではなくて、子どもはかつて「好き」なことに出会っていたのに、それをいつの間にか失ってしまって、わからなくなっているんです。

だから、(親だけでなく)大人たちの企てによって子どもの「好き」が満開になる前に小さく閉じてしまったことを理解した上で、「好き」を再構築・アップデートしなければ、ほんらいの「好き」は芽生えません。

「好き」が見つからない子に、これはどう?これは?と目の前にいろんなものを出してみることは、幼いころその子に尋ねた「好き?」と同じことを繰り返しているだけなので、子どもは「好き?」と尋ねられるたびに試されているような気分になって、余計に「好き」から遠ざかってしまいます。

もし可能な方法があるとすれば、「好き?」と尋ねるのではなくて、その子の視界に入る場所で、大人が勝手に好きなことをすることでしょうか。楽しさをそのままに、無理には見せようと思わずにたまたま見える範囲に置くようにするのです。そうすれば、子どもはおのずと大人たちが楽しんでいることに興味を持つかもしれません。

さらに、本人がいるところで、大人どうしでその子についておしゃべりするのもいいでしょう。
そのときに「お前、どうや? 興味ある?」なんて本人に無理に話を振らないことです。その子について知っている人たちが、「彼は何事もじっくり考えるタイプだからこれ好きそう」とか「彼女は〇〇が器用だから、××を習得するの早そう」とかそんな話を大人どうしでしてみるといいです。(このような方法は、精神看護において「リフレクション」と呼ばれます。)変に褒めたりけなしたりしてはいけません。そこに評価を入れてしまうと、子どもはジャッジされているという気持ちになり、下を向いてしまいかねません。子どもは大人のやり取りを通して、そうか、僕は(私は)そんなふうに見られているんだなー、と自分をひとつの対象として味わうことを知ります。そして、いつのまにか、大人が面白いと思っていることにおのずと巻き込まれるような形で、子どもに「これ好きかも」という欲望が芽生えることがあるのです。そういう欲望が生まれる場所と機会を用意することくらいは、大人にできるかもしれないと思います。

「好き」は望んでできるものではなく、おのずと生まれるものですから「期待」はしないことです。
子どもたちはいつか生きるための「好き」をちゃんと見つけます。


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by terakoyanet | 2019-12-16 01:02 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(1)

前記事の「勉強のしかたがわからない」のお話し。これだけではわかりにくいと思いますので、昨年の10月に書いた「うちの子はがんばっているのに成績が伸びない」は大抵間違っているという記事から文章を一部引用します。(全文読みたい方はリンク先を見てください。)


うちの子どもは「がんばっているのに、成績が伸びない」というのは、大抵、親の勝手な解釈なんです。
実際は、「がんばっているからこそ、いまの成績が維持できている」のかもしれないのに、ただ、学校や模試において点数が伸びてないという表層的な理由に基づき、子どもに対し「成績が伸びない」という烙印を押す。がんばっているのなら、それが現状の子どもにとってはベストに近い状態かもしれないのに、その斜め上を見て、「成績が伸びない」と断定してしまう。それは親の願望でしかありません。そして、このことによって傷つく子どもは多いです。

「がんばっているのに、成績が伸びない」
親がそう他人に主張しているとき、大抵の子どもは親が「私のことを一生懸命考えてくれてる」「私はなぜ伸びないんだろう」と考えますから、子どもが親のことを嫌いになることはありません。目の前の親が高望みをすることで、自分自身を傷つけているのに、子どもは決してそう解釈することはありません。子どもというのは、大切な親を救うためには、自分自身を損ねることを厭いません。親は子どもを救っているつもりで、何度子どもに救われればそのことに気づくのでしょうか。

