石川直樹『地上に星座をつくる』のこと
2021年 01月 13日
『山と獣と肉と皮』(繁延あづさ著)を読む
2020年 12月 19日
『バウルを探して〈完全版〉』(川内有緒・中川彰/三輪舎)のこと
2020年 11月 28日
『バウルを探して〈完全版〉』 川内有緒・文 中川彰・写真 三輪舎 刊 (2020年)

『バウルを探して〈完全版〉』この本を読んだのはもう3週間ほど前になるが、いまも本を読み終わったときに心に沸き上がった熱情がそのまま胸に残ったままだ。
この本を最初にお勧めしたいのは、旅が好きな人たち。旅が好きな人は「偶然」を愛する人たちだ。その瞬間に生起した現実に、笑い、怒り、戸惑い、絶句する旅人たち。この本を読む人たちは皆、右も左も分からない旅人たちと共にバウルを探す同行者になる。(私はいま、ほんとうに、すっかり、彼らといっしょにバングラデシュを旅した気になっている。)
著者は決して感情を読む人に押しつけない。(こんなに押し付けがましい文章を書かない人も珍しい。これだけ感情を出さないということは、もしかして著者は、思いっきりのいい性格と裏腹にとてもシャイな人なのかもしれない。)でもそれなのに、出会う人の細やかな描写を通して、著者の熱い思いが垣間見える。いまこれを読みながら涙を溜めている私といっしょに、これを書いた著者も涙を浮かべているに違いないと信じることができる。
ベンガル地方で「バウル」と呼ばれるのは、数百年にわたって口承され、無形文化遺産にも登録されるような芸能の担い手でありながら、その居場所さえわからないという謎の多い人たち。そして、彼らを探し求める著者(川内さん)と同行者である写真家(中川さん)、通訳(アラムさん)の3人の旅人たちの姿は、決して崇高な巡礼者でも求道者ではない。「おもしろそう」という動機で身軽にあちこちを動いてみるその姿は、むしろ野次馬の観光客のなものさえ感じさせる。
哲学者の東浩紀は著書『ゲンロン0 観光客の哲学』(2017)において、「観光」(もしくは「観光客」)という言葉を新たな哲学的概念として立ち上げた。「他者」という使い古された左翼的で政治的、かつ文学的ロマンティズムを携えた言葉の代わりに、東は「観光」という即物的で世俗的な軽さを持つ言葉を敢えて使うことを提唱した。そこに描かれていたのは、人間や社会を改良するというような必然性に基づいて「他者」と出会う「まじめ」な旅ではなく、むしろ無意味な不必要性(=偶然性)が図らずも照射するものに感応して、結果的に「現実の二次創作」を生み出してしまう「まじめ」でも「ふまじめ」でもない「観光客」の姿であった。私は、この「観光客」という概念を、「旅(トラベル)は本物に触れるからいいが、観光(ツーリズム)は本物に触れないからだめだ」という既存の固定観念をひっくり返すものとして受け止めたが、『バウルを探して』の同行者3人は、どちらかと言うと「観光客」を地で行くような旅人たちなのだ。著者はもちろんこんな小難しいことを考えて、新しい「観光」の姿をここに書こうとしたわけではない。でもそれなのに、著者は観光客らしい素直な現実の受け取り方を透徹することで、目の前の現実をそのままに受け取るという新しい倫理を軽やかに示してくれた。これは誰にでもできることではないし(どうしても旅の「意味」について切々と語ってしまいがちだ)、このひとりの作家の天性的な勘の良さを示していると思う。そして、この著者の他の作品を読んだことがある人ならとっくに分かっていることだと思うが、彼女は「人の話を聞く」ことに関して特別な才能を持つ人であり、私はもっとその秘密を知りたいから、これからも彼女が書く本を読むことになると思う。

本の後半に出てくる或る演奏家がこう語る。「無形文化遺産に指定されてからというもの、急に政府や国連はバウルの歌を楽譜にして残そうとか、後継者を学校でトレーニングしようとか言い出しているけど、僕から見たらバカバカしい。だって、バウルは自由なものだから、そういうやり方では守れない」
真剣にそう語る彼の言葉は2010年のものだが、それから10年が経ち、バウルの歌はYouTubeで検索すればいつでもたくさん見聞きできるようになった。だからと言ってこの10年でバウルの歌が息を吹き返し、本来の生命を取り戻したかといえばきっとそうではなく、むしろ演奏家の彼が危惧した通りに、文化の形骸化がますます進行していると思われる。(今年、国立民族博物館ができた日本のアイヌの現状を考えると、これは私たちにとって他人事ではない。)
