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カトリックの人たちにとって、復活祭(イースター)はクリスマスと同等に、もしくはそれ以上に大切な祝日です。その日を狙った同時多発テロが、この10年間治安が安定していたスリランカで起こりました。

私は昨年の9月、今回 テロの標的になった、コロンボの聖堂 St. Anthony Shrine を訪問し、今年の1月に「コロンボにて」という記事を書きました。この記事では、この聖堂での出来事、頂いたカレーの味わい、そしてスリランカという多民族国家の「苛烈な現実」について書きました。まさに今回の事件は、スリランカの「苛烈な現実」を改めて思い知らされる出来事となってしまいました。心が強く揺さぶられて、何も手に付かないほどです。

私は、標的になった聖堂を最近訪問した数少ない日本人として、そして自身もカトリックの家に生まれ教会に育てられた人間として、何かを書いておかねばならないという義侠心のようなものに駆られ、いまパソコンの前に座っています。



今回テロのターゲットとなったコロンボの St. Anthony Shrine は、スリランカのカトリック教会を代表する建物です。そして同じくターゲットとなったコロンボの近郊の町ネゴンボは、最も古くからカトリック教徒が多く住みついた、信者たちにとって特別な意味を持つ町です。今回のテロは、スリランカのカトリック教徒にとって最も大切な日に、最も大切な場所で起こったのです。ですから、スリランカのカトリック教徒たちはいま、想像もつかないほどの動揺と恐怖にふるえているでしょう。そして信仰と生命を同時に攻撃されたことに対する強い悲しみと憤りを感じているに違いありません。


「食べていきなさい。」
St. Anthony Shrine の2階の階段の前で、何の迷いもなく私にカレーを食べて帰るよう呼びかけたあの女性のことを思い出します。(『コロンボにて』を参照のこと。)
「カトリックの方たちがカレーを食べに来るのですか?」私は彼女に尋ねました。
「いいえ、違うわ。カトリックでも仏教徒でもヒンドゥーでも、ここでは誰もが無料でカレーを食べていいの。神は信仰によって差別すると思う? 神は信仰が違うからと言ってカレーを食べるなとは決して言いません。だから、信仰がわからないあなたに、私はカレーを食べていくように言ったでしょう。ここはそういう場所なの。」
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スリランカのカトリック信者は国の人口比の6%にすぎない勢力ですが、カトリック信者の中には、シンハラ人もタミル人も区別なくおり、どちらも含むことなどから、カトリック教会は民族間融和の役割を担うものと期待されてきました。そして実際に、教会や修道会は実際に慈善活動等を通してその役割を果たしてきました。この意味で、カトリックが狙われた今回のテロは、一体何をターゲットとしたのか、という点において、決して単純ではありません。シンハラ(仏教徒)vsタミル(ヒンドゥ)とか、キリスト教vsイスラム教といった、既存の図式だけでは捉えることはできません。今回のテロの標的が「民族間融和」の象徴であるカトリック教会であったのはなぜなのでしょうか。

スリランカ政府は、事件のあと、同国からFacebookやInstagramなど一部SNSへのアクセスを遮断しました。現在、スリランカ多数派(国民の7割)であるシンハラ人たちの一部による、他の少数派に対するヘイトが問題になっています。特に同国では少数派にあたるムスリム(人口比の1割)たちがその標的になっています。そして、そのヘイトの現場は多くがネット上、つまりはSNS上です。

自身が見下している集団が権益を得ることを快く思わない人がいるのは万国共通なのでしょうか。
ムスリムたちが、産油国の潤沢な資金の恩恵を受けて、成り上がっている。
見下しているやつらが、既得権益を得ている。
ふざけるな。調子に乗るな。少数派は少数派らしく、弱者は弱者らしくしていろ。
このような図式は、残念ながら、今も昔も日本でも散見される現象です。

