寺子屋ブログ by 唐人町寺子屋

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2018年 07月 22日

「友達と勉強する」ことについて

いよいよ夏休み! 「友達と勉強する!」と言って家を飛び出す子もいるでしょう。
友達と勉強する是非について質問をいただきましたので、こちらで答えておきたいと思います。
実は、7年も前にこのことについて書いた記事があるので、そちらを引用します。


私は友だちと勉強することが良いとは思いません。
勉強とは自分の頭で理解するものです。基本的に一人でするものです。

友だちとの勉強は甘えが出やすいです。
それどころかただの遊びになってしまって、時間だけがやたら過ぎてしまったということになりかねません。

テスト前(受験前)で時間がないのに、友だちとやるなんて、どれだけ余裕だよ?と思ってしまいます。


友だちと勉強しようと言っている子たちは、言っている時点で心に隙があります。

自分でもわかるでしょう。

がんばろう!!!というより、どこかで遊びたい、楽しみたいと思っているでしょう。

勉強と楽しみは分けて考えないと効率は上がりません。
中途半端に「勉強したい。でも遊びたい。」と思っていては、いつまでも真の実力をつけるような勉強はできないでしょう。

自分の頭をフルに使って懸命に考え込んでいるときに、横に友だちがいてはジャマでしょう。
言葉は悪いですが、私はそう思います。

よほどの理由がない限り、勉強は一人でやればいいのです。
一人で本当に集中しているときこそ、大きな成長の可能性があります。



私の基本的な考え方は、このときと変わっていません。
勉強しなくて遊んでしまう罪悪感から「勉強会」を開いたところで、結局遊んだりしゃべったりしてしまい、なんとも言えない後味の悪さが残るでしょう。遊ぶ時はめいっぱい遊んだらいいのに、なんでそんなことをするのだろうと思います。

ただ、例外もあります。
Aさんが「○○がわからないから教えて」とBさんにお願いして、そうしてBさんが、Aさんがちゃんとわかるまで付き合って教える。そういうことはあります。子どもどうしで良い生徒と先生の関係ができることがあり、そういうときに一緒に勉強した意味が生じることはあります。
ただ、この場合、得しているのがAさんなのはどうしても否めません。Bさんも教えることで発見はあるでしょう。でもこのよい関係を同じ中学生同士で続けるのは、いろいろな意味で無理のあることです。

マンガを読んだり映画を見たりするときに、隣に人がいてもいいけど、結局その世界を味わうのは私一人の心です。
それと全く同じ意味で、勉強をするときには、隣に人がいてもいいけど、結局その世界にのめり込むのは私一人の心です。
勉強にのめり込む際に、隣にいる友達が映画を見るときと同じようにいっしょにのめり込んでくれたらいいのだけど、勉強はそうなりにくい。
だから、勉強は一人でやることに慣れましょう。一人で勉強をするという孤独に慣れることが、学力を伸ばすために一番大切なことです。



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by terakoyanet | 2018-07-22 23:09 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 07月 20日

この時期、体育館での全校集会はやめるべき。

この時期、冷房のない体育館で全校集会を開くのはやめるべきです。
昨日は体育館で熱中症になったと思われる子が複数名授業を欠席しました。いつも元気印のある子は、なんとか塾の授業に来てみたものの、どうしても辛くなって開始40分で帰りました。
別の学校の子は明日2時間も体育館で全校集会があるんです、と曇った顔をしていました。

熱中症になって動けなくなるくらいなら、学校なんて休ませた方がいい。
数日前に電話で話したお母さんは、3日前に熱中症になったばかりのわが子を慮って、そう言いました。


これだけ全国的に問題になっているのに、熱中症になる環境を強いるなんてバカげています。
灼熱の中の部活動も大問題ですが、冷房のない体育館での全校集会は、この時期ほんとうにやめるべきです。
途中で水が飲めないから、自分で自分の体を守れない。そんな危険な環境を子どもに与えるのは間違っています。


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by terakoyanet | 2018-07-20 01:04 | お知らせ | Trackback | Comments(0)
2018年 07月 13日

いじめと不登校

学級でのいじめとか、嫌がらせを受けたことによる不登校とか、そういう問題は本当に途絶えることがない。


やっぱり一番問題なのは、学校にいじめをさせない技術が決定的に欠けていること。

そして、いじめが起こったときに、いったい何が問題だったのか、その根っこの部分を子どもたちに考えさせるための言葉を、先生たちが持っていないこと。

いじめが起こったとき、「担任の先生は何もしてくれなかった。」いじめられた側の親は必ず言います。実際、学校の先生たちというのは何もせずに保身に走っているようにしか見えないことが多い。

でも、実際のところは、担任は何もしないのではなく、何をする技術も持っていないくて、どうすればいいのかわからない、そういう場合が圧倒的に多いのでしょう。(不幸なことに!)