「がんばっているのに、成績が伸びない」
親がそう他人に主張しているとき、「うちの子はがんばっているけど、勉強のやり方がわかっていないから、成績が伸びない」という考えが含まれることが多いです。それはつまり、「そもそもうちの子は勉強のやり方がわかっていないし、それを的確に教えてくれる人がいない」という他者(たとえば学校や塾)に対する不満を含んでいます。
しかし、勉強が「わかる」という真の経験がある人たちは、きっとそんな考えを持つことはありません。なぜかと言えば、その人たちは、勉強のやり方というのは、自らの手によって掴み取ることによってしか、得られることのない類いのものだからということを知っているからです。
「馬を水辺に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない。」このことわざは、最終的には自分の意志でがんばらなければならない、というような単純な意味ではなく、学問でも他の分野でもそうですが、指導者ができることは、ある問題の解決のための具体的な方法を教示するところまでであり、実際にそれが「わかる」ようになるのは、本人の手によってでしかないという、学習というものの本源的な性質を示すものです。指導者として大切な素質は第一に「本人の能力を奪わないこと」であり、それを土台にしつつ「問題解決の糸口を見つけやすくしてあげる」(これは案外難しいことですから、指導者には能力差があるのです)ことに尽きるのですが、「うちの子はがんばっているのに、成績が伸びない」と主張する親たちはたびたび子どもが「わかる」こと自体を他人に依拠しようとします。これは、水辺で馬に無理やり水を飲ませようとしていることと同じであり、うまくいかないどころか、子ども自身にとっては完全にマイナスにしか働かない所為と言わざるをえません。「解決そのものを他人に依存すること」を教えるのは、親が無自覚に「本人の能力を奪う」例として、私がこれまでに幾度も見てきたことのひとつです。


誰かにわかるようにしてもらいたい、というのは勉強じゃないんです。
本人が、ある決意や覚悟をもって勉強に取り組み始めたときに初めて、勉強の世界が本人の前に開けてきます。それを経験もせずに、誰かにわかるようにしてもらいたいと願うことは、死んだように勉強するのと同じです。勉強の出来不出来以前に、生きたように勉強をすることを、子どもたちには知ってほしいと願っています。
そのためにも、できない子どもを責めるのではなく、子どもが生きた勉強をしているか、勉強の世界が本人の前に開けているか、そのことを一番大切に考えながらご家族にも子どもたちを見守っていただきたいと思います。




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by terakoyanet | 2019-11-22 03:37 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

毎年三者面談をしていると、面談をすることは目に見えて生徒にとってプラスにはたらくことが多いことを実感します。(残念ながらすべてのご家庭で必ずというわけにはいきませんが。)

三者面談の効用は、なんといっても子ども1人を主人公にして、その子についてさまざまな話をすることができることです。これは、子どもにとって、日ごろの生活、日ごろの授業では経験しえないことです。私は、お母さん・お父さんの前でできるだけ具体的に生徒の長所や傾向について話します。(厳しいことを言うこともありますが。)その子に対する思いをお母さん・お父さんたちに話すことで、間接的に子どもに伝わるようにします。

この間接的にというのがミソです。間にお母さん・お父さんが入ることで、私が話している内容に客観性が生まれます。その客観性は子どもにとって新鮮で、ああ私はそんなふうに先生に見られてたんだなと、自分をひとつの対象として味わうことを子どもは知ります。

面談のときに「あなたは次からこうしなさいよ。」と上から説教ばかりするようでは、いい面談とは言えません。
なぜなら、子どもはそうやって上から押さえつけらている限り、子ども自身から自分自身の意思が生まれることはないからです。

面談はぜひ本人の本来の考えや意思が思わず表出するような現場になれば理想的だと思います。
そのためには、ジャッジされないままに子どもが自分自身を味わう時間を作ることが必要です。

受験生の面談の際には、当然もっとがんばろうとはっぱをかけるようなことを言うわけですが、それだけでは不十分です。
受験生にはまず、率直に現状(現在の成績状況や合格可能性など)について本人に変に肩入れすることなくできるだけクリアに伝えます。そして、お母さんやお父さんとA高校は部活的にはいいけどちょっと遠いよねとか、B高校は部活はいまいちだけど校風的には本人にあってそうとか、そういう話をします。このとき、本人は置いてけぼりでいいんです。大人たちが半ば無責任に高校についていろいろな話をしていると、子どもは勝手に「じゃあ、私はB高校がいいかな。」とか考えはじめるんです。
このときに初めて子どもは自分の内なる欲望を発見します。それは、大人が「あなたどこに行きたいの?」と無理に子どもから希望を聞き出そうとするより、子どもの自然な意思が出てくるという意味でずっと有効な手段です。ときには、大人たちがそうやって話していても、子どもからはっきりとした答えが出ないこともあります。でもそれでいいんです。自分の欲望を発見した子どもは来たるべきタイミングで自分の意思に基づいて動き始めます。

