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親の感情と子育て

2カ月以上続いた三者面談がようやくほぼ終わりました。
ご参加いただいたご家庭の皆さま、ありがとうございました!

面談のときにした約束は、その後果たせていますでしょうか。
(めちゃめちゃ張り切っていたのに少し緩んできた子もいます。)

面談のときに、子どもの成績を伸ばすために、親はどこまで干渉していいのか、というご質問をいろいろなご家庭からいただきました。

その回答はご家庭によって異なる、という前提がありますので、とても難しい質問だと思いつつ、これは共通して言えるのではないかと思うことについて少しお話しします。



私は大学時代、妹の家庭教師をしていました。
兄弟だったらけんかになりそうなところなのですが、私自身、家族というフィルターで妹を見ることなく、他の家庭教師の子(当時7~8名の家庭教師をしていたのです)を教えるときと同じように指導することができました。
その結果、妹の成績は伸び、希望の高校に合格しました。

私はここで何が言いたいのかというと、親子間、家族間で教えるときの最大の障害はその関係性だということです。
親は子供に感情的になりすぎる。子どもは親に甘えすぎる。これで 教える-教えられる の関係が成立するわけがないのです。

以前、親が子供を叱るときのポイントについてまとめた記事がありますので、よければご参照ください。

親が子どもにきちんと何かを伝えたいのであれば、その感情的な関係をコントロールすべきです。
ときに感情的に「怒る」ことで、子どもに切実に伝わることもあるでしょう。
しかし、感情的に「叱る」ことは避けられなければなりません。

子どもに指導する際も、いかに子どもを、自分のさまざまな感情と切り離されて独立した人格として認めたうえで対話ができるか、そしてそれを一貫性を保ちながら継続できるか。子どもに伝わるかどうかはそこにかかっていると思います。このことは私自身、日々子どもたちと接しながらいつも心に留めていることです。

そんなことは親子では難しい。確かに難しいのですが、自らの心を振り返り、その感情をコントロールできるようになることは、きっと子どもへの大きなギフトになります。


―――――


いまある学年の子どもたちの間で、寺子屋をやめた生徒たちが成績を急激に下げていることが話題に上っています。

うちの塾においても、どうしても年間に数人だけ途中退塾する生徒が出ます。
そのような子が、そのあと成績を急落させるという話は、毎年耳にすることです。

でもこれは別にうちの塾だけのことではなく、成績を伸ばすスキルがある塾ならば当然のことで、やめたら落ちるに決まっています。
塾をやめる子というのは、「成績が上がらないから」という理由でやめることが多いのですが、でも「成績が上がらない子」というのは、いま塾に来ている環境で、彼らが自分のペースで努力できる範囲で勉強して、いまの成績なのですから、塾という武器がなくなると、よほど、それこそ2倍も3倍も自分自身で真剣に取り組まない限り、成績が下がるのは当たり前のことです。それが難しいからみんな塾に通って、できるだけ効率的に学習を進めているのです。

そもそも「成績が上がらない」という判断を親がすること自体危険をはらんでいます。(よほど毎日つきっきりで子どもの指導をしていたら別ですが。) なぜかと言えば、成績というのは相対的なものであって、成績が上がっていないから、その子がいま悪い状況とは全く限らないからです。

塾をやめるとき、それが本人の判断であれば、そのあとうまくいくことも少しはあるのですが、それが親の判断の場合、勝算は低いです。その判断は感情的になされており、本当にその子に寄り添ったものであることが少ないからです。


―――――

子育てというのは親の感情が絡むから難しい。
でもどうか、そういう感情を持つ自己を責めることがありませんように。
その感情自体は自然なもので、それは他のさまざまな感情と結びついている大切なもの。
自分についても、子どもについても、できるだけフラットに穏やかな判断ができるよう、考えていきたいですね。

私自身、修行の日々です。



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by terakoyanet | 2016-07-04 16:25 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

以下の文章は特定のご家庭に向けて書いた文章ではありません。
それでも、もしかしたら、心当たりのある一部のご家庭の悩みを深めてしまうかもしれない。
そう思うと、一昨日に書いたこの記事をアップできずにいました。

でも、大切なのは家族内だけでなく、大人どうしで連携していくこと、と思い直し、記事をアップすることにしました。私自身にとっても、以下の問題は決して他人事ではなく、子どもたちと触れ合う毎日のなかでいつも考えあぐねていることです。