学校の先生は、その場にいる子どもと子ども、子どもと大人の間の関係をしなやかにディレクションできる専門職でなければならない。そうでなければ、先生たちは今日も泣きながら苦しんでいる子どもたちを助けることはできない。



悪いと思っていない子どもに謝らせてはいけない。

悪い子がなぜ悪い事をするのか想像もせずに、悪い子という烙印を押したまま眺めているだけで、何かが好転するわけがない。

悪い子を悪い子として扱うのではなく、一人の人間として向き合ったとき、その子が何でそういう行動をとったのかが見えてくる。そうすれば初めてその子と向き合って話しをしてみることができる。うまい着地点が見つかるかはわからないけれど、まずはその子自体を見ようとしなければ、何も変わらない。


一方で、自分の子どもがいじめられるのが怖くて学校に行けなくなったなら、親は子どもと一緒に不安の沼底に沈むのではなくて、あなたは学校に行かなくったって大丈夫なのよと隣で太陽のように笑っていてほしい。


それだけで、子どもは、僕は、私は、きっと大丈夫なんだという心強さを感じるはずで、こういう時期の子どもにとっては、それが何よりも必要なことです。



念のために申し上げておけば、以上の内容は、本校が所在する当仁校区にいじめが多い、という話ではありません。いまだに当仁中は柄が悪いなんて、そんな噂を立てている人がいるらしく、何言ってんだと思うのですが、当仁中は決して悪い学校ではないどころか、むしろとても良い学校だと、子どもたちの顔を思い浮かべながらしみじみと思います。(もちろん誰かにとってはとても良い学校でだれかにとっては悪い学校かもしれません。でもそれは全ての学校に当てはまるでしょう。)

いじめは私立や国立の中学のほうが、高取中や百道中のほうが少ない、そう思っている方もいるようですが、果たしてそうでしょうか。私はそうは思っていません。どの学校に行っても巡り合わせによっては誰でもいじめに合う可能性があるし、加害者になる可能性だってあるかもしれない。(いまはLINEいじめがほんとうにこわい。)

いじめというのは、悪い子がいるから、弱い子がいるから起こるのではありません。それは人と人との関係性の病なのですから、原因を悪い子に求めるのではなく、私も原因をつくったひとりだという意識を持って、関係性そのものを見極めて対処する大人が必要です。



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by terakoyanet | 2018-07-13 16:01 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 06月 15日

授業のコツ

1年ほど前に、ある同業者(塾の先生)の方から、「生徒を引き付ける授業をするコツを教えてください。生徒を伸ばすためのコツを教えてください。」という内容のメールが来て(実際には自分がどうやって指導をしているか等、いろいろと書かれていましたが)面喰ったことがありました。そもそも、FB(フェイスブック)のメッセージで仕事のノウハウを尋ねるのはおかしな話だと思ったので(だって、たとえばそれって例えば料理家にレシピ教えてくださいってメッセージで尋ねるようなものですよね)まともな返事をしなかったのですが、コツというのは、もちろん意識している部分もあるけれども、もう体が勝手にやっているような無意識的な部分も大きくて、なかなか答えられるものではありません。

集団授業をする人には向き不向きがあって、幸い私は集団授業をするのが向いているのだろうと思います。
その理由は、少し逆説的ですが、私は目の前にいる生徒たちを「集団」として見ることができないという性質を持っているからです。
だから、ひとり具合が悪そうな子が目に留まると、周りの子は関係なしに声をかけるし、授業に集中していない子がいると、「先生はあなたにひとりに向かって話しているのに、なぜ無視するの?」と問いかけます。なぜそうするかというと、単にすごく気になるからです。(私とは違って、クラスの生徒を「集団」として見ることで、全体をまとめあげることに成功している先生もいるでしょうね。)

18年もやっていれば、ノウハウはたくさんあります。こうやって教えたら理解しやすい、そういう材料は、国語・数学・社会・理科・英語、5科目の全ての単元においてたくさん握りしめています。
ちゃんと話を聞いてくれる生徒たちが必ず「わかりやすい」と言ってくれるのは自信になります。(指導者の自信というのは、不思議なほど子どもに驚くほど良く伝わりますね。自信を持って指導している先生の話は、子どもたちはちゃんと聞きます。)
そしてその「わかりやすい」という反応があるからこそ、自分自身の教え方を点検できるのであり、彼らにはとても感謝しています。

