6月27日の雑感

現在公開中の映画、WE ARE LITTLE ZOMBIES (ウィーアーリトルゾンビーズ) を見ました。
この映画は福岡出身、2003年生まれの似顔絵師、モンドくん(奥村門土)も出演。
子どもたちの演技、すごく自然で、リアルでよかった。

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私たちはデフォルトで孤独だし、絶望ダッサだし、無理ゲーばかりやらされて頭の中は冷め切ってるよ。

小気味好く大人たちがバカにされてて笑えるし、でも大人含めて悪人はいないし、キズが疼くし、観てる自分も「今」の頭が冴えわたってくるし、最高にメタエモい映画です。



昨日の三者面談で(もう2か月近く毎日のように三者面談をしています)あるお父さんが「学校が終わっても勉強だよ、大人になっても一生勉強だよ」と言っていた。私もそうだと思う。

これまでに得た知見だけで生きようとすると、そのうち人は砦を作り、守りに入るようになる。
そして守るために自分より弱い人(親であれば子どもであることもある)に攻撃をしかけることもある。
自分の狭い了見なんてとうに通じないのに、それを押し通そうとして周りを巻き込む人は、端的に言って迷惑だ。

だから、こういう世の中にマシンガンを撃つような映画を、良識的になりがちな大人は摂取した方がいいと思う。



定期テストの返却が続々と。
今回は平均点が適正な学年が多く、いい結果が出た子はすごくいい顔しています。

中3には頑張ったつもりなのにいまいちだった子も。中3になるとみんな頑張っていて得点が上がるから、どうしても自分の実力の斜め上を見て傷ついている子もいる気がします。周りに巻き込まれないで、自分でマイペースに日々の学習を重ねていくことが、何より大切です。


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by terakoyanet | 2019-06-27 16:40 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)

「この世界の片隅に」を観ました。_d0116009_11583589.jpg


少し前になりますが、キャナルシティのユナイテッドシネマで「この世界の片隅に」を観ました。
過去数年で一番好きな映画になりました。

戦中・戦後の広島市と呉市が舞台。話は思いのほかテンポよく進んでいきます。
最先端のアニメ技術が駆使されているわけではないけれど、海や山、町なみ、建物、軍艦、どれをとっても絵が素晴らしかった。素朴ながらもきらめく瀬戸内の風景、海の色も、夕日の色も、確かにこの色だ。そう思いました。

主人公のすずは「普通の子」。彼女は、ただ言われるがままに結婚し、結婚した先の苗字もあやふやなまま、夫の家のある呉に引っ越します。戦争が始まっても、空は、海は、変わらず美しい。飛ぶ蝶々を追うのも、蟻の行列を辿るのも楽しい。軍港に出入りする立派な軍艦を眺めるのも楽しい。夏には蝉がうるさく鳴くし、冬には雪が積もる。そこにはどんなイデオロギーもちょっかいを出す余地がなくて、ただ日々の小さな発見や驚きが、彼女の「右手」によって描き留められていくのです。

しかし、戦争の影響は次第に彼女たちの生活を圧迫します。そんな中で、すずがなけなしの食材を使っていろんな創作料理をこしらえるシーンが楽しい。私はたまたま先日、暮らしの手帖さんが編集した『戦争中の暮しの記録』を買って読んでいたから、彼女がやっている工夫の中身が詳しくわかって面白かったです。この映画の副読本としてぜひおすすめ。戦時中もこんなに普通だったんだ、そんな当たり前のことを改めて実感できるのは、今を生きる私たちにとってうれしいことで、なんだか元気が出てくるのです。

後半は悲しくてやりきれない話が続きます。私はこの悲しさが、映画を見た後もしばらく続いて、本当にずっとやりきれませんでした。この映画の最後の方に「救い」を感じる人もいると思うけれど、私はむしろ、この映画の、普通の女性が、何も選ばずに、ただ生きた、そしてたまたま悲劇に遭遇して、心がずたずたになって、大好きなはずの夫の声も聞こえなくなって、そして時間が経ってようやく少しずつ自身で心を取り戻していく、その必然としか現実としか言いようのない描写の中に、ただただ、人の悲しく美しい人生を感じました。これは戦争映画ではありません。人の生をそのまま扱った映画です。