もし、お子さんの精神面で不安のあることがあれば、遠慮なくご相談ください。
一概には言えませんが、きっと一挙に解決する、治癒するということはありません。でも周囲の大人の継続的な配慮をきっかけに、本人がもともともっていた力によって快方に向かうことはあります。


―――


十年前より精神的に脆い子が増えた。そう感じることが多い。
感じる、というよりは実際に頭の中に浮かぶ数を数えてみると、これはおそらく実際のことだ。

いろんな子がいるけれど、精神的に脆い子の親は「理解がある」ことがけっこう多い。これは逆説的な感じもするけれど、そういう子の親は、子どものことを本当に考えているし、一人前の人格として子を認めている、そういうふうに見える親が案外多いのだ。

でも昨日妻と話していてふと思ったのは、「理解がある」親が精神的に脆い子をつくってしまっているのではないか、ということ。「理解がある」親というのは繊細に子どものことを考えている。でも、子どもを眼差すときに、繊細な自分の鏡像として、子どもを見ているのかもしれない。繊細なものとして扱われた子どもは、繊細にならざるをえないのではないか、しかも、他の子たちより幾分早めに「大人」であることを強いられているのではないか、そんなことを考える。

子どもが子どもとして扱われることに、私は子ども時代から強い違和感を感じて生きてきたけれど、でも子どもが大人として扱われるのは、案外残酷なことなのかもしれないと、この歳になってようやく気づきつつある。

親であれば、子どもを自分の鏡像として見ることは、ほとんど避けられないことだが、でも、子どもの話は子ども固有のこととして ―いくらそれが自分の慰みにならなくても― 聞く耳を持たなければ、子どもの痛みは増してしまうかもしれない。「思えば届く」ではないのだ。





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by terakoyanet | 2016-01-15 09:53 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

受かる見込みが極めて薄いのにかかわらず受験することを「記念受験」といいます。
受ける本人もそれを見守る保護者も、現在の実力が到底及ばないことを認めながらも、万が一の希望を胸に受験する。こういったことは大学受験、高校受験、中学受験において、全国津々浦々で見られる現象です。

私はこういうことはあってもいいと思います。
本人自身が、自分の力不足を知りながら、認めながらも、心の区切りをつけるために受験するのですから。




しかし、私が大問題だと思うのが、「カクレ記念受験」です。
このことについて、昨日、ある保護者様とお話しする機会を得たので、ここで書くつもりになったのですが、「カクレ記念受験」は、例えば地元の近辺で言えば、修猷館受験者が多い百道中、高取中、福教大附属中に特に多い現象です。

これらの中学は前述の通り、修猷館受験者がとても多いです。
修猷館を受けること自体がひとつのステータスになっていると言えましょう。
だから、子どもたちは、周りに流されて、もしくはそのステータス欲しさに「修猷館受ける」と言います。この「修猷館受ける」と言いだす層は、合格ライン前後の成績を持つ上位層だけでなく、各学校の中間層、下位層にまで及びます。

合格する力が全くもって不足している子どもたちは、きっと頭の隅でそのことを知っています。
だから、彼らは自身の力が志望校にいかに届いていないかという現実を直視することを嫌います。
彼らは、なんとなく受験独特の雰囲気を味わいつつ、万が一受かるかもしれない志望校を皆といっしょに受験できれば、それでいいのです。合格発表の日、彼らは不合格の結果を見て、現実はやはり甘くないということを(再)認識するでしょう。しかし、一方で彼らはその日に、「修猷館不合格者」という名誉をもらいます。この名誉は、本人達にとっては、他校の「合格」よりも価値のあるものかもしれないのです。(このような言い方をすると角が立ってしまうのですが、彼らはそもそも修猷館より1ランク、2ランク難易度が低い学校であっても合格できていたかわかならないのですから、修猷館の「不合格」は彼らにとっては上出来の結果です。)

