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規則の破り方

ちょっと前に、「学校にお菓子を持っているのがバレたせいで、部活動が停止になった」と話している生徒がいました。

「なぜ学校にお菓子を持っていったらいかんか理解できん。」

その生徒は言います。

私は「そうだよね。」

と理解を示しながらも

「でも、全員が持っていったらなんかすごいことになるから、ダメな理由もわかるけど。」

とだけ答えました。

一人だけ破ったところで大した問題にはならないけれど、皆が破ったらひどいことになるから、一律で禁止事項になっている、そんな規則が社会にはいろいろと存在します。

お菓子の規則については、授業中にお菓子を食べて授業に集中しない子が出てきたり、学校のいたるところにお菓子のごみが散らかっていたり、友達間や先輩後輩間でお菓子の奪い合いが発生したり、そんなふうになるのを防ぐために、学校にお菓子をもっていくことは、はじめから禁止されています。



目の前に、いまいち納得できない規則があるときには、なぜその規則が存在するのか考えてみましょう。
日本という民主的な国では、たいていの規則には存在する理由があります。
(まれに例外もありますが。)

考えてみて、それでも「私は規則を破りたい!」と思ったら、次のようにして実行しましょう。



1 規則は「ひとりで」破る。他人を巻き添えにしてはいけません。

2 規則は「誰にも知られないように」破る。これは「ばれなければいい」という意味ではありません。自分の行為が他人に影響を与えてはならないという意味で誰にも知られないことは大切です。

3 規則は「他人の迷惑にならないように」破る。間接的であれ他人にどんな影響も与えてはなりません。例えばコンビニでの万引きは、コンビニの経営者の財産権を奪うという意味で、大きく他人の利益を損害しています。明らかに他人に迷惑をかけているのでアウトです。



完全単独犯で、他人に一切の影響を与えないという、1・2・3の原則を果たすことができれば、あなたも「規則を破る」名人です。



規則を破る人が気づくべきことは、「私が規則を破る。だからこそ規則が存在する。」ということです。
100%の人間がその規則を守ることが担保されている場合、その規則は存在価値を失い、失効します。

規則を破る人間が規則をつくり、規則を強化しています。
だから、逆説的ですが、規則に従順であることは、私たちにとって、規則に対する最大の抵抗になりえるかもしれません。



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by terakoyanet | 2013-08-01 06:57 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

叱り方のポイント -「セルフ塾のブログ」より-  2008.6.23

先日、ある保護者様とお話しをしていて、子どもの「叱り方」の話になりました。
5年前の記事になりますが、ぜひ参照にしていただければと思います。

※今回の再掲にあたり、少しだけ文章を追記した部分があります。

―――

この前「ほめること、バカにしないこと、信用すること」という記事を書き、いろいろとコメントをいただきましたが、これに関連して、沖縄県読谷村の人気塾「セルフ塾」のブログに、これと併せて読んでいただくととても面白いと思える記事がありましたので、管理人Yojiさんの許可を得てご紹介いたします。


叱り方のポイント


*青字がYojiさんのブログからの引用です。

叱るときのポイントを書き並べてみます。思いつくままに書き出しました。重要度の順ではないです。

1,できるだけ問題の行動が起こった直後に叱ります。マシュマロ実験では,プラス強化子の場合と同じです。すぐの方が効果は大きいです。


すぐの方が説得力があり効果が大きい、これは叱る上でポイントです。
すぐでなければ、子どもはなぜ叱られているのか?ということを体感できません。
不意にその場で叱られるからこそ、はっと我に返って反省をすることができるのです。

2,問題行動が起こるたびに叱る。連続強化の方が効果はありました。叱るときもそうです。ある時は叱り,また別のときは叱らないということどと,子どもはどのように行動すればいいか,分からなくなります。

これも大切です。一度叱った問題行動を再び子どもがとったときには必ずまた叱るべきです。叱る側が態度を一貫させることで説得力が生まれます。

3,行動を叱るのであって,人格を叱ってはいけない。
前にセルフ塾の例だと「○○くんに考えさせているのに,あなたがその答えを言ってはいけない」というようにします。「あなたは出しゃばりなんだから」と言ってはいけません。