宮崎駿などの巨匠でさえ、男性作家は女性を「美化」してしまう。その結果、彼らの作品を観た一部の女性たちは、その理想的な女性キャラを見て、女性という入れ物から自身が疎外されてしまったようで反発を覚えざるをえないのですが、この映画のすずさんはそういった女性キャラの副作用的なものがなく、ただの女性だったのが素晴らしかった。そして、すずに命を吹き込んだ、能年玲奈(のん)さん、彼女の作品に対するシンクロ率の高さに改めて驚愕。こんな映画、次はいつ出会えるのだろうか。そう思わせる作品でした。ぜひおすすめです。



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by terakoyanet | 2016-11-21 12:54 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

夏目漱石は、小説『虞美人草』に登場する甲野さんに次のように言わせています。


「眼に見るは形である」と甲野さんはまた別行に書き出した。
「耳に聴くは声である。形と声は物の本体ではない。物の本体を証得しないものには形も声も無意義である。何物かをこの奧に捕えたるとき、形も声もことごとく新らしき形と声になる。これが象徴である。象徴とは本来空の不可思議を眼に見、耳に聴くための方便である。……」


これは、人が「物」と言うときには、それはいつでもすでに言語化、象徴化されたあとの「物」でしかないのに、人はそれが実体の「物」でもあるかのように扱う、という洞察に基づいています。人が「物」を自明の「物」として観たその瞬間に、「空の不可思議」は永遠に過去のものとして葬り去られ、代わりに〈信=真〉が立つのです。そしてもともと「物」の場所に「空の不可思議」があったことも忘れてしまい、わたしたちは言語化、象徴化された世界を「現実の世界」として疑うことなく、そこでぬくぬくと生きていくこととなります。

これと似た洞察が見られたのが、映画「マトリックス」です。

平凡な日常の中にいた主人公が、ある日突然に見知らぬ人たちから「真実に目覚める」というピルを渡されます。そのピルを飲んだ主人公は、それまで現実と思ってきたもの全てが、コンピュータが作り出したヴァーチュアルな幻想に過ぎず、実際には人間は、コンピュータに神経を接続されたまま、水槽の中で眠らされてその幻想を夢の中で見ているに過ぎないことを理解します。こうして「真実」に目覚めた主人公は、夢見る人間たちを覚醒させるという目標のために、コンピュータウイルスのように回路に侵入することで、そのコンピュータの支配に闘いを挑むことになるのです。

コンピュータと闘う人間は、ヴァーチュアルな世界に対して距離を置き、その世界を象徴的なものに覆われた巨大なテキストとみなすことで、解釈によってはその世界は別の意味を持ち得るものだと考えています。一方で、コンピュータに繋げられて夢を見ている人間にとっては、「この世界」は絶対的なものとして存在しており、実在と意味(象徴)は疑いなくピタリと一致しています。彼らが「この世界」を絶対化し、その実在を信じて疑わないのに対し、「この世界」を相対化できる者だけが、現実の世界に目覚め、真実に触れる自由を得られるというのです。

この映画をSF的なものとして見ていた観客たちは、次第に気づき始めます。これは単なる奇想天外な物語ではなく、あまりに「現実的」な話であり、日常の中にいる私たち、「この世界」の実在を信じて疑わない私たちが、いままさに覚醒させられようとしているということに。

では、日常生活が一つの夢というテクストであり、それが意味を支配する魔法にかけられているようなものだとすれば、その魔法がとけたときに、私たちに何が見えるのでしょうか。マトリックスの中で描かれるのは、ヴァーチャルな世界を相対化し、そこから離れたとしても、そこで拠り所となる真の現実が立ち現れるわけではない、という困難です。「この世界」を現実そのものとして固く信じて疑わない態度そのものが、あらゆる幻想の実体だとすれば、「この世界」を相対化して覚醒すべき「別の世界」を目指すことは、新たな「この世界」を立ち上げるふるまいにすぎないのです。