こうやって自分の欲望を発見し、それに基づいた選択をした子どもには何らかの手ごたえが残ります。その手ごたえが、将来の彼らを支える一つの拠り所になったとしても、それは不思議なことではありません。

面談を叱咤激励の場と考えるのはちょっと視界が狭くて、子どもたちの欲望が生まれる現場になればと思いながら面談をしています。




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by terakoyanet | 2019-11-18 07:08 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

今年最後のお話し会

今年もいろいろなところでお話しをさせてもらいましたが、今日はおそらく(私個人としては)今年最後になるお話し会が早良区で行われました。(他の方との対談はまだありますが。)

お話し会の会場は満席。ズボンのチャックが開きっぱなしだったこと以外は全てがよい時間でした。
途中自分を離れて喋ってるようで、面白く感じました。
日ごろから原稿を書いていると、つらつらと言葉が出てくるようになるという効果がありますね。

途中、参加者の方に『親子の手帖』の朗読をしてもらったのですが、たくさんの参加者の方々が泣いていて、この本すごいなと人ごとのように驚きました。あたたかな会場をつくってくださった植山さん、岡田さん、来てくださった皆さまありがとうございました。いただいたお菓子、ケーキ、コーヒーもとても美味しかったです。

・・・・・

朗読してもらった箇所の文章、3か所のうち2つを以下にご紹介します。


かつて子育てというものが、村のコミュニティーや大家族との関わりの中で行われていた時代に比べ、共同体との関係が希薄になった私たちの時代の子育ては、親一人ひとりに孤独で苦しい戦いが強いられています。
子を守ることは、同時に子を抑圧することになる。でも、抑圧しすぎると、子は育たない。だからといって、抑圧しなければ、私はあなたを育てられない。親はそうやって子の責任を私独りで引き受けようとするために、延々と逡巡を繰り返し、それに付随する苦しみの連鎖によって、親はさらにその思考から子どもをいっときも手放すことができなくなります。
子どもに自然に育てるということは、親がその思考から解き放たれ、子どもに対する力の行使を断念することなのに、それはなんと難しいことなのでしょうか。

それでも、子どもはいずれ親を離れ、自立していくのです。親にとって、子の自立は、喜びであると同時に、自分の身を捥がれるような苦痛を伴うものです。
あの日、私から生まれた、私自身と同一視せざるをえないような脆弱さをまとっていたあなたが、私の逡巡とは別の場所で、私と別の人格を持ち、私から離れていく。それを認めることの苦しさ、そして、その途方もない心細さ。これは多くの母親が共有する感情でしょう。

・・・・

思春期の子どもにとって、親という存在はあまりに重すぎて、なかなか簡単に自分の内面を吐露できるような相手ではありません。それなのに、親の方は子どものことをわかりたい、わかっていると思いたいものです。そのせいで、子どものことを、つい自分と同一視してみたり、あるいは自分の所有物のように考えてしまって怒り散らしたりしがちです。
でも、実のところは、子どものことなんて、親にわかるはずがありません。だって、よくよく考えてみると、自分のことさえも何を考えているのかわからない私たちが、自分と似ているとはいえ、自分ではない別の個体である子どもの心がわかるわけがないのです。
親子の関係は、親が子どものことを「わかる」「わかりたい」「わかるはず」と思うあまりにこじれます。親にとって子のことが「わからない」のは、底知れず不安で苦しいことです。それで、親は子どもにいろいろな干渉をすることで、その不安を解消しようとします。その親の働きこそが親子がこじれる原因です。
だから、親の方がもう少し、私は子どものことがわからない、だから不安なんだ、私が子どもに抱いている不安というのは、私が子どものことがわからないことから生じる私自身の不安なんだ、そういうふうにクリアに理解できれば、子どもに対する距離感が変わって、自分も子どもも肩の荷を下ろすことができるのではないでしょうか。
では、わからない私たちにできることは何かと言えば、ただ子どもに近づき、そばにいることです。そうやって、ただ子どものそばにいるというのは、親にとっては落ち着かない不安なことです。でもその「そばにいる」ことだけが、親が子にできる全てであり、脆くてはかない、でも確かな幸せなんだ、そう気づいたとき、私たちはそのありがたさに涙するかもしれません。





