寺子屋ブログ by 唐人町寺子屋

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タグ:時事・政治 ( 135 ) タグの人気記事


2018年 07月 20日

この時期、体育館での全校集会はやめるべき。

この時期、冷房のない体育館で全校集会を開くのはやめるべきです。
昨日は体育館で熱中症になったと思われる子が複数名授業を欠席しました。いつも元気印のある子は、なんとか塾の授業に来てみたものの、どうしても辛くなって開始40分で帰りました。
別の学校の子は明日2時間も体育館で全校集会があるんです、と曇った顔をしていました。

熱中症になって動けなくなるくらいなら、学校なんて休ませた方がいい。
数日前に電話で話したお母さんは、3日前に熱中症になったばかりのわが子を慮って、そう言いました。


これだけ全国的に問題になっているのに、熱中症になる環境を強いるなんてバカげています。
灼熱の中の部活動も大問題ですが、冷房のない体育館での全校集会は、この時期ほんとうにやめるべきです。
途中で水が飲めないから、自分で自分の体を守れない。そんな危険な環境を子どもに与えるのは間違っています。


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by terakoyanet | 2018-07-20 01:04 | お知らせ | Trackback | Comments(0)
2018年 05月 11日

ダ・ヴィンチニュースにインタビュー記事掲載

本日、KADOKAWAのダ・ヴィンチニュースに、映画監督の神保慶政さんによる私(代表・塾長 鳥羽)のインタビューが掲載されました。

よかったらご覧ください。




神保さん、ありがとうございます。


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by terakoyanet | 2018-05-11 13:56 | おすすめのHP | Trackback | Comments(0)
2018年 04月 19日

新年度から変化した高校の朝課外

新年度より、A高校では朝課外が選択制になりました。また、B高校では正課の授業内容を朝課外でもやる(これをすると朝課外に出ないと正課の授業についていくことができなくなる)という悪しき慣習が廃止されました。
声を上げる人が多くなり、マスコミも取りあげたことで、大きな山が動いたという印象です。

選択制になったA高校の朝課外の参加率は8~9割の高率だそうです。
朝課外なんて意味がない、間違いなく大多数の生徒がそう言っていたのに。
朝課外に行かないと不安、という刷り込みは簡単に消えるものではないのでしょう。親に行けと言われる子どもも多いのでしょう。

でも、朝課外に行けという親は、ちゃんと子どものために朝課外が本当に必要なのか、なんとなく行ってくれたほうが安心だから言っているのにすぎないのか、そういうことを自分自身の問題として考えた上で子どもに助言をしてほしいと思います。
朝課外が必要な子がいるのは事実ですが、必要ない子、むしろ朝の負担がマイナスになっている子も本当にたくさんいますから。

高校生たちも、自分たちで考えてほしい。なんとなく流されて行くなんて馬鹿げているよ。
行くならちゃんと意味のあるものにしてください。何も考えずに行くのが一番愚行です。
ちゃんと毎朝頑張っている子たちはそのまま頑張って。その努力はきっと裏切らないから。
行かない決断をした人は、じゃあ自分には何ができる?それをしっかり考えよう。

高校の先生にもお願いしたいです。
朝課外に来ないことを選択した生徒をいじったり、悪意を持ったりしてほしくないし、
その選択を尊重してあげてほしいのです。
選択をした子たちが少数派のいま、その子たちは学校で守られる必要があります。


・・・・・

4月20日

貴重なコメントをいただきましたので、追記させていただきます。
私は上の記事で朝課外が悪いとか行くべきではないと書いたつもりではありません。
私は以前から朝課外は選択制であるべきと主張してきました。
朝課外が実質強制になっていることの弊害を長年感じてきたからです。

今春から選択制の学校が増えたことは子どもたちにとって朗報だと思います。
いままで惰性でなんとなく朝課外に通っていた子どもたちが、自らの選択で参加できるようになったからです。