でも、集団授業をうまくやるには、指導がわかりやすいだけではダメです。
わかりやすい指導でも、子どもたちがそれを聞かなかったら意味をなさないからです。
子どもたちは1日の学校を終えて、かなり疲労して来るのですから、よほど工夫しない限り、話を聞き続けてはくれないでしょう。

だから、常に子ども一人ひとりの「いま」にアクセスしなければなりません。
「いま」話を聞いていない生徒がいたら、「ほら、いま、話を聞いていなかったせいで、大事なこと聞き逃しちゃった。あーあ、聞けばわかったのに。」そうやって、「いま」のあなたの状況をその場で即座に指摘して、しまった、と思わせなければいけません。惰性で通いがちな子どもたちに、「いまのあなたはどうなの?」ということを常に問いかけることが、とても大切です。

まだまだ、まとめきれないし、書きたいことは山ほどありますが、(質問をくれた人がこれを読むかはわかりませんが、)
質問に対する1年ごしの回答です。


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by terakoyanet | 2018-06-15 01:59 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)
2018年 04月 13日

『ユマニチュードという革命』

「ユマニチュード」は認知症高齢者に対するケアの方法として昨今、脚光を浴びていますが、この本を読むと、ユマニチュードというのは、決してケアの方法にとどまらない、人間同士の本源的な関係の結び方についての作法について語っていることに気づかされます。

そこでは、誰かをケアするときに必要と考えられている専門的な知識や技能が、むしろ思考停止を呼び込み、ケアをする相手との関係性を遮断しかねないという問題意識から、「よい扱い(ビアントレタンス)」という概念が提唱されています。
ケアの現場において必要なのは「適切な距離感」ではなく、「適切な距離感はない。ただ近づくだけ。」とイヴ・ジネストは言います。
それは、「関係性そのものに相手を尊重することがはじめから織り込まれている」から、あえて「相手を尊重しましょう」という必要のない関係性です。

ケアする側が気づかなければならないのは、ケアする側は権力を持っていて、患者や入居者を管理するという発想に陥りがちだということ。医者は「自分は患者を治せる」と思いがちですが、そうではなく「その人自らが治した」のです。そうでなければ、医者は同じ処置をしても治らなかった患者全てに対して「自分が患者を殺した」と言わねばならなくなりますから。
(かつて、塾生が不合格になったから坊主になった塾講師がいました。塾生が不合格になったことを「100%私の責任だ」と言って親や子どもに謝罪した塾講師がいました。[寺子屋にいたわけではなく、伝え聞いたことです。] 私はこれを聞いたときぞっとしました。不合格について100%私の責任だという人は、合格についても100%私の手柄だと言わなければならなくなります。これほど子どものがんばりを無視したものがあるでしょうか。子どもたちは自分自身の力で合格するのです。指導者は、自分が「権力者」になりがちであることに自覚的でなければなりません。)
ユマニチュードで可能なのはケアであり、キュア(治療)ではないことが明言されています。そしてケアとは「相手の能力を奪わない」ことだと言います。(学習指導においても、最も大切なことは、「相手の能力を奪わない」ことです。これを理解しているかどうかは、とてつもなく大きいです。)
自分が権力者だと気づき、その権力を脇に置くことが大切であるということが、この本では繰り返し語られます。

そして「よい扱い」のための具体的な作法として語られるのが、その人の「いま」に注目すること。そして、眼差しを注ぐこと、話すこと、触れること、立位の援助をすることです。
それは、「自分は愛情を、優しさを受取るために人間として生まれてきた。」そのことをお互いが理解するための実践です。

私はこれらのユマニチュードの考えを人と人との関係性そのものの基礎、愛の作法と受け取りました。
私が先ごろ上梓した『親子の手帖』という本は、ユマニチュードの親子実践編ともいうべき内容を書いたつもりです。(この本ほどうまく書けていませんが。)

『ユマニチュードという革命』は構成が素晴らしく、ユマニチュードについて深く理解する教科書として抜群にすぐれています。
これほど哲学的な内容を、これほど簡明に書いた本があるでしょうか。
こちらの本は現在、とらきつねの「生き方の本」の棚に展開中です。