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by terakoyanet | 2019-10-30 19:15 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)

期待値の差でしかない。

今朝起きて最初に開いたツイッターでこのつぶやきが目にとまりました。

「不満が多い人は期待値が高いです。感謝が多い人は期待値が低いです。 」

為末大さんのつぶやき。
為末大さんは"走る思想家"なので以前からこのブログでも何度かその思考を紹介したことがあります。

この話、昨日、シンガーの島崎智子さんたちと「女と味噌汁」に行ってちょうど話していたことでした。


子どもや親の中にも、いつも不満(ときに不安)をためている人たちというのがいます。
彼らはなぜ成績がこんなに伸びないの?こんなにできないの?といつも感じています。
でもこれは単に「斜め上を見ている」から。
「斜め上を見ている」人たちは、期待値が高いからいつまでも満たされません。

一方で、全く同じ成績でも、ある親子はいまの成績をそのままに受けとめて、その状態に対する敬意のようなものを持っている人たちがいます。
これは期待値が低いから。
期待値が低いというと悪いことのようですが、そうではなくバカボンのパパに言わせれば「これでいいのだ」ということ。

どちらのほうがいいかと言えば、言うまでもなく後者のほうがいいわけです。
「斜め上を見ている」人たちは自分で不幸を呼び寄せていることに気づいていない。
いつまでも満たされないのは自分の欲望がそうさせているのに、その欲望のいびつさに気づかない。
ほんとうはそうやって苦しくなっているときというのは自分を知るチャンスなのに、欲望に搦め取られすぎて自分をいつまでも内観できません。満たされず内観もできない人が何をするかと言えば、満たされない原因を周囲の人や環境に求めます。不満の原因を自分ではなく他人に当てこするようになります。これは本人にとって不幸なことだし、周囲の人からすれば迷惑です。

子どもの能力より斜め上ばかり見ている親に育てられると、虚栄心が強い子どもが育ちます。
虚栄心とは「自分を実際以上によく見せようとする心」のこと。
親がいつも斜め上にばかり見るものだから、子どもには自分をもっとよく見せなければいけないという意識ばかりが根付きます。
それが虚偽であっても、良く見えればいいんです。親が斜め上ばかり見て本当のことは何も見ていないところを子どもは知らずに真似してしまいます。

一方で、人は弱い存在なので、ときに「意図的に期待値を下げる」ということもあります。
最初から期待しなければ、傷つかない。こういう経験は誰しもあるのではないかと思います。
受験生を見ていても、志望校を決めるときにはじめから期待値を下げることで、傷つかないようにしようとする子は多いです。
こういう生徒を見ると、実に人間らしいなあとかえっていとおしく感じずにはおれません。

「これでいいのだ」では済まない人は多いです。そんなことで(現状に満足して)成長できるのか?と懐疑的に思う人もいるでしょう。でも、斜め上を見るというのは、肝心の現状が何も見えていないということなんです。だからそれよりも、現状を「これでいいのだ」とそのままに受けとめることを小さく積み重ねていくほうがずっと着実です。現状を受け止めるというのは、それに満足してしまうこととは異なります。

私たちは自分の考えが本当だと思っています。この子はなんでこんなに勉強ができないの?という思いが、事実として正しいと信じ切っています。でもそれは、自分がそういう認識を勝手に作り出しているんです。それは期待が大きすぎるだけかもしれないし、自分の不満もしくは不安がそうさせているだけかもしれません。

なかなか「これでいいのだ」は難しいのですが、期待値が高い自分も、期待値を下げることで傷つかないようにしている自分も、否定も肯定もせずに、ただ見守ってやるということを少しずつ学んでいくしかないのだろうと思います。見ないふりをしてしまうのがいちばんまずい。