この「カクレ記念受験」は本人だけの問題ならまだよいのですが、その側にいるお母さんが本人と結託してそれの実行者となっている場合があります。チラチラと垣間見る本人の成績から、修猷館合格はかなり厳しいことが頭の隅でわかっていても、何かに託けて修猷館を受けるという選択肢のみを本人に提示し続けるのです。(こんなとき、大抵お父さんは蚊帳の外です。本人が頑張るって言うんなら最後まで頑張らせたら、と素朴に思っている方が多いです。もしくは知らんぷりをしているだけかもしれませんが。) そのようなお母さん方が「私はあなたがどこに行ってもいいと思っているのよ。」と言うとき、それは実質「あなたは修猷館に行くべきなのよ。でなければ私はあなたがどうなっても知らないからね。」という強迫的な意味を含んでいます。
本人がそんなお母さんに対して反発することができる関係ならよいのですが、そうでない場合には、本人はますます修猷館以外の選択肢を考えることができなくなります。本人がお母様と共依存関係にある場合には事態は深刻になり、本人は自身の成績をあらゆる方法で偽装(カンニング、得点のごまかしなど)してまで、お母様の願望に応えようと必死になります。(これを傍から見ているのはとてもつらいです。)

「カクレ記念受験」がなぜ問題かと言えば、その根っこがまやかしであり、虚偽であるからです。
彼にどれだけヒアリングをしても彼の口から「実は諦めてる」という言葉を聞き出すことはできないでしょう。私たちは怖ろしいことに自分自身の脳内を騙すことができます。彼自身、「諦めている」ことを意識せずに日々の生活を過ごしているのですから、「諦めている」なんて言葉を彼から聞くことができるわけがないのです。
しかし、それでも彼自身は自身の脳内が「まやかし」であることを知っているのです。知っているからこそ頑張ることができないのです。真剣に現実と向き合うことなく、そのまま受験日を迎えてしまうのです。



人は程度の差こそあれ、「まやかし」の中で生きていると言っても過言ではありません。
そういった弱さ自体が、人が生きていく営みにおける大切な要素です。

しかし、人生の真剣勝負ができる僅かな機会である受験を、それを傍で見守る者として、まやかしのまま通り過ぎてほしくはないのです。
しかも、そのまやかしに、その子にとって一番大切な親が関わっていることは、その子にとって、大きな損失になります。それは一時のステータスを得る代償としてはあまりに大きなものです。


修猷館受験者800余名のうち、100~200名は、実力が全く不足しているのに受験する生徒、私が述べたところの記念受験、もしくはカクレ記念受験の生徒たちです。


人の名誉が関わるところにはさまざまな歪みが生じます。
今回書いたことは、受験にまつわるひとつの現象として、心の中に携えていただければと存じます。



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by terakoyanet | 2014-10-08 12:12 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(4)

少し前、といってももう4・5年前のことになるでしょうか。笑うと赤い頬がかわいらしい男の子だったのですが、その子が、塾に来るときに表情を曇らせている。大丈夫かなと思っていると、それが何週間も続く。1ヶ月経ってもその状況が続く。その間に学校の定期テストがあったのですが、それを境にますます表情が暗くなっているのがわかる。本人にたずねても、全く問題ない、大丈夫と言う。そんなことが続いていました。

そうしているうちに、11月になり、その子の三者面談があり、そこでそうかとわかったことがありました。
お母さまがこのようにお話しなさいました。「私がいくら言ってもこの子が勉強しないから、もう大丈夫かと不安で。」「でもテスト前は彼なりにやってたみたいで、でも結果が悪くて。きっとこの子、やり方が悪いんですよ。勉強のやり方の基本さえもわかっていないなんて、もうこの子この先どうなっていくか心配で。」「わからないなら先生に質問してきなさいって言ったんですよ。でも質問しない。もう、そんなんだったら先生に見放されるわよって、いつも私この子に言ってるんですよ。」「先生、この子が確実に伸びるための確実な方法を教えて下さい。確実な方法がないなら、私が先生にこの子を預けている意味はないと思うんです。このまま先生のところに預けていて、本当に大丈夫かしらと不安で不安で。」「あんたこのまま寺子屋続けて大丈夫なの?って聞くんですよ。そしたらこの子黙ってて、私、ますます心配になって。」

お母様は不安と心配で胸中がいっぱいいっぱいでした。
私は彼が塾で見せる、何とも言えない暗澹たる表情の由来はここにあると思いました。

お母様はとても熱心な方で、子どもさんのことを一生懸命考えていらっしゃいました。
物腰が柔らかく、落ち着いた話し方をする素敵な方でした。

しかし、真面目で子どもの事を何よりも優先に考えるお母様の不安と心配は、傍にたたずむ赤い頬の彼の心にそのまま巣食っていました。彼は何をやっても肯定感のようなものを感じることができず、勉強の話となると、うつむくことしかできませんでした。