リンク先の記事にもあるとおり、シンハラのナショナリストたちは、ムスリムの居住地区とモスクが襲撃する事件も起こしています。ムスリムたちがそういうヘイト的な空気に日常的に晒されていることと、今回の事件は決して無関係ではないでしょう。しかし、今回のような事件が起きると、ムスリム排斥の動きが勢いを増すことは疑いようがありません。ムスリムの人たちが、ますます肩身が狭い思いをすることになるかもしれません。

しかし今回の標的はカトリックであり、ホテルにいる外国人でした。これまでのイスラム過激派の動きからすれば、既定路線かもしれませんが、しかし、スリランカのカトリックは「民族間融和」の象徴であり、その点はヨーロッパのテロとは事情が違うのです。

2015年1月に教皇フランシスコが同国を訪れ、コロンボの St. Anthony Shrine 近くの海岸では、100万人に上る市民が熱狂的に教皇を迎えました。(ちなみに同国のカトリック信徒は120万人。)教皇が同国を訪れたのは、スリランカ初の聖人である聖ジョセフ・ワーズ(St. Joseph Vaz)の列聖式のためでした。ジョセフ・ワーズには、困窮した人であればその信仰にかかわらず救済の手を差し伸べた逸話があり、教皇フランシスコは、100万人の人々の前で「和平のため宗教的な分断を超えることの重要さ」について語ったとされます。

スリランカのカトリックが「民族間融和」の象徴であるのは、単に教義的な部分に留まりません。
スリランカのカトリックの人たちは、聖典と祈りを英語に依拠しています。
シンハラ語は仏教徒たちの言語であり、タミル語はヒンドゥー教徒たちの言語です。
結果として、カトリックの人たちの宗教言語は英語になります。(そのため、カトリック信者たちによって、子どもが通う学校の試験を英語で受けられるように政府に訴える運動も起こっています。)英語は、他の多民族国家と同様に、スリランカにおいても、別の言語を持つ人と人の間の共通語として機能しており、その英語を母語として操るのがカトリックの人たちなのです。ですからスリランカのカトリックは、教義にとどまらず、言語・文化的にも民族間融和を象徴していると言える存在です。

カトリックの教義からすれば、ムスリムの人たちはもちろん、イスラム過激派の人たちでさえ、慈しむべき存在でしょう。しかし、現在、グローバル化という名の下に、あらゆる差異を、慈しみをもって包括し、その結果、それら個別性を無化してしまうような運動(=新しい全体主義)が進んでいるとすれば、そして、それにカトリックが加担しているとすれば、そしてその象徴が「英語」であり「資本主義」であり「文化産業」であるとすれば、カトリックが「民族間融和」を善として打ち出している限り、「融和」は一種の同化政策と受け取られかねず、抵抗は解消しないでしょう。

安易に民族間融和なんてことはできないからこそ、私たちは考え続けなければなりません。
融和という解決策にすがるのではなく、むしろ解決しなくても生き延びることができる知恵を考える方が大切なのではないでしょうか。その意味で、私たちに不足しているのは具体的な解決策よりも、祈りそのものなのではないでしょうか。

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St. Anthony Shrine でカレーを食べたあの日のことを何度も思い出します。
あの日も日曜日で、私はひと際熱心に祈る彼らの一員となって、お祈りをしました。
この国にはまだ祈りが息づいている。そのことに感激しながら、お祈りをしました。

私がお祈りをしていると、2列前にお母さんと座っている5歳くらいの小さな女の子が、ふと後ろを振り向きました。
私が彼女に気づいたような反応をしたのものだから、彼女はにこっと笑って、そして前を向いては何度も後を振り向いてにこっと笑顔を見せました。そのたびに私は何とも言えないマヌケな表情で、金魚のように口をパクパクさせたり、少し目を大きく開いたりして、彼女の笑顔に応えました。そうしているうちに、彼女はお母さんからパコっと頭を叩かれ、それからは後ろを振り向かなくなりました。これは彼女とのわずか3分ほどの思い出です。