だから、自ら朝課外に行くことを選んだ子たちは、行くことに決めたからには頑張ってほしいと思います。
ただ行くだけではなくて、何をすれば積極的な活用ができるか考えて、朝課外に臨んでください。




by terakoyanet | 2018-04-19 16:50 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(3)
2018年 02月 06日

いじりといじめは別物ではない。


いじめはダメだけど、いじりはよい。
そもそも、その認識が間違っています。

いじられている子どもがヘラヘラとした笑顔を見せていて、それで周りの大人が安心しているとしたら、大間違いです。
その笑顔は、その子にとって、自尊心の最後の砦かもしれないんです。

いじりだからと見過ごしてはいけません。
いじりの多くは、いじめと同じく一定のヒエラルキー・上下関係に依存した、すごく一方的な暴力です。

だから、バラエティ番組でたびたび登場するいじりが私は好きではありません。
弱者いじりをする人たちを私は見ていられません。

こういうことを言うと、そういうことを言っている人のほうが差別意識があるのだ、という人がいます。

でも、違うんです。そうではなくて、あなたが差別に対して鈍感なんです。
自分自身が差別される立場に転落する、その恐ろしさを知らないんです。


いつも天真爛漫な子どもたち。
目の前にいる友達が大好きだから、思わずお互いに悪口を言い合うじゃれ合いをいつも目にします。
それはとてもほほえましくて、見ているだけでこちらまでうれしくなるほど。

相思相愛のじゃれ合いと、いじりは、明らかに違います。(でも、じゃれ合いというのは、一時的な関係性に依存した脆弱なものということは覚えておかなくてはいけません。いつだっていじり、いじめに転落しうるから。)
テレビで芸人たちが展開するいじりは、いくら本人たちが「そこに愛があるから」と言ったところで、そんなものは言い訳にならない構造があります。他より劣る人、いびつな人、空気が読めない人をあざ笑っているでしょう。

繰り返しますが、いじめかいじりかというのは表面的には違っていても、その構造は同じです。
いじりもいじめの一種なんです。
このことに大人が敏感になっていかないと、けっして子どもたちのいじめの問題は是正されません。


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by terakoyanet | 2018-02-06 10:24 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2017年 10月 10日

高校コース、DCS(ディスカッション)の授業

本校にはいくつか特色のある授業があります。
高校コース土曜日開講のディスカッション授業は、思考力とそれを表現する力を鍛えることを目的にした授業です。少人数ながら、とてもエキサイティングな時間です。私自身、生徒たちの言葉にはっとさせられることが多く、大いに刺激を受けています。
教えるというのは常に教えられることなのだ。そのことを地で行くような授業です。


過去3か月には次のような内容をテーマに議論を重ねました。

第11回(7/2) ジェンダー(夫婦別姓・同姓婚・女性が輝く社会って何?)
第12回(7/9) 経済再生(日本経済・地域経済)
第13回(7/16) 世界平和とグローバル化(現在の国家のかたち・テロリズムと国家)
第14回(9/9) 日本(日本とは何か・日本文化の独自性とは)
第15回(9/15) 学校(学校の捉えなおし・学校と教育の諸問題)
第16回(9/30) 資本主義(資本主義の由来・マックスウェーバーとマルクス)
第17回(10/7) 民主主義(民主主義の定義・日本の民主主義の課題)



前回の授業では、Bureau of International Information Programs の “Principles of Democracy” を引用して民主主義の語源と原則について学んだあと、生徒たちと議論をしました。


「民主主義(デモクラシー)」の語源は、ギリシャ語の「デモス(人民)」である。民主主義国においては、立法者や政府ではなく、国民に主権がある。世界各地のさまざまな民主主義制度には微妙な違いがあるが、民主主義政府を他の形態の政府と区別する一定の原則と慣行が存在する。