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by terakoyanet | 2018-04-13 09:26 | おすすめの本・音楽 | Trackback | Comments(0)
2018年 02月 06日

いじりといじめは別物ではない。


いじめはダメだけど、いじりはよい。
そもそも、その認識が間違っています。

いじられている子どもがヘラヘラとした笑顔を見せていて、それで周りの大人が安心しているとしたら、大間違いです。
その笑顔は、その子にとって、自尊心の最後の砦かもしれないんです。

いじりだからと見過ごしてはいけません。
いじりの多くは、いじめと同じく一定のヒエラルキー・上下関係に依存した、すごく一方的な暴力です。

だから、バラエティ番組でたびたび登場するいじりが私は好きではありません。
弱者いじりをする人たちを私は見ていられません。

こういうことを言うと、そういうことを言っている人のほうが差別意識があるのだ、という人がいます。

でも、違うんです。そうではなくて、あなたが差別に対して鈍感なんです。
自分自身が差別される立場に転落する、その恐ろしさを知らないんです。


いつも天真爛漫な子どもたち。
目の前にいる友達が大好きだから、思わずお互いに悪口を言い合うじゃれ合いをいつも目にします。
それはとてもほほえましくて、見ているだけでこちらまでうれしくなるほど。

相思相愛のじゃれ合いと、いじりは、明らかに違います。(でも、じゃれ合いというのは、一時的な関係性に依存した脆弱なものということは覚えておかなくてはいけません。いつだっていじり、いじめに転落しうるから。)
テレビで芸人たちが展開するいじりは、いくら本人たちが「そこに愛があるから」と言ったところで、そんなものは言い訳にならない構造があります。他より劣る人、いびつな人、空気が読めない人をあざ笑っているでしょう。

繰り返しますが、いじめかいじりかというのは表面的には違っていても、その構造は同じです。
いじりもいじめの一種なんです。
このことに大人が敏感になっていかないと、けっして子どもたちのいじめの問題は是正されません。


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by terakoyanet | 2018-02-06 10:24 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 02月 01日

カタログ的学習の弊害

先週のDCS(ディスカッション)では、熊大文学部の小論文(2017年)で出題された、内田樹さんの『昭和のエートス』を扱いました。
そこには次のような文章があります。


子どもたちはこれから学ぶことになる教科について、それを学ぶことの有用性や価値について語る言葉をまだ持っていない。しばしば「学ぶことの有用性や価値について語る言葉をまだ持っていない」という当の事実こそが彼らがそれを学ばなければならない理由だからである。
<中略>
学ぶものは自分が学ぶことの意味を適切に言うことができない。だからこそ学ばなければならないのである。
教育はそのように順逆が転倒したかたちで構造化されている。
教育をこれから受けようと思う人間は、カタログを拡げて、自分が受ける教育について時空を超えて俯瞰するような視点(ユビキタス的視点)に立つべきではない。子どもにそれを許せば、教育はその裁量の教育的意義を失ってしまうであろう。

内田樹『昭和のエートス』


これを読んだ鋭敏な高校生たちは、
「よく、何のために勉強するのか、とかいう学生が言いがちな質問に対する完全な回答がここにある」
「子どもがこれを理解するというより、教育をする大人がこれをどれだけ理解しているのか」

そういう話をしていました。

この内田氏の指摘はあまりに重要で、現代の教育に「失敗」している人たちの多くが陥りやすい罠について書かれていると感じます。

内田氏が同じ文章で指摘するとおり、小学一年生は、自分が「国語」を学ぶ理由を適切な日本語で説明することができません。「算数」の合理性について、数学的論理に基づいて述べることができません。しかし、むしろそのこと自体が、小学生が「国語」と「算数」を学ぶ理由なのです。

現在、大人がそのことを理解していないために、子どもの教育にさまざまな弊害が生じています。

まず、いまの大人たちは、「子どもの意見を尊重して」という言い方をしますが、そのときに、子どもが本当に自分なりの理解をしてその選択をしているかという点について考えることを等閑(なおざり)にしがちです。むしろ、自分自身もよくわからないから、子どもの意見を尊重するこという口実によって自分自身の責任を回避するという傾向が見られます。子どもの意思の赴くままに自然に育てるというのは、子どもに親の意識が集中しがちな現代においてとても大切な考え方ですが、一方で、現代の日本は、かつての日本の農村社会のような、子どもの生命力を喚起するような自然環境を失っていますし、子どもに薫陶を与える生き字引のような長老のような存在もおらず、放っておくだけで子どもは生きるための力を身につけることができると考えるのは、やや楽観的すぎるかもしれません。子どもは勝手に育つといいますが、適切な手入れがなければ十分に育たないのです。だから、大人がその手入れをさぼってはいけないと思うのです。