先日から悩みがつきません。この文章は自分のために書いたものかもしれないと思います。


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by terakoyanet | 2019-07-18 09:29 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

現代のクラスタ化した親子関係を、ぞっとするような濃密さで描いた楽曲として、宇多田ヒカルの「あなた」(2017年)がある。


彼女は、この楽曲へのコメントとして「一つの普遍的な愛の形として、母親目線から音楽的表現をしたのはこの歌が初めてになります」「死んでも手放せないほどこの世のなにかに執着することの人間らしさに共感して、自分の死後を想像して“あなた”を制作しました」と語っている。


彼女はこの曲で子どもに「あなた」と呼びかけ、その愛と執着を切々と歌う。これまで、過去の楽曲で彼女が用いてきた二人称は、そのほとんどが「君」であり、そこには相手と自分の間の緊張感のある距離が常に保たれていた。私は私、君は君、というのが、いかにも彼女らしいふるまいだった。


しかし、この「あなた」の呼びかけでは、距離感が突如失われて「あなた」と私が渾然一体となって溶け合っているような危うさを感じさせる。「あなた」という言葉が、彼女から子どもへの呼びかけであると同時に、亡くなった母から私への呼びかけであることは、「死んでも手放させないほど」「自分の死後を想像して」という死について触れた彼女のコメントから明らかである。ここにおいて、私と子ども、母と私という二つの関係は、完全な相似形となる。そしてその二つが渾然と一体化して、それが彼女の声となって響くのである。


 あなたのいない世界じゃ どんな願いも叶わないから

 燃え盛る業火の谷間が待っていようと 守りたいのはあなた

 <中略>

 あなたと歩む世界は 息をのむほど美しいんだ

 人寄せぬ荒野の真ん中 私の手を握り返したあなた

 あなた以外なんにもいらない 大概の問題は取るに足らない

 多くは望まない 神様お願い 代り映えしない明日をください

 戦争のはじまりを知らせる放送も アクテヴィストの足音も届かない

 この部屋にいたい もう少し


「死んでも手放せないほどこの世のなにかに執着することの人間らしさに共感して」と綴った彼女は、親が子を思うとき(または子が親を思うとき)の狂気に近い感情を、ただそのままに描く。外の雑音の全てが遮断された部屋の中で一対一の母と子がそばに佇んでいる情景は、息が詰まるような艶めかしさがある。


私はすっかり虜になって子どもを見つめ、子どもは無心にそれを見つめ返す。あなたは私の世界そのものだと思う。明日もこれが続くならば、私はそれだけでいい。他には何も望まないと思う。

そして、不意に気づく。そうか、私の母も「あなたがいるだけで幸せ」そう思った瞬間があったのだ。いま、この子を腕に抱いている私は、そのことが、かつて本当にあったことだと確信できる。私は母に何もしてもらっていないと思っていた。でも、そうじゃなかった。こうして、全てを肯定されて、抱きしめてもらっていたのだ。


そして、私の方も、母に何もしてあげられなかった、そういう後悔ばかりが胸を締めつけていた。だけど、こうして腕に抱かれている、それだけで私は、母に知らず知らずのうちに親孝行をしていたのかもしれない。苦しい思い出ばかりと思っていたけれど、こういう瞬間があったのなら、それでよかった、もう、それだけでよかったのかもしれない。自分が許されたような気持ちになる。私は、母とさよならをする前に、たった一度も抱きしめてもらえなかったような気がしていた。でも、こうしていまこの子を抱きしめて、そうすることで、いま私自身が抱きしめられているのを感じる。