国を代表する聖堂とはいえ、ヨーロッパのバジリカやカテドラルとは全く規模が違います。
さほど大きい場所ではありません。
近くには別の教会もありますから、毎週この聖堂に集まるコミュニティは、全員が顔見知りという程度の人数しかいないはずです。

その小さなコミュニティの中で、無残にも一瞬にして50名以上の人たちが殺されたのです。
彼女はちゃんと生き延びたかな。生きていてほしいと思います。

今回の殺戮はそのまま、このコミュニティの破壊を意味します。
人の命が失われたと同時に、それまで引き継がれてきた大切な祈りと知恵が失われました。
これは、仮に時間が経って元通りになったように見えるときが来ても、決して回復しません。
失われたものは、ずっと失われたままです。
それは、損なわれてしまったあとには、そこに何があったのかもわからないようなものです。
人の命が失われるというのは、そういうことです。

明日へのささやかな意思を突然断ち切られた人がいる。
もうあなたに会えない。受け入れ難い現実に、もだえ苦しみながら夜を過ごしている人がいる。
そのことに、強い悲しみを覚えています。
今回の事件、とうてい他人ごととは思えません。
スリランカの聖堂に花束を。



言(ことば)に絶えたる日は始まる。
見せつけらるるおのが弱さよ、
見失いたる神のさびしさ
。 藤井武「羔の婚姻」



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by terakoyanet | 2019-04-22 03:49 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

さくらももこさん

さくらももこさんの訃報を受け、ショックを受けています。

さくらももこさんのことは、多くの人と同じようにちびまるこちゃんで知りました。中学生のころ。

それから、マンガをむさぼるように何度も読んだのは、いまから考えれば、生まれて初めて自分の感性にとても近いと感じるものが描かれていて、それがとてもうれしかったのだと思います。


ちびまるこちゃんはもちろん面白いけれど、『コジコジ』と『神のちから』はとんでもない傑作で、さくらももこの頭の中は決して「ほっこり」なんかじゃない、いびつでキテレツなものに溢れていること、彼女には天賦の才能があることを思い知らされました。


きっと根っこがとてもやさしいんです。

だから、何度励まされ、何度元気づけられたことか。

まだ、いまいち実感がわかないけれど、さびしい気持ちです。





こちらのブログでは、ちょうど10年前に、一度だけさくらさんの漫画を紹介したことがあります。





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by terakoyanet | 2018-08-27 22:36 | おすすめの本・音楽 | Trackback | Comments(0)

この時期、冷房のない体育館で全校集会を開くのはやめるべきです。
昨日は体育館で熱中症になったと思われる子が複数名授業を欠席しました。いつも元気印のある子は、なんとか塾の授業に来てみたものの、どうしても辛くなって開始40分で帰りました。
別の学校の子は明日2時間も体育館で全校集会があるんです、と曇った顔をしていました。

熱中症になって動けなくなるくらいなら、学校なんて休ませた方がいい。
数日前に電話で話したお母さんは、3日前に熱中症になったばかりのわが子を慮って、そう言いました。


これだけ全国的に問題になっているのに、熱中症になる環境を強いるなんてバカげています。
灼熱の中の部活動も大問題ですが、冷房のない体育館での全校集会は、この時期ほんとうにやめるべきです。
途中で水が飲めないから、自分で自分の体を守れない。そんな危険な環境を子どもに与えるのは間違っています。


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by terakoyanet | 2018-07-20 01:04 | お知らせ | Trackback | Comments(0)

本日、KADOKAWAのダ・ヴィンチニュースに、映画監督の神保慶政さんによる私(代表・塾長 鳥羽)のインタビューが掲載されました。

よかったらご覧ください。




神保さん、ありがとうございます。


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by terakoyanet | 2018-05-11 13:56 | おすすめのHP | Trackback | Comments(0)

新年度より、A高校では朝課外が選択制になりました。また、B高校では正課の授業内容を朝課外でもやる(これをすると朝課外に出ないと正課の授業についていくことができなくなる)という悪しき慣習が廃止されました。
声を上げる人が多くなり、マスコミも取りあげたことで、大きな山が動いたという印象です。