子どもに愛情をそそぐ素敵なお母様なので、きっと彼はお母様のことが大好きです。でもだからこそ、彼はお母様に何も言えず、お母様が不安と言うのなら、そうなのかな、僕はこのまま勉強しても、このまま塾に行っていてもだめなのかな。日々そう感じながら、でも他の道がないからうちの教室に来ている。彼のこれまでの表情と、お母様を前にした彼の様子から、私はそう思いました。

親の不安は子に伝播します。私がここで「伝播」という、やや大仰な言葉を使ったのは、親の不安は、子の心の底に一旦沈着してしまうと、それが親が思うよりずっと長い期間、その子の心にネガティブな影響を与え続けるからです。子の心に広がる「不安」は彼の行動を縛ります。彼は自身に対する、勉強に対する、塾に対する、否定的な感情から抜け出すことができません。何も信じることができない彼は、何をやっても中途半端で空回りしてしまうのです。

その後、いつも真剣なお母様のお話しを度々拝聴しながら、私の方からは、その子が存外に頑張っていること、きっとうまくいくということを伝えながら、時が過ぎていきました。
彼は中3になり、あるテストでいきなり高得点をとり、それを境に笑顔も増え、その頃と時を同じくして周りに仲の良い友人も増え、夏以降は高邁な努力を続け、志望校に合格するに至りました。



親御さんはよくおっしゃいます。「私の言うことはきかないから、どうぞ先生、この子にビシっと言ってやってください。」
確かに子どもは親の言うことを聞かない。他人の言うことはよく聞く。これは一つの真実です。

しかし、それを超えた一つの真実は、子は親の言うことは聞かないが、親の言わないこと(=親の心の中の本音)は誰よりも聞いている、ということです。
子は知っているのです。親が言うタテマエよりも、親が言わないホンネに真(まこと)があるということを。

だから、親が本気で心配をしていると、親が誰かに対して不信を示していると、子はその心配に同調するし、その誰かを信じなくなります。

親は子に対し、不安を伝えない努力が必要です。
殊に、子に対する不安が募るときには、子はしょせん私とは別人格であり、私そのものの問題ではない、という諦念のようなものを持つことが必要なのです。そうすることで、子は自分のことは自分で考えなければならないということを学びます。親のためではなく、自分自身のために人生を切り拓く術を身につけていきます。そしてそれによってのみ子は「自立」を果たし、大人となっていくのだと私は考えています。


※上記の内容は、モデルを特定されないように、一部、フィクションを交えてお話しをしています。ご了承ください。


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by terakoyanet | 2014-09-18 23:37 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

昨夜、卒業生で現在京大生のOくんと会いました。(inアトリエてらた)
彼は事前にわざとしこんでるんじゃないかと思うくらい面白いトピックを用意して私の前に現れるのですが、昨日もまた完熟のネタを披露してくれました。きゅっと搾った濃縮感のある時間。卒業生というより、私の人生の友人として今後も機会あるごとに会って話したいなと思っています。

彼はいま勉学の傍ら学習塾で働いており、生徒や保護者と接する日々。
そんな彼の口から出てきた事柄のなかで印象的だったのが、彼自身の母について語ったときの言葉。

「親はすぐ自分の不安を打ち消すために子どもに「大丈夫?」とか声掛けするけど、うちはそういうのがなかったのがよかった。」


私は以前、河合隼雄氏と毛利子来氏の対談を引用し、次のように書きました。



―――――


河合:「(子どもの木登りは、先生が)すぐに「もう下りなさい」とか、「それ危ない」とか言うから落ちるんですね(笑)。黙って見ていたら落ちないんだけれども。」

毛利:「そうそう。あれは大人が我慢できんのですね。大人が見ておってハラハラ、ドキドキに耐えられないものだから、「やめなさい」とか言って下ろさせちまうんですね。だからあれは子どものためと思ってるけど、自分の心配をとるため、自分のため。」



木登りをする子どもたち。それを見ている大人たち。
子どもたちは意気揚々と自分の好奇心を発揮して動き回っている。
しかし、それに我慢できない大人たち。大人は自分の不安を消去するために、子どもたちの活動を妨げる。その結果、子どもたちの足場を危うくする。


大人は本当に子どもより賢いのでしょうか。常に子ども以上の真理を握っているのでしょうか。
そうではないでしょう。大人は一人ひとりがかよわい人間であり、自分のそのときの感情や都合で動いてしまうものです。そのために、かわいいわが子の足場をあやうくすることが多々あるのです。