 何度聞かれようと 変わらない答えを聞かせてあげたい

 なんと言われようと あなたの行く末を案じてやまない

 終わりのない苦しみを甘受し Darling 旅を続けよう

 あなた以外帰る場所は 天上天下 どこにもない


この歌の中にあるのは、単純な母性の肯定ではない。彼女は「誰しも原点があって、私の原点は母だったから、私の世界、あらゆる現象に彼女が含まれてるのは当然じゃん」と母親の圧倒的な影響について言及すると同時に、自身が育った環境については「今、世界がこうだって思っても、次の0.5秒後にそれがすべてひっくり返される可能性があるっていうのが普通」と語っている。共感の関係が次の瞬間に壊れてしまうかもしれないという恐怖を継続して味わうのは、誰かと関係を結ぶときに、他者への愛着を封印するという形の症状となって現れる。自分に近づいてくる相手を常に拒んでしまう。そういう形で症状は表出しがちである。


でも、赤ん坊はそんな私がいくら拒もうとしても、それでも愛着を求めてくる。「あなたを愛している」が日々の所作から伝わってくる。そういう無条件の愛着は、ときに私をぞっとさせる。それでも、「愛されている」実感は、少しずつ私を変化させる。封印されていた他者への愛着が、少しずつ取り戻されてゆく。そうやって、子どもによって、私の存在がめくれてゆくのを感じるのである。

私の問題に解決はないのかもしれない。でも私の帰る場所は「あなた」しかいない。この歌はそう繰り返す。この「あなた」は私の子どもであり、同時に私の母でもあり、そしてかつて母から「あなた」と眼差された「私」でもある。


平成の終わりに発表されたこの歌は、「あなた」との「代り映えしない明日」を渇求しながら生きのびてゆく私の、喪失と回復を辿る歌である。




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by terakoyanet | 2019-07-15 04:46 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

とらきつね一般書ランキング (5/27-6/30)


(1)1 台風一過 植本一子 河出書房新社
(再)2 音楽のまわり 寺尾紗穂編
(再)3 cook 坂口恭平 晶文社
(5)4 親子の手帖 鳥羽和久 鳥影社
(初)5 テーマパーク化する地球 東浩紀 ゲンロン
(再)6 彗星の孤独 寺尾紗穂 スタンド・ブックス
(再)7 夏がとまらない 藤岡拓太郎 ナナロク社
(初)8 アメリカ紀行 千葉雅也 文藝春秋
(初)9 野良犬たちはみな踊る あだち麗三郎 Magical Doughnut Records
(再)10 愛し、日々 寺尾紗穂 天然文庫

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今月は2か月連続で植本一子さんの『台風一過』が首位。こちらの本、とらきつねでお買い上げの方にはオリジナル特典「植本一子かなわない年表」(鳥羽和久編)をお付けしています。植本一子さんの本は、寺子屋の本好きなお母さんたちにもかなり広がっているみたいです。


今月レソラホールでとらきつね主催のライブが開催された「冬にわかれて+坂口恭平」関連の本(寺尾紗穂・坂口恭平・あだち麗三郎)が2位・3位・6位・9位・10位に入りました。ライブにご来場いただいた皆さま、改めてありがとうございました!


このほか、絵本「たぷの里」が発売間近の藤岡拓太郎さんが夏本番を前に再登場! 

そして、新刊が出るたびにランクインする東浩紀さん、千葉雅也さんが初登場。


とらきつねはとてもせまいので、日々大切に本選びをしています。
好みが合う方にとっては間違いない本が並んでいますので、ぜひ本棚を覗きに来て下さい。



【とらきつね 今週、これからの入荷】

入荷日が確定していないものもありますが、この1週間以内を目処に入荷予定の本をご紹介します。


居るのはつらいよ:ケアとセラピーについての覚書 東畑開人 医学書院 (再入荷)

インドのけもの カンチャナー・アルニー, ギータ・ウォルフ エクスナレッジ/タラ・ブックス (新入荷)

おばけのばあ せなけいこ KADOKAWA (新入荷)

キツネと星 コラリー・ビックフォード=スミス アノニマ・スタジオ (新入荷)

<性>なる家族 信田さよ子 春秋社 (新入荷)

タラブックス インドのちいさな出版社、まっすぐに本をつくる 野瀬奈津子・矢萩多聞他 玄光社 (再入荷)

図書室 岸政彦 新潮社 (新入荷)

ナマケモノのいる森で ソフィー・ストラディ アノニマ・スタジオ (新入荷)