選択制になったA高校の朝課外の参加率は8~9割の高率だそうです。
朝課外なんて意味がない、間違いなく大多数の生徒がそう言っていたのに。
朝課外に行かないと不安、という刷り込みは簡単に消えるものではないのでしょう。親に行けと言われる子どもも多いのでしょう。

でも、朝課外に行けという親は、ちゃんと子どものために朝課外が本当に必要なのか、なんとなく行ってくれたほうが安心だから言っているのにすぎないのか、そういうことを自分自身の問題として考えた上で子どもに助言をしてほしいと思います。
朝課外が必要な子がいるのは事実ですが、必要ない子、むしろ朝の負担がマイナスになっている子も本当にたくさんいますから。

高校生たちも、自分たちで考えてほしい。なんとなく流されて行くなんて馬鹿げているよ。
行くならちゃんと意味のあるものにしてください。何も考えずに行くのが一番愚行です。
ちゃんと毎朝頑張っている子たちはそのまま頑張って。その努力はきっと裏切らないから。
行かない決断をした人は、じゃあ自分には何ができる?それをしっかり考えよう。

高校の先生にもお願いしたいです。
朝課外に来ないことを選択した生徒をいじったり、悪意を持ったりしてほしくないし、
その選択を尊重してあげてほしいのです。
選択をした子たちが少数派のいま、その子たちは学校で守られる必要があります。


・・・・・

4月20日

貴重なコメントをいただきましたので、追記させていただきます。
私は上の記事で朝課外が悪いとか行くべきではないと書いたつもりではありません。
私は以前から朝課外は選択制であるべきと主張してきました。
朝課外が実質強制になっていることの弊害を長年感じてきたからです。

今春から選択制の学校が増えたことは子どもたちにとって朗報だと思います。
いままで惰性でなんとなく朝課外に通っていた子どもたちが、自らの選択で参加できるようになったからです。

だから、自ら朝課外に行くことを選んだ子たちは、行くことに決めたからには頑張ってほしいと思います。
ただ行くだけではなくて、何をすれば積極的な活用ができるか考えて、朝課外に臨んでください。



by terakoyanet | 2018-04-19 16:50 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(5)


いじめはダメだけど、いじりはよい。
そもそも、その認識が間違っています。

いじられている子どもがヘラヘラとした笑顔を見せていて、それで周りの大人が安心しているとしたら、大間違いです。
その笑顔は、その子にとって、自尊心の最後の砦かもしれないんです。

いじりだからと見過ごしてはいけません。
いじりの多くは、いじめと同じく一定のヒエラルキー・上下関係に依存した、すごく一方的な暴力です。

だから、バラエティ番組でたびたび登場するいじりが私は好きではありません。
弱者いじりをする人たちを私は見ていられません。

こういうことを言うと、そういうことを言っている人のほうが差別意識があるのだ、という人がいます。

でも、違うんです。そうではなくて、あなたが差別に対して鈍感なんです。
自分自身が差別される立場に転落する、その恐ろしさを知らないんです。


いつも天真爛漫な子どもたち。
目の前にいる友達が大好きだから、思わずお互いに悪口を言い合うじゃれ合いをいつも目にします。
それはとてもほほえましくて、見ているだけでこちらまでうれしくなるほど。

相思相愛のじゃれ合いと、いじりは、明らかに違います。(でも、じゃれ合いというのは、一時的な関係性に依存した脆弱なものということは覚えておかなくてはいけません。いつだっていじり、いじめに転落しうるから。)
テレビで芸人たちが展開するいじりは、いくら本人たちが「そこに愛があるから」と言ったところで、そんなものは言い訳にならない構造があります。他より劣る人、いびつな人、空気が読めない人をあざ笑っているでしょう。

繰り返しますが、いじめかいじりかというのは表面的には違っていても、その構造は同じです。
いじりもいじめの一種なんです。
このことに大人が敏感になっていかないと、けっして子どもたちのいじめの問題は是正されません。