このようなアポリアについて考察していくと、『君の名は。』がなぜせつないのか、という回答のひとつにたどり着きます。


「目覚めても忘れないように名前を書いておこう」
「君の名前は三葉」
「…大丈夫、覚えてる!」
「三葉、三葉…。三葉、みつは、みつは。名前はみつは!」
「君の名前は…!」
「………!」
「…お前は、誰だ?」
「…俺は、どうしてここに来た?」
「あいつに……あいつに逢うために来た!助けるために来た!生きていてほしかった!」
「誰だ?誰だ、誰だ、誰だ………?」
「大事な人、忘れちゃダメな人。忘れたくなかった人!」


『君の名は。』において、瀧は三葉のことを、三葉は瀧のことを、大切に思っていて、その名前を絶対に忘れたくない。でも忘れてしまう。

ここには、人間の根源的な悲しみがあります。
人は象徴という意味を支配する魔法の中で生きていて、その魔法が消えてしまっては、私とあなたとを繋ぐ回路を失ってしまうということです。象徴というのは、夢から醒めたらすぐに消えてしまうような脆弱なものなのに、それを失ってしまっては、私はどんなに思ってみても、私があなたに何かを届けるすべは何もなくなってしまうのです。そして、失ってしまった後では、何を失ってしまったかということさえも忘れてしまうのです。

「君の名は。」映画のタイトル自体となっているこの言葉は、意味作用のはかなさ、そしてそのはかないものに頼らざるをえない私たちの関係性そのもののはかなさを痛切に叫ぶ声そのものです。


世界がこれほどまでに醜い場所ならば、俺はこの寂しさだけを携えて、それでも全身全霊で生き続けてみせる。この感情だけでもがき続けてみせる。ばらばらでも、もう二度と逢えなくても、俺はもがくのだ。納得なんて一生絶対にしてやるもんか、神様にけんかを売るような気持ちで、俺はひととき、強くつよくそう思う。自分が忘れたという現象そのものも、俺はもうすぐ忘れてしまう。だから、この感情一つだけを足場にして、俺は最後にもう一度だけ、大声で夜空に叫ぶ。
 「君の、名前は?」





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by terakoyanet | 2016-10-05 13:13 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

先日まで映画「アクト・オブ・キリング」が福岡のKBCシネマで上映されていたのですが、時間がとれず、遂に見逃してしまいました。市内じゃなくても近くで上映されていないだろうか、と思って調べてみると、佐賀市にある、いわゆる単館系の映画館(ミニシアター)、シアター・シエマ"THEATER CIEMA"で上映中であることがわかり、GW以来の休みをもらった今日、はるばる佐賀まで出かけてきました。

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映画館の前に着いたのは17時からの上映の40分ほど前。
場末感ただよう建物の雰囲気に、甘木(私が青春時代を過ごした田舎町)にもこんなゲームセンターがあったなと、懐かしさと慄きとが交錯する心情で建物の中に入ります。

エレベーターの扉が開き、3FのCIEMAに着くと、そこには外観からは想像もつかない、良い意味で期待を裏切られる空間が広がっていました。
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シアターの隣に寛げる雰囲気のカフェがあり、豊富な種類の飲み物を注文することができます。また、カフェのカウンターには無添加の焼き菓子や手作りの個性的な雑貨が並んでおり、買い物をしたり、お菓子を頬張ったりすることもできます。

カフェで注文した飲料はシアター内に持ち込み可ですから、早めに来た人も、直前に来た人も、時間を気にせずにゆるりと空間を楽しむことができます。

しかもシアター内に入ってびっくり。通常の映画館仕様の座席のほかに、カフェのような広々としたテーブル席もあり、カフェで注文した飲み物や焼き菓子、ホットドッグなどを丸テーブルに置いたままに、映画を楽しむことができるのです。これほど、ささやかだけど素敵な贅沢さを味わわせてくれる映画館に私は初めて来たので、ちょっと感動してしまいました。