これまた大切。お母さま方はよく「あなたはだらしがない」と言います。確かにだらしがないのかもしれませんが、この言い方ではなかなか直りません。子どもは「やっぱオレはだらしなくてだめだなあ、あーあこの性格じゃムリだ」と思うだけです。だらしがない行動自体を叱ることで徐々に意識改革していくしかありません。
人格を叱ってしまうと、その子は身動きができなくなり、しまいにはヤケになってしまうのです。むしろ、人格を信用している、ということを伝えることがとても大切です。

4,他人と比較して叱らない。「Aくんはこんなことやらないよ」

大切ですね。特に兄弟やライバル間の比較は禁物。言われた側は反発しやすいですし、また深く傷つくこともあります。

5,叱るときはきびしく叱る。おだやかに叱っていると,それに慣れてきます。

6,自分の責任で叱る。「お父さんに叱られるよ」としてはいけないということです。


自分の言葉で言わないと、全く説得力を持ちません。
この例についてさらに言えば、「お父さんに叱られる」から「やってはいけない」という思考回路を子どもに持たせてはいけません。あくまで、その行為自体がやってはいけないことだから叱られているのであり、お父さんに叱られるからやってはいけない、では行為自体を叱ったことになりません。

7,叱る理由をちゃんと説明します。「あなたが答えを教えたら,○○くんは自分で考える機会をなくし,この問題を理解できないままになってしまうでしょう」

叱るときには、叱られる子どもが納得するような説明をすることが大切です。上からの押し付けではなく、本人が自分の頭で考えて「ああそうか」と思えば、叱ったことは成功です。

8,1で説明したように直後に叱った方がいいです。しかし,直後に叱れないこともあります。そういった場合は,やったときのことをできるだけイメージできるようにしてから叱ります。

9,叱るときは短めに。長々と説教してはいけません。ポイントをしぼって叱り,それで終わりにします。

10,叱りながら過去のことを持ち出さない。「あなたはあのときもこうだったでしょう。」


これは3に関連して重要。過去のことを持ち出すことで叱られた方は自身の人格そのものを否定された気持ちになり、最悪の場合自暴自棄になってしまうでしょう。

11,叱ってあとで,そのことについて謝らない。叱ってあと,子どもがしょんぼりしていると「ごめんね,叱って」などと言ってはいけません。ただし,自分が叱ったことが明らかに間違えている場合は,素直に謝ります。

叱り方が自分の感情にまかせたものであり、子どもにとって理不尽にうつることだってあるかもしれません。そんなときは、もう一度落ち着いて何を伝えたかったのかを話した上で、感情的すぎたことについては謝ってください。でも、叱った内容自体を否定して謝るようではダメです。それは叱る前の考えが足りなすぎたといわざるをえません。そうなると説得力は持ち得ないです。

12,いったん叱ったら,その後はそれについてふれない。いつまでもグズグズ言うのはよくありません。 

13,叱ったこととは関係のないことに関し,できるだけほめるように努める。1叱ったら9ほめる。その場合,お母さんは叱って後悔しているから,ほめているんだと思われないように。


ここは私が先日述べたこととリンクするかもしれません。



ということで、Yojiさん、本当に面白い記事ありがとうございました。

この記事を書かれた仲松庸次先生は、英語や数学のとてもわかりやすい参考書を書かれている先生としても有名で、すでに本校の生徒も5名の子に先生の参考書を渡し、家庭学習に役立ててもらっています。

「叱る」ことと「ほめる」こと。ぜひ参考にされてみてください。


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by terakoyanet | 2013-06-07 09:31 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

話が聞けない子ども―2008.1.21―

GW休暇、過去の振り返り記事3つ目です。

―――

昨日の朝日新聞の1面は、「国語入試にもリスニング 話聞けぬ子増えた」という内容でした。

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話聞けぬ子「増えた」ということですが、私自身の印象からすれば、以前から聞かない子は聞かなかったし、聞く子は聞いていたという感じがします。

