LD(学習障害)の子どもの将来
2020年 05月 09日
子どもの障害と総スペクトラム化社会の話
2020年 05月 07日
ライトコースの概要が決まりました。
2018年 01月 31日
*ライトコースでできないこと
(1)三者面談が行われません。 (2)成績資料が配布されません。
□定員状況(共通クラス)
大切なお知らせ●新年度のライトコース新設について
2018年 01月 09日

発達障害について(1)
2012年 05月 30日
ある日、お母様にお会いすると、お母様は普段より明るい表情。
「Aを病院に連れていって・・・。発達障害があると言われたんです。ADHDだと。主人はうちにそんな子が生まれるわけがないといまだに納得していないところがあるんですが・・・。でも私はちょっと楽になったんです。うちの子が集中が続かない理由がわかって。いままで怒鳴り散らしていたのがAに悪かったと思って・・・。」
私はその話を聞いて、うむ・・・と思いました。特に「いままで怒鳴り散らしていたのがAに悪かったと思って・・・」の部分。イヤな予感がしたのです。
お母様の苦悩が緩和されたこと自体はよかったと思うのですが、しかし、Aくんにとって、今回の診断はどのような意味を持つのだろうと考えたときに、私には明るい展望が見えなかったのです。
(つづく:時間があるときに続きを書き、ひとつの記事としてまとめたいと思っています。)
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自閉症とは何か
2007年 06月 29日
ひと口で自閉症と言っても、5人ともほんとうに五人五色、まったく個性の異なる子どもたちでした。
「風邪ぎみ」という言葉がありますが、自閉症にしても、AD(学習障害)にしても、鬱病にしても、健常と病態との境界はとってもあいまいで、「自閉症ぎみ」「ADぎみ」という感じが多いというのが実際のところだと思います。5人が病院でどのような経緯で、どのようなカテゴリーに入れられて、「自閉症」と言われたのかは私にはよくわかりません。ただ、わたしが面倒を見た子たちは、いわゆるアスペルガーとよばれるような、高機能の子たちが多かったかなという印象はかろうじてあります。
彼らのうち、女の子は2人いますが、女の子と接するのは異性のわたしにとってとてもとても難しいことでした。私は教える側の基本姿勢として、相手に愛情と関心を向け、相手の心に届くような言葉でもって指導することが大切だと思っているのですが、そういうこちらの考え、思いなどが全く相手(女の子)に伝わらない(ように感じる)とき、日ごろの私の指導の姿勢にある前提が音を立ててくずれるような感覚を覚えたこともありました。いまの私は、これらの経験によって、確かに相手に愛情を注ぐことは大事かもしれないが、ただし、その愛情が独りよがりであり、むしろ相手にとっては傲慢なものに見えてしまうこともある、ということを学んだと思っています。
一方で男の子たちは、とってもなついてくる場合があり、なつくどころか依存関係ができてしまって大変なこともありました。毎日のように私の自宅にやってくる子もいました。その子はほぼ毎日来るので毎日きちんとした応対ができるわけでもなく、実際には週に1・2回お話しできる程度でしたので、あるとき突然その子が激情によってうちに火でもつけたらどうしようと本当に不安になったこともありました。(これはけっして中傷ではありません。こういう不安というのはその状況にならないとわからないものだと思います。)
ある男の子は、指導の合間の休憩時間にいつもとっても楽しそうに私にジュースやお茶をついでくれ、毎回それを勧めてくれました。ただ、その男の子は常に全身をまさぐり続けるくせがあるので、勧めてくれる飲み物のなかには、しばしばよくわからない油みたいなものや鼻水などが浮いており、正直飲むのはとってもつらく、でも「飲んで!飲んで!飲んで!」「なんで飲まんと!!」とせがまれるので、その子を傷つけるわけにはいかず、息を止めてその飲み物を飲みほしたことも幾度かありました。