今日の17時からの上映で観客はたったの6名。
平日の夕方ですし、人口規模が福岡とは比較にならないほど小さい佐賀ですからこんなものなのかもしれませんが、この映画館が長く存続するためには、まずは佐賀の若者たちへの啓蒙活動が欠かせない、それだけでなく、古湯や熊の川、武雄や嬉野といった温泉地に遊びに来た人たちを佐賀市に呼び込んで、この素敵な映画館でひとつ映画を観ていきませんか、そんなPR活動が必要なのではないかと感じました。

シアター・シエマの存続のために、デジタル化に必要な膨大な費用を募金でまかなう運動をしている団体「シエデジ会」があることを知り、微力ながら募金箱にお金を入れてきました。
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佐賀での新しい楽しみをひとつ見つけることができてとても嬉しい1日でした。
どうかこれからもシアター・シエマが存続し、佐賀の人たちに、よい映画が届けられますように。



ちなみにシアター・シエマは佐賀県庁近く、すぐそばには大楠や河童伝説などで知られる松原神社があります。付近にはオシャレなカフェも点在し、散策が楽しい場所です。
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肝心の映画「アクト・オブ・キリング」については、そのうち時間があれば何か書いてみたいと思っています。


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by terakoyanet | 2014-06-05 00:32 | 好きな場所 | Trackback | Comments(0)

ドラマ『リーガルハイ』を見ていて、そしてドラマの主人公である古美門研介を見ていて、19世紀のドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェとその思想を連想することはそれほど難しいことではない。

ニーチェが『この人を見よ』の冒頭で「苦痛を申し立てずにはいられない」として槍玉にあげた「隣人愛」を、ドラマの中で果敢に実践する男こそ、NEXUS(=「絆」)代表のミスターウィンウィンこと羽生くんであり、その浅はかさを看過して彼を徹底的に叩きのめすのが
古美門研介その人である。この意味で少なくとも『リーガルハイ2』は「隣人愛」(絆) vs「超人」の戦いであったと言っても過言ではない。

そして戦いの結果、最終話にて明らかになったのは、「隣人愛」を実践する「人たらし」羽生くんは「超人」古美門氏に「ルサンチマン」を抱いているだけでなく、古美門氏を、その髪の分け目さえもいとしく思えるほど「愛して」いるという驚愕の事実であった。

最終話では、これまでのモヤモヤが次々に解消され、これまで我慢した甲斐があったなと思わず膝を打った。古美門は、前話までに描かれた、羽生くんの好意と同情とにより解消されたいくつかの争いが、いまではさらに醜悪な顛末を迎えていることを匂わせる。このことはニーチェが「同情の手が一個の偉大なる運命、痛手を負うた孤独、重い責務を背負っているという特権の中にまで差し延べられると、時と場合によっては、かえってそれらを破壊してしまうことさえある」(『この人を見よ』)と述べた事象を思い出させる。これまで「勝ち負けではない」と言いつつ「みんなを幸せにする」という道義的な解決をすることで結果的に「勝ち」を見せつけていた羽生は、最終話で完全に勝者の座から引きずり下ろされ、代わって「超人」古美門の勝利が高らかに宣告された。(その後も「勝者」のように振る舞う羽生に対しては「あいつはバカなのか」と古美門はただ呆れるしかなかったが。)
そして、黛弁護士が古美門のもとに戻り、三木弁護士が古美門への怨念を取り戻し、本田ジェーンが陰キャラに戻る。天啓を受けたかのようにすべてが元サヤにおさまる明るさは「永劫回帰」さながらで痛快だった。


さて、現在、全国の小規模映画館で絶賛上映中の映画『ハンナ・アーレント』は、
1961年のアイヒマン裁判を傍聴し、雑誌「ザ・ニューヨーカー」に論文を掲載した結果、世界中のシオニストたちからバッシングを受けた当時のアーレント(ドイツ系ユダヤ人の女性哲学者)の単独者としての苦悩を描いたものである。

数百万人のユダヤ人を強制収容所に送る指揮をとったアイヒマンは、ユダヤ人への差別心と憎悪から大量の殺人を犯した、人間性のかけらもない極悪非道な輩だと誰もが思う中で、アーレントは、自身が収容所に送られた経験を持つユダヤ人であるのにかかわらず、アイヒマン裁判がいかに独善的で不公正なものであるかということ、そしてアイヒマン自身がいかに普通の人間であるかということを詳らかにする。