ただ、信じられないくらい話を聞いていない子がいるのは事実で、授業や連絡のときに、いま説明したばかりのことを生徒が聞いてくるということが頻繁にあります。
そのたびに、「いま言ったけどどういうことだ??そんな質問するってことは聞いてなかったってこと!?え(怒)!?」と詰問することになります。


よく、「勉強ができる子が、そんなにできるのはなぜか」という話が面談などで持ち上がります。
そのとき、「勉強できる子は実は陰で一生懸命勉強してるんだよ」という話になります。
確かに「勉強できる子」は、「勉強が苦手な子」よりずっと勉強している場合が多い、これは確かです。

ただ、あまり勉強していないのに、やっぱり成績がいい子がいる、というのもまた事実です。
それに対し、子どもたちの間、時には大人の間でさえ、もとが違うから・・・云々といった話になってしまいます。

しかし、私が思うに、勉強できるか、できないかの決定的な差は、授業で先生の話を聞けているかどうか、これです。
「勉強が苦手な子」は、先生の話を吸収するだけの集中力がなかったり、そもそも聞く気が足りなかったりします。
「勉強ができる子」は、授業中に、先生の話を吸収し、その場で内容の最低8割以上は理解してしまいます。授業中の見かけは他の子と変わりません。
なのに、実際には単元のキーとなるところをしっかり聞いて理解し、授業中に自分のものにしてしまっています。

「勉強が苦手な子」には、話を聞くことの大切さを、もっともっと考えてほしいと思います。
しっかり授業を聞けば、自分の集中力を持続させる努力をすれば、もっと楽に成績は上がるのです。

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by terakoyanet | 2013-05-05 12:00 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

定期テストの総評は平均点が出てから!

昨日学校で次々に定期テストの返却が始まりました。
昨日塾で授業があった中2・中3の子たちに「中間テストどうだった~!?」と尋ねると、浮かない顔が多数。
なるほど今回は平均点が低いなとその瞬間、私は思いました。

定期テスト返却のあと、全体の平均点が高いときはクラス全体がウキウキしたかんじ、低いときはちょっとドヨンとしてる。当仁中の生徒が8~9割以上を占めるうちの教室では、そういう現象をこれまで繰り返してきました。

今回は中2・中3とも、5科目総合平均点が随分低そうです。(一部の科目は高いです。)
実際に問題を見ましたが、確かに難しい問題が多数出題されていました。



こんなとき、テストを見せて前回より得点が少し下がったからと親にカミナリを落とされる生徒がいます。

でも、親御さんちょっと待ってください。
テストについて、上がった下がったの話をするのは、学校の平均点が出てからにしていただきたい。

努力したのに点数が変わらなくて親から責められた子。
でも資料を見ると前回のテストより学年平均点が20点も下がっていた。
ということは相対的にはその子はかなり成績を上げていたのに親に怒られてしまった。

こういう理不尽な光景は、意外に多くの家庭で起こり得ること。

でも、この経験は、子どものやる気に大きなダメージを与えます。
何もわかってないくせにと、大きな反発を招きます。

だから、ぐっと我慢して、平均点が出たあとに、冷静に子どもと話してください。
怒るのにも事前の分析が必要です。
でなければただ親の感情を一方的にぶつけただけの不毛な時間になってしまうでしょう。



たまに「どんな平均点でもいい点とれないとだめ」と子どもを叱責する方がいますが、私はそれは違うと思います。

どんな平均点でも、どんな難しい問題でもいい点とれないと、という要求は、学年1・2位の成績を持つほんのわずかな生徒に対してだけ通用する論理です。ハードルが高すぎます。



定期テスト後こそ親の勉強の機会と考え、子どもに寄り添いながら子どもの日々の学習について見直す機会にしていただきたいと思います。




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by terakoyanet | 2012-10-10 09:45 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)