ですから、わたしたち大人は自分の愚かさを知ることが大切です。
そして、本当に子どものためになることは何か、ということに耳を澄ます必要があります。
とても難しいことです。木登りをしている子どもの前で我慢するのはとっても大変なことです。

しかし、その困難を知った上で子どもと接することが、きっと子どもの幸せにつながるだろうと感じます。



――――



「大丈夫?」と声をかけるときも、「勉強しなさい」と言うときも、「あなたのためを思って言っているのよ」と言うときも、いつでも親は「子どものことでこんなに感情的になっている私は何?」と自問することが大切です。

自己本位なのは決して恥ずべきことではありません。
ただし、自己本位であることに気づかずに、自己の欲求を他人(この場合は子ども)に押しつける行為は、他人(この場合は子ども)の尊厳を決定的に傷つけることがあるということを知ることで、私たちはそれを回避することができます。

これまでに述べたことは、子どもはなぜ親(特に母親)の言うことは聞かずに、第三者の言うことなら聞くのかという疑問に対する答えに直結します。

親は子どものためを思っているからこそ声をかける。これは大抵の場合、疑うべくもなく真実です。
しかし、愛情というのはこの世でもっとも自己本位な感情です。でも愛は盲目。私たちはそのことを忘れて相手にも同じものを求めやすい。親はどこかで私のこの気持ち、子に伝わるはず、伝わるべきだと思っている。

親が子どもに声を掛けるときには、そこに愛情があればあるほど自己本位になりやすいのです。
親が「あなたのため」と言えば言うほど、子はその声掛けを押し売りと感じ、反発するという悪循環。

一方で、第三者が「あなたのため」ということを伝えやすいのは、そこに(自己本位な)愛情がないから。
第三者は身軽に「私があなたの立場だったら」と、自分を相手の立場に置き換えて、いますべきことは何かということを相手に寄り添って提案することができる。
逆説的ですが、相手に寄り添うことは、愛情がありすぎるよりも、そうでないほうがやりやすいのです。

ほっといても子は育つというけれども、これは、子に愛情の押し売りをしない、ということの言い換えです。
何も「大丈夫?」「勉強しなさい」と声掛けをすること自体が悪いのではありません。
そのときに自身の心を点検しながら、声掛けが「過度」にならないように注意を払うことが、子どもにメッセージを伝えるために大切なことです。


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by terakoyanet | 2013-09-20 13:11 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

規則の破り方

ちょっと前に、「学校にお菓子を持っているのがバレたせいで、部活動が停止になった」と話している生徒がいました。

「なぜ学校にお菓子を持っていったらいかんか理解できん。」

その生徒は言います。

私は「そうだよね。」

と理解を示しながらも

「でも、全員が持っていったらなんかすごいことになるから、ダメな理由もわかるけど。」

とだけ答えました。

一人だけ破ったところで大した問題にはならないけれど、皆が破ったらひどいことになるから、一律で禁止事項になっている、そんな規則が社会にはいろいろと存在します。

お菓子の規則については、授業中にお菓子を食べて授業に集中しない子が出てきたり、学校のいたるところにお菓子のごみが散らかっていたり、友達間や先輩後輩間でお菓子の奪い合いが発生したり、そんなふうになるのを防ぐために、学校にお菓子をもっていくことは、はじめから禁止されています。



目の前に、いまいち納得できない規則があるときには、なぜその規則が存在するのか考えてみましょう。
日本という民主的な国では、たいていの規則には存在する理由があります。
(まれに例外もありますが。)

考えてみて、それでも「私は規則を破りたい!」と思ったら、次のようにして実行しましょう。



1 規則は「ひとりで」破る。他人を巻き添えにしてはいけません。

2 規則は「誰にも知られないように」破る。これは「ばれなければいい」という意味ではありません。自分の行為が他人に影響を与えてはならないという意味で誰にも知られないことは大切です。

3 規則は「他人の迷惑にならないように」破る。間接的であれ他人にどんな影響も与えてはなりません。例えばコンビニでの万引きは、コンビニの経営者の財産権を奪うという意味で、大きく他人の利益を損害しています。明らかに他人に迷惑をかけているのでアウトです。



完全単独犯で、他人に一切の影響を与えないという、1・2・3の原則を果たすことができれば、あなたも「規則を破る」名人です。



規則を破る人が気づくべきことは、「私が規則を破る。だからこそ規則が存在する。」ということです。
100%の人間がその規則を守ることが担保されている場合、その規則は存在価値を失い、失効します。

