タグ:教育のこと ( 73 ) タグの人気記事

4月13日(土)に行われたお話し会「平成の子どもたち」。
入場を制限させていただく満席での開催になりました。
ご参加いただいた皆さま、そして登壇してくれた高校生たち、改めてありがとうございました。
d0116009_19234005.jpg
当日は以下のような流れでお話しをさせていただきました。

●はじめに 親と子の関係 『親子の手帖』のこと

●言葉で伝わるという誤解

●こどものことが「わかる」ということ

●今昔のこども観

●理解のある親とこどもの精神

●社会の多様化と子どもの不安定化

●高校生たちに聞く、現代の学校 実学偏重の現代教育

~高校生たちに話を聞く 高3竹内さん

●AIの時代の新たな主体
~高校生たちに話を聞く 高3仁藤くん・高2永戸くん

●「ことば」を取り戻す

●「コミュニケーション」の弊害

●こどものことばに応答する

●意志と責任





当日、ご参加いただいた方々にご感想、ご意見をいただきました。
読み応えがあるものばかりで、確かに、なるほど、と何度も頷きました。
全てを紹介しきれませんが、一部だけ掲載させていただきます。
もう、いただいた感想だけでも、ZINE(小冊子)を作りたくなるような充実ぶりです。
ぜひ読んでいただければと思います。


***


わからないものをわからないままにして、一緒にいるというのは、とても難しいと感じています。
私が子どもと接するのが苦手なのはこのためですし、大人となら話せるというのもまた、一般常識やマナーを足場にしていればとりあえず大丈夫というだけのことなのだと思います。
子どもに限らず、他人をわかったつもりでいることがアブないですね。


リセットについては、世代で認識がくい違うように感じました。
(中略)彼らのゲーム性は、リセットして始めからやり直すという意味はうすいと思います。
リセットはたぶんしません。なかったことにはならないので。
ただ、あのときこのとき、こうしていたら、こうしたらという"if"の自分・世界が無数にあって、それに異和感がないということかなと思いました。あくまで私の感覚です。
だからこそこれから先の自分にも無数のルートがありえるし、選ぶことができるように思いますし、選ばなかったが確かにありえたはずの自分を思って悲しむこともあるように思います。

→「if"の自分・世界が無数にあって、それに異和感がない」の部分、なるほどー!と思いました。


定期的にお聴きしたいと思うお話でした。
大人も今の子供達と同じ価値観になるというのはかなり難しいし、特にお話し会に興味を示すことがないような「大人」にとって、ほぼ不可能な気もするため、とても為になった今日のお話を、動画で配信していただけたら、そのような「大人」とも少し共有し、話し合いの場をもてるかもしれないと思いました。(中略)
是非またこのような会を設けて頂けるとありがたいです。
今日はとても面白い考え、反省させられる会をありがとうございました。


今日の講演を拝聴することができて良かったです。
子供の考え、親の考え、最近は子供の成績が下がり、責任の押しつけをしました。
今日伺って、私は間違えているなと思いました。
先ず、子供の話にしっかり耳を傾けていきたいです。


今日は初めて”お話し会”に参加させて戴きました。(先生の本は読ませていただきました。)
とても和やかな雰囲気で楽しい時間でした。
私は"The 昭和"の年齢の為、余計に現代のネット社会は(便利さは活用させて貰っていながら)怖さの方が強くて余り良く思っていませんが、子供はこれからその社会で生きていくので、少し自分の認識や価値観も変化させて戴かないとと思い直しました。


一番、痛かったのは”そう育った”を受け入れること、子どもの欠点を認めることができないのは、親が自分のことを受け入れていないからだというお話でした。今一度、自分を振り返る時間を持とうと思います。何とか上手く子供との関係を築ける様に、自分との関係を考えます。


初めてお話し会に参加させていただきました。
今まで子どもの事をわからない事がはずかしかったり、駄目だなと思って焦ったりもしていました。又、正論をぶつけて、反論させない様にする事もありました。
お話しを聞いて、私は、私なりで良いのかも知れないと思ったし、正論をぶつける事の弊害(主体性が育たなくする)がある事を気付かされました。
貴重なお話しをありがとうございました。


理解のある親の子はもろい子になりやすいというお話は衝撃的でした。
我々の古い世代と、今の高校生達は違うOSで動いているというお話が面白かったです。
リベラルアーツが大事ということが再確認できました。高校生の生の声が聞けて良かったです。

d0116009_19541243.jpg

高校生のエネルギーに圧倒されました。彼らの現状と、私たちが気づいていない古くて新しい生き方を体得していることについて私は全くの無知でした。
私のような頭のカタイおやじに向けて、もっと数多くこういう話をしてもらえる機会が増えていったらいいのになあと思いました。
ただ、最終盤、エネルギーと情報量の多さに脳がつかれてしまいました。何回か聞いて、予備知識も入れてくる必要があるなと感じました。
大変貴重なお話の機会をいただき、ありがとうございました。