中学生女子の「派閥」について。

中学生の女の子たちって、なんでそんなに派閥(グループ)をつくるのが好きなんだろう!?とこれまで何度か思ったことがあります。いまも中学生のある学年の子たちを見ているとそのことを痛感します。

とにかく中学生の女の子っていうのは友だちへの心の依存が高まりやすい。
ある1人の友だちに冷たい態度をとられただけで、いきなり自分の世界すべてが崩壊したような錯覚に陥る子も。




私は子どもたちに仲良くしてほしいと心から願っているので、常日頃から子どもたちに「みんな仲良くすべきだ」という暗黙のメッセージを送っているつもりです。

その暗黙のメッセージの送り方というのは、私自身が身を持って子どもたちに平等に穏やかに接すること。どの生徒に対しても尊重してるよ、という態度を一貫して示すこと。

目の前の大人がAさんに対して敬意を示す態度をとるとき、それを見たBさんは、Aさんは敬意を示すに値する人なのだ、私もAさんに敬意を示すのが正しいことなのだ、と思います。このような心のはたらきは、誰にでもあります。

ですから、大人が率先してそのような態度をとることで、不安定になりやすい中学生間の人間関係をある程度深刻化しないレベルで保つことは、生徒たちの心の機微に敏感な指導者であれば、大体の場合は可能です。


しかし、そんな「暗黙」では通用しない場合があります。
通用しないのはたいてい女の子の「派閥」が強固な力を持っているときです。
女の子のなかには頭の中は全て「派閥」のことばかりで、「派閥」のなかでのポジションがその子の存在意義のすべてを握っているように見える子もいるほどです。
ポジション争いはときに壮絶で、あからさまな「いじわる」によって、そのポジションを保とうとする動きも見られます。


派閥の力が拮抗しているときは見守るしかありません。
しかし、片方がもう片方を力でねじふせようとする動きがある場合には、黙っていられません。
そんなときは、実力行使しかありません。

私たちは子どもたちに伝える必要があります。

「他人の心を考えることができる人になりなさい。」
これは決してきれいごとではないよ。

それは、あなたがこれから生きていくためにどうしても必要な技術なんです。
他人の心を考えることができない人は、孤独になります。
他人の心を考えることができれば、自分の人生を楽しくするチャンスが広がるんです。


ある生徒がこの前「人にしたことは全て自分に返ってくるんです」と言っていました。
その子は本当によくわかってる。
他人の心を考えることが、切実に自分が生きていくときに必要なものだということが。


派閥をつくりたくなる女の子たちのいかんともしがたい心の動き自体は理解します。
しかし、わたしははっきり言います。
派閥なんて大っ嫌いだ!と。
人の心をみだりに傷つけるなと、声を大にして言いたい。


以上のことはある学年の子たちを見ていて感じたことです。
数日中に直接伝えるつもりです。




追記

上記のようなことを書くと、うちの子は大丈夫かしら?と心配なさる方もいらっしゃるかもしれませんが、ある学年のしかもごく一部の問題です。全体としてはほんわりとした穏やかな関係を築くことができている生徒が多いです。
私たちの世代とくらべると、いまの中学生たちは人との関係のつくりかたがずっと大人だなと思うこともしばしば。すごいなーと思ったり、エラいなーと思ったり、ときには味気なくてつまらないなと思ったり。


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by terakoyanet | 2012-06-27 08:47 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

子どもが変わるためには親が変わらなければならない

昨夜、面談であるお母さまとこのことについてお話しをしました。

お母さまは真剣に子どものことを考えており、ご自身も強くならなければならないのだ、と自分自身の問題についても真剣に向き合っていらっしゃいました。

子どもの問題を子ども固有の問題と考えず、自身の問題と考え、子どもと一人の人間として真剣に向き合うことを一生懸命考え抜いているお母さまの姿は感動的ですらありました。

きっとお母さまの気持ちは子どもに伝わり、良い方向に進んでいくものと思います。


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by terakoyanet | 2011-06-28 03:14 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(2)