アーレントは、アイヒマンが犯した悪の凡庸さと陳腐さを描くことで、私たちが外部に「悪人」を措定したその瞬間から、悪の本性が隠されることを指摘する。アイヒマン裁判ははじめからアイヒマン被告という「悪人」が独り立ちしており、その「悪人」ゆえの「悪業」が裁かれたという意味で、悪の本質についての考察がなされていないことをアーレントは深く憂えている。

リーガルハイ2の第9話にはこのシリーズの真骨頂とも言うべき場面がある。
殺人容疑で起訴された安藤貴和。彼女が殺人現場から出る場面を見たという証人が多数いるという検察に関し、「安藤貴和に見えたに違いない。みんながそれを望んでいるから。人は見たいように見る。聞きたいように聞き、信じたいように信じるんです。」「検察は、証拠によってではなく民意によって起訴したんです。」「愚かな国民の愚かな期待にも応えなければならないんですか。」と矢継ぎ早に古美門は問いかける。
「民意」という名のもとに、安藤貴和が「悪女」としてレッテルを貼られたがゆえに、それに沿った証言が得られ、さらにその「悪女」ゆえの「悪業」は「死刑に処すに値する」ことであるして世論が高まる。古美門はそのような民意を「愚かで醜く卑劣」だと言う。

自らの愚かさ、醜さ、卑劣さを隠したいがために、他者に「悪人」という主体を押し付け、そのことで安心する私たち。最終話で
「我がままで勝手で狡くて汚くて醜い底辺のゴミ虫」である私たちだが「醜さを愛する」―つまり自らの「醜さ」を受け入れることで「悪」を他人になすりつけないーことだけが唯一の解決法であることを示した展開はあっぱれの面白さであった。


ただひとつ、心にひっかかる問題が残る。
クルトの問題である。

アーレントは『イェルサレムのアイヒマン』を執筆したせいで、家族同然の愛すべき友人クルトから背を向けられてしまう。映画『ハンナ・アーレント』のなかで、最も悲しいシーンのひとつである。

いかにアーレントの単独者としての姿勢に畏敬を払う者であっても、危篤状態にかかわらず渾身の力でアーレントに背を向けるクルトを責めることができることができる人がいるであろうか。

悪の本性のようなものを仮に語ったとして、巨大な「悪」から大きな損害を受けた当事者たちにとって、それがいったい何の意味があるのか、ということである。
当事者たちにとって「悪」には「悪人」のような主体はないなんてことが、果たして耐えられることなのだろうか。そのことを考えずにはいられませんでした。






※文中の『この人を見よ』の和訳は、新潮文庫『この人を見よ』(西尾幹二訳)より。 


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by terakoyanet | 2013-12-19 12:16 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

今日はテレビで「コクリコ坂」があったんですね。
今日の授業で2年生のある女の子が『「コクリコ坂」を見ようと思っていたのに。』と、ぷんぷんしているのを見て知りました。

見た方どうでしたか。
私は1年半前に映画館で見たのですが、とっても面白かったです。

良さがわからん・・・と特に若者たちの多くが言っていますが、
私は年を重ねてきたせいでしょうか。
堪能できました。

アニメ映画といえば、私は昨年「おおかみこどもの雨と雪」を見ました。
とてもいいですが、でも私は「コクリコ坂」のほうが好きです。
近年のジブリでは一番好きです。




以下は2年前に私が書いた感想です。
いま読むとちょっと斜に構えた文章ですが。

―――――


先日、ジブリの「コクリコ坂から」を見た。

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*ホークスタウン(生徒曰くホータン)のユナイテッドシネマにて。


ノスタルジーがつまった映画。

挿入歌に坂本九の「上を向いて歩こう」が使われていたが、私はこの曲を聴くたびに強い憧憬が心をよぎる。その憧憬とは、この曲が持つメッセージが真っ直ぐ人たちの心に届いていた時代に対するものだ。いまよりずっと純粋でずっと単純だった時代に対する憧れ。