私には4歳になったばかりの娘がいます。
毎日毎日言い合いになり、自分の大人気無さに嫌悪する日々を過ごしています。
とりあえず今日家に帰ってからは、私はこの子のことは理解できないのだから、話を良く聞いて、一緒に喜んだり、悲しんだりすることに集中しようと思います。
楽しい時間でした。ありがとうございました。


とても面白い内容でした。
子供がこの春、小学校に入学し、社会への一歩を踏み出した喜びを感じているのがよく分かる一方で、自分の手を離れていくつつあり、その心の中はよく分からないなあと思っているところでありました。
自分がおしつけられた教育を受け、そのことにも気づかずに大人になってしまったので、子供にはおもしろい人生を送ってほしいなあと思っています。


深く余韻の残るお話がたくさんありました。
子どもに関わる仕事をしていると、親へのアプローチのむずかしさは私も感じます。
子どもは素直でまっすぐでやわらかく変化していく。
まず変わらなきゃいけないのは大人で、その姿ふるまいを子どもに見せていく、身体化していくべきだというのは、なるほどその通り!と思いました。
全体的に”よくわからない”それでいいんだなーと思いました。もっと本を読もう。

d0116009_19545123.jpg

ゲーム的な考え方のお話しの中で、”リセット”についての議論を聞いた際に、自分の小学校の頃の学校教師の話を思い出しました。
恐らく20年近く前になると思うのですが、ある同級生の無鉄砲な行動に対しての説教で、「今の子どもは、マリオのゲームみたいになんでもリセットできると思っている。死んだら元には戻らんのやぞ!」と激しく怒っていたこと、それを聞きながら、僕ら生徒は、内心ポカンとしていたこと(なにやら世代間ギャップがあるかもしれないということで)・・・などいろいろと当時の情景がでてきました。

リセットということ自体が、世代間で認識がかなりくい違っているような印象です。リセットということばには、”やり直し”や“元通りになる“といった意味合い以外に、”死”の概念にかなり近いニュアンスでとらえる人も多いのかもしれません。そうなると、鳥羽先生がおっしゃっていたように、リセットに対して抵抗がある人が多いのも、(特に上の世代で)当然かもしれないなあ、と漠然と思っていました。


先月のうきはでのお話を聞いて、もう一度聞きたいと思い参加しました。
私は現在○○歳ですが、地元の公立小中学校に通い、さらに地元で「一番良い」と言われる公立高、国立大を出て、公務員になりました。
周囲からはずっと、親孝行だと言われ、自分でも特に迷うことも違和感を覚えることもなく過ごしてきました。

どちらかというと楽観的な性格ですが、ものすごく楽しい、ものすごく何かをやってみたいと思うような場面もなく、ただ単に冷めた性格なんだろうと自己分析していたのですが、鳥羽さんの話に出てくるいろんな親子が、私の母と私自身に当てはまるものばかりで、やっと私の親子関係の歪さに気がつくことができました。

でも、やっぱり30年近くの関係を変えるのは難しいし、見放すこともできないことも分かりました。鳥羽さんが紹介してくださった本が、自分の気持ちを自分で認識して、「本意ではないけど、今はこう生きるしかない」と"選択して"受け入れる助けになっているような気がします。
感謝の気持ちを伝えたくて長くなりましたが、書かせていただきました。ありがとうございます!

→もっとも心に残ったご感想のひとつです。気持ちを伝えてくださったこと、ほんとうにありがたく思います。


『親子の手帖』を読み、今日の話を聞きたいと思い参加しました。
小6男子の親ですが、自分で考える力をつけてほしいと思って育てる中で、本人が話すときはよく聞き、質問されたら、私のわかる限りで答える、をしてきたのですが、それが、子供の考える芽を摘むーと聞いてショックを受けております・・・ なので、これから、私もわからないことがたくさんあるから、一緒に学ぼう、考えようという心持ちで過ごしたいです。どちらかというと、素直すぎるところがあるのは、反論させなくしてきたのかも、と、これも考えさせられました。


今の若い子の考え方、時代の変化も、私が知るようにしないと、子供の話を聞くことも、自分よがりになってしまうな、と思いました。
いつの間にか、私が”昔は良かった”とつぶやくおばさん世代になっていてびっくりしました。自分のこれまでのストーリー、今の時代、子供のことを分からない自分と自覚すること・・・。日頃考えないことを考えた時間でした。
リベラルアーツの話を聞いて、今まで読んだことのない本を読みたくなりました。ありがとうございました。