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by terakoyanet | 2018-02-06 10:24 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

本校にはいくつか特色のある授業があります。
高校コース土曜日開講のディスカッション授業は、思考力とそれを表現する力を鍛えることを目的にした授業です。少人数ながら、とてもエキサイティングな時間です。私自身、生徒たちの言葉にはっとさせられることが多く、大いに刺激を受けています。
教えるというのは常に教えられることなのだ。そのことを地で行くような授業です。


過去3か月には次のような内容をテーマに議論を重ねました。

第11回(7/2) ジェンダー(夫婦別姓・同姓婚・女性が輝く社会って何?)
第12回(7/9) 経済再生(日本経済・地域経済)
第13回(7/16) 世界平和とグローバル化(現在の国家のかたち・テロリズムと国家)
第14回(9/9) 日本(日本とは何か・日本文化の独自性とは)
第15回(9/15) 学校(学校の捉えなおし・学校と教育の諸問題)
第16回(9/30) 資本主義(資本主義の由来・マックスウェーバーとマルクス)
第17回(10/7) 民主主義(民主主義の定義・日本の民主主義の課題)



前回の授業では、Bureau of International Information Programs の “Principles of Democracy” を引用して民主主義の語源と原則について学んだあと、生徒たちと議論をしました。


「民主主義(デモクラシー)」の語源は、ギリシャ語の「デモス(人民)」である。民主主義国においては、立法者や政府ではなく、国民に主権がある。世界各地のさまざまな民主主義制度には微妙な違いがあるが、民主主義政府を他の形態の政府と区別する一定の原則と慣行が存在する。

・民主主義とは、市民が直接、もしくは自由選挙で選ばれた代表を通じて、権限を行使し、市民としての義務を遂行する統治形態である。

・民主主義とは、人間の自由を守る一連の原則と慣行である。つまり、自由を制度化したものと言ってもいい。

・民主主義は、多数決原理の諸原則と、個人および少数派の権利を組み合わせたものを基盤としている。民主主義国はすべて、多数派の意思を尊重する一方で、個人および少数派集団の基本的な権利を熱心に擁護する。

・民主主義国は、全権が集中する中央政府を警戒し、政府機能を地方や地域に分散させる。それは、地域レベルの政府・自治体が、市民にとって可能な限り身近で、対応が迅速でなければならないことを理解しているからである。

・民主主義国は、言論や信教の自由、法の下で平等な保護を受ける権利、そして政治的・経済的・文化的な生活を組織し、これらに全面的に参加する機会などの基本的人権を擁護することが、国の最も重要な機能のひとつであることを理解している。

・民主主義国は、すべての市民に対して開かれた、自由で公正な選挙を定期的に実施する。民主主義における選挙は、独裁者や単一政党の隠れみのとなる見せかけの選挙ではなく、国民の支持を競うための真の競争でなければならない。

・民主主義は、政府を法の支配下に置き、すべての市民が法の下で平等な保護を受けること、そして市民の権利が法制度によって守られることを保障する。

・民主主義諸国のあり方は多様であり、それぞれの国の独自の政治・社会・文化生活を反映している。民主主義諸国の基盤は、画一的な慣行ではなく、基本的な諸原則の上に置かれている。

・民主主義国の市民は、権利を持つだけでなく、政治制度に参加する責任を持つ。その代わり、その政治制度は市民の権利と自由を保護する。

・民主主義社会は、寛容と協力と譲歩といった価値を何よりも重視する。民主主義国は、全体的な合意に達するには譲歩が必要であること、また合意達成が常に可能だとは限らないことを認識している。マハトマ・ガンジーはこう述べている。「不寛容は、それ自体が暴力の一形態であり、真の民主主義精神の成長にとって障害となる。」 
 