その意味では、この本「バウルを探して」は、一つの口承芸能が、近代化の波の中で翻弄されながらも生命力あふれるものとして受け継がれていく姿が活写された、或る時代の「記録」としても歴史的価値のあるものである。しかも図らずもそれが独断に陥らない正直な目を持った「観光客」的な著者によって書かれたことが、この本と記録の幸運だと思う。

最後に〈完全版〉と名付けられたこの本に添えられた深い愛について触れたい。この本は、2013年に『バウルを探して 地球の片隅に伝わる秘密の歌』として、そして2015年に『バウルの歌を探しに バングラデシュの喧噪に紛れ込んだ彷徨の記録』として(どちらも幻冬舎刊)既に二度も世に出た本が、今回〈完全版〉として三度(みたび)日の目を浴びることになったものである。この〈完全版〉がこれまでと異なるのは、ベンガルへの旅に同行した写真家・中川彰さんの写真がふんだんに用いられていることである。いや、「ふんだんに」というレベルではない。この本の前半が丸ごと「バウルを探して 写真編」となり、中川さんの沢山の写真が本全体の半分のスペース(約100ページ!)を占めるに至っているのである。初めてこの本を読む人は少し面食らうかもしれない。何せ予備知識もなしに本の冒頭から異国の風景をたっぷりと見せられてしまうのだが、本の内容とそれがどう繋がるのかが全くの謎だからだ。しかし、この本の最後「中川さんへの手紙」を読み終わった後に、もう一度冒頭の写真編に戻ったとき、読者はこの写真たちと新たに出会い直すことになる。きっと彼らは一枚一枚の写真を食い入るように見つめざるを得なくなるし、命あるものの輝きが眩しすぎて、視界がじわじわと滲み始めるのを感じるはずだ。こうして読者は、図らずも「バウル」に出会ってしまう。すごい本だと思う。この中川さんの生命溢れる写真を見せるために「コデックス装」を選んだ版元(中岡さん)の心意気と、その心意気に乗った装丁の矢萩さん、そんな愛のある本を世に送り出してしまった川内さんに喝采を送りたい。
藤枝大さんの講演 サマー合宿(中1・中2)& 夏合宿(中3)
2020年 11月 04日

今回の講演では、私は興味がなかった詩や短歌について知れました。何がおもしろいんだろうなと思っていたけれど、さっぱり意味がわからない短歌など、どんな気持ちが入ったりしているのかを考えたり、その気持ちを知ったりしたら、だんだんおもしろくなりました。今の時代の短歌(コロナ)などもあって親しみやすかったです。藤枝さんはいろいろな世界の短歌をたくさんかき集めていてすごいと思いました。(中2K)
全国各紙に『おやときどきこども』書評掲載
2020年 09月 13日
山崎ナオコーラさんの書評のこと
2020年 08月 23日
山崎ナオコーラさん。その小説の中にはどこかぎこちない人たちと、彼らによるぎくしゃくした対話が出てきます。そしてそのエッセイの中には細かすぎて伝わりにくい居心地の悪さや違和感、そしてその背後にある情念が描かれます。いつもブツブツと呟きながら、自分はどうなんだと考えを膨らましながら、そしてときおり武者震いしながら、山崎ナオコーラさんの本を読んできました。そんな山崎さんに「読み物として素晴らしい」と言ってもらえたことはとても嬉しいです。
『おやときどきこども』全国の書店で販売が始まりました。
2020年 06月 21日
【新入荷】おやときどきこども
— と ほ ん (@tohontohon) June 17, 2020
鳥羽和人/ナナロク社
塾講師として子どもたち、親たちが抱える問題を共に悩んできた著者。ひとりひとり自分の世界を持ち、懸命に生きる子どもたちの姿がここにあります。
人が生きていく全てに通じる、大切な想いが込められた1冊です。https://t.co/bjEXCmt8Av pic.twitter.com/5J8zYegiPA
ナナロク社さんの本を並べていたところ、下の色画用紙の色を変えただけで、新刊のイメージに合わせられたかな。
— おひさまゆうびん舎 (@0hisamayuubinsy) June 17, 2020
『おやときどきこども』鳥羽和久
ナナロク社
ぜひ、手に取り本と向き合って読んで頂きたい1冊です。 pic.twitter.com/53YaqSaykT
【今日の仕入れ】
— 本のあるところ ajiro (@ajirobooks) June 17, 2020
『おやときどきこども』(鳥羽和久)が届きました。どんと展開いたします!