今回のトークショーを拝聴して、とても心に残ったのは、”守られる子供”という概念が近代につくられた子ども像だということ。
今、ちょうど岸政彦さんの本を読んでいたこともあり、”特権”を持つ者への差別というキーワードと自分の脳内で連鎖させてしまった。
ただまさに生きづらい平成の時代を生きる高校生たちの前向き(彼らからすれば一般的な?)な言葉にとても勇気づけられた。
むしろ彼らを勇気づけたいと思っていた自分の無意識な差別意識に気づく始末で、とても恥ずかしいと思う。


大学職員として勤務していた際、信じられるほどの予算をつぎこんでアクティブラーニングをする場所(空間)を作った。まさに地獄。
学生たちは議論などせず、YouTubeを観ていた。正しい使い方かもしれない。YouTubeではなく読書空間にして、知の土台を作ってくれたらと思う。
ただ、自身の知の土台が未熟であるために、なかなか理解に時間がかかり、また、分からないことも多くあった。
お客さまが「動画配信」してほしいとおっしゃっていて、私も同意見です。
そのお客さまは、分からなかったのではなく、とても心に響いたので、もう一度ゆっくりじっくり聴きたいということだと思います。大切な話を自分の中にアーカイブしていく作業はとても難しいです・・・。ありがとうございました。


鳥羽先生が「平成の子供たち」で仰っていたので、息子に「勉強しないの?」と言わずに「勉強しない現象について、どう感じていらっしゃいますか?」と聞いたら、「へ?」と答えました。昔から訳の分からない子ですが、どうぞこれからも宜しくお願い致します。


***


この感想を共有すること自体、このイベントの醍醐味だったのではないかと思えるほどのたくさんの実のある言葉、ありがとうございました。
この日お話しした内容の一部は、秋口くらいまでには発刊できたらいいなと思っている私の新刊に掲載される予定です。
『親子の手帖』とあわせて、新しい本のほうもよろしくお願いいたします。



とらきつね on Facebook 随時更新中です。


by terakoyanet | 2019-04-24 20:26 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

子どもの状況が改善しないからと言って、すぐに部活動をやめろとか、塾をやめろとか、自身の状況判断だけで早急に何らかの結論を出そうとする親がいますが、それによって何かが好転することはまずありません。


そもそも、改善していないという認識自体が間違っている場合があります。(親が「子どもの状況が悪化している」と主張するときさえ、実際には悪化しているどころか好転していることが度々あります。)
子ども自身は日々変化しているのに関わらず、親がそれに気づいていない、または親の焦るスピードの方が子どもの変化のスピードを上回っているということが度々あります。


子どもの状況は親が待つことさえできれば好転することが多いのに、親が待てずにちゃぶ台をひっくり返すようなことをするから子の手元には何も残らない、そういうことがたびたびあります。でも、そういうとき、多くの子どもは、親は自分のためにやってくれている、と解釈するから、親が自身のそれまでの努力を踏みにじることをしているのにかかわらず、子どもは自分が悪かったと考えてしまい、結果、自己否定感ばかりが募ります。そしていつも子どもに許されてしまう親は、いつまでも反省しません。そうやって、親はいつまでも反省することなく子どもを傷つけ続け、その結果、身動きのとれない子どもが醸成されます。


子どもの状況が変わらないと親が嘆いているときは、単に親の方が待つことができていないだけです。
変化のスピードは、子どもによってさまざまです。
親が思うような速さで子どもが変わらないからといって、子どもに何かを断念させたり、子どもから何かを奪ったりすることは、子どもの大切な自尊心を傷つけるだけです。



とらきつね on Facebook 随時更新中です。


by terakoyanet | 2019-03-23 01:40 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

今夜、イベントに出るため『ことばの生まれる景色』(辻山良雄/nakaban)を読み返しています。この本については少し前に文章を書きました

d0116009_01083769.jpg


本というのは、2回、3回と読むと、明らかに読みが変化してくるので面白いですね。すでにリンクの文章を書いたときとは随分読みが変化したことを感じます。本との相互理解のようなものが深まっていく体験というのは、他に替え難いものです。

この本の中で、永井宏さんの『夏の仕事』が紹介されているのですが、永井さんにまつわるエピソードとして辻山さんは次のように書いています。

美術作家であった永井は、自分の周りに集まってくる人に対し「とにかく気持ちに正直になって、何か作ってみろ」と、いつもけしかけていたという。その態度は、多少美術の心得がある人だけに限らず、何も作ったことのない人に対しても常に同じであった。「そのときあなたは、どう感じたのか。」そうした個人の実感を、永井は何より大切にしたのだろう。
-『ことばの生まれる景色』辻山良雄/nakaban (ナナロク社)

これは、毎日でも自分自身に言い聞かせていきたいと思う言葉です。
何かを作らなければ生きていくことさえできなかった時代から私たちは遠く離れて、すっかり忘れてしまっているけれど、本来、誰でもやり続けさえすれば、何かを作ることができるし、そこに必要なものは正直さというシンプルなものくらいしかないのだろうと思います。「そのときあなたは、どう感じたのか。」これに集中することが、良い仕事をすることなのだと、私は信じています。