規則を破る人間が規則をつくり、規則を強化しています。
だから、逆説的ですが、規則に従順であることは、私たちにとって、規則に対する最大の抵抗になりえるかもしれません。



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by terakoyanet | 2013-08-01 06:57 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

先日、ある保護者様とお話しをしていて、子どもの「叱り方」の話になりました。
5年前の記事になりますが、ぜひ参照にしていただければと思います。

※今回の再掲にあたり、少しだけ文章を追記した部分があります。

―――

この前「ほめること、バカにしないこと、信用すること」という記事を書き、いろいろとコメントをいただきましたが、これに関連して、沖縄県読谷村の人気塾「セルフ塾」のブログに、これと併せて読んでいただくととても面白いと思える記事がありましたので、管理人Yojiさんの許可を得てご紹介いたします。


叱り方のポイント


*青字がYojiさんのブログからの引用です。

叱るときのポイントを書き並べてみます。思いつくままに書き出しました。重要度の順ではないです。

1,できるだけ問題の行動が起こった直後に叱ります。マシュマロ実験では,プラス強化子の場合と同じです。すぐの方が効果は大きいです。


すぐの方が説得力があり効果が大きい、これは叱る上でポイントです。
すぐでなければ、子どもはなぜ叱られているのか?ということを体感できません。
不意にその場で叱られるからこそ、はっと我に返って反省をすることができるのです。

2,問題行動が起こるたびに叱る。連続強化の方が効果はありました。叱るときもそうです。ある時は叱り,また別のときは叱らないということどと,子どもはどのように行動すればいいか,分からなくなります。

これも大切です。一度叱った問題行動を再び子どもがとったときには必ずまた叱るべきです。叱る側が態度を一貫させることで説得力が生まれます。

3,行動を叱るのであって,人格を叱ってはいけない。
前にセルフ塾の例だと「○○くんに考えさせているのに,あなたがその答えを言ってはいけない」というようにします。「あなたは出しゃばりなんだから」と言ってはいけません。


これまた大切。お母さま方はよく「あなたはだらしがない」と言います。確かにだらしがないのかもしれませんが、この言い方ではなかなか直りません。子どもは「やっぱオレはだらしなくてだめだなあ、あーあこの性格じゃムリだ」と思うだけです。だらしがない行動自体を叱ることで徐々に意識改革していくしかありません。
人格を叱ってしまうと、その子は身動きができなくなり、しまいにはヤケになってしまうのです。むしろ、人格を信用している、ということを伝えることがとても大切です。

4,他人と比較して叱らない。「Aくんはこんなことやらないよ」

大切ですね。特に兄弟やライバル間の比較は禁物。言われた側は反発しやすいですし、また深く傷つくこともあります。

5,叱るときはきびしく叱る。おだやかに叱っていると,それに慣れてきます。

6,自分の責任で叱る。「お父さんに叱られるよ」としてはいけないということです。


自分の言葉で言わないと、全く説得力を持ちません。
この例についてさらに言えば、「お父さんに叱られる」から「やってはいけない」という思考回路を子どもに持たせてはいけません。あくまで、その行為自体がやってはいけないことだから叱られているのであり、お父さんに叱られるからやってはいけない、では行為自体を叱ったことになりません。

7,叱る理由をちゃんと説明します。「あなたが答えを教えたら,○○くんは自分で考える機会をなくし,この問題を理解できないままになってしまうでしょう」

叱るときには、叱られる子どもが納得するような説明をすることが大切です。上からの押し付けではなく、本人が自分の頭で考えて「ああそうか」と思えば、叱ったことは成功です。

8,1で説明したように直後に叱った方がいいです。しかし,直後に叱れないこともあります。そういった場合は,やったときのことをできるだけイメージできるようにしてから叱ります。

9,叱るときは短めに。長々と説教してはいけません。ポイントをしぼって叱り,それで終わりにします。

10,叱りながら過去のことを持ち出さない。「あなたはあのときもこうだったでしょう。」


これは3に関連して重要。過去のことを持ち出すことで叱られた方は自身の人格そのものを否定された気持ちになり、最悪の場合自暴自棄になってしまうでしょう。

11,叱ってあとで,そのことについて謝らない。叱ってあと,子どもがしょんぼりしていると「ごめんね,叱って」などと言ってはいけません。ただし,自分が叱ったことが明らかに間違えている場合は,素直に謝ります。