その子たちとのかかわりというのは、けっこうつらいことが多いのですが、でも、そのかかわりのなかで、ひとつだけわたしがゆずれないことは、その子たちは、けっして劣っているなどという理由で差別されるような対象にはなりえない、ということです。これはヒューマニズム的な考えで、人間皆平等なんてことを言っているのではありません。そうではなくて、ふつうに自然に考えて、その子たちにハンディはあっても、非は全くもってなく、そういう子たちを悪く(もしくは同情的に)言ったりする人がいるのは、単に悪く(もしくは同情的に)言う人たち側の問題であって、その子たちには全く関係のないことだということです。
子どもたちを抱えるご家族の苦労はすさまじく(私は「もうこんな子いやー!」というお母様の叫びを聞いたこともありますが、そのときはほんとうにどうしたらいいかわかりませんでした)、なんらかの支援が必要であることは確かです。でも、わたしは、その子どもたちを預かった教育や医療の現場においては、もっといまの前提を崩すようなやり方というのがあってもいいのではないかと思っています。いまの前提を崩すようなやり方というのは、健常と自身のことを思っている側が、もっと相手に寄り添って考えるということです。自分の立ち位置の安定を崩してでも、相手のほうに真剣に耳を傾けるということです。自分の方に相手を連れてこようとするのではなく、たまには自分から相手の方に行ってみようかとすることです。
自閉症をとおして私が考えたのは以上のようなことです。
障害者とは何か
2007年 06月 26日
でもわたしがこの番組で気になるのは、番組制作側の決定的な鈍感さである。そしてそこは世間一般に通底する鈍感さを感じる。
この女の子がすごいのは「見えない」のに料理が作れるから、「見えない」のに買い物ができるからである。このコーナーは、「見えないのに」の枕詞がないと視聴者に何も訴えることができない。それを自ら露呈するかのように、このコーナーのタイトルは「見えない生活」である。
この番組で結局言っていることは「見えない」のに健常者とこれだけ同じことができますよ、すごいですね、ということである。わたしはこんなこと言っていたら、いつまでたっても障害者の方への偏見などはとっぱらうことはできないだろうと思う。だって、この「見えないのに」の視線は、あくまでも健常者と障害者という線引きをした健常者側から向けられており、しかも障害者の方が健常者と同じ性質を示すときに「すごい」と言われるようでは、最初から健常者側が「俺のほうが上ですから」ってことを前提してるということにもなりかねないのだ。
もちろん健常者側にそんなつもりも悪意もない。番組制作側にもそんなつもりはさらさらない。それはわかっている。でも、だからこそ、問題なのだ。これは、以前、乙武さんの「五体不満足」がはやったときにもとっても気になった問題だ。乙武さんへの数多くの激励と賛辞は、ときに彼を決定的に傷つけはしなかっただろうかと考えてしまう。
番組の女の子も乙武さんも才能がある。人に魅せるものを持っている。しかし、世には人に魅せるものをもっていない(ようにみえる)人だってたくさんいるのだ。
わたしはこころから思うのだが、人に魅せるものなんて持っていなくてもいいのだ。日々をなんとか生きている、それで十分だ。
日々をなんとか生きているだけでは、つらい。そう、つらいだろうと思う。そこは踏ん張りどころだ。でも、踏ん張れないからといって、メジャー志向に走っては、メジャーの運動に巻き込まれるだけだ。だから、マイノリティーの人たちはなんとかかんとか踏ん張ってほしいと思う。
日々の塾の指導のなかで、わたしが一番気になるのは、教室内に数人だけいる、その場に居辛そうな子たちである。わたしは絶対にそういう子たちの一番の味方になりたいと切に思っている。
これは余談だが、数年前から、障害者を「障がい者」と表記する動きがある。(中学の公民教科書でもそうだ。) 「害」という漢字はイメージ悪いからだと思うし、これを最初にひらがなにしたほうがいいと思った人の心情を察することはできる。でも、教科書に載ったりして、この表記自体が市民権を得てしまったらなんか違うなあという感じがするのだ。この違和感は、これまでわたしが話したこととっても関係がある気がする。