木登り

海外旅行が好きなご家族におすすめのHPがあります。「それ行け!子連れ海外旅行」がそれで、それぞれの地域の情報がやたらくわしいのと、子連れ目線のいろいろな話が微笑ましく興味深いです。

私も旅が大好きなのでたびたびいろいろなところに出かけていますが、そのたびにこのHPを参照しています。私は、夏期講習で子どもたちと闘ったあとの9月に、毎年1週間ほどの休暇をいただいているのですが、今年はカウアイ島(いま話題のパイレーツオブカリビアンやジュラシックパーク、キングコング、ディズニーのスティッチなどの舞台)とハワイ島(ビッグアイランド、マウナロア・キラウエアで有名な火山島)に行くつもりなので、資料豊富なこのページを再び参照させてもらっています。




この「それ行け!子連れ海外旅行」のモルディブの章に、ページの管理者であるイルカパパさんの次のような文章があります。


中学、高校でぐんと学力が伸びる子がいれば、小学校の時は優秀だったのに、大きくなると伸び悩むも子がいる。この差はどこからくるのだろうか?

ここでは、こどもの学力をコップと水に例えて考えてみたい。

小さなコップにいくら水を入れようとしてもすぐ満杯になり、水はコップから溢れてしまう。反対にコップが大きければたくさん水を入れることができる。中学、高校で成績がぐんぐん伸びるのはコップが大きい子だ。逆に伸び悩む子はコップの容量が小さい子。

つまり、水=知識、を詰め込むことだけに熱心になっても、片手落ちということ。コップ=学習意欲、あるいは知的好奇心、感性を大きくすることを怠っていたら、子供の学力はコップの大きさにしか育たないのだ。

わたしの経験では、コップを大きくする経験は、残念ながら中学、高校になってからでは遅く、小学生(あるいは幼稚園)のときにしか出来ない。だから小学校の間は、水を入れることより、コップを大きくするための経験を積ませることを優先すべきだと思う。

海や山、自然の中で泥だらけになって遊ぶことで、五感がフルに活性化され、コップの容量が大きくなっていく。ざりがに釣りやもちろん木登りもOK。こどもはこどもらしく夢中になって外で遊ぶのが一番自然な姿ということだ。その時期に塾にばかり通って、こういう自然なこども時代をすごす経験が乏しかったら、片寄った大人になってしまうリスクがとても高いと言えるだろう。(博物館、美術館へ行く、読書をするなどの体験もコップの容量を大きくすると言われています)

もし今、こどもが自由に木登りが出来ないような環境に住んでいらっしゃるのなら、そこはこどもが住むべき場所ではないということだ。




福岡市中央区の小学校ではいわゆるお受験がさかんで、小学生たちが下手したら低学年のころから毎日塾に缶詰めになっている状況です。

私は中学受験のために塾に缶詰めになっている子たちを見ると心配になります。彼らは人生において貴重な時間を決定的に失っているのではないだろうかと。
時計は決して戻すことができません。小学生には小学生にしか経験できないことがあります。

小学生には無限の想像力があります。だから泥だらけになって遊ばなくたって、木登りしなくたって、彼らの世界は広がります。
しかし外の世界の楽しさ美しさを知らずに育った子どもたちの心は内向します。自分の心の中を突(つつ)くように世界が広がっていくのです。
外に目を向けることを知らない子どもたちは、自分の想像界のなかで自足して生きようとします。

学問は内向的なものと思われがちですが、その本質は、外に目が向けられたものです。
数学でも科学でも地理でも、または英語や国語の語学だって、その眼差しは物事の本質を知りたいという強い希求に支えられています。外の世界のすばらしさを知ることが、小学生までの子どもたちに必要なことは言うまでもありません。
イルカパパさんの言うコップの容量が少ない子に、学問に対する本質的な希求は生まれにくいのです。


中学受験は半ば教育業界によってつくられたセールスの一環であることを私たちはクールな頭で見透かさなければなりません。高校受験だって人生において最大の節目なんてことは決してないのに、さもそのような錯覚を抱かせるような進路指導が横行しています。