叱り方が自分の感情にまかせたものであり、子どもにとって理不尽にうつることだってあるかもしれません。そんなときは、もう一度落ち着いて何を伝えたかったのかを話した上で、感情的すぎたことについては謝ってください。でも、叱った内容自体を否定して謝るようではダメです。それは叱る前の考えが足りなすぎたといわざるをえません。そうなると説得力は持ち得ないです。

12,いったん叱ったら,その後はそれについてふれない。いつまでもグズグズ言うのはよくありません。 

13,叱ったこととは関係のないことに関し,できるだけほめるように努める。1叱ったら9ほめる。その場合,お母さんは叱って後悔しているから,ほめているんだと思われないように。


ここは私が先日述べたこととリンクするかもしれません。



ということで、Yojiさん、本当に面白い記事ありがとうございました。

この記事を書かれた仲松庸次先生は、英語や数学のとてもわかりやすい参考書を書かれている先生としても有名で、すでに本校の生徒も5名の子に先生の参考書を渡し、家庭学習に役立ててもらっています。

「叱る」ことと「ほめる」こと。ぜひ参考にされてみてください。


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by terakoyanet | 2013-06-07 09:31 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

GW休暇、過去の振り返り記事3つ目です。

―――

昨日の朝日新聞の1面は、「国語入試にもリスニング 話聞けぬ子増えた」という内容でした。

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話聞けぬ子「増えた」ということですが、私自身の印象からすれば、以前から聞かない子は聞かなかったし、聞く子は聞いていたという感じがします。

ただ、信じられないくらい話を聞いていない子がいるのは事実で、授業や連絡のときに、いま説明したばかりのことを生徒が聞いてくるということが頻繁にあります。
そのたびに、「いま言ったけどどういうことだ??そんな質問するってことは聞いてなかったってこと!?え(怒)!?」と詰問することになります。


よく、「勉強ができる子が、そんなにできるのはなぜか」という話が面談などで持ち上がります。
そのとき、「勉強できる子は実は陰で一生懸命勉強してるんだよ」という話になります。
確かに「勉強できる子」は、「勉強が苦手な子」よりずっと勉強している場合が多い、これは確かです。

ただ、あまり勉強していないのに、やっぱり成績がいい子がいる、というのもまた事実です。
それに対し、子どもたちの間、時には大人の間でさえ、もとが違うから・・・云々といった話になってしまいます。

しかし、私が思うに、勉強できるか、できないかの決定的な差は、授業で先生の話を聞けているかどうか、これです。
「勉強が苦手な子」は、先生の話を吸収するだけの集中力がなかったり、そもそも聞く気が足りなかったりします。
「勉強ができる子」は、授業中に、先生の話を吸収し、その場で内容の最低8割以上は理解してしまいます。授業中の見かけは他の子と変わりません。
なのに、実際には単元のキーとなるところをしっかり聞いて理解し、授業中に自分のものにしてしまっています。

「勉強が苦手な子」には、話を聞くことの大切さを、もっともっと考えてほしいと思います。
しっかり授業を聞けば、自分の集中力を持続させる努力をすれば、もっと楽に成績は上がるのです。

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by terakoyanet | 2013-05-05 12:00 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

昨日学校で次々に定期テストの返却が始まりました。
昨日塾で授業があった中2・中3の子たちに「中間テストどうだった~!?」と尋ねると、浮かない顔が多数。
なるほど今回は平均点が低いなとその瞬間、私は思いました。

定期テスト返却のあと、全体の平均点が高いときはクラス全体がウキウキしたかんじ、低いときはちょっとドヨンとしてる。当仁中の生徒が8~9割以上を占めるうちの教室では、そういう現象をこれまで繰り返してきました。

今回は中2・中3とも、5科目総合平均点が随分低そうです。(一部の科目は高いです。)
実際に問題を見ましたが、確かに難しい問題が多数出題されていました。



こんなとき、テストを見せて前回より得点が少し下がったからと親にカミナリを落とされる生徒がいます。

でも、親御さんちょっと待ってください。
テストについて、上がった下がったの話をするのは、学校の平均点が出てからにしていただきたい。

努力したのに点数が変わらなくて親から責められた子。
でも資料を見ると前回のテストより学年平均点が20点も下がっていた。
ということは相対的にはその子はかなり成績を上げていたのに親に怒られてしまった。