私が中学生を指導する際の授業(国・数・社・理・英 全てを教えています)では、明確な時間割というものを設けずに、生徒たちのその日の表情・様子・理解度を見て、その都度何をやるかということを変化させます。今日の数学はいまがピークでこれ以上進むと理解度が下がるなと思えば、躊躇なく他の科目の指導にその場の判断で切り替えるのです。子どもたちの反応が想定と違えば、せっかく必死に作成したプリントをそのまま捨ててしまうことも厭いません。授業というのはライブです。子どもたちを見て、自分がどう感じたのかということに信頼を置いた上で、その都度に判断を続けていくのです。ですから、その授業には「時間合わせのための時間」というものが存在しません。1科目1限あたり50分というような時間の区切りがはじめから決まっていると、どうしても「時間合わせ」のために無味な時間が生じてしまうのです。時間割を設けずとも、全体として辻褄があえばよいわけで、そういう授業を最初の年から17年間続けてきました。だから、常に「いま」に反応しながら「あなたは、どう感じたのか」を頼りに仕事をしていくことが、仕事から裏切られない唯一の方法だと私は思っています。

本の話から随分逸れてしまった気がします。
明日は辻山さんと「正直になって」話がしたいです。どこか自分自身に深い不安・自身のなさのようなものを抱えている私にとって、それはとても難しいことなのですが。辻山さんという正直な人を裏切りたくないです。

今晩のトークは こちらで30秒ほどで予約できますので、話を聞いてみたいなあという方はぜひ(僅かな勇気を持って)気軽にお越しください。会場(場所は天神)の「本のあるところajiro」で展示中のnakabanさんの原画は、いかにもajiroさんらしいセレクトで、見応えありです。また、全国の本屋と、本物の読書家たち、作家たちから注目され、愛される「本屋Title」を運営する辻山さんは、経営者としても、読書家としても、そして作家としても、語るべきものを持っている方です。ぜひご参加ください。



とらきつね on Facebook 随時更新中です。


by terakoyanet | 2019-03-19 01:52 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)

先週、東京の文京区シビックセンターにて講演(『親子の手帖』お話し会)を行いました。
お話しをするのは今年6回目になります。(東京3・大阪1・京都1・福岡1)
d0116009_14465579.jpg
主催の香取さん、桜井さんは、心の深いところで話を感じてくださる人たち。再会を楽しみに出かけました。

d0116009_15010878.jpg
会場では、有志による手話グラレコが行われました。

手話を通してグラレコをするというのは、とてもチャレンジングなこと。

私の話 → 手話 → グラレコ(絵と言葉)
という経路で情報が伝達されます。

桜井さんは、「伝わる」ことより「伝わらない」ことを土台にコミュニケーションを考える人。
私は、「伝わる」と信じて疑わない人よりも、「伝わらない」ことを知っている人を信頼します。

そういう人が、手話グラレコに挑戦していることは面白いことだと思いました。


内容は、


親と子の間、人と人の間、私と私の間の話       

1 目の前の子どもは「他者」かもしれない

●今日お話しすること

●親と子のいびつな関係

●子どものことが「わかる」ということ

●彼女はそのままに世界を見ていた

<ブレイクタイム 旅の話>


2 皆さんからいただいた言葉から

  ●皆さんから事前にいただいていた質問に答える時間



その他にも、お子さんについて、人との関係について、深く、切実に考えている方々が参加されていて、大切な時間になりました。香取さん、桜井さん、時間がぎりぎりになって、ばたばたさせてしまい、ごめんなさい。



・・・



来年の2月に附属福岡小で行われる「12歳からの哲学」と題した小学6年生の研究指導に参加することになりました。先日の打ち合わせでは、担当の先生が子どもや学校のことを真剣に考えていることがひしひしと伝わってきました。(先生は『親子の手帖』もしっかり読み込んでくださっていました。)


6年生に哲学的アプローチをするのは難しいことです。揺らぎやすい子どもたちの心が、さらに不安定化する危険があるからです。(だから本校ではディスカッション[哲学的な問いを立てて議論をする授業]は高校生のみに参加させています。高校生は、最も哲学に接近しやすい年代だと感じるから。)でも、日ごろから6年生を教えている身として、多くの子どもたちは「根本的な物事」については興味津津であるという事実を知っています。だから、面白くなりそう、という予感だけはすごくあります。




・・・



『親子の手帖』はさまざまな場所で販売していただいていますが、糸島のくらすことさん(今年の夏にはカフェ「おやつと雑貨 くらすこと」をオープンさせて話題になりましたね)のご紹介が、丁寧でまじめで好きです