中学受験、高校受験は、子どもの人生を貧しくしない程度のものでなければなりません。



私は以前、河合隼雄氏と毛利子来氏の対談をこのブログに引用したことがあります。


河合:「(子どもの木登りは、先生が)すぐに「もう下りなさい」とか、「それ危ない」とか言うから落ちるんですね(笑)。黙って見ていたら落ちないんだけれども。」

毛利:「そうそう。あれは大人が我慢できんのですね。大人が見ておってハラハラ、ドキドキに耐えられないものだから、「やめなさい」とか言って下ろさせちまうんですね。だからあれは子どものためと思ってるけど、自分の心配をとるため、自分のため。」



木登りをする子どもたち。それを見ている大人たち。
子どもたちは意気揚々と自分の好奇心を発揮して動き回っている。
しかし、それに我慢できない大人たち。大人は自分の不安を消去するために、子どもたちの活動を妨げる。その結果、子どもたちの足場を危うくする。


大人は本当に子どもより賢いのでしょうか。常に子ども以上の真理を握っているのでしょうか。
そうではないでしょう。大人は一人ひとりがかよわい人間であり、自分のそのときの感情や都合で動いてしまうものです。そのために、かわいいわが子の足場をあやうくすることが多々あるのです。

ですから、わたしたち大人は自分の愚かさを知ることが大切です。
そして、本当に子どものためになることは何か、ということに耳を澄ます必要があります。
とても難しいことです。木登りをしている子どもの前で我慢するのはとっても大変なことです。

しかし、その困難を知った上で子どもと接することが、きっと子どもの幸せにつながるだろうと感じます。



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by terakoyanet | 2011-06-08 14:53 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

進路の決定についての問題提起

多くの中学生はまだ自分の進路を決定することができるほど成熟していない。
進路決定のための材料が圧倒的に不足している子どもに「あなたの意思はどうなの?」と進路の決定をせまるのは理不尽としかいいようがない。

結局、多くの子どもたちは周りの大人の意見を信じて(鵜呑みにして)進路を決定する。
子どもの将来は、親や教師といった複数の重力の作用のなかで選択されていく。

このこと自体は当然の成り行きである。
子どもが道について迷っているとき、そこで介添えをするのが大人の役割である。

ただしこの過程で大人に求められることがある。
それは、私利私欲が混じらない透明さと、子どもの将来に対する炯眼である。


したがって、

(1)
子どもの意思に基づいて決定されているように見えて、その実、親が子どもの意思を完全に制御している場合の進路選択は、子どもにとって不幸である。

(2)
親子の希望よりも、中学-高校間の事前の打ち合わせの中身がものを言うような進路指導(親子の意志を無視して中学-高校間の取り決めを押し通すような進路指導)は、決してあってはならないはずだ。

このことを進路決定における問題の提起としたい。

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by terakoyanet | 2010-12-08 12:49 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

とても、とても苦しい。とても、とても悲しい。

A君は水泳がとても苦手だ。

夏休みに先生と猛特訓をして、随分水には慣れたけど、それでもまだまだ泳ぐのはおぼつかない。
どうしても息継ぎのときに必要以上に頭を上げ過ぎてしまう。
身体の動きが固く、他の子たちより激しいストロークを続けているのになかなか前に進まない。