こういう理不尽な光景は、意外に多くの家庭で起こり得ること。

でも、この経験は、子どものやる気に大きなダメージを与えます。
何もわかってないくせにと、大きな反発を招きます。

だから、ぐっと我慢して、平均点が出たあとに、冷静に子どもと話してください。
怒るのにも事前の分析が必要です。
でなければただ親の感情を一方的にぶつけただけの不毛な時間になってしまうでしょう。



たまに「どんな平均点でもいい点とれないとだめ」と子どもを叱責する方がいますが、私はそれは違うと思います。

どんな平均点でも、どんな難しい問題でもいい点とれないと、という要求は、学年1・2位の成績を持つほんのわずかな生徒に対してだけ通用する論理です。ハードルが高すぎます。



定期テスト後こそ親の勉強の機会と考え、子どもに寄り添いながら子どもの日々の学習について見直す機会にしていただきたいと思います。




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本館7F terakoya shop blog をぜひご覧ください。
by terakoyanet | 2012-10-10 09:45 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)

中学生の女の子たちって、なんでそんなに派閥(グループ)をつくるのが好きなんだろう!?とこれまで何度か思ったことがあります。いまも中学生のある学年の子たちを見ているとそのことを痛感します。

とにかく中学生の女の子っていうのは友だちへの心の依存が高まりやすい。
ある1人の友だちに冷たい態度をとられただけで、いきなり自分の世界すべてが崩壊したような錯覚に陥る子も。




私は子どもたちに仲良くしてほしいと心から願っているので、常日頃から子どもたちに「みんな仲良くすべきだ」という暗黙のメッセージを送っているつもりです。

その暗黙のメッセージの送り方というのは、私自身が身を持って子どもたちに平等に穏やかに接すること。どの生徒に対しても尊重してるよ、という態度を一貫して示すこと。

目の前の大人がAさんに対して敬意を示す態度をとるとき、それを見たBさんは、Aさんは敬意を示すに値する人なのだ、私もAさんに敬意を示すのが正しいことなのだ、と思います。このような心のはたらきは、誰にでもあります。

ですから、大人が率先してそのような態度をとることで、不安定になりやすい中学生間の人間関係をある程度深刻化しないレベルで保つことは、生徒たちの心の機微に敏感な指導者であれば、大体の場合は可能です。


しかし、そんな「暗黙」では通用しない場合があります。
通用しないのはたいてい女の子の「派閥」が強固な力を持っているときです。
女の子のなかには頭の中は全て「派閥」のことばかりで、「派閥」のなかでのポジションがその子の存在意義のすべてを握っているように見える子もいるほどです。
ポジション争いはときに壮絶で、あからさまな「いじわる」によって、そのポジションを保とうとする動きも見られます。


派閥の力が拮抗しているときは見守るしかありません。
しかし、片方がもう片方を力でねじふせようとする動きがある場合には、黙っていられません。
そんなときは、実力行使しかありません。

私たちは子どもたちに伝える必要があります。

「他人の心を考えることができる人になりなさい。」
これは決してきれいごとではないよ。

それは、あなたがこれから生きていくためにどうしても必要な技術なんです。
他人の心を考えることができない人は、孤独になります。
他人の心を考えることができれば、自分の人生を楽しくするチャンスが広がるんです。


ある生徒がこの前「人にしたことは全て自分に返ってくるんです」と言っていました。
その子は本当によくわかってる。
他人の心を考えることが、切実に自分が生きていくときに必要なものだということが。


派閥をつくりたくなる女の子たちのいかんともしがたい心の動き自体は理解します。
しかし、わたしははっきり言います。
派閥なんて大っ嫌いだ!と。
人の心をみだりに傷つけるなと、声を大にして言いたい。


以上のことはある学年の子たちを見ていて感じたことです。
数日中に直接伝えるつもりです。




追記

上記のようなことを書くと、うちの子は大丈夫かしら?と心配なさる方もいらっしゃるかもしれませんが、ある学年のしかもごく一部の問題です。全体としてはほんわりとした穏やかな関係を築くことができている生徒が多いです。
私たちの世代とくらべると、いまの中学生たちは人との関係のつくりかたがずっと大人だなと思うこともしばしば。すごいなーと思ったり、エラいなーと思ったり、ときには味気なくてつまらないなと思ったり。


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by terakoyanet | 2012-06-27 08:47 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)