自我が芽生え、自分を確立していく過程にある思春期のこどもたちと向き合う親は、これでいいのだろうかと様々な問題に苦悩し、正解がないからこそ迷う。
子育てにマニュアルはない。どんな親かにより、どんな子かにより、その親と子の組み合わせよって、ベストな解は異なるからだ。

毎年、150人以上の子どもたちが通う、福岡市にある学習塾「唐人町寺子屋」の塾長を務める著者が、一心に子どもたち、親たちと向き合い紡がれた物語。
受験、成功体験、カンニング、発達障害、学力と差別、不登校、いじめ、夫婦関係、理解のある親、幻想の共同体、中1ギャップ、第三の居場所、スペクトラム化する社会、親の葛藤、子の自立…
それらはフィクションの形をとりながらも、ひとりひとりに真摯に寄り添って来た著者の道筋を、感じ見ることができる。

親ならば、できることなら辛く険しい道ではなく、最適と思える道を歩いてほしいという願い。
そんな願いや期待を捨て、目の前の子どもの声にただ耳を傾け、正直に対峙することでしか、答えはないのではないか。個と個とし、ひとりの人間同士として。
マニュアルはないけれど、そんな唯一の方法に気がつかせてくれる、親子の教科書のような本。
お母さんをはじめとする、子どもに関わる方々への精一杯の応援の気持ちも込められています。
子どもが思春期を迎える親たちにぜひ読んでほしい、そんな一冊です。

くらすことさんのカフェ、今年中にはきっと行きたいと思っています。





とらきつね on Facebook 随時更新中です。


by terakoyanet | 2018-11-12 15:35 | 行事・イベント | Trackback | Comments(0)

「うちの子はがんばっているのに、成績が伸びないんです」

他の塾から当校に移ってくる生徒は毎年何人もいるのですが、その際に時折、お母さま(ときにお父さま)から聞く言葉です。わたしはこの言葉を聞くと、いつも「そうだろうか?」と思います。

「がんばっているのに、成績が伸びない」というのは、大抵、親の勝手な解釈なんです。
実際は、「がんばっているからこそ、いまの成績が維持できている」のかもしれないのに、ただ、学校や模試において点数が伸びてないという表層的な理由に基づき、子どもに対し「成績が伸びない」という烙印を押す。がんばっているのなら、それが現状の子どもにとってはベストに近い状態かもしれないのに、その斜め上を見て、「成績が伸びない」と断定してしまう。それは親の願望でしかありません。そして、このことによって傷つく子どもは多いです。

「がんばっているのに、成績が伸びない」
親がそう他人に主張しているとき、大抵の子どもは親が「私のことを一生懸命考えてくれてる」「私はなぜ伸びないんだろう」と考えますから、子どもが親のことを嫌いになることはありません。目の前の親が高望みをすることで、自分自身を傷つけているのに、子どもは決してそう解釈することはありません。子どもというのは、大切な親を救うためには、自分自身を損ねることを厭いません。親は子どもを救っているつもりで、何度子どもに救われればそのことに気づくのでしょうか。

「がんばっているのに、成績が伸びない」
親がそう他人に主張しているとき、「うちの子はがんばっているけど、勉強のやり方がわかっていないから、成績が伸びない」という考えが含まれることが多いです。それはつまり、「そもそもうちの子は勉強のやり方がわかっていないし、それを的確に教えてくれる人がいない」という他者(たとえば学校や塾)に対する不満を含んでいます。(塾を移ってくるときに、最初にそのことを口にする方が多いのは、それが理由のひとつでしょう。)しかし、勉強が「わかる」という真の経験がある人たちは、きっとそんな考えを持つことはありません。なぜかと言えば、その人たちは、勉強のやり方というのは、自らの手によって掴み取ることによってしか、得られることのない類いのものだからということを知っているからです。「馬を水辺に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない。」このことわざは、最終的には自分の意志でがんばらなければならない、というような単純な意味ではなく、学問でも他の分野でもそうですが、指導者ができることは、ある問題の解決のための具体的な方法を教示するところまでであり、実際にそれが「わかる」ようになるのは、本人の手によってでしかないという、学習というものの本源的な性質を示すものです。指導者として大切な素質は第一に「本人の能力を奪わないこと」であり、それを土台にしつつ「問題解決の糸口を見つけやすくしてあげる」(これは案外難しいことですから、指導者には能力差があるのです)ことに尽きるのですが、「うちの子はがんばっているのに、成績が伸びない」と主張する親たちはたびたび子どもが「わかる」こと自体を他人に依拠しようとします。これは、水辺で馬に無理やり水を飲ませようとしていることと同じであり、うまくいかないどころか、子ども自身にとっては完全にマイナスにしか働かない所為と言わざるをえません。「解決そのものを他人に依存すること」を教えるのは、親が無自覚に「本人の能力を奪う」例として、私がこれまでに幾度も見てきたことのひとつです。