一度、この映画の主人公たちと同じく1960年代に青春時代を過ごした人たちに尋ねてみたいところだ。本当にこのような時代はあったのですか?と。



話が逸れるが、2001年にウルフルズとRe:Japanが坂本九の「明日があるさ」をカバーした。
私はそのとき、この時代にこの曲をカバーするなんてバカげていると思った。
ニコニコと「明日があるさ」と歌う歌手を見て、なんて空疎なんだと思った。なんて無神経なんだと思った。バカにしていやがると思った。

集合写真でひとりだけ笑っていない人に、無理やり笑顔をつくらせるような強引さ。
「明日があるさ」と高らかに謳っておきながら、実際には「明日がない」というネガティブな共同体がはじめから前提とされており、それでもカラ元気を出して「明日がある」って言っとかないとねという強迫的とも言える所作を感じ、身震いがした。「明日がある」と言っている奴らが実際のところ一番ペシミストじゃないか、と思った。



で、本題に戻ってこのコクリコ坂。
すべての嫌悪すべきものが排除されていた。大人のいやらしいところなど微塵も描かれておらず、恋の駆け引きも何もなく、ただひたすらさわやかだった。その徹底したさわやかさにとても好感を持った。

この物語を観て強いノスタルジーを感じるのは、1963年を経験していない私たちであっても青年時代に体験したことがある真っ直ぐでひたむきな思いがそこに描かれているからだ。
実際のところ、私自身に真っ直ぐでひたむきな時代があったかどうかはわからない。しかしこの映画には、私自身がかつてこのような気持ちを抱いた時代があり、そしてこれからもそれを大切にしたい、と思わせる力があった。これぞ物語の力だ。

映画のディテールにも優れたところが見られた。
私たちの世代には全くなじみのないカルチェラタンのカオス的な雰囲気。
下宿人が描いた油絵から、海が旗をつけた船を発見する場面の色彩。
学校の理事長を廊下で待つ場面のコミカルな時代描写。
思わず笑みがこぼれるシーンがいくつもあり、観ながら穏やかな幸福感を感じた。


強迫的に希望的未来を押しつけるより遥かにすぐれた方法で、私たちに明るい未来のあり方を教えてくれるこの映画が私は好きです。


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by terakoyanet | 2013-01-12 00:07 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

エヴァQの主題歌

なんとなんと本日公開のエヴァQ「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」の主題歌が宇多田ヒカルとのこと。
現在お休み中なのに、エヴァのために特別につくった新曲のようです。
うれしいではありませんか!


PVは本日から3日間だけ公開されるそうです。




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by terakoyanet | 2012-11-17 05:07 | おすすめの本・音楽 | Trackback | Comments(0)

一昨日の個別指導の最後のタイミングで3年生のMさんが「モーモールルギャバンいいですね。」と言っていて驚愕しました。思わず「変態やね」と問題発言が出てしまいましたが(褒め言葉だったのですが)、中学生でもモーモールルギャバン聴いてる子がいるんだなーーーとめっちゃ感心してしまいました。
まだお試しでない方はぜひ。(ただし15禁指定をかけたい楽曲が多いので注意が必要です。)



今日は、今年のポップソングのうち、オススメの曲をいくつか紹介したいと思います。
6月に同様の記事を書いていますので、別の曲を選びます。今回はポップチューンのみのセレクトです。


■Perfume - スパイス
今年も最高のポップアクトはPerfumeだと思っています。しかもさらに加速度を増して一方向への完成度が高くなっています。同じヤスタカ氏のPON PON PON(きゃりーぱみゅぱみゅ)もめっちゃよかったですね。



■東京事変 - 21世紀宇宙の子
先日、東京事変の福岡サンパレス公演に行きました。なんと座席が前から5列目で、最高のライブでした。この曲はちょっと聴き込むとドラムとベースがとてもいいです。震災後に書かれたという、「閃光少女」や「透明人間」の系譜に連なる名曲。



■カミングスーン - オリジナル・ラブ feat.スチャダラパー
私たちの世代からすればちょっと懐かしくもスペシャルな組み合わせのこの楽曲は、久々に脳天直撃をくらう超名曲。