別の話になります。小・中学校教育において、重要視されている「調べ学習」ですが、なぜ科学を学ぶのかを知らない子どもたち、歴史を学ぶのかを知らない子どもたちに対して「調べ学習」を押し付けることは、(全くではないにせよ)あまり意味がないと言わざるをえません。子どもたちは、調べるための視点とその必然を理解できていないのですから、そういう子たちに調べることをやらせてみたところで、大人の一時的な評価を得るために、参考書のまねごとをするような空疎な内容になるのが関の山です。そんなことをするよりも、子どもを惹きつけるような、それは面白いと膝を打つような話を通して、子どもたちに知識と知恵を吸収させることが大事です。「調べ学習」ができるようになる、というのは結果的にそうなるはずなのに、はじめから調べ学習をやらせるなんて、生まれたての鳥に、いいから飛んでみろといきなり巣の中から外へ放り出すようなもので、うまくいくわけがないのです。高校や大学も、アクティブ・ラーニングなんかやるより、いまやっている勉強が、実は自分自身のことだ、自分の人生と確かに繋がっている、そう感じさせる授業ができれば、子どもたちは勝手にアクティブに動き始めるんです。本当はそれが子どもの自発性を伸ばすということであり、教育の力というものではないでしょうか。

最後に、私が日ごろ実感していることについての話です。
小学校のころは優秀だったのに、中学以降は伸び悩む、そういう子たちがいます。
そういう子たちの中には、小さいころにカタログ的学習を身につけた弊害がはっきりと見える子がいます。
勉強の世界というのは、私たちの生存の周りに無限に拡がっているものなのですが、小さいころからカタログを与えられた子どもというのはそのことに対する感度が抜け落ちてしまいます。彼らは、勉強はカタログから選ぶものと思っていて、カタログ外に世界が拡がっていることを知りません。さらにカタログの中から自分が楽できるもの(それが仮に他のものに比べれば相対的に興味があるものだとしても)だけを選ぶ癖がついてしまっています。そういう子たちは、カタログ外のことが目の前に現れても、それはムダで意味がないと半ば無意識に捨象する癖がついていますから、中学以降、カタログに捉われずに新しい知識とあらゆる事象とを縦横無尽に結び付けていく他の子に比べ、どうしても応用的な思考力が劣ります。数学的、言語的に鋭い反射能力を示す子はたくさんいますが、それがその子にとっての生きる思考になっていないのです。



それにしても、教育の問題について、高校生と話すのはエキサイティングです。
教育の問題を話しているようで、どうしても、自分のこれからの生き延び方についての話になるのが、とても面白いです。



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by terakoyanet | 2018-02-01 03:32 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 01月 24日

You can lead a horse to water but you cannot make it drink.

You can lead a horse to water but you cannot make it drink.

昨日の中3Sクラスで登場したこのことわざの意味は、

「馬を水のところに連れて行くことはできるが、馬に水を飲ませることはできない。」

私たち指導者たちもそうです。
子どもたちを水のある場所に連れて行くことはできます。
でも、水を飲むかどうかは、最終的には子どもたち次第です。

よい個別指導の教師は、子どもの傍にいますから、その水を口元まで運んであげることができます。
よい集団授業の教師は、その子どものすぐ近くに、水を飲んでいる別の子どもがいることを生かして、その子が自分ひとりで水を飲む力をつけることを促すことができます。

それでも、水を飲むかどうかは、最終的には子どもたち次第です。

昨日、このことわざがでてきたとき、子どもたちにその話をしました。
受験に必要な知識の99.8%を教え終わったいまなら、きっと伝わると思ったからです。

この時期の受験生たちは、自分の本質的な弱点にいよいよ向き合っています。
そんな彼らを見て、その真摯さに胸を打たれるし、彼らは受験を通して、ちゃんと成長していると感じるのです。


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by terakoyanet | 2018-01-24 13:04 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2018年 01月 22日

「安楽」を追い求めること

今日の高校コースの現代文では、藤田省三氏の「『安楽』への全体主義」を取り扱いました。
これは、1980年代に書かれた文章ですが、最近でも、東大、東北大、法政大、西南学院大、早稲田大など、あらゆる大学の入試で出題されている、よく知られた文章です。