「がんばっているのに、成績が伸びない」と言われ続けた子どもというのは、自分自身を他人に高く大きく見せがちになります。虚栄心が強い子どもになりやすいのです。その結果、なんとなく周囲から浮いていると感じる子も少なくありませんし、そのくせ自己否定感が強く自分を大切にできない、どこにも居場所がないように感じられる、他人にも興味がもてない、そんな大人に育っていく子も少なくありません。いつもどこか「偽物」である私を感じていて、何冊自己啓発本を読んでも、何度セミナーに参加しても、満たされることはありません。親から「解決そのものを他人に依存すること」を教えられた子どもの苦しみはそうやってずっと後を引くことがあるのです。

「うちの子はがんばっているのに、成績が伸びない」なんて、子どもに言わないであげてください。
がんばっているなら、それが現在の子どもの力です。その結果も含めて、全てを認めてあげてください。

d0116009_07130567.jpg


とらきつね on Facebook 随時更新中です。


by terakoyanet | 2018-10-28 07:13 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

もともとアクセス数が多かったのですが、最近アクセスが集中している、いまからちょうど10年前の10月(2008年10月)に書いた記事「カンニング行為について」ですが、この記事を大幅に加筆・修正したものを、拙著『親子の手帖』に載せています。それにしても、この記事へのアクセスが多いということは、どれだけ多くの人たち、現場の先生たちや親と家族、そして当事者(子ども)がカンニングをめぐる問いや悩みを抱えているかということを物語っていると思います。

カンニングは「悪いこと」というより、子どもの何らかのシグナルであることがあります。
また、カンニングをした子どもに「悪い子」のレッテルを貼ることが大きな問題を引き起こすことがあります。

カンニングはその子の問題というよりは、その子の環境の問題なのだという意識を持ち、大人が知恵を絞ることが求められています。

拙著では、カンニングへの対処についてだけではなく、行為をした子どもと親の関係についても踏み込んで書いていますので、この記事が気になった方は、お手にとっていただければ幸いです。



『親子の手帖』、多くの方に手にとっていただきありがとうございます。
昨日のAMAZONランキングでも、部門別(出版社別)で1位をいただいています。

ちなみに福岡市内の図書館では、少なくとも、総合図書館、中央図書館、西部図書館、和白図書館(コミセン和白)の4か所で蔵書・貸出があるそうです。
d0116009_00592512.jpg


とらきつね on Facebook 随時更新中です。


by terakoyanet | 2018-10-11 01:01 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

ちょうど5年前の10月3日に、「塾は勉強をする場所でありさえすればよい。」という記事を書きました。
それを以下に再掲します。



・・・

道徳とか行儀とか、そういう付加価値(にすらならないが)を売りにする塾は詐欺以外の何者でもない。


Twitterでちょっとキツめの言葉を吐いたのは私のある知人。


昨今、「道徳」や「行儀」を教えることを「売り」にする塾が存在する。
中には「行儀のよさ」や「親孝行」をポイント化して、ポイントに応じて商品をあげるという、かなり悪趣味な塾も存在する。

私は「道徳」や「行儀」を塾で教えることも、それを「売り」にすることも嫌だ。
ましてや教室での「行儀」や家庭での「親孝行」に対して塾がポイントを付与するなんて、狂っているとしか思えない。そんなことは許されないとさえ感じる。


私は「道徳」や「行儀」自体を否定するつもりはないが、「道徳」や「行儀」といった社会の「常識」、または「社会」そのものに対して疑問を持った子どもたちに対し、その疑問を頭ごなしに否定するような、知性のかけらもない対応をしたくない。「頭ごなしに常識を押しつける人間も必要」という考えもあるかもしれないが、私は私自身の性質上、その考えに与することはできない。


私はかつて日本の村落に存在した寺子屋的学び舎に「道徳」や「行儀」を学ぶ場としての意義があったことを否定しない。最近読んだ宮本常一の本には、村落にとって寺子屋的学び舎がどれだけ生き生きとした意義をもったものであったかということが活写されていて、非常に興味深い。

しかし現在「道徳」や「行儀」を教えると謳う塾にとって、それらを教えることは、単に教室の「付加価値」を高めるための戦略でしかない。そこで教えられる「道徳」や「行儀」は、教える講師にとっても、教えられる子どもにとっても、決して必然性という纏いを帯びることのない空疎なものである。


このことに関連して、私がずっと心にひっかかっていることがある。
2007年に本校がN新聞に取り上げられた記事の本校の紹介のなかに、次のような一文があった。

「塾を勉強するだけの場所とは考えず、精神面の指導にも力を入れているのが大きな特徴。」

私は、こんなこと言ってないし!!精神面の指導とかしてないし!!と思ったけれど、声を大にして言うまでもないかと考え直し、当時、新聞社に抗議するようなアクションはとらなかった。