A君は結局のところ水泳が好きではない。
頑張っても、どうしてもビリになってしまうからだ。

ただし、夏さえ乗り切れば、水泳は終わる。
来年、水泳が始まるまでは苦悶の時間から解放される…。







A君は苦手なのが水泳だからまだよかった。






B君は苦手なのが勉強だ。
頑張ってみても他の子に追いつかないのは、経験上すでになんとなくわかってしまっている。

頑張ってみても負ける試合なんて本当ははじめからしたくない。

でも明日もテストがある。
来週もテストだ。

みんなと同じくらいは頑張っているのに、もっと頑張ってないヤツだっているのに、B君はいい点が取れない。

そしてお母さんに言われるんだ。「もっと勉強しなさい。」「サボるのもいいかげんにしなさい。」

言われるのはまだいい。あのお母さんのがっかりした顔。
お母さんのがっかりした顔を見るのが、一番つらい。


B君は、とても、とても苦しい。とても、とても悲しい。



B君の苦しみと悲しみは実体としてB君の心の中に宿っている。
しかし一方でB君は自分自身の苦しみと悲しみを自分自身で理解していない。

B君は、自分が苦しい、悲しいという声を上げる権利があるとは夢にも思っていない。
僕がダメだからお母さんはがっかりしているのだ。B君にわかるのはそれだけである。
B君の心に残るのは深い失望だ。自分が苦しいか、悲しいかなんて考えもしないけど、ただ、黒く塗りつぶされた深い失望が心に残るのをB君は感じる。
彼が自分の苦しみの原因、悲しみの原因を少しでも理解すれば、彼はもっと救われるのに、彼の苦しみと悲しみは、はじめから心の底にしまわれていて、底から這い上がることはない。


本人にさえわからない苦しみと悲しみ。
お母さんに、B君の苦しみは見えない。悲しみの声も聞こえない。
お母さんにとって、B君はいつまでも何も考えていないただのかわいいバカ息子だ。


B君はやっぱり勉強が嫌い。
しかも水泳と違って、勉強はずっとだ。毎日、授業がある。しかも塾まである。

B君が勉強が苦手だってことはみんな知っているのに、はじめから負けるのがわかっているのに、それなのに、彼は、毎日毎日、レースをして、そしてやっぱり負ける。そして失望する。







勉強がとても苦手な子にとって、毎日、勉強しろしろと尻をたたかれることはどれだけ苦しいことでしょうか。私は彼らのことを考えるとき、泳げないのに、いまにも溺れそうになっているのに、泳げ泳げと怒号をあびている子どもの姿が思い浮かびます。

本当は彼らには、違うステージが用意されるべきなのではないでしょうか。
彼らが自由に羽ばたくことができるステージはきっとあります。
それが用意できないのは、現代社会のシステムの都合の問題であり、彼らには何の責任もありません。


彼らにとって居心地のよいステージではなくても、毎日少しずつ彼らの心に元気とうるおいを与えながら、いっしょに歩んでいこうと隣でお互いの人生の時間を分け合うことも、私たちの仕事だと思っています。



(*私はこの文章を、これを読んでいただいているすべての方ではなく、切実な悩みを抱えるほんのわずかな方に伝わることがあればと思い、書きました。)


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by terakoyanet | 2010-10-20 04:02 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

満ちたりた将来のために

満ちたりた将来のためにいまできるだけがんばっておこうという論理、これは未来の幸福のために現在をとてつもなく貧しくする論理である。-鷲田清一『じぶん・この不思議な存在』-




多くの塾の経営者たちは、鷲田氏がここで言う内容を認めることはできないだろう。
彼らは日々言っているのだ。「いまは苦しめ。ひたすら勉強せよ。そうすれば春が来るのだ。」

しかし私は、仮に仕事がなくなったとしても、鷲田氏のこの言及を支持しないわけにはいかない。


私は子どものころから、いま頑張ったら満ちたりた将来が来る、なんてことは信じていなかった。大人になったいまも、そんなことは信じられないし、安易にそんなことを言うのは無責任とさえ思っている。



努力家の子どもたちが、果たして満ちたりた将来のために勉強しているだろうか?

そうではないだろう、と私は思う。

彼らの目的は、努力することそのものなのである。

努力するという手段そのものが目的なのである。

そして、彼らは努力をしているとき、自分が輝きをはなっていることを知っているのだ。




私は、満ちたりた将来という虚実に向かう子どもたちではなく、いま笑顔で輝いている子どもたちを見たいと思う。

受験勉強というのが、将来への投資という意味合いを多分に含んでいることは承知している。

それでも、受験勉強によって、子どもたちの現在を貧しくしては何もならないのだと思って、日々子どもたちを見守っている。

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by terakoyanet | 2010-08-31 03:05 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)