生徒たちからは、地方自治においてさえも政治が身近ではない問題や、上の文の中の「自由を制度化する」という内容が孕む問題について質疑、意見が出されました。


自由民主党、立憲民主党、社会民主党。党名の中に民主主義を謳う主要政党が3つもある日本の政界ですが、私たちがいつも忘れがちなのは、上の文章の最後にある「寛容」についてではないでしょうか。

右や左にかかわらず、政治に関わる人たちに忘れてほしくないのは、民主主義国は、全体的な合意に達するには譲歩が必要であること、また合意達成が常に可能だとは限らないことを認識しているという原則です。なにも「排除」という言葉を使った政治家だけでなくて、私たちが、社会の正義を語るとき、人の過ちを糾弾するときなど、自分が良かれと思って言動に出るときは「不寛容」が顕在化します。「不寛容」について真剣に考え、それ自体が暴力であるいう認識を厳しく持つことこそが、いま、真面目な政治のために求められていることではないでしょうか。
 


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by terakoyanet | 2017-10-10 14:23 | 雑感・授業風景など | Trackback | Comments(0)

教師暴行動画がネットやテレビニュースに取り上げられたことで、各SNSからGoogle Mapのコメント欄に至るまで、どこもかしこも加害生徒や当該高校に対する誹謗中傷で溢れています。

生徒たちに対する影響が最も大きいと思われるTwitter上もひどい状況で、その行為自体に対する批判ならともかく、そこにあるのは、単なる他人を貶める快楽に溺れる狂乱ばかりで、子どもたちへの影響を懸念しています。

高校の名前を聞いて私はすぐに、中3の後半でようやく成績を伸ばし、大学に進学する熱い希望をもって当該高校の普通科の門をくぐっていった彼のことを思い出しました。そして、私もお母さんも他にも道はあるんだよ、大学からでも目指せるよ、と話したのに、母と同じ看護師になりたい、早く看護の勉強をしたいと、同高校の看護科に進学した彼女の顔を思い浮かべました。

本人も家族も大切な思いを持って、それぞれの高校に通っているんです。
その思いはいつだって不変で屈強なものではなく、すぐにたなびいてしまう脆弱なものかもしれないけれど、
でも、日々いろんなことを考えながら、迷いながらも、現在の自分と将来の自分を少しでも頼もしいものにするために、本人は高校に通っているし、家族はそんな本人を大切に見守っているんです。高校の先生だって、誇りを持って毎日の仕事に取り組んでいるんです。

それなのに、ネット上は、あまりに無配慮で傲慢なおぞましい言葉で溢れています。

「笑ってるクラスの奴らも同罪」 「暴行されてる先生をヘラヘラ笑って雑魚扱いしている周りの生徒達も同罪」というコメントにたくさんの同意がなされていますが、このコメントは正論のように見えて、その実は生徒達を貶めたいだけの乱暴な言葉です。こういう現場でクラスのみんな(と言ってもきっと全員ではない)が「笑って」しまう問題というのは、そんなに簡単なことじゃないし、少なくとも「同罪」ではないんです。こういうときに、正論を装って貶めることを言う方がよっぽど悪質です。

Twitterなどのコメントを見ている生徒たちには、決してそのような差別と中傷に加担しないでほしいし、そこで書かれていることを真に受けないでほしいのです。
どの学校だっていろんな生徒といろんな先生がいる、それは当たり前のことですが、でも決して忘れてはならない大切な事実です。

最後に、当該高校の生徒たち、悔しい思いをしている人もたくさんいるかもしれませんが、周囲が漏らしている不安をあまり真に受けすぎないで。
社会に出たら、学校というよりは、あなた自身が見られるんだから、そのことを頭と心に携えて、いまを大切に日々の生活を送ってください。


ーーーー

先週金曜日の地理B高3補講で、問題の中に、かつて世界4位の湖沼面積を誇った中央アジアのアラル海が出てきたときに、飛行機から撮った、干上がりつつあるアラル海の写真があるよ、と生徒たちに言ったのに関わらず、その場では見せてあげられなかったので、よく撮れたものではありませんが、こちらに載せておきます。
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by terakoyanet | 2017-10-02 14:34 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