しかし、6年以上経った今になってもやはりこの文言は気になる。

私は、塾は勉強をする場所でありさえすればよい、と考える。
しかし、勉強を教えている過程で、不意に生徒と心が行き交う機会が訪れることがあるのだ。
そして、結果的に、生徒に精神的な影響を与えることがある。しかしこれは「結果的に」なのである。
はじめから「精神面の指導をするぜ!」とか絶対に考えていない。

夏合宿などの行事も、生徒たちの精神面の指導をするという大義のもと行っているわけではない。
第一に学習力向上のためであり、第二に教室環境(生徒―生徒間、生徒―講師間)を整えるためであり、そして子どもたちの屈託のないあの笑顔!が最高だから行っている。

本校がずっと生徒を集め続けることができるのは、精神面の指導といった「付加価値」のためではなく、単に「勉強をする場所」として優れた部分があるということを、生徒と保護者が認めてくださった結果だと思っている。
「付加価値」で勝負しようとするなんて、塾の指導力の弱小さを披歴するだけ。あくまで勉強をする場所としての完成度を高めなければ。

塾は勉強する場所でありさえすればよく、心や精神は結果的にあとからついてくる(ことがある)。
私はこのスタンスで塾を続けていくことが肝要だと考えています。




・・・

1Fにお店があったり、イベントが行われて行列ができたりするから、誤解されがちなのですが、いまもこのスタンスは全く変わっていません。お店やイベントは付加価値を求めて外付けしたようなものではなく、塾の仕事の延長上に自然発生的に生じたものです。

子どもと保護者にとって、塾というのはシンプルに、成績を伸ばす場所であればよいのです。
(通う子どもに聞けばわかりますが、)本校はそれをただひたすらに実行しています。

子どもと親の学力を向上させたいという気持ちを叶えるのが塾の仕事です。


おととい、けんすうさん(古川健介さん)


とつぶやいて、そう、確かに、と思いました。
AIが普及すると仕事がなくなる、そんな悲観的な話ばかりが聞こえてきます。
でも、そんなのはウソで、AIが普及すると、単にいまの仕事の質が変わるんです。

塾でも、子どもへの知識的指導の負担が少し減って、その代りに子どもたちのその都度の気持ちにこたえたり、AIの学習プログラムとの相性が悪い少数の子どもへのケアが充実したり、そんな未来が考えられるかもしれません。
いま、単に採算が合わないという理由で顧みられていない細やかな部分に、新たな価値が見出されるというのは、決して悪いことではないでしょう。

経営に求められていることは、一時しのぎにすぎない付加価値のアイデアを思いつくことではなく、いま、目の前で求められていることは何かを考え抜くということに尽きます。そうすれば、AIが普及して、仕事が変質していくさなかでも、柔軟な対応ができるでしょう。柔軟に対応するというのは、いま必要なことを見抜いて、変化を怖れずに行動するということです。私たちもまだまだ力不足ですが、そのことを大切にして、これからも仕事をしていきたいと思います。



とらきつね on Facebook 随時更新中です。


by terakoyanet | 2018-10-03 10:21 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

昨日は、西南学院中学・高校の教職員様の研修会で講演を行いました。

d0116009_08354590.jpg


d0116009_08362640.jpg
前半・後半各1時間ずつ、次のような内容についてお話しをしました。


前半

1 現代の宗教と学問について 

宗教が力を持たない時代/科学と宗教/歴史学について/正しさ vs 正しさ/
ピラトの尋問の場面に現れる他者性の問題/メタファーとしての宗教と哲学/
可塑性が「共通了解」の土台をつくる


2 実学偏重の教育
   
手段の目的化を疑わない実学/MITの教養教育・リベラルアーツ/
マラケシュの修道院/学問と祈りは近接している/祈るとは(池澤夏樹の文章)                      

3 現代の子育てを取り巻く諸問題  
 
唐人町寺子屋のこと/拙著『親子の手帖』について/親に伝えるのは難しい/植本一子さんのこと/
「正しさ」を探しまわる親たち/「きまり」について/現代の親の苦しさ/
言葉では伝わるという誤解/子どもに対して、祈り、接すること



後半

1 公私の対立を超えて 
  
社会の多様化と子どもの不安定化/壁になれない親/西南の生徒たち/
杉並区教育委員会の「哲学による教育政策」プロジェクト/公と私という二分法の弊害/
私を充実させることで自ずと公や社会とつながる/e-ポートフォリオの問題点/遊びと企て


2 人と人との間の作法
   
ユマニチュードについて/よい扱いとは/キュアとケア/相手の能力を奪わないこと
関係そのものに、尊重する要素が含まれている


3 関係性、それ自体が私なんだ
   
人と人との間を、地政学的に見る/世界は分けてもわからない(福岡伸一)/
私たちはひとつの現象である/関係そのものが私である/
アラン・チューニングの「人間の心」について/森田真生の「人間の心」について/タマネギの主体/
新しい西南に向けて ー教養の学府として、存在のゆりかごとして