■くるり - 最終列車
映画「奇跡」の挿入歌。主題歌の「奇跡」は今年最高峰の名曲ですが、こちらの挿入歌もとてもいいです。
映画「奇跡」は映画館に出向いて見ました。いい映画でした。そのうち気が向いたらレビューでも書きたいと思います。
*動画を探しましたが見つかりませんでしたので、一度ご紹介した名曲「奇跡」を再度掲載します。




■遠くの町 - S.R.S
数年前に映画「重力ピエロ」主題歌Sometimesでデビューしたときに、彼らが当時は北九州高専を卒業したばっかりの十代だったので、すごい楽曲センスに驚きましたが、その後もずっといい曲を作り続けています。



■ハンバートハンバート - おじさんと酒
今年の7月にでた「ニッケル・オデオン - EP」は収録の6曲がすべてすばらしくて改めて彼らのすごさを感じました。血の通った温かな知性を感じさせる楽曲たちです。
*動画を探しましたが見つかりませんでしたので、彼らのとても有名な曲「おなじ話」の動画を載せます。震災後に多くの人たちの心に静かな潤いを与えた楽曲です。ぜひ歌詞を味わいながら聴いてみてください。




■ビューティフルハミングバード - 旅人
もう1組少し似たテイストのグループを。10月発売のアルバムHorizonより。やわからいカントリー調の楽曲です。とても優しい歌です。





■手嶌葵(松崎海) - 紺色のうねりが
映画「コクリコ坂から」で主人公の海らが通う学校の校歌という設定で歌われる楽曲です。
映画でこの曲は若干唐突な感じで始まるので最初は呆気にとられていたのですが、曲が終わるころにはいつのまにかそんなことは忘れてしまい、歌声が心に染み入るのを味わっていました。
歌詞は宮沢賢治の「生徒諸君に寄せる」から発想を得てつくられたもので、賢治独特の朴訥ながら力強い言い回しそのままに、言葉が真っ直ぐに私たちの心に響いてくるのです。

動画は直接載せられませんでした。ぜひこちらでご覧ください。http://youtu.be/Bz6mto7Ky-w

紺色のうねりが のみつくす日が来ても
水平線に 君は没するなかれ
われらは山岳の峰々となり
未来から吹く風に 頭をあげよ

紺色のうねりが のみつくす日が来ても
水平線に 君は没するなかれ
透明な宇宙の 風と光を受けて
広い世界に 正しい時代を作れ

われらは たゆまなく進みつづけん
未来から吹く風に セイルをあげよ
紺色のうねりが のみつくす日が来ても
水平線に 君は没するなかれ


この歌詞の「紺色のうねり」という言葉が、奇しくも今年の震災による津波の映像と重なります。
震災後にはたくさんの応援歌がつくられましたが、私にとってはどの曲よりも背筋をぴんと伸ばして前に進もうという意思を持つことができる曲です。




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by terakoyanet | 2011-11-28 12:33 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(2)

現在、福岡市総合図書館の映像ホールシネラではインドネシア映画特集ということで、連日インドネシア映画の秀作が上映されています。

一昨日、たまたま時間が合ったので、仕事の合間にリリ・リザ(Riri Riza)監督の『虹の兵士たち』“Laskar pelangi(The Rainbow Troops)” を鑑賞してきました。

本当に素晴らしい映画でした。過去に見た映画すべての中でも指折りの印象に残る作品です。10月8日(土・明日)の14時から、あと1度だけ再上映があるので、是非とも見ていただきたいと思います。

はじめのうちはうむうむと普通に面白い作品かなと思って見ていたのですが、途中の音楽祭の練習シーンあたりからは最後までググっと胸をつかまれっぱなしで、終わったときはちょっと放心状態でした。

話の筋自体は、子どもと貧困、貧困のなかの子ども教育の問題を描いた、ステレオタイプな物語です。しかし、登場する子どもたち一人ひとりが眩しいまでの存在感をもってきらきらと輝いていて、彼らの痛いほど真っ直ぐな視線を通すと、どんなにささやかな悲喜も大きな情感となって私たちの心に迫ってきます。そこで感じる情感は、他の凡庸な映画では決して味わうことのできないとてもとても温かいもので、自分自身の中にそのような感情があることを有り難くかけがえのないものと感じます。