たのしみにしていました😌 pic.twitter.com/pOy0YcKs8u
【本日入荷】
— ジュンク堂書店 上本町店 (@JunkuUehonmachi) June 17, 2020
『おやときどきこども』(鳥羽和久著 ナナロク社)
いつの間にか子どもの心を忘れてしまった大人の私たち。
福岡市で塾を経営している著者が親子の抱えるリアルな問題を子どもたちと向き合って奮闘しています。
もう一度、大人と子どもが出会い直すための本です。 pic.twitter.com/KJY914LLm2
6/18(木)
— Go Go Round This World!Books&Cafe (@GoGoBooksCafe) June 18, 2020
おはようございます。
ナナロク社さんより届いたばかりの
鳥羽和久さんの新刊『おやときどきこども』を店頭に。『親子の手帖』もあります。
※本の購入のみのご来店ももちろんOKです🙆
本をゆっくりご覧になりたい方はランチ時間が過ぎて、ちょっと落ち着いた15時以降がおすすめです。 pic.twitter.com/AlRdisA03P
子どもといっしょに「おや」も生まれる。正解を求めるあまり自分をなくす親に対し、鳥羽さんはその家族の〈個〉をみつめ、そこから一緒にはじめようとする。その粘り腰はたたかいで、それぞれの家族のことばは、そのもつれた時間から生まれるものだろう。鳥羽和久『おやときどきこども』(ナナロク社) pic.twitter.com/YieSn63V4t
— Title(タイトル) (@Title_books) June 18, 2020
【書籍】鳥羽和久『おやときどきこども』(ナナロク社)が入荷。「自分独特の生き方を発見した興奮」というほんとうの感覚。それを目前にしたときの感動。学びの現場で子どもたちと向き合ってきた著者の思考から、子どもを持つ親として、社会に生きる大人として、確かな手触りをもって生きるヒントを。 pic.twitter.com/ge0Oi8r7pu
— 神楽坂 かもめブックス (@kamome_books) June 18, 2020
『おやときどきこども』
— うさぎや (@USAGIYATSUTAYA) June 21, 2020
親になった途端に「正しい」存在になれるはずもなく、日々葛藤を抱え、子どもに向き合う。
子どもへの寄り添い方、その考え方が綴られています。
約20年間学習塾でたくさんの親子に相対してきた著者の言葉は強く、温かい。#おやときどきこども #鳥羽和久 #ナナロク社 pic.twitter.com/r1lgmL26QE
とらきつね on Facebook 随時更新中です。
「大人になる」ということ。
2020年 06月 11日
この意味で、植本一子さんが以前拙著に書いてくれた帯文
— 鳥羽和久 (@tobatoppers) June 5, 2020
私たちは子どもたちのために
もう一度「大人」になる必要がある
というのは卓見だなと思う。 https://t.co/SMCOzKPktL
もう一度「大人」になる必要がある
しかし、いま書いてて思ったけど、これ単に「みんな大人になれ」的な話のような気がするな・・・。若いころは世界のすべてに関心がある。それは悪いことじゃない。でもそれだけでは、結局なにもできないまま終わる。いろいろなことへの興味を自らたちきり、資源を集中させないとダメなんだよね。
— 東浩紀 Hiroki Azuma (@hazuma) June 5, 2020
いまはネットのリベラルは、大人になりきれない大人や、子どものふりをするのが正義だとカンチガイしている大人ばかりなんだけど、本当に若いひとには彼らに騙されないでいてほしいと思う。
— 東浩紀 Hiroki Azuma (@hazuma) June 5, 2020
最悪なのは、生涯おれは大人にならない、若者の味方だとかいいながら、実際には大人の特権を行使しているひとびとなのですよ。
— 東浩紀 Hiroki Azuma (@hazuma) June 10, 2020
哲学者の東浩紀さん(今月発売の『おやときどきこども』に帯文をいただきました)の最近の「大人」に関するツイートには、「大人」になりきれない大人への批判が綴られています。大人になりきれない大人、子どものふりをする大人というのは、「私」という主語への回帰をすることで世界に対して目を閉ざしていて、しかもそれを自分の中で正当化してしまっています。そんな大人ばかりだから世界は一層悪くなっていく。そのことに対して東さんは警鐘を鳴らしていると感じます。