・民主主義とは、市民が直接、もしくは自由選挙で選ばれた代表を通じて、権限を行使し、市民としての義務を遂行する統治形態である。

・民主主義とは、人間の自由を守る一連の原則と慣行である。つまり、自由を制度化したものと言ってもいい。

・民主主義は、多数決原理の諸原則と、個人および少数派の権利を組み合わせたものを基盤としている。民主主義国はすべて、多数派の意思を尊重する一方で、個人および少数派集団の基本的な権利を熱心に擁護する。

・民主主義国は、全権が集中する中央政府を警戒し、政府機能を地方や地域に分散させる。それは、地域レベルの政府・自治体が、市民にとって可能な限り身近で、対応が迅速でなければならないことを理解しているからである。

・民主主義国は、言論や信教の自由、法の下で平等な保護を受ける権利、そして政治的・経済的・文化的な生活を組織し、これらに全面的に参加する機会などの基本的人権を擁護することが、国の最も重要な機能のひとつであることを理解している。

・民主主義国は、すべての市民に対して開かれた、自由で公正な選挙を定期的に実施する。民主主義における選挙は、独裁者や単一政党の隠れみのとなる見せかけの選挙ではなく、国民の支持を競うための真の競争でなければならない。

・民主主義は、政府を法の支配下に置き、すべての市民が法の下で平等な保護を受けること、そして市民の権利が法制度によって守られることを保障する。

・民主主義諸国のあり方は多様であり、それぞれの国の独自の政治・社会・文化生活を反映している。民主主義諸国の基盤は、画一的な慣行ではなく、基本的な諸原則の上に置かれている。

・民主主義国の市民は、権利を持つだけでなく、政治制度に参加する責任を持つ。その代わり、その政治制度は市民の権利と自由を保護する。

・民主主義社会は、寛容と協力と譲歩といった価値を何よりも重視する。民主主義国は、全体的な合意に達するには譲歩が必要であること、また合意達成が常に可能だとは限らないことを認識している。マハトマ・ガンジーはこう述べている。「不寛容は、それ自体が暴力の一形態であり、真の民主主義精神の成長にとって障害となる。」 
 




生徒たちからは、地方自治においてさえも政治が身近ではない問題や、上の文の中の「自由を制度化する」という内容が孕む問題について質疑、意見が出されました。


自由民主党、立憲民主党、社会民主党。党名の中に民主主義を謳う主要政党が3つもある日本の政界ですが、私たちがいつも忘れがちなのは、上の文章の最後にある「寛容」についてではないでしょうか。

右や左にかかわらず、政治に関わる人たちに忘れてほしくないのは、民主主義国は、全体的な合意に達するには譲歩が必要であること、また合意達成が常に可能だとは限らないことを認識しているという原則です。なにも「排除」という言葉を使った政治家だけでなくて、私たちが、社会の正義を語るとき、人の過ちを糾弾するときなど、自分が良かれと思って言動に出るときは「不寛容」が顕在化します。「不寛容」について真剣に考え、それ自体が暴力であるいう認識を厳しく持つことこそが、いま、真面目な政治のために求められていることではないでしょうか。
 


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by terakoyanet | 2017-10-10 14:23 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)
2017年 10月 02日

一人ひとりが大切な思いをのせて高校に通っている。

教師暴行動画がネットやテレビニュースに取り上げられたことで、各SNSからGoogle Mapのコメント欄に至るまで、どこもかしこも加害生徒や当該高校に対する誹謗中傷で溢れています。

生徒たちに対する影響が最も大きいと思われるTwitter上もひどい状況で、その行為自体に対する批判ならともかく、そこにあるのは、単なる他人を貶める快楽に溺れる狂乱ばかりで、子どもたちへの影響を懸念しています。

高校の名前を聞いて私はすぐに、中3の後半でようやく成績を伸ばし、大学に進学する熱い希望をもって当該高校の普通科の門をくぐっていった彼のことを思い出しました。そして、私もお母さんも他にも道はあるんだよ、大学からでも目指せるよ、と話したのに、母と同じ看護師になりたい、早く看護の勉強をしたいと、同高校の看護科に進学した彼女の顔を思い浮かべました。