猫が好き アヌシュカ・ラヴィシャンカ グラフィック社/タラ・ブックス (再入荷)

ぱたぱた絵本、くまさんどこかな? 高橋 香緒理 河出書房新社 (再入荷)

などなど


とらきつねで販売している本は、全てではありませんが、子育て中のお母さま、お父さまに読んでいただくことをかなり念頭に置いた本選びをしています。良い本にきっと出会えると思いますので、ぜひ見に来てみてください。

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昨日のとらきつね


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by terakoyanet | 2019-07-03 01:55 | とらきつね | Trackback | Comments(0)

今日の夕方に書いた「子どもの希望とのつき合い方」。
たくさんの反響をいただいているので、書き散らしただけの文章を、もう少しきちんと書き直したいと思います。

・・・・

子どもが進路を決めるとき、または部活動や塾を続けるかどうか迷っているときなど、子どもが何らかの選択をするときに、昔の親はこうしろと自分の方針(「家」としての方針の場合もある)を押し付ける傾向が強かったが、いまの親はむしろ手放しで子どもに決めさせる人が多くなっている。

子どもの希望をそのまま支援することは、子どもの希望を大切にすることを通してその人格を認めるという意味でとても大切だが、一方で無条件に何でも子どもの希望通りにすればよいというものではない。

子どもは判断を誤る。それで痛い目を見て学べる面もあるかもしれないが、そのせいで大きなチャンスを逃すこともある。
だから、子どもの希望に対して疑問がある場合は、大人はちゃんと干渉する必要があると思う。

子どもの希望どおりに決定したことが正しいこととしてもてはやされている現場がある。そこでじっと目を凝らしてみると、どうしたらいいかわからない大人の姿が浮かび上がることがある。どうしていいかわからない自分を隠すために、判断から逃げるために、子どもの希望に異議を唱えようとしない大人がそこにはいる。これでは大人は子どもを不幸にしてしまう。少なくともその子を幸福へ導くことはできない。

でも、大人だってわからないのはあたりまえだ。未来のことなんて誰にもわかるわけがないのに、大人はどうしてそうやって責任を取ろうとして自分を責めるのだろう。
わからない大人と子どもがどうすればよいかといえば、結論が出なくてもいいからしっかり話すことだ。話すなんて当たり前のことだと思われているけれど、その効用についてはあまり理解されていない。話すからには結論を出さねばと考えがちだけど、話すことの本当の意味はそこにはない。話す過程があったという事実自体が、判断後の子どもを支えるのだ。だからすっきりとした結論が出ることにこだわらず、まずは話してみることが大切である。

話すときに母と子のような1対1だと気詰まりになりやすい。十代の子どもたちにとって、親と向き合うのは苦しくてつまらなくて恥ずかしくて、子どもにとってはあまり気が向かないことの場合も多い。だからできれば人数は3人、4人といたほうがいい。子どもと両親の3人で話す場合には、「あなたはどう思っているの?」と子どもに意思をやたらと確認するのではなくて、親ふたりのそれぞれが子どもの希望についてどう思っているかを公開討論のつもりで聞かせてあげたらいい。子どもはいつも無理やりにあいまいな意思を表明させられがちだが、あれはダメだ。(だってそれは子どもに「頑張る」という言質を無理やりとっているだけでしょう。そんなのうまくいくわけがない。)そうではなくて、子どもの意思がどうやったら芽生えるかを考えてあげてほしい。子どもの意思を芽生えさせるためのひとつのアイデアが、大人が目の前でいろいろなアイデアを少しくらい無責任でもいいから、いろいろ聞かせてあげるということだ。

そこに第3者が混じるとなお良い。親と子にとって第3者はクリーンな存在だ。彼らは子どものことを何の欲望も利害もなく見ることができるので、単なるアイデアマンとしてそこに存在できる。親というのはいつでも知らないうちに「あなたの人生なのよ」「選択によってあなたの人生は変わるのよ」という重たい荷物を子どもに背負わせているものだ。その重荷のせいで、子どもはいつも自由な思考を妨げられている。そういう重圧から解放されて、自分の人生の選択をクールにクリアに面白く考えることができたときに初めて、子どもは本来の欲望を発見する。自分独自の生き方について、ふつふつと興味が湧いてくる。