もう一度「大人」になる必要がある
高校生のあやかさんとAI-amのおふたりからの感想(『おやときどきこども』)
2020年 06月 10日
私は「おやときどきこども」を読んで、母親や教師などのどんなをレッテルを持つ人でも、もとはひとりの人間なんだと気づかされました。
私は、中学生のとき教師に対して多くの不満を抱いていました。「教師」という職業に就いたからには、完璧にその仕事をこなしてほしい。生徒のことをちゃんと考えてほしい。そんなことばかり思っていました。
しかし、この本を読み終えた今では教師を、「教師」というレッテルをはがしてみることでそのひとはそのひとなりの努力をしていたんだろうなぁと、受け入れることができました。それと同時に自分のこころにゆとりができたような気分がしました。
この本はたぶん大人に向けて書かれた作品だろうと思います。けれど、わたしみたいなまだ親のもとで暮らしているこどもが読むことで、親にたいする見方が少なからず変化すると思います。
私の母親は勉強に対して厳しい人です。高校の定期テストで順位を落とすと、部活を辞めさせると脅されたこともあります。正直、母親のことは全く理解できませんでした。「脅したことで成績があがるわけないじゃないか。」と、こころのなかでつぶやいていました。でも親の気持ちを少し理解できた気がします。私の母親もきっと私のことを考えこみすぎてこんな言葉をくちにしたんだと思います。こんなふうに考えれる余裕ができたのは、この本を読んでからです。
鳥羽先生の生徒のひとりとして、これはいつも生徒全員と真摯に向きあって、一緒になって悩んでくれる鳥羽先生だからこそ書ける文章だなと読んでいながらずっとおもっていました。鳥羽先生らしい本だとすごく思います。とても考えさせられる本でした。
・・・
高校生のあやかさんが、版元のナナロク社に『おやときどきこども』の感想を寄せてくれました。自分に引き寄せて読んでくれて、これを読んだだけでも書いてよかったなーと思いました。
あやかさん、私の本に寄り添って書いてくれたから上のような書き方になったと思うのですが、日ごろから彼女からは親への愛情や感謝のようなものがひしひしと伝わってきます。多忙な中、版元から送られてきた原稿を読んでくれて感想を書いてくれたみたいで、本当にありがとう。
本が出たあと、読んでくれた卒業生、在校生がいたら感想を聞かせてください、
AI-amのよっぴー(吉田 晃子 さん)、まりん(星山 海琳 さん)が版元のナナロク社に『おやときどきこども』の感想を寄せてくださいました。この感想が届いた日、感動のビッグウェイブが出版社を襲ったそうです。
感想というか、これはもう、「大人」と「子ども」の間の関係についてつづった掌編です。以下、読んでみてください。
・・・・
親にも、子どもにも、ひとつずつの孤独がある。「わかる」ではなく「わからない」を知る鳥羽さんの言葉は、こんなにもよく聴こえてくる。
学習塾という場所は、ときどき、数値ばかりが建物を覆っているかのように見えてしまう。けれどその場所で鳥羽さんは内側からの声を見せあい、孤独と孤独のままに交わり、人間の淋しさと切実さを受容する。安全靴を履かせようとはせずに、地面の感触をたしかめる一人ひとりの裸足を見ている。そして子どもたちは鳥羽さんを介して「私」を再発見し、発展させていく。それはまちがいなく、本質的な教育の空間だ。
大人は、長い年月をかけて「正しさ」の病に侵されてきた。親は、子どもが子ども自身の「私」と握っていた手を外し、「正しさ」へ押しこめていく。人間は割り切れないものなのに、偶数の存在であることを求めてしまう。けれど鳥羽さんのひたむきな言葉は、「私」を味わう時間を切り詰められてきた親と子のあいだに引かれた境界線を滲ませていく。わからなさ、割り切れなさへと近づく勇気を灯し、親が帰るべき「いま」を見せてくれる。
この本を読んでいるあいだ、わたしたちはひとりになる。そして、その喜びを湛えて大切なひとのそばへ行き、ひとつずつの孤独で呼応しあうのだ。
https://note.com/nanarokusha/n/n402f6b4085e3
(他のご感想は後日紹介します。ありがとうございます。)

『おやときどきこども』ご紹介 第2章
2020年 05月 31日