昨年、ノルウェーのオスロを訪れたときに驚いたのは、路上生活者の数の多さである。街中を歩いていると、夏でもひんやりする空気の中に、表情に乏しい大柄な男性たちが座っている。初乗り550円の地下鉄の改札を多くの人が次々とくぐり抜けるすぐ隣に彼らが佇んでいる姿を見たとき、世界最富裕国ノルウェーという無意識の期待感に冷や水を浴びせらた気分になった。しかし、ノルウェーと言えば、世界に名だたる社会福祉先進国である。さらに、一人当たりのGDPは日本の2倍を超える数字であり(これは、バブル期に一人当たりのGDPで世界トップ3に入った記憶を残している人たちにとってはいささか衝撃的な数字である)世界最富裕国という称号に、数字上の偽りはない。

日本では10年前、20年前より、路上で生活している人たちを見ることが随分少なくなった。あのとき地下鉄にいたおじさん、おばさんたちはいまどうしているんだろうと考える。日本の路上生活者は統計上でも減少しているそうだ。それには支援団体の努力のおかげもあるだろう。しかし、日本の高齢化と貧困化はかつてより悪化しているのではないか。貧困する社会の中で、路上生活者の数を減らすことに一体何の意味があるのか。私は世界最富裕国の首都を歩きながら考えた。

私はいまメキシコの世界遺産の街、サンミゲル・デ・アジェンデにいる。メキシコで最も美しいと言われる、スペインのコロニアル建築に埋めつくされたこの街にも、路上で生活する人たちをあちらこちらで見かける。
昨日の夕方は、ある老夫婦らしき二人が路上に座っていた。擦り切れたカセットテープのような輪郭に乏しい音楽が小さなラジカセから流れていて、老父は弦が3本しかない小さなギターをその音楽に合わせるように1本ずつ弾いており、老婆の方は、その隣で左手の肘から上だけを動かしてマラカスを鳴らしながら、右手にはお金を入れてもらうための小皿を抱えていた。演奏には何の技巧もなく、そこには貧しさだけがあるように見えた。

しかし、貧しい二人は、そのとき確かに街に包まれていた。多幸感に包まれるその街に、彼らが存在していることに矛盾はなかった。彼らは間違いなくそこにいてもよい存在であり、だからこそ彼らの拙い演奏は、街の音に心地よく紛れていた。

日本で路上生活者の問題を語るときに余所余所しさがつきまとうのは、彼らがはじめから私たちの仲間ではないからだ。弱者ははじめから存在を否定されていて、その否定自体は省みられることなしに、それを解決すること、抹殺することに力が傾注されている。ユニバーサルデザインという言葉が踊る中で、まん中に手すりをつけるベンチがたちまちに広がる世の中の本体、そして、弱者を他者に仕立てようとする自分自身の本性について、深く考えさせられる滞在になりました。


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by terakoyanet | 2017-09-04 15:20 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)

ささやかな共感。

昨日、いつもはあまり話しかけてくることのない、ある中学生の男の子が私のそばにやってきて

「先生の出身、朝倉高校なんですね。僕のおばあちゃんも朝倉高校出身なんです。」

少し恥ずかしそうに、そう話しかけてきました。

私は思わず

「おばあちゃん、大丈夫だったの?」

と尋ねました。家の状況はともかくも、ご家族は皆ご無事とのこと。

「ああ、よかった。」

私が深く息を吐きながらにっこりすると、彼もにっこり微笑みました。




塾の授業の休憩中の、わずかな時間に生じた何でもない会話です。

でも、彼の心も、彼のご家族の心も、そして私の心も、今回の水害のあまりの状況に心を揺さぶられていて、

そのふるえを思いがけず共感することができた瞬間というのは、なんとも言えないこみ上げるようなありがたさがあるものです。





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by terakoyanet | 2017-07-12 18:18 | 寺子屋エッセイ(読み物) | Trackback | Comments(0)