舞台のブリトゥン島はリリ・リザ監督の出身地。この島でこの映画のために選ばれたという子どもたちは、演技というより素の表情を見せているとしか思えませんでした。

*ブリトゥン島は、日本でも高校地理で「バンガ島・ビリトン島はすずの産地」として習います。

<以下ややネタバレ>

話の筋は、決して私たちの情感を邪魔しないように組み立てられています。音楽祭での優勝も、クイズ大会での優勝も、私たちの臓腑に落ちるように話が丁寧に構成されています。

この映画を見て思い出したのが、少し前にヒットした『スラムドッグ$ミリオネア』"Slumdog Millionaire"。しかし、こちらの映画では、クイズ大会優勝シーンでちょっと強引な展開だなぁと思いましたし、最後の大げさな展開にヒロイズム的な臭みを感じてしまったのですが、こちらの映画はそういった少しがっかりするような場面や展開がありませんでした。


心に温かいものが残る映画です。
ぜひとも機会をつくって見てみてください。


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by terakoyanet | 2011-10-07 10:00 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

先日、ジブリの「コクリコ坂から」を見た。

映画「コクリコ坂から」を見た。_d0116009_1353240.jpg

*ホークスタウン(生徒曰くホータン)のユナイテッドシネマにて。


ノスタルジーがつまった映画。

挿入歌に坂本九の「上を向いて歩こう」が使われていたが、私はこの曲を聴くたびに強い憧憬が心をよぎる。その憧憬とは、この曲が持つメッセージが真っ直ぐ人たちの心に届いていた時代に対するものだ。いまよりずっと純粋でずっと単純だった時代に対する憧れ。

一度、この映画の主人公たちと同じく1960年代に青春時代を過ごした人たちに尋ねてみたいところだ。本当にこのような時代はあったのですか?と。



話が逸れるが、2001年にウルフルズとRe:Japanが坂本九の「明日があるさ」をカバーした。
私はそのとき、この時代にこの曲をカバーするなんてバカげていると思った。
ニコニコと「明日があるさ」と歌う歌手を見て、なんて空疎なんだと思った。なんて無神経なんだと思った。バカにしていやがると思った。

集合写真でひとりだけ笑っていない人に、無理やり笑顔をつくらせるような強引さ。
「明日があるさ」と高らかに謳っておきながら、実際には「明日がない」というネガティブな共同体がはじめから前提とされており、それでもカラ元気を出して「明日がある」って言っとかないとねという強迫的とも言える所作を感じ、身震いがした。「明日がある」と言っている奴らが実際のところ一番ペシミストじゃないか、と思った。



で、本題に戻ってこのコクリコ坂。
すべての嫌悪すべきものが排除されていた。大人のいやらしいところなど微塵も描かれておらず、恋の駆け引きも何もなく、ただひたすらさわやかだった。その徹底したさわやかさにとても好感を持った。

この物語を観て強いノスタルジーを感じるのは、1963年を経験していない私たちであっても青年時代に体験したことがある真っ直ぐでひたむきな思いがそこに描かれているからだ。
実際のところ、私自身に真っ直ぐでひたむきな時代があったかどうかはわからない。しかしこの映画には、私自身がかつてこのような気持ちを抱いた時代があり、そしてこれからもそれを大切にしたい、と思わせる力があった。これぞ物語の力だ。

映画のディテールにも優れたところが見られた。
私たちの世代には全くなじみのないカルチェラタンのカオス的な雰囲気。
下宿人が描いた油絵から、海が旗をつけた船を発見する場面の色彩。
学校の理事長を廊下で待つ場面のコミカルな時代描写。
思わず笑みがこぼれるシーンがいくつもあり、観ながら穏やかな幸福感を感じた。


強迫的に希望的未来を押しつけるより遥かにすぐれた方法で、私たちに明るい未来のあり方を教えてくれるこの映画が私は好きです。


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by terakoyanet | 2011-09-28 13:12 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)