宗教や信仰について、歴史学について、大学入試改革に対する懸念など、西南という場所だったからお話しできたことが多々ありました。本質的な話がしたいと思ってお話しをしましたが、先生方が驚くほど心の深いところから言葉を絞り出して、本音でお話しをなさっていたことが印象的でした。昼食時の先生3名の話は心に残るものでした。講演後の分班による話し合いの場でお会いした先生方はとても魅力的でした。そして、寺子屋の卒業生が西南の先生になって、会場にいた!とてもうれしかったです。

今後もこうして学校の先生たちと継続してお話しをする機会があれば、私にとっても有り難いことだと感じました。


とらきつね on Facebook 随時更新中です。


by terakoyanet | 2018-08-30 09:07 | お知らせ | Trackback | Comments(0)

いよいよ夏休み! 「友達と勉強する!」と言って家を飛び出す子もいるでしょう。
友達と勉強する是非について質問をいただきましたので、こちらで答えておきたいと思います。
実は、7年も前にこのことについて書いた記事があるので、そちらを引用します。


私は友だちと勉強することが良いとは思いません。
勉強とは自分の頭で理解するものです。基本的に一人でするものです。

友だちとの勉強は甘えが出やすいです。
それどころかただの遊びになってしまって、時間だけがやたら過ぎてしまったということになりかねません。

テスト前(受験前)で時間がないのに、友だちとやるなんて、どれだけ余裕だよ?と思ってしまいます。


友だちと勉強しようと言っている子たちは、言っている時点で心に隙があります。

自分でもわかるでしょう。

がんばろう!!!というより、どこかで遊びたい、楽しみたいと思っているでしょう。

勉強と楽しみは分けて考えないと効率は上がりません。
中途半端に「勉強したい。でも遊びたい。」と思っていては、いつまでも真の実力をつけるような勉強はできないでしょう。

自分の頭をフルに使って懸命に考え込んでいるときに、横に友だちがいてはジャマでしょう。
言葉は悪いですが、私はそう思います。

よほどの理由がない限り、勉強は一人でやればいいのです。
一人で本当に集中しているときこそ、大きな成長の可能性があります。



私の基本的な考え方は、このときと変わっていません。
勉強しなくて遊んでしまう罪悪感から「勉強会」を開いたところで、結局遊んだりしゃべったりしてしまい、なんとも言えない後味の悪さが残るでしょう。遊ぶ時はめいっぱい遊んだらいいのに、なんでそんなことをするのだろうと思います。

ただ、例外もあります。
Aさんが「○○がわからないから教えて」とBさんにお願いして、そうしてBさんが、Aさんがちゃんとわかるまで付き合って教える。そういうことはあります。子どもどうしで良い生徒と先生の関係ができることがあり、そういうときに一緒に勉強した意味が生じることはあります。
ただ、この場合、得しているのがAさんなのはどうしても否めません。Bさんも教えることで発見はあるでしょう。でもこのよい関係を同じ中学生同士で続けるのは、いろいろな意味で無理のあることです。

マンガを読んだり映画を見たりするときに、隣に人がいてもいいけど、結局その世界を味わうのは私一人の心です。
それと全く同じ意味で、勉強をするときには、隣に人がいてもいいけど、結局その世界にのめり込むのは私一人の心です。
勉強にのめり込む際に、隣にいる友達が映画を見るときと同じようにいっしょにのめり込んでくれたらいいのだけど、勉強はそうなりにくい。
だから、勉強は一人でやることに慣れましょう。一人で勉強をするという孤独に慣れることが、学力を伸ばすために一番大切なことです。



とらきつね on Facebook 随時更新中です。


by terakoyanet | 2018-07-22 23:09 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

この時期、冷房のない体育館で全校集会を開くのはやめるべきです。
昨日は体育館で熱中症になったと思われる子が複数名授業を欠席しました。いつも元気印のある子は、なんとか塾の授業に来てみたものの、どうしても辛くなって開始40分で帰りました。
別の学校の子は明日2時間も体育館で全校集会があるんです、と曇った顔をしていました。

熱中症になって動けなくなるくらいなら、学校なんて休ませた方がいい。
数日前に電話で話したお母さんは、3日前に熱中症になったばかりのわが子を慮って、そう言いました。


これだけ全国的に問題になっているのに、熱中症になる環境を強いるなんてバカげています。
灼熱の中の部活動も大問題ですが、冷房のない体育館での全校集会は、この時期ほんとうにやめるべきです。
途中で水が飲めないから、自分で自分の体を守れない。そんな危険な環境を子どもに与えるのは間違っています。


とらきつね on Facebook 随時更新中です。


by terakoyanet | 2018-07-20 01:04 | お知らせ | Trackback | Comments(0)