この文章の中には、「安楽への隷属状態」という言葉が出てきます。
私たちは、日々「安楽」を求めるあまりに、自分の不安を取り除くことに躍起になっています。
不安が自分の不幸の原因になっているからには、それを何よりも優先的に取り除かなければならない、それが取り除かれた状態を「安楽」と呼び、それが他の全ての価値を支配する、唯一の中心価値になることが「安楽への隷属状態」と呼ばれています。

「安らぎ」というのは、本来は、私たちに自由を与えるものであるはずです。
私に「安らぎ」があるとき、私たちは他人に寛容になります。そして自分自身にも寛容になるので、自由な発想、自発的な創造が生まれる源となります。

しかし、「安楽」を求めること自体が、日常生活の中で四六時中忘れることのできない目標となってくると、事情は一変します。
そこでは、心の自足的安らぎは消滅し、安楽への狂おしいほどの追求と、安楽喪失への苛立った不安が、かえって心中を満たすことになります。こうした、安らぎを求めるがあまりに不安になるという「安らぎを失った安楽」という逆説的な精神状態こそ、現代を織りなす心象です。

だからこそ、私たちは
「不安」を動機に動いてみても、ろくなことにならない。
このことを、いつも心に携えておくべきだと思います。なぜなら、人が「不安」に突き動かされているときには、いつだって、他人への寛容が失われているし、自分の心をちゃんと見つめることも、自分自身を大切にすることも、できないのです。


日々、子どもたちを見ていると、子どもたちが大人の不安の犠牲になっていることを感じることがあります。
大人が「安楽」を追い求めるあまりに、子どもたちが大人の不安に巻き込まれるということが多々起きているのではないでしょうか。

「安楽」を追い求める大人は、子どものことを見ていません。子どもが失敗したら、それを全て子ども(または自分以外の周りの人)の責任にしてしまいがちです。その結果、子どもは「大切にされている」という手ごたえを十分に得ることができません。
でも、子どもにとって、その手ごたえほど大切なものはないのです。

しかしながら私は、手ごたえの有無を、それを享受させる責任を、これまでのように親だけにすべて任せてしまうのは、難しい気がしています。現代の親が「不安」の申し子だからこそ、塾という家庭でも学校でもない場所が、子どもに「大切にされている」という手ごたえを与える場でなくてはならないと思いますし、それは、これからの塾に求められる不可欠な条件であるとさえ思っています。「不安」の申し子たちは、そうやって協働して生きてゆかねばならないと思うのです。


現代のあらゆる洗練化(=ジェントリフィケーション)はそのほとんどすべてが、不幸の源そのものから目を背け、追放しようとする欲望で動いており、その動きがはじめから不安を分かち難く内に含み持っている限り、私たちがその運動と付随する不安から逃れるのは至難の業です。

しかし、こうした私たちの「安楽」の追求が、かえって安らぎの欠如をもたらしているという矛盾を知ることは、きっと大切な生きるヒントになります。寛容への扉を開き、人を大切にすることについて考える契機になります。




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by terakoyanet | 2018-01-22 23:59 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2017年 12月 30日

高校の朝課外のこと。(西日本新聞より)

数日前から、昨年こちらに書いた「朝課外」という名の強制授業は選択制にすべき。の記事のアクセスが急騰しています。

12月27日西日本新聞の朝刊1面に載った、この記事の影響だと思われます。
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この記事を書いた大坪記者から、本校と、近隣の進学校(公立)に通う本校のAさん(記事内の高校1年女子)も取材を受けました。
Aさんが「朝課外は本当に不要」「意味ない」「朝課外が必要と思っている人とかほぼいない」とはっきり言っていたことが、印象的でした。(そこまで言うとは思っていなかったので。)

実質「強制」の朝課外には、生徒と保護者から異論の声が噴出しているのは事実です。
私はきっといつかこういった「必修」の朝課外はなくなると思っています。
そして、いつかなくなるのなら、生徒のため、ご家族のために、一刻も早くなくすべきと思っています。

記事の趣旨にそった形で、朝課外はあってもいい、でも「必修」である必要はありません。そう言いたいところですが、本音を言ってしまえば、学校の先生の勤務時間のことも考えると、私は朝課外自体なくしてしまってよいと思っています。朝課外は非効率です。時間が早すぎますから。もし課外が必要ならば、取材のときにAさんが言っていたように、部活動の時間を短縮してでも放課後に持っていくべきだと私も思います。







by terakoyanet | 2017-12-30 09:00 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(2)