本人も家族も大切な思いを持って、それぞれの高校に通っているんです。
その思いはいつだって不変で屈強なものではなく、すぐにたなびいてしまう脆弱なものかもしれないけれど、
でも、日々いろんなことを考えながら、迷いながらも、現在の自分と将来の自分を少しでも頼もしいものにするために、本人は高校に通っているし、家族はそんな本人を大切に見守っているんです。高校の先生だって、誇りを持って毎日の仕事に取り組んでいるんです。

それなのに、ネット上は、あまりに無配慮で傲慢なおぞましい言葉で溢れています。

「笑ってるクラスの奴らも同罪」 「暴行されてる先生をヘラヘラ笑って雑魚扱いしている周りの生徒達も同罪」というコメントにたくさんの同意がなされていますが、このコメントは正論のように見えて、その実は生徒達を貶めたいだけの乱暴な言葉です。こういう現場でクラスのみんな(と言ってもきっと全員ではない)が「笑って」しまう問題というのは、そんなに簡単なことじゃないし、少なくとも「同罪」ではないんです。こういうときに、正論を装って貶めることを言う方がよっぽど悪質です。

Twitterなどのコメントを見ている生徒たちには、決してそのような差別と中傷に加担しないでほしいし、そこで書かれていることを真に受けないでほしいのです。
どの学校だっていろんな生徒といろんな先生がいる、それは当たり前のことですが、でも決して忘れてはならない大切な事実です。

最後に、当該高校の生徒たち、悔しい思いをしている人もたくさんいるかもしれませんが、周囲が漏らしている不安をあまり真に受けすぎないで。
社会に出たら、学校というよりは、あなた自身が見られるんだから、そのことを頭と心に携えて、いまを大切に日々の生活を送ってください。


ーーーー

先週金曜日の地理B高3補講で、問題の中に、かつて世界4位の湖沼面積を誇った中央アジアのアラル海が出てきたときに、飛行機から撮った、干上がりつつあるアラル海の写真があるよ、と生徒たちに言ったのに関わらず、その場では見せてあげられなかったので、よく撮れたものではありませんが、こちらに載せておきます。
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by terakoyanet | 2017-10-02 14:34 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2017年 09月 04日

弱者を他者に仕立てること

昨年、ノルウェーのオスロを訪れたときに驚いたのは、路上生活者の数の多さである。街中を歩いていると、夏でもひんやりする空気の中に、表情に乏しい大柄な男性たちが座っている。初乗り550円の地下鉄の改札を多くの人が次々とくぐり抜けるすぐ隣に彼らが佇んでいる姿を見たとき、世界最富裕国ノルウェーという無意識の期待感に冷や水を浴びせらた気分になった。しかし、ノルウェーと言えば、世界に名だたる社会福祉先進国である。さらに、一人当たりのGDPは日本の2倍を超える数字であり(これは、バブル期に一人当たりのGDPで世界トップ3に入った記憶を残している人たちにとってはいささか衝撃的な数字である)世界最富裕国という称号に、数字上の偽りはない。

日本では10年前、20年前より、路上で生活している人たちを見ることが随分少なくなった。あのとき地下鉄にいたおじさん、おばさんたちはいまどうしているんだろうと考える。日本の路上生活者は統計上でも減少しているそうだ。それには支援団体の努力のおかげもあるだろう。しかし、日本の高齢化と貧困化はかつてより悪化しているのではないか。貧困する社会の中で、路上生活者の数を減らすことに一体何の意味があるのか。私は世界最富裕国の首都を歩きながら考えた。