子どもの希望についての具体的な判断のしかたは、そのときによってさまざまだが、「ある物事をこれからも続けるかどうか」についての判断の指標のひとつには、外的要因内的要因がある。

たとえば塾をやめたがっている子が、「塾の先生の教え方が悪く、教室の雰囲気が悪い」と言っているなら、それは外的要因である。
こういう場合は、塾を変えれば問題が解決することが多いので、早めに(できれば受験生の学年になる前に)変えた方がいい。

同じく塾をやめたがっている子が、授業がどうとかというよりは「宿題がきつい」「最近授業についていけない」「部活との両立が大変」と自分を主語にして要因を語る場合、これが内的要因である。
この場合は、塾をやめても状況が変わるとは限らないので、まずはいまの生活を見直すことから始めるべきだし、もし塾のスケジュールがきついなら、教室に伝えれば相談に乗ってくれるはずだ。内的要因が主な原因なのに外側のものをバサバサと切っていくと、その子はどんどん弱くなってしまうのは目に見えている。むしろ、「こういう状況の私でも、何かを続けることができる」という経験をすることが大切だと思う。

実際には外的要因と内的要因が絡まっていることも多いので、その点を整理する意味でも、大人が子どもからよく話を聞くことが求められている。





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by terakoyanet | 2019-07-01 02:26 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

子どもが進路を決めるとき、部活動や塾を続けるかどうか迷っているときなど、子どもが何らかの選択をするときにに、
昔の親だったらこうしろと押し付ける傾向が強かったが、いまの親はむしろ手放しで子どもに決めさせる人が多くなっている。

子どもの希望通りにすることは、子どもの希望をかなえ、尊厳を守るという意味でとても大切だが、一方でなんでも必ず子どもの希望通りにすればよいというものではない。

子どもは判断を誤る。それで学ぶことも当然ある一方で、そのせいで大きなチャンスを逃すこともある。
だから、子どもの希望に対して疑問がある場合は、大人はちゃんと干渉する必要があると思う。

子どもの希望どおりにすることがもてはやされているときに、目を凝らすとどうしたらいいかわからない大人の姿が見え始めることがある。どうしていいかわからない自分を隠すために、判断から逃げるために、子どもの希望に異議を唱えない大人がいる。これは子どもを不幸にする。少なくともその子を幸福へ導くことはできない。

でも、大人だってわからないのはあたりまえだ。未来のことなんて誰にもわかるわけがないのに、大人はどうしてそうやって責任を取ろうとして自分を責めるのだろう。
わからない大人と子どもがどうすればよいかといえば、結論が出なくてもいいからしっかり話すことだ。当たり前のことだけど、話す過程があったという事実自体が、判断後の子どもを支える。だからすっきりとした結論が出ることにこだわらず、まずは話してみることが大切である。


具体的な判断のしかたとしては、そのときによってさまざまだが、ひとつの指標として、外的要因と内的要因とがある。

たとえば塾をやめたがっている子が、「塾の先生の教え方が悪く、教室の雰囲気が悪い」と言っているなら、それは外的要因である。
こういう場合は、塾を変えれば問題が解決することが多いので、早めに(できれば受験生の学年になる前に)変えた方がいい。

同じく塾をやめたがっている子が、授業がどうとかというよりは「宿題がきつい」「最近授業についていけない」「部活との両立が大変」と自分を主語にして要因を語る場合、これが内的要因である。
この場合は、塾をやめても何も状況は変わらないので、いまの生活を見直すことから始めるしかないし、塾のスケジュールがきついなら、教室にお願いすれば相談に乗ってくれるはずだ。内的要因が原因なのに外的なものをバサバサと切っていくと、その子はどんどん弱くなってしまうのは目に見えている。むしろ、こういう状況の私でも、何かを続けることができるという経験をすることが大切だと思う。

実際には外的要因と内的要因が絡まっていることも多いので、その点を整理する意味でも、大人が子どもからよく話を聞くことが求められている。


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by terakoyanet | 2019-06-30 16:59 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)