私はいまメキシコの世界遺産の街、サンミゲル・デ・アジェンデにいる。メキシコで最も美しいと言われる、スペインのコロニアル建築に埋めつくされたこの街にも、路上で生活する人たちをあちらこちらで見かける。
昨日の夕方は、ある老夫婦らしき二人が路上に座っていた。擦り切れたカセットテープのような輪郭に乏しい音楽が小さなラジカセから流れていて、老父は弦が3本しかない小さなギターをその音楽に合わせるように1本ずつ弾いており、老婆の方は、その隣で左手の肘から上だけを動かしてマラカスを鳴らしながら、右手にはお金を入れてもらうための小皿を抱えていた。演奏には何の技巧もなく、そこには貧しさだけがあるように見えた。

しかし、貧しい二人は、そのとき確かに街に包まれていた。多幸感に包まれるその街に、彼らが存在していることに矛盾はなかった。彼らは間違いなくそこにいてもよい存在であり、だからこそ彼らの拙い演奏は、街の音に心地よく紛れていた。

日本で路上生活者の問題を語るときに余所余所しさがつきまとうのは、彼らがはじめから私たちの仲間ではないからだ。弱者ははじめから存在を否定されていて、その否定自体は省みられることなしに、それを解決すること、抹殺することに力が傾注されている。ユニバーサルデザインという言葉が踊る中で、まん中に手すりをつけるベンチがたちまちに広がる世の中の本体、そして、弱者を他者に仕立てようとする自分自身の本性について、深く考えさせられる滞在になりました。


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by terakoyanet | 2017-09-04 15:20 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2017年 07月 12日

ささやかな共感。

昨日、いつもはあまり話しかけてくることのない、ある中学生の男の子が私のそばにやってきて

「先生の出身、朝倉高校なんですね。僕のおばあちゃんも朝倉高校出身なんです。」

少し恥ずかしそうに、そう話しかけてきました。

私は思わず

「おばあちゃん、大丈夫だったの?」

と尋ねました。家の状況はともかくも、ご家族は皆ご無事とのこと。

「ああ、よかった。」

私が深く息を吐きながらにっこりすると、彼もにっこり微笑みました。




塾の授業の休憩中の、わずかな時間に生じた何でもない会話です。

でも、彼の心も、彼のご家族の心も、そして私の心も、今回の水害のあまりの状況に心を揺さぶられていて、

そのふるえを思いがけず共感することができた瞬間というのは、なんとも言えないこみ上げるようなありがたさがあるものです。





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by terakoyanet | 2017-07-12 18:18 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2017年 06月 19日

東浩紀さんのAERAの記事に対する評判について。

東浩紀さんのAERAの記事が一部の人たちの間ですこぶる評判が悪いようだ。


「原発は倫理に反している。これは必ずしも即時全廃を意味しない。悪いことだとわかっていても、やらなければならないときもある。」


悪いことだとわかっていても、やらなければならないときもある、なんて書くと、反原発派の人たちが怒るのも当然である。もうなんだか開き直ってしまっているようにも読めるこの文章は、予想通りと言えるが、安直すぎるという批判が多く寄せられているようだ。(しかも私が敬愛する人たちからも。)


しかし、私個人としては、東さんは至極ふつうのことを言っているようにしか読めない。

彼がこの文章で言わんとすることの主題は、そもそも原発の是非ではない。彼は単に、倫理に反しているということと、それを現実的に抑え込むということとは別の話であり、その間には飛躍があるのだという当然のことを言っているにすぎない。


今回、東さんが受けている批判は、実はこれまでの歴史の中で延々と繰り返されてきた、哲学者が甘受する誹謗と同じ類いのものであり、もはや古典的とさえ呼べる図式がそこにはある。それは例えばかつて夏目漱石が、余裕派と呼ばれたり、ポストコロニアル批評家たちに「植民地主義に無抵抗な作家」と揶揄されたりしたときと同じ誤解/誤読である。


夏目漱石が実際の政治を語らなかったのは、漱石の言葉を借りれば、それが「第一義の問題」ではないからだ。第一義の問題から離れたとき、人は不遜になり、嘘をつき、自分の傲慢さに無頓着になる。漱石の批判精神は、初期から後期の作品に至るまでその認識で透徹されている。いかに倫理的に政治を語ることが難しいか、そのことを漱石は認識していた。漱石は植民地主義に無頓着でも無抵抗でもなく、単にそれを語ることを自らに禁じたのである。自らの口で政治を語る人たちは、それがいかに正しい意見であっても、いや、それが正しいからこそ、その語りが不穏なものを呼び寄せることに気づかないのだろうか。政治を正しく語ることは、決して倫理などではない。


哲学者というのは「現実の問題」というのが存在すると疑わない人たちにとっては(それがまさかでっちあげられたものだとは信じたくもない人たちにとっては)いつも優柔不断な人である。何の実効性のある意見も持たないような「役立たず」で「自己満足」な「遊民」に見えるらしい。

彼らには哲学者たちが「現実の問題」を語る前に、「そもそも」の場所で踏ん張っているのが一向に見えない。(この哲学者たちのどうしようもない「踏ん張り」の現場を見たいなら、漱石の『虞美人草』に出てくる「甲野さん」の描写に括目してほしい。) 


東浩紀は良くも悪くも「哲学者」である。この記事の中でも基本的には倫理について語っているだけで、「現実の問題」を語ってなどいない。でも、原発という「超」がつくほどの現実味を帯びた話の中で倫理を語ってしまうと、我慢ができなくなって「現実的」に怒る人たちが出るのは当然である。


漱石は「現実の問題」を語りすぎる人たちを「動きすぎる」と制した。「動く」ことは「罪悪」だと言った。私が思うに、哲学者というのは「動く」という「罪悪」を知っている人たちのことである。でも、そういう人は軟弱に見える。軟弱で隙があるように見えるから、根拠もなく馬鹿にされる。振る舞いそのものが扱き下ろされる。その点で、東さんも今回、一部の人たちからたやすく馬鹿にされすぎているようである。(ちなみに私が今回書いていることは、東氏が漱石ほどに優れているとかそういう話では全くない。) 

しかし、繰り返し言えば、これはいままでずっと哲学者が人として真っ当に扱われず、鼻で笑われてきた歴史の繰り返しにすぎない。



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by terakoyanet | 2017-06-19 11:02 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)
2017年 06月 05日

海外とリスク

この数日、以下の記事へのアクセスが突然大幅に伸びました。

理由ははっきりしていて、フィリピンのブスアンガ島で日本人2人が行方不明になった事件が起こり、ブスアンガ島、コロン島などで検索した人たちの多くがこのブログに辿り着いたからです。

ブスアンガ島に行ったことのある人は日本ではまだ少ないようで、テレビ朝日さんの取材と画像提供に応じました美しい思い出の場所の写真が、惨たらしい事件の報道に使われることには非常に苦しい気持ちがあります。亡くなられた方たちのご冥福をお祈りいたします。

それにしても、現地のことを知ることも調べることもなく、自己責任という言葉で被害者を貶める人たちの無知と傲慢は目に余るものがあります。

海外でたくさんのテロや事件が起こっているのは確かです。でも、「海外は危ない」というふうに、安直に全体を一緒くたにして語ることはしたくありません。

海外に行く多くの人たちは、渡航先の安全について十分に調べた後に出かけています。
そんなことは当たり前です。だって自分や大切な家族の身体は絶対に守られなければならないのですから。

それでも海外に行くのは危機意識が足りないという人がいるのなら、その人は家から一歩も出るなと言うことと同じです。私たちは海外に行くことと同等のリスクは常日頃犯しています。車に乗ること、高速道路を走ることは、そのわかりやすい例のひとつです。

車に乗るのはしかたがないけど、海外に行くのはその人の趣味だから話が違うという人もいるようです。その人は趣味の楽しみを知らないか、または、単に趣味を楽しむ人を妬んでいるのでしょう。楽しむこととリスクを背負うことは隣り合わせであることは多いけれど、リスクがあることを全て避けて生きるというのは、人生を偏狭にすることとしか私には思えません。





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by terakoyanet | 2017-06